藤村久和氏の「アイヌ・神々と生きる人々」という本を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
この世のなかには、神がいて人間がいて、それから人間よりも劣るものがいるのだが、とにかくこの世は神と人間が結託したらもうこれで怖いものはない。
この世に存在する三分の二が人間と神なのだから、残りの三分の一がいかに抵抗しようともそれは無駄なことである。
しかしもし人間と第3のグループが結託したら、神は浮き上がってしまう。
また神が人間よりも力の劣るものと結託したら人間が浮き上がってしまう。
だから一番肝心なのは神と人間が仲良くなる、非常に深い付き合いをすることである。
このことをアイヌ語では次の様に言う。
「カムイーオカイークスーアイヌーネヤッカーオカイーエアシカイ。
アイヌーオカイークスーカムイーネヤッカーオカイーエアシカイールウエネ。」
(神がーいらっしゃるーからー人間もー(無事に暮らして)いることがーできる。
人間がー大勢いるからー神様もー(役目を推進するために)おわすことがーできるのーですよ。)
アイヌの人たちは、腹八分目の考え方をする。
地位とか名誉、名声というのは、自分が自己主張したからといって得られるものではない。
それは多くの人に支えられて初めて現れるのである。
アイヌの人たちは自分から地位などを求めて恥も外聞もかなぐり捨ててそれに猛進することはしない。
根本のところでは神も人間も一つの大きな輪の中にいるということで、それがこの世の中であり、その中で暮らしていると考えるのである。
自分の仕事がうまくいく、人との付き合いで共同で何かを作る、あるいはものごとを進めることができたとしたならば、それはそうした長所を持っている神が自分に味方をし、自分により働きやすいような状況なり場なり、雰囲気なりをもたらしてくれたからだと考える。
ああ、俺は仕事を一つやった、というのは、実は自分自身の力ではなくて、その憑き神の力で出来たのだと考え、謝辞なども「自分の憑き神とともに私は感謝いたします」、という言い方をする。
「クーコルートゥレンーカムイーコーオンカミーカムイーヤイタイケークーキーシリーネナ」
(私のー憑き神とー共にー神にー礼拝をー、神にー感謝をー私がーするー有様―ですよ。)
アイヌの人たちは、一歩控えめな見方をする。
ある意味では自分を非常に冷静に見つめている。
先に述べた「腹八分目」の考えである。
動物を殺していると一般に受け取られているアイヌの「霊送り」は、実は殺しているのではなく、この世の仮の装いである肉体と霊とを切り離し、その霊をあの世へ送ることなのである。
そして人々が熊を獲る度に、丁重にその霊を送ることで、熊の神様の霊は、熊の装いでいつでも喜んで人々の前に現れる。
神様の霊は、肉体をこの世に残していく。
当然のことながら、それは人間が食料としていただく。
熊の肉体は、熊の神様の霊が持ってきたお土産なのである。
それに対してこちらもお土産をもらったからお礼をする。
供物を奉納する。
すると、それを持って熊の神様の霊はあの世でまた他の神様に伝える。
今度は別の霊が、喜んでやって来る。
だからこそ、人々はわざわざ「霊送り」をするのである。
そしてそういう循環があると考えるからこそ、人々は「霊送り」を続けるのである。
熊などの動物に限らず、人々は自分達と関わり、役に立ったすべてのものの霊を送る。
たとえば舟やお椀はぼろぼろになって使えなくなると、送る。
どんな小さなものであれ、アイヌの人たちは自分達に役だってきたものには、感謝の言葉を捧げて送る。
古くなったから送るというものには、古いといっても霊がまだその中にあるので、小刀で傷を付けるなどして使用できないものにする。
そうすると霊はその物から離れてあの世へ行けるのだという。
葬儀の際にはお墓に入れるござに傷をつけるのはこの考えからである。
「長い間ご苦労様でした。ゆっくり休んでください。」
と感謝の言葉を述べたあと、家の外にある「ヌサ」と呼ばれる所にそれらを持っていく。
「ヌサ」というのは、送られる霊があの世へと旅立つ場所であり、それぞれの家が一つづつ持っている。
そこはその家がこれまでに送ったクマやキツネなどの頭骨がきちんと飾られている、神聖な場所である。
その「ヌサ」へ、送る器物を持っていって、「ヌサ」を守る女神に後のことをお願いし、お任せする。
年月がたつと、それらがだんだんとたまってきて、結構場所もとるので、今度は村共同の霊送りの場で、「チバ」と呼ばれる所へ持っていく。
あるいは臼などは、巨木を用いて作ったものだから、山の大きな樹木の側に置いて、あとのことはその樹木の神様にお願いする。
動物の霊を送るのには、山で捕ったものを送るのと、山で幼い獣を生け捕りにしてそれを村へ持ち帰って育て、大きくなってからその霊を送るという二種類がある。
「熊送り」と言われているもの、正しくは「熊の霊送り」は後者の方である。
どちらにせよ、霊を送るには、山で動物と出会うことが先決である。
動物と出会うのには、山へ行ったからといってすぐ出会えるものではない。
その人間がそれなりの徳を積んでいて、「この人は霊を粗末にしない人間だ」と認められる時に、神様(動物)の方からその人の方へと向かうのだという。
だから山猟をして、必ずしもみんなが猟があるとは限らない。
おなじ山へ行っても動物に遭遇する人とそうでない人がいる。
遭遇する人というのは、それなりの徳を積み、神様に選ばれた人なのである。
神様も色々な人間を見ながら、「この人間はよさそうだ」という方へ近づいてくるという。
人間の方も「熊猟に行く」、「鹿猟に行く」とは言わない。
「お迎えに行く」、「お出迎えに行く」と言うのである。
人の里というのは、家が建っているところの周辺と、もう少し離れた人の行かないような部分を含む。
小動物が捕れるような所、あるいは大きな動物もそこへ来るかもしれないというような場所というのは人里に含むのである。
それに対して神の住居地域があって、そこはその神々(動物)が行動する範囲なのだが、それが神の里なのである。
そして人の里と神の里の接点がある。
そしてそれから先へは、神様をお迎えに行くのである。
沿岸の方に船を出すのは、これは人の里である。
ところが「沖の方へ行く」というのは、「沖の神様を迎えに行く」のである。
「沖漁をしにいく」、「カジキマグロを捕りに行く」、「俺たちの腹を満たすために獲物を捕って来る」というような考え方ではない。
「もうそろそろ神様がお出ましになるのだから、我々がお迎えに行くのだ」という考え方である。
(引用ここまで・続く)
*****
ああ、そうだ、人は本来、このようであったはずだ、という思いでいっぱいになります。
人が生きるということは、このように世界との調和に満ち、優雅に、気高く、優しく、美しいものであったのだという思いに満たされます。
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などあります。(重複しています)
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(引用ここから)
この世のなかには、神がいて人間がいて、それから人間よりも劣るものがいるのだが、とにかくこの世は神と人間が結託したらもうこれで怖いものはない。
この世に存在する三分の二が人間と神なのだから、残りの三分の一がいかに抵抗しようともそれは無駄なことである。
しかしもし人間と第3のグループが結託したら、神は浮き上がってしまう。
また神が人間よりも力の劣るものと結託したら人間が浮き上がってしまう。
だから一番肝心なのは神と人間が仲良くなる、非常に深い付き合いをすることである。
このことをアイヌ語では次の様に言う。
「カムイーオカイークスーアイヌーネヤッカーオカイーエアシカイ。
アイヌーオカイークスーカムイーネヤッカーオカイーエアシカイールウエネ。」
(神がーいらっしゃるーからー人間もー(無事に暮らして)いることがーできる。
人間がー大勢いるからー神様もー(役目を推進するために)おわすことがーできるのーですよ。)
アイヌの人たちは、腹八分目の考え方をする。
地位とか名誉、名声というのは、自分が自己主張したからといって得られるものではない。
それは多くの人に支えられて初めて現れるのである。
アイヌの人たちは自分から地位などを求めて恥も外聞もかなぐり捨ててそれに猛進することはしない。
根本のところでは神も人間も一つの大きな輪の中にいるということで、それがこの世の中であり、その中で暮らしていると考えるのである。
自分の仕事がうまくいく、人との付き合いで共同で何かを作る、あるいはものごとを進めることができたとしたならば、それはそうした長所を持っている神が自分に味方をし、自分により働きやすいような状況なり場なり、雰囲気なりをもたらしてくれたからだと考える。
ああ、俺は仕事を一つやった、というのは、実は自分自身の力ではなくて、その憑き神の力で出来たのだと考え、謝辞なども「自分の憑き神とともに私は感謝いたします」、という言い方をする。
「クーコルートゥレンーカムイーコーオンカミーカムイーヤイタイケークーキーシリーネナ」
(私のー憑き神とー共にー神にー礼拝をー、神にー感謝をー私がーするー有様―ですよ。)
アイヌの人たちは、一歩控えめな見方をする。
ある意味では自分を非常に冷静に見つめている。
先に述べた「腹八分目」の考えである。
動物を殺していると一般に受け取られているアイヌの「霊送り」は、実は殺しているのではなく、この世の仮の装いである肉体と霊とを切り離し、その霊をあの世へ送ることなのである。
そして人々が熊を獲る度に、丁重にその霊を送ることで、熊の神様の霊は、熊の装いでいつでも喜んで人々の前に現れる。
神様の霊は、肉体をこの世に残していく。
当然のことながら、それは人間が食料としていただく。
熊の肉体は、熊の神様の霊が持ってきたお土産なのである。
それに対してこちらもお土産をもらったからお礼をする。
供物を奉納する。
すると、それを持って熊の神様の霊はあの世でまた他の神様に伝える。
今度は別の霊が、喜んでやって来る。
だからこそ、人々はわざわざ「霊送り」をするのである。
そしてそういう循環があると考えるからこそ、人々は「霊送り」を続けるのである。
熊などの動物に限らず、人々は自分達と関わり、役に立ったすべてのものの霊を送る。
たとえば舟やお椀はぼろぼろになって使えなくなると、送る。
どんな小さなものであれ、アイヌの人たちは自分達に役だってきたものには、感謝の言葉を捧げて送る。
古くなったから送るというものには、古いといっても霊がまだその中にあるので、小刀で傷を付けるなどして使用できないものにする。
そうすると霊はその物から離れてあの世へ行けるのだという。
葬儀の際にはお墓に入れるござに傷をつけるのはこの考えからである。
「長い間ご苦労様でした。ゆっくり休んでください。」
と感謝の言葉を述べたあと、家の外にある「ヌサ」と呼ばれる所にそれらを持っていく。
「ヌサ」というのは、送られる霊があの世へと旅立つ場所であり、それぞれの家が一つづつ持っている。
そこはその家がこれまでに送ったクマやキツネなどの頭骨がきちんと飾られている、神聖な場所である。
その「ヌサ」へ、送る器物を持っていって、「ヌサ」を守る女神に後のことをお願いし、お任せする。
年月がたつと、それらがだんだんとたまってきて、結構場所もとるので、今度は村共同の霊送りの場で、「チバ」と呼ばれる所へ持っていく。
あるいは臼などは、巨木を用いて作ったものだから、山の大きな樹木の側に置いて、あとのことはその樹木の神様にお願いする。
動物の霊を送るのには、山で捕ったものを送るのと、山で幼い獣を生け捕りにしてそれを村へ持ち帰って育て、大きくなってからその霊を送るという二種類がある。
「熊送り」と言われているもの、正しくは「熊の霊送り」は後者の方である。
どちらにせよ、霊を送るには、山で動物と出会うことが先決である。
動物と出会うのには、山へ行ったからといってすぐ出会えるものではない。
その人間がそれなりの徳を積んでいて、「この人は霊を粗末にしない人間だ」と認められる時に、神様(動物)の方からその人の方へと向かうのだという。
だから山猟をして、必ずしもみんなが猟があるとは限らない。
おなじ山へ行っても動物に遭遇する人とそうでない人がいる。
遭遇する人というのは、それなりの徳を積み、神様に選ばれた人なのである。
神様も色々な人間を見ながら、「この人間はよさそうだ」という方へ近づいてくるという。
人間の方も「熊猟に行く」、「鹿猟に行く」とは言わない。
「お迎えに行く」、「お出迎えに行く」と言うのである。
人の里というのは、家が建っているところの周辺と、もう少し離れた人の行かないような部分を含む。
小動物が捕れるような所、あるいは大きな動物もそこへ来るかもしれないというような場所というのは人里に含むのである。
それに対して神の住居地域があって、そこはその神々(動物)が行動する範囲なのだが、それが神の里なのである。
そして人の里と神の里の接点がある。
そしてそれから先へは、神様をお迎えに行くのである。
沿岸の方に船を出すのは、これは人の里である。
ところが「沖の方へ行く」というのは、「沖の神様を迎えに行く」のである。
「沖漁をしにいく」、「カジキマグロを捕りに行く」、「俺たちの腹を満たすために獲物を捕って来る」というような考え方ではない。
「もうそろそろ神様がお出ましになるのだから、我々がお迎えに行くのだ」という考え方である。
(引用ここまで・続く)
*****
ああ、そうだ、人は本来、このようであったはずだ、という思いでいっぱいになります。
人が生きるということは、このように世界との調和に満ち、優雅に、気高く、優しく、美しいものであったのだという思いに満たされます。
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