「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

神と芸術と人類の未来

2012年02月27日 00時20分58秒 | Weblog
 
あることに気付いた。世の中にある文学や音楽や絵画などの
芸術や、人間が表現する全て(厳密に言うと、市井の人々の
「生活」といったものも含めて)に、表現者の思想・信条・
アイデンティティーといったものが強く影響され、それぞれ
が独自の色を発している。そしてその色光が、その土地、そ
の地域、そしてその国を染め上げている…と

一見、世界は様々な人が発する色彩で、花畑のように色とり
どりのように思える。だが、そのような華やかで美しい個性
的な光を発する花々は、ごく一部のそれも疎らに垣間見える
だけで全体としてよく見ると、濃淡の差こそあるが、意外に
も色は数種類しかない。世界の場合はユダヤ系宗教(言うま
でも無くユダヤ・イスラム・キリストの一神教だ)の同系色
や共産主義のようなイデオロギー色が占め、日本においては
現世への諦めと厭世的宗教、○○主義のような底の浅いアイ
デンティティーのほぼ2色の同系色しか見られない。それら
の色は鮮やかな原色ではなく、煤けた鈍い暗色の同系に見え
る。その土壌からは、旧時代にあったような「生命賛歌の輝
き」が感じられないと思うのは僕だけだろうか


ジャーナリスト故・筑紫哲也氏の闘病中の話。家人が氏と親交
のあった井上陽水の歌を良かれと思い流した際、氏は音楽を止
めるよう頼んだという。氏は「陽水はキツイ…」と溢したのだ

家人から「キツイ」の意味を聞かれ、筑紫氏は「生きる力をそ
がれる」と答えたという。それを伝え聞いた陽水は、随分と落
ち込んだというが、僕にはそれらの意味することが理解できる

現実に死と向き合うなかで更に研ぎ澄まされた筑紫氏の感覚が
陽水の音楽の底に流れる厭世観・諦めを感じ取ったに違いない
つまり、それは念仏思想だ。それは「生きよう」とする筑紫氏
の生命のベクトルとは全くの逆の方向なのだ。そのマイナスの
力が彼の生命力を蝕み、思わず「キツイ」という言葉が口から
出たのではなかったか

陽水の歌だけではない。特に昔の演歌において「結ばれない」
ことを理由に「死のう」とか、「二人は枯れススキ」とか「忍
んでの逢瀬」など、哀しみ・哀れみ・諦めの哀音が「名曲」と
されヒットしてきた。それらの歌の持つベクトルは陽水のもの
と共通する。もちろん、「ガッツだぜ!」的な歌もヒットして
いるが、それらは特例で、日本で売れている圧倒的多数が、い
わゆる「泣ける」モノだ。逆に言うと「泣けない」のは「売れ
ない」作品と作る側も判断する。歌謡だけではなく、文学も破
滅や諦め絶望を描くものが“芸術性が高い”と評価されてきた
また、「お手軽」なエセものが量産され、それが「幅を利かせ」
てもいる。そう、日本の土壌は哀音と軽薄短小が満ちている
それは紛れも無く、圧倒的多くの日本人が発している色彩に国
土が染まった結果だ


これは日本だけの特徴ではないと思う。世界も同様だ。音楽に
しても、失恋や死などの「不幸」をテーマにしたものが圧倒的
だし、文学にも同じような現象が見られる。最近、競売で60億
円の値がつくのではと話題になっている有名な絵画「叫び」(エド
ヴァルド・ムンク 1863年~1944年)は、画家が、生きる孤独と死への
恐怖をテーマに描いたものだ。真偽は不明だが、所有していた
資産家が手放す気になったのは「観ていると生命力がそがれる」
のが理由と、ある報道が伝えていたが「さもありなん」だ

こうして考えてみると、現代の世界は「不幸へのベクトル」で
満ちているように思える。余談だが、日本の映画・ドラマ界で
は、演者、特に女優に対して「常に不幸でいろ」という思想が
はびこっている。事実、僕の知る某有名女優が新人の頃「いつ
も不幸じゃないと、いい演技ができない。理由は、映画やドラ
マは不幸を描いているからだ」と、監督や演出家から指導され
たという…。彼女は後に「なんて馬鹿げた考え」と、不幸でい
ることを止めたのだが


これらは日本の現状だが、前述したように世界においても似た
ような「不幸のベクトル志向」の波が押し寄せている

しかし、だ。大昔(いつまでが大昔だ、と突っ込むなかれ)の世
界は、「幸福へのベクトル」を志向した芸術が圧倒的ではなかった
だろうか。昔に比べて、現代の芸術文化は衰弱して見える。生命
の輝きが感じられない。創立者曰く「人類と自然と宇宙が一体で
ある」のを感じられる優れた芸術が極端に少ないように思うのだ
懐古趣味ではないが、絵画にしても音楽にしても、大昔の芸術か
らは「輝く生命の賛歌」が感じられた。それがある時期から、そ
の輝きは消え始めた

現代においての「生命賛歌」の芸術の衰弱の原因は、現代人の
“信仰の姿勢”にあるように思う。その“姿勢”とは信仰の深
さだ。ユダヤ教徒もイスラム教徒も、そしてキリスト教徒も
立宗の時から熱心に布教に汗した成長期に至るまでは、「人間
の姿をした全知全能の唯一神(ゼウス等)」つまり“神”を本気
で信じていた。だが、キリストが死んで約2千年が経ち、預言
者モハメドが死んで千数百年が経つ間、誰も“噂に聞く神”を
見ていないのだ。そもそも、初めから信者は“神”と会ってい
ない。預言者とされる人間の言葉を信じてきただけだ。それが
年月と共に、その存在が怪しくなってきた。だが、それを否定
することは恐ろしい。だから“信じたい”または“信じたふり”
をしているが、その実、神の存在を本当は信じていないのでは
ないか。そんなジレンマが起こり始めて急に、世界の芸術文化
に陰りが出始めた。と、僕は分析している

こう記すと、狂信的な信者は絶対に認めないだろうが、狂信的
な人ほど、裏を返せば「信じられないから」狂信的になるのだ
自らは「信じている」ことをアピールしようと、時には暴力的
になる。狂信者が怖い所以だ。彼らからは、新しい文化の芽は
決して育たない

皆が「神」の存在を本気で信じていた時代の文化の興隆の再現
は、本当にゼウスが皆の前に現れない限り、夢物語になる。そ
して、残念ながらゼウスは永遠に現れそうに無い
つまり、世界の文化は、そして地球の文明は衰退の一途を辿る
のだ。飢餓や戦争や天災などで滅びる前に、文化が滅びるのだ
そしてH・G・ウェルズが描いた未来世界のように、地球人は
原始人に帰ってしまうのだ

人類が破滅せず、新たな「生命賛歌の芸術文化」が蘇生すると
すれば、それは生命賛歌の宗教の興隆しかないのでは…?
興隆した宗教での信仰の歓喜が人類を満たすとき、世界は百花
繚乱、美しい花々で光り輝くに違いない

だから「人間にとって、信仰こそが大切なのだ」とは、英国の
某有名作家の言葉だ



君よ
自分自身を裏切るな!
自分自身に負けるな!
自分自身が王様であり民衆だ

大きく生きることだ
遠くまで生きることだ
強く歩みゆくことだ
堂々と戦うことだ!

暗い闇を君の太陽の魂で消したまえ!
古き罪悪の鎖を断ち切って
輝きわたる夢の世界を闊歩せよ!


           (世界桂冠詩人)
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