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マニ教研究・その6・・中国での盛衰

2011-03-18 | マニ・ゾロアスター

マヤの文明とはテーマは異なりますが、「マニ教は、中国ではどうなったか?」ということも調べているので、また話を戻します。


前回までの関連記事で見てきた弥勒信仰に見られる「弥勒」とはなにか?

キリスト教以前の古い神格「ミトラ神」は、その後どうなったのだろうか?、といったことを追求しています。


ペルシアの宗教であるマニ教がペルシアから中国まで伝播していったことと、ミトラ=マイトレーヤ=弥勒という神格の伝承とは、どのような関わりがあったのか、あるいはなかったのだろうか、といったことが気になっています。


大貫隆氏の「グノーシス・ねたみの心理学」という本に、マニ教の歴史が書かれていましたので、少しだけ紹介させていただきます。

筆者の論点は、マニ教はペルシアの独自のグノーシス型宗教であり、キリスト教とは全く異なる、ということだと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



      *****


(引用ここから)


ペルシア王はマニの処刑後〈3世紀)、帝国全体でマニ教の弾圧を開始した。


マニ教徒達はオクスス河を超えて避難し、サマルカンドを中心とするゾグドニア地方に定着した。

おそらく3世紀のことと推定される。


その後570年ごろ、ゾグドニアのマニ教共同体が、バビロンの主教会から分離独立して分派を形成した。


ゾグド語を話すマニ教徒の商人たちが、サマルカンドから高地アジアと中国への布教を展開した。


その後9世紀の半ばまで、断食と位階制に関する問題に端を発して、二つの教派の間で分裂が続いた。


その間、現在のイラン・アフガニスタン・西トルキスタンにわたる政治的覇権はササン朝ペルシアからウマイア朝イスラム帝国を経てアッバース朝に移っていった。


その際、特にウマイア朝のイラク総督は、マニ教徒に対して寛容な政策をとり、マニ教徒を受け入れた。


その間に、マニ教はウイグル王国を経由して、中国まで伝播した。


マニ教の僧侶が「武宗」朝の則天武后の中国の宮廷にはじめて登場したのは694年であった。


その後、唐の「玄宗」皇帝のとき、北京にマニ教の教会が建設された。


731年には「玄宗」皇帝がマニ教を導入する意図で、マニ教の教理要綱の中国語訳を命じた。


これが「摩尼光仏教法儀略一巻」である。


内容は25編の讃歌からなり、パルティア語のマニ教詩を、当時の中国の仏教社会の中へ適応させたものであったと言われる。


しかし、「玄宗」は732年には一転してマニ教禁止と追放を命令した。



中国とは対照的に、ウイグル王国はマニ教にたいして好意的だった。


そもそもウイグル族は当初モンゴル高原にいて、後にトルキスタンに移動したトルコ系民族である。


諸部族は連合して遊牧国家「トッタン」を組織した。


744年には、そのうちの一つであったウイグルが王国として成立する。


東ウイグル王国は遊牧領内にいくつかの都城を建設し、支配階層の都市定住化を進め、トッタン文字、古代トルコ文字、ゾグド商人から伝わったゾグド文字を加えてウイグル文字を開発するとともに、マニ教も受け入れた。



唐の「安史の乱」にさいして、唐側に援軍を派遣して、757年、長安と洛陽の奪還に貢献した。


第3代王は、洛陽でマニ教の伝道師と知り合い、みずから改宗したうえで4人のマニ教僧を連れ帰り、マニ教を正式に認可した。


807年には、ウイグルが中国領内の洛陽にマニ教寺院を建立した。


しかし東ウイグル王国は内乱などにより840年に終焉を告げ、それによって、中国におけるマニ教はウイグルという後ろ盾を失った。


それを待っていたかのように、中国では皇帝「武宗」がマニ教の寺院を閉鎖し、動産の没収と焚書を命令した。(843年・845年)


崩壊した東ウイグル王国の主力部分は天山地方に移動し、タリム盆地のオアシス都市を制圧して、849年、西ウイグル王国を建設した。


この王国は13世紀まで存続した。


その最初の2世紀間はマニ教を国教とした。


ただし、それ以降は伝統的仏教に回帰し、マニ教寺院も仏教寺院に改造された。


          (引用ここまで)



        *****



マニ教は、中国に受け入れられた時期もあったけれど、ウイグルとの関わりの方が大きく、中近東系の文化だったということは言えるかもしれません。

中近東の文明のエッセンスが、東洋の文明のエッセンスと深いところで交わっているのではないか。
それが知りたいものです。


後の時代の中国の「白蓮教の乱」は、弥勒信仰と関わりがあるように思われるのですが、当時の具体的な信仰の資料がありそうで、なかなかありません。

「白蓮教の乱」とマニ教には、どのような接点があるか、あるいはないか、大変興味深く思うのですが。。

弥勒の調べものを、少し続けたいと思います。




 wikipedia「ウイグル文字」より


アラム系の文字であったソグド文字を改良して作成されたもので、ソグド文字の草書体から派生したとみられている。


フェニキア文字に遡るアルファベットのグループにおいて、現行のヘブライ文字やアラビア文字などと同様にアラム文字の系統に属する文字である。


アラム文字やその系統に属すソグド文字の文章は、ギリシア文字やラテン文字の文章とは異なり、文字を右から左へ書く。


このため、ウイグル文字で文章が縦書きされた場合、一般的に中世ウイグル語の文章などは、アラム文字系の文章が左へ90°倒立するかたちになるため、行は漢文などとは逆に左から右へ書かれることになる。


一般的に、「当初はソグド文字と同様に右横書きであったが、後に90度回転して左縦書きとなった」と説明されるが、これはやや不十分な説明である。


ソグド文字は4世紀の段階で横書き、縦書きの両方されていた事例があり、
ウイグル文字もまた現存するトルファンなどの9世紀から12世紀頃の壁画や文書資料などはソグド文字と同様に、初期には縦書き、横書き両方されていた。


しかし、仏典などで漢文との併記や混用などの影響の結果、徐々に縦書きが中心になったようである。


ウイグル文字による正書法が確立されたのは誕生と同じく天山ウイグル王国時代においてであり、のちのモンゴル文字も引継がれた。



 wikipedia「安史の乱」より

安史の乱(あんしのらん)とは、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。


この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。


また、ウイグルの援軍を得て乱を鎮圧した(実質的にウイグルの援軍なしには乱の平定はありえなかった)ために、外交上および通商においてウイグルの優位が確定的になり、対ウイグルの貿易は大幅な赤字となり、国家財政をも圧迫するにいたった。


また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。


これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(「河朔三鎮」)。


以降の唐の政治は地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。




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