松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

浦和~裏磐梯~白馬~ぐるっと走ってきました

2012年08月28日 | 赤道直下と陸路国境148か所
2012年8月24日金曜・25日土曜・26日日曜とオートバイで走ってきました。
東北道~会津・裏磐梯~新潟~長野・白馬~自宅・浦和

ロンドンオリンピック・甲子園・高校野球も終わったので少しは涼しい
ところを走ってみたいと・・

パソコンで安い宿を探していたら福島・会津・裏磐梯「風来坊」があった
一泊500円ライダーハウス・・よし。行ってみよう。

静かなところたまたま・福島原発で避難していた人たちが家族で再び泊ま
りに来ていた・・家内と同じ同郷福島・南相馬市小高町・福浦小学校を卒
業されていた人だった・・。オートバイで日本一周している大学生は10
時ごろ到着しと次の朝聴いた。朝方ぐーっと冷え寒かった。

次の日(25日)新潟~長野・白馬町まで。昼間は暑かったなー・・。
白馬駅前の案内所で安宿を聴く・・確か前回2500円のライダーハウス
ピンクの看板「ジョイフル」を若い女性が紹介してくれた・・と言ったら
今はここでは4000円以下の宿は案内してないと・・高年の二人。

いまだに・そんなこと言ってるとつぶれてなくなるよひとりごと。
キャンプ場を聴くと500円の場所が近くにあった。

500円のキャンプ場へ向かう。15時だけど早目にテントを張ってゆっく
りしよう。近くの温泉銭湯500円へ。ここは標高600m。

温泉に行く途中BMWのオートバイのぼり旗に向かって・・次から次と走っ
てくる。おーオートバイは多くにぎやかに感じる。

温泉に入った帰りにスーパーによってバーリアルビール500ml一本110円×6本
・つまみと握り寿司トータル1996円。暗くなる前に晩飯を終わらせよう。
19時前にすべて終了・・。暑くはないのでそのまま寝入った。

次の日26日オートバイのフェスティバルがあるとキャンプ場に来ていたおじさんに
聴く。それでは寄ってみよう。会場はBMW主催らしいが結構いろんなオート
バイが集まっていた4,500台はいただろうか・・。

会場受付を終わる。スキー場の斜面をオフロードオートバイが登っていくのを
眺めていたら・・「おーいシショウ」と呼ぶ声ありいつも「ワッツ」で会ってい
る秩父の八木さんだった。仲間3,4人で来ているとか・・.
東京に近付くにしたがって暑い暑い・・自宅に15時についた。

感想
暑い陽ざしでもみどりの山があると暑さも断然違うなー。
裏磐梯にしても白馬にしても「民宿」や「ホテル」はこれから大変
だろう。

人が歩いていない・にぎやかさを感じない・地元案内地図かってにぎやかだった
「看板」には白馬でさえ「民宿」はすでに「黒く」「塗りつぶして」ほとんど「や
めて」しまってる民宿ばかり・・これから大変な時期になることを予想する。

しかし500円のライダーハウスに切り替えた「会津」の「風来坊」にはお世話
になりました・・がんばれー「風来坊」応援してるよー。

裏磐梯ライダーハウス「風来坊」素泊まり500円



500円の部屋



宿はやっぱり人柄ですよね・・オーナー夫婦・・お世話になりました。
同じ宿泊の人たち

明徳高校「馬渕史郎」監督・・再び敬遠四球・・

2012年08月27日 | 赤道直下と陸路国境148か所
馬渕史郎」ひきいる「明徳高校」高知大会決勝でも、またもや連続敬
遠ですか。コンさんわたしはそれも知らなかった・・。野球ルールに反
していない・だからいいのだとは・・・許しがたい野球の監督だ。

まぁ終わったことだけど・・全国の高校野球のを楽しみにしている
人たちを裏切った。これから野球する人たちを「減らす原因」をつくった
「馬渕史郎」監督。


だれにでもできることかもしれないと身近に感じさせて「震いあがらせて
くれた」高校・・そうだ中村高校たしか11人だった・・このときは蔦監督
だったんですか。スポーツのさわやかさ・緊張さを通じて見て楽しい・おも
しろさ・・これらをすべてをぶっ壊して「不愉快だけ」残してしまった明徳
高校「中村史郎」監督。

それに比べて中京高校・野中投手と池田高校・水野投手の投げ合い・・・・
イニングが終わったあと・プレート上に球を置くのではなくて相手のピッチャー
ににこやかに「お互いに」軽く投げ渡す「さわやかさ」・・これが「最高」の
高校野球だとわたしの中では「一番いい印象」として残ってます。
本当にさわやかでした。

http://baikunomatsuo.sakura.ne.jp

言いにくいことですが・・「馬渕史郎」明徳高校監督・辞めてすっきり

2012年08月23日 | 赤道直下と陸路国境148か所
2012年8月23日 高校甲子園大会は大阪・桐蔭高校が優勝。
すごかった桐蔭・実力どうりでしょうか・。個人的には・光星・
星光どっちだったかな・・高校に勝って優勝旗を岩手にもってか
えってほしかった。どこがどう違うのか・・気持ちだろうかな?

わたしは明徳高校の監督「馬渕史郎」の星稜高校松井
選手への連続敬遠5四球・・・の指示。(1992年)
「自分さえよければすべてよし」は許せないのです。

わたしは休みをとってここまでは高校野球「開会式」は
正座してテレビを見ていたのです。それからと言うもの
高校野球から離れています・・。

しかも、ランナーがいないのにもかかわらず松井選手を
敬遠して3対2で明徳高校(あくとく)が勝った。

「敬遠」しても「野球ルール」上は何ら問題はない・・わた
しもそう思うが・・。しかしだ・・

「じゃー」ピッチャーが「わざ」と「ストライク」をとらず
「24時間」どころか初回すべてわざとストライクを取らな
い「ころころ転がる」ボールだったらどうするのか
これも「ルール」違反ではない・・試合は終わらないのだ。

馬渕さんあなたは「指導者」でも「教育者でもない」わたしは
断定する。今年で指導者をおやめになるとか放送で聴きました。

あなたが辞めて「あーすっきりします」二度と高校野球の舞台
には戻らないでください。

なぜなら「自分さえよければすべてよし」のお手本だからです。

衰退する日本の野球を100年200年早めたことを気づいていな
いのではないでしょうか。

「馬渕史郎」監督は高校野球に「黒い」大きな「汚点」を残した
監督だとわたしは思います 。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅18 シベリア

2012年08月21日 | 赤道直下と陸路国境148か所
バイカル湖での結婚式・・

シベリア・ウランウデに戻ってバイカル湖に向かう



ウランウデからバイカル湖に向かう道を地元のライダーに聞いて作った地図

ウランウデ→バイカル湖→イルクーツク
2003年7月16日水曜 20℃はれ くもり カスミ 20℃ 20℃ 20℃
どうしようか出発するか、あと一泊するか・・・。10時になって先に進むことに決めた。相変わらずカスミがかかってはっきりしないもやもやした天気。白樺林の中を走る。これまで走ってきたシベリアに比べれば道はいい方だ。しかし突然じゃりみちが出てきてビクーっとする。タイヤで磨かれたこまかい石の光っている道も出てくる。道ばたには家庭菜園?を道ばたで売っている場所に来た。ほとんど「野いちご」ばかりだった・・。



獲(と)れたての野菜、イチゴなどづーっと道端に並んで売っている。ほとんどイチゴであった。野イチゴににたなつかしいうまそうなイチゴ一杯40Pルーブル=160円を買う。バイカル湖が見えるところまで来た。立ち寄って見ることにする。狭い道を湖に向かって走る、えー行き止りになってしまった。歩いてバイカル湖の水をすくってみる。冷たくはない。地元の人がここは「食べものも」ない。反対側に渡たって湖畔に行けばいいと車で案内してくれる。ありがたい。

反対側に回った前方には見晴らしのいい松林が立っている湖畔が見えてきた。狭い道のダートを走ってもうすぐ着くところで「ドン」と土盛りにオートバイの腹にあたった。急にエンジンストップ。エンジンはかかるが「ギアー」を入れるとスーと止まってしまう。車の人が戻ってきてあれやこれややって見てくれるがダメ。そのうち近くの人がやってきた。二人でやってくれるが直らない。近くの民家のおじさんが「なにか言っている」。

とりあえず「その人」の農地に入れて休む。18時になったらメカの人が来るとか何とか話す。いま16時あと2時間。持っていたビールとつまみを出して飲む、腹も減っていたのでちょうどいい。「つまみ」を渡すとおじさんは畑の中に草を積んである中に隠していた「ウィスキー」を取り出して飲んでいる。奥さんに「怒られる」からなのかと「頭に指を二本突き出して」日本の「鬼」の格好をしたら「にやにや」している。

5時過ぎに「家に泊まれ」と話す「OK」。息子が迎えに来ておじさんの家にオートバイを引っ張ってもらって庭についた。泊まる「マネー」いくら?。500Pルーブル=2000円だと話す。冗談じゃないホテル並みか、泊まらない!怒って見せる。オートバイも直っていないしイライラしていた。奥さんが出てきておじさんに何か言ってる。「いやな顔」しているのを見ると泊まらせないような態度がありあり。

泊まれと言われた民家の向かう・・が
出てきた奥さんの顔を見ると、とても泊まれる雰囲気ではない。奥さんに親父さんはひどく何か言われて表に出てこなくなった

庭から道にオートバイを出して、さてどうするか。きょうはここらへんで野宿かいな。湖畔の方から乗用車が来た。お願いして停まってくれるのを待つ。窓を開けてくれた「ソーリ・オートバイ」「動かない」すると車から降りて話しを聞いてくれる。エンジンをかけてギアーを入れると「止まる」のやって見せた。二人は原因がわかったらしくオートバイの下を見ながら「電線」をつないでテープで巻きつけてくれた。

エンジンをかけてギアーを入れても「止まらない」。お―直ったのか。大丈夫のようだ。何回かやってみた「オオー直った」大丈夫だ。あーよかったー。お礼に150P(あとは1000Pルーブルしかなかった)をお礼に渡そうとすると「イヤイヤ」「ノーノー」のしぐさ。いや―ほんとうに10分ぐらいであっとゆう間に直してくれた。これから先どうなるのかと暗―い気持ちになっていたのが一瞬にして明るく軽くなった。

ロシアの人たちはだれでも自分で直す技術を身につけているのだろうか感心する。それにしてもラッキーだったなー。ありがとうございました。気が晴れたところでバイカル湖のイルクーツクに向かって走り出した。セントラルまで行き、ロータリーの花屋さんでホテルを聞いた。目の前100mぐらいのところにホテルがあった。レセプションに行くと中に向かって「なにか言った」と思ったらなんとモンゴルで出会ったスカイさんが出て来た。

「オオー」「ケンジさん」が泊まっている。同じ部屋に泊まれることになった。料金も700ルーブル。二人で350ルーブルになる(と思っていた・・これが大間違い)。お互いに助かったとばかりにビールを飲みながら夜中1時頃まで話して過ごした。

2003年7月17日木曜 雨 小雨 くもり 雨
夕べから雨が降って久しぶりの雨だ。昼間も降ったりやんだりして一日中続いている。12時頃泊まり代700ルーブル払えと受付のおばさん。なんで今ごろ言ってくるんだ。夕べ二人で700ルーブルでいいと言ったじゃないかと「まくしたてる」。その時は、おばさんは引き揚げた。これじゃ高級ホテル並みではないか。ところがだ、夜になって交代した責任者みたいなおばさんがやってきた。

ホテルの部屋代一人でも700ルーブル。二人でも一人700ルーブルとまくしたてる。こっちも負けずに怒鳴りかえす。ウラジオストックでもハバロスクでも二人泊まれば半額になったと。責任者のおばさんはゆずらない。スカイさんが冷静に冷静にとなだめにかかる。怒鳴りあっているところに22時頃ヘルメットをかぶった人が入ってきた「あー永原さんだ」なんと「永原さん夫婦」も雨の中ホテルに駆けこんできた。

残念ながらホテルはいっぱいで永原さん夫婦はここのホテルで紹介してもらったホテルにタクシーを頼み、そのうしろにつけて向った。雨の中よく走ってきたと思う。それにしても日本人だけ同じホテルにまぎれこむとは不思議な気がする。怒鳴りあいの続き・・・ホテル代「国が違えば」システムも違うようだ。納得できないが仕方がない。700ルーブル支払う。午後雨が上がったのを見計らって散歩に出た。

スカイさんはオートバイをここからモスクワまで送ると話していた。今日駅まで行って手続きは意外に早く終わったようだ。「モスクワ」まで「オートバイと本人」で3万円ぐらい。それとは別に100ドル=1万円ぐらい手数料として払ったと話す。ここバイカル湖からモスクワまでオートバイで走ると1週間~10日間ぐらいかかりそうだと二人で話していたら。スカイさんは日程がなくなったのでオートバイをモスクワまで列車で送ることにしたようだ。5時と早い時間から二人で呑み始める。
スカイケンジさん

2003年7月18日金曜
9時半頃永原さん夫婦が泊まっているホテルにスカイさんと二人で向かった。管理人は「ネーネー」(ノーノー)と言う。エ―満杯?!。もたもたしていたら「永原さん」が出て来た。なんだ―泊まっているじゃないか。駐車場がないのでオートバイはダメだけど泊まりは「OK」と管理人は話していたのがわからないだけだったのだ。オートバイを裏側に停めて泊まりを予約した。

オートバイのスタンドの「バネ」がとれてぶらぶらしていた。近くのベンジンスタンドで自動車修理工場を聞いて向う。すぐに間に合わせの「バネ」をつけてもらい、スタンドの足掛けも補充してもらった。12時頃までかかった。1000ルーブル=4000円払う。ホテルに戻ろうとするが来た道は一方通行になっていた。戻れなくてわからなくなってしまった。ぐるぐるまわって15分ぐらいのところを1時間もかかってしまった。

永原弘行さん・みどりさん夫婦
修理工場でスタンドの「バネ」を交換
づーっとこの「日本ナンバー」をつけて走ってきた(しかしこのあとがたがた道でいつの間にかとれてしまいなくなっていた)

修理が終わった。工場に来ていたなんでも乗れるような言い方をしていたかっこつけた中年男。ふだん他人には乗せることはないが自信満々だったので貸した。わたしのオートバイに乗って工場の庭を回ると言い出した。乗り出した直後曲がり切れずにあっとゆう間に転倒。土だからキズつかなくてよかったが男はカッコつかなくて恥かいて気まずいそうにすぐに消えてしまった。どこの国でもほら吹きはいるもんだなー。4時頃からバイカル湖に向う。約一時間ぐらいでバイカル湖の入り口についた。イルクーツクから65kmぐらいだろうか。

さらにバイカル湖岸に沿って走って見る。あでやかなホテルみたいな建物を通り過ぎるとにぎやかな市場みたいなおみやげ屋でにぎわっている場所につく。さらに登って行くと扉みたいなもので進入禁止になっている。Uターンしておみやげ屋が集まる場所に戻る。おおーっ、白いウェデングドレスの花嫁姿と新郎の姿結婚式を挙げたのだろうかこれから挙げるのだろうか。

カメラマンもつきっきりで動画を取っている。「ソーリ」「すみません」出しゃばりのわたしもいっしょに記念写真を撮ってもらうことにした。ありがとうございました。いい記念になりました。蒼く透明な湖をイメージしていたバイカル湖。夕日の太陽の光で黄金色に光り輝いてバイカル湖の美しさをみられない。岸べに降りて透明な水をすくって感触だけ味わった。これだけじゃ世界一透明な湖とは思われないなー・・実に残念。

湖畔にはホテルも3,4軒ホテルもあるようだ。泊まってもいいなーと考え、料金も聴いたが戻ることにした。おみやげ屋で愉快な商売のおばさんたちといっしょに写真を撮った。バイカル湖で獲れた魚そのまま食べられる「白身の半干し刺身」を買ってホテルに戻る。戻る途中午前中直したオートバイのスタンドがしっくりしないので再び修理工場に寄って直した。

「ノーペイ」でいいかい「タダ」で直してもらった。ホテルでは永原さんたちは夕食の準備をしている。わたしの部屋に来てもらって奥さんが作ったスープ、買ってきた魚の刺身など食いながら夜中一時過ぎまで話す。バイカル湖の「半干し刺身」はうまかった。テントを張る時地元の人でも入れないような場所を探すと、また奥さんのみどりさんを日本に帰るまで「無事に連れて帰らない」とも永原さんは言っていた。

バイカル湖畔で結婚式を挙げていた・・よせばいいのに・・(このでしゃばり)
バイカル湖で泳いでいた人と

バイカル湖畔でのおみやげやさん・・にぎやかなおみやげ屋さん。陽気で愉快なおばさん達








オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅17 モンゴル

2012年08月17日 | 赤道直下と陸路国境148か所
モンゴル・ウランバートルから再びロシア・ウランウデに向かう(戻る)



2003年・7月13日日曜 はれ はれ はれ はれ
朝、日本語の打てるネット「あずさや」ゲストハウスに10時に着く。玄関に入るとライダー長靴二足ある。永原さん夫婦が帰ってきているんだな。二人はまだベッドの中。永原さんはわたしがキャンプに行っている間泊まっているホテルまで二度も来てもらっていたのだった。永原さん夫婦は14時頃わたしのホテルに来てくれるとのことになった。ネットを12時頃まで打ってホテルに戻る。

隣りのあずさ屋さんのネットがうまくいかなくて永原さんが直しにかかったがうまくいかなかったと遅れて3時前にホテル見えた。マーケットに買い物に行って、まぁとりあえずご無事で「乾杯」。シベリア横断道路は8日間かかった。ホテルは3泊あとはテント泊で過ごしてきた。テントの場所選びはだれも入れないような場所にしたとか・。奥さんのみどりさんを無事に日本に戻るまで責任があると・・永原さんが主稿していた「ノーザンヲーカー」を「WTN-J」に引き継ぎに当たっていろいろ意見があったとか・・・の話も。

これまでの永原さん夫婦シベリアの道のぬかるみで苦戦したこと、わたしのこれまでのことを話したりして飲みながら永原さんから情報をえる。またこれからのルートについても話して21時頃まで話ははずんだ。あしたか、あさって移動するとか。それにしても永原さんの奥さんのシベリア横断は女性としてもしかしたら初めてではないだろうかと思う(この年の翌々年ぐらいか道路も広くなっている)。

あしたかあさって移動するとか、わたしもあしたウランウデに移動する。ここウランバートルでは「馬頭琴」が「オーダー」して2万円ぐらいでいいものが出来そう・・と沖縄出身のMさんはわたしがキャンプに行っている間おなじホテルに泊まっていたらしくメッセージを残してくれていた。


モンゴルからロシア・ウランウデに戻る途中地元の人たち

2003年7月14日月曜 くもり 一時雨
10時に出発しようと支度してオートバイを取りに出かけたらぽつぽつと雨が落ちて来た。これでは出発ヤメ。やっぱり気持ちよい天気の中で走りたいものだから、あしたに変更する。永原さんがきのう話した「中央アジア」の国境が閉まって「イランに抜けられない」ようなことが気にかかるな。モスクワまで行っても無駄になるかも・・。屋台のヒツジの焼鳥をつまみにビール、これは朝飯兼昼食。

日本人「あずさや」の隣のゲストハウスにネットを打ちに行く。永原さん夫婦はけさがたまでネットで旅の記録を打っていたらしい。わたしは途中で画面が消えてしまうので4時頃ホテルに戻る。永原さん夫婦は表まで見送りに出てきてくれた。いっしょにオートバイの前で写真を撮って別れる。

モンゴルのこと
ビール500ml=665モンクル=70円
冷えたビール=100円
食品=80円
靴下=50円
ノート=100円
歯ブラシ=110円
靴中敷き=180円
ガソリン=ワンリッター40円

ポツンと農家があった。家に馬などいたので寄ってみた。馬乳をご馳走になり家族の人たちと記念写真






2003年7月15日火曜 朝20℃ くもり20℃ 一時雨 30℃ くもり30℃ はれ34℃
きのう空もようがよくなかったので今日に出発延ばした。朝7時15分スタート。どんよりとした空もようになってきた。1時間もしないうちに小雨もおちて来た。道ばたにオートバイを止めてカッパを着よう。さー雨よ来い。せっかく完全装備したのに雨が降ってこない。まわりの景色は煙ってかすみがかっている。

国境近くになってポツリと一軒のゲルがあった、なんとなく寄りたくなってしまう。そこの家で「馬乳」をごちそうになった。馬とオートバイをいっしょに撮りたかった。家族で記念写真なども撮ったがこうゆう写真目的で立ち寄ることは許されないことと知っていて厚かましくおじゃました。いつもの自分勝手がでてしまう。すみません。こんな時はお金を置いてくるべきだろうなー。このことでうしろめたさが残る。

国境は13時から14時まで昼休憩とわかっていたので13時半頃到着。国境のそばの入国した時寄った食堂に入る。冷たいビールを期待していたのに売り切れだった、あーぁ。両替えの兄ちゃんが店のご主人にそこまで行って「買ってこい」と言ってる。注文したたべものは出て来たが「ビール」は15分も発っているのにまだ帰ってこない。

しょうがない、自分のオートバイ・ボックスに入っているぬるい缶ビールを出して「お店」の了解を得て呑む。14時10分国境があいた。出国の車5,6台が並んで止まっている。左側から先に行けと係員。あっちこっち回ってスタンプを押してもらって15時になった。出口でまた待たされる。ここでも5,6台止まっているが左側を通ってロシア側に入って行く。

一旦止められる「なぜ」だ。しかしすぐにO Kが出た。ようやくロシア側「入国」の手続きに入る。かわいい女の子なのになぜか「坊主頭」になっている。日差しが強くて暑い、暑い。待つこと3時間うーんようやく終わった。最後のスタンプを押してもらったのが18時ちょっと前だ。わたしの前に並んでいたマイカーの人は朝9時にモンゴルに入って昼食挟んで7時間も並んで待っていると話す。

暑い日差し・・長く待たされる中かわいい女の子はなぜか坊主頭にしていた。

うーん、これまでも国境では入国に1時間・出国に1時間と合計2時間ぐらいはかかってきた。ここはしょうがないのかな―それにしても永すぎる。こんなに「忍耐」がいるのか。太陽は西にまだある。霞がかかってぼんやりと光。高原の原野を走る一度通った道だもの気は楽だ。すんなりとウランウデについた。ホテルに着く前にこれから進むバイカル湖方面の道をオートバイのお兄ちゃんに聞いて確かめる。前回泊まったホテルに21時30分到着。シャワーはそこそこにビールの冷たさがうまい。


夕方ぼんやりした太陽が西に沈むころ再びロシアに入りウランウデに向かう

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅16 モンゴル

2012年08月13日 | 赤道直下と陸路国境148か所
モンゴルのお祭り・・休みらしい。頼みこんでホテルスタッフの一泊旅行に連れて行ってもらった
出発の前に記念写真・ホテル前


2003年7月11日金曜 はれ はれ はれ
きょうから13日までモンゴルのお祭りらしい。銀行も休みになっている。10時過ぎにスカイさんが泊まっている宿にネットをかりに行くが閉まっていてだれも出てこなかった。マーケットでビールを買って宿に戻るとスタッフがジャガイモ、肉など大量に運んでいる。「お祭り」に行くのだろうと思って「おれも連れてってくれーい」と日本語でここの英語のできる女史に頼んでみると「OK」になった。ありがとう。

ホテルの従業員の慰安旅行なのだろうか一泊して帰ってくるらしい。一泊して2000円でいいと話す。自分のビールも積み込んだ。総勢16人が3台の車に乗り込み出発。自分が割り込んだのだ。かなりきゅうくつなのはいたしかたない。どのくらい走ったろう途中休憩しながら森の中に入って行く。ホテルから100kぐらい走っただろうか入場料一人(30円ぐらいか)払って公園?に入って行く。

「ええーっ」川の中、泥道など越えていく。何度も川を渡る。川の手前で一気にダッシュしない車が川の真ん中で立ち往生。川の流れもかなりある。車から降りて全員で押して陸に上げる。車の中も水浸し靴も洋服もずぶぬれだ。乗用車を戦車代わりに使うのをはじめて経験した。日本ではまず考えられない行動だ。これを見たら驚くに違いない。なるほど車ってこうゆう風に使うこともあることを知る。

川の中、泥の道どこへでも戦車?代わり車を使っていく。「へー」車ってこんな使い方もあるんだと初めての経験におどろきながら・・どんどん森の中に入っていく。

ついたところは広々した芝生が広がる公園

参加者全員川に投げ落とすゲームライオンとかゆうらしい・・。何かと言いよって油断させ、5,6人で捕まえて川に放り込む・・女性は下着姿で天真爛漫


お祭りを見に行くのじゃなくてスタッフのレクリレーションなのだ。芝生のある広々とした自然の公園についた。気持ちのいい広場だ。初めて身近に「ゲル」をみる、今日はこのゲルに泊まるようだ・・うれしくなる。お昼にはハム、ソーセージ、トマト、キュウリなど大胆に切って食べる。もちろんビールもある。青空と緑の中で全員で食べる。昼食が終わると川に遊びに行く。

川に向かって歩いて行く、女性たちはブラジャーだけになって遊び濡れてしまっている。
何なのか、ただの川遊び?ではなかった。次々と狙いをつけられた男も女も川に
投げ飛ばされる。暴れてもだめだ。5,6人で捕まえたら最後えじきになるのだ。男の人は「あばれ」落とされる時土手にあたりかすり傷で血を流していた。わたしも「カメラ」を貸してと言われて渡した瞬間あっとゆう間に運ばれて川にドボーン。

濡れていない人はいなくなっておしまい。水は少し冷たいが寒くはない。なんとも愉快なダイナミックで時には危ない放り込みになる。モンゴルの女性たちは実に天真らんまん。適当に腹がへってきた。広大な青草の広場には馬、羊、マンモスみたいな牛は草を喰ってゲルのそばまできている。はだか馬にまたがってみんなは遊んでいる。ホテルではおとなしい女の子が馬にまたがった。

ホテルではおとなしく目立たない女の子は「はだか馬」に乗ると見事な綱さばきで馬を疾走させる姿におどろく・・。写真はホテルオーナー

ゲルのまわりにマンモスみたいな牛がのしのし


あっと馬を走らせスピードを上げる。水をえた魚のごとく人が変わったような顔になった。ホテルでは見せない度胸は何とも頼もしい、綱さばきにみんなはおどろく。人は見かけに寄らずってゆうけどほんとにビックリだ。ホテルのオーナーも馬の扱いがうまい。わたしも馬に乗ってみたが思うように馬が動かない、前にしか進めないのだ。普段「口達者」で「でかいこと」言ってるわりに馬に馬鹿にされなめられてしまった。

夕食の支度にかかった。生きたヒツジじゃなかった、確かヤギをしめている。わたしも皮をはぎ肉を落とすのを手伝った。そのヤギをゲルの管理人が丸い牛乳缶で作った鍋?に焼き石を放り込み煮込む料理だ。出来上がった煮込みを全員でほうばる、この上ないごちそうはもちろん初めてである。大自然の中で屈託のない人たちとの食事は最高。

ヤギ一頭つぶして夕食の準備でかい牛乳缶で煮込んで食べるらしい



ビール二ケースは昼間終わってしまった。夕食前にワンケースを調達してオーナーに渡す。ビール以外にもワイン、ウオッカ―など飲み物は充分にあるようだ。一杯注(つ)がれたら飲み干し女性たちもけっこう飲んでいる。ただ、ここでは女性より先に男に「たべもの」を皿に盛って渡してくれる。こんな風習が残っているんだなー。夕食が終わったらキャンプファイヤーが始まった。

わたしは日本の歌を感謝をこめて「四季の歌」「五木の子守唄」二曲歌った。途中から韓国の人も来ていたので祖国の歌を披露していた。モンゴル歌が続くのかと思っていたら「坂本九ちゃん」の「幸せなら手をたたこう」の歌。手をたたき、膝をたたき、地面を踏んで大合唱になった。11時を過ぎると月の明かりでディスコ大会になった。音楽は発動機で電気を使っている。

十六夜なのか月は大きい。発動機の電気十二時に消灯して初めてのゲルで寝る。「ゲルの夜モンゴルで見る大きな月」

7月12日土曜 はれ はれ はれ
朝食のあと大きな川で泳ごうとみんなで向かったが車がこっちでストックあっちでストックあげくの果て川渡りでエンストしてしまった。押して渡ってまたエンストの繰り返しは5,6回つづき結局時間切れで3時になって引き返してホテルに戻ることになる。
ホテルに戻ったのは18時半。疲れたが貴重な体験をさせてもらえてなんとも楽しかった。スタッフのみなさん、ほんとたのしかった。ありがとう。

ゲルの中にはベッドが5,6個あり、わたしが参加したので何人かは土間に寝る人もいた・・すみませんでした。

帰りには草原で全員の記念写真

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅15 モンゴル

2012年08月09日 | 赤道直下と陸路国境148か所
泊まっているホテル

モンゴル市内


2003年7月9日水曜 はれ はれ
ネットで12時に会う約束。ホテル「ウランバートル」でネットをしながらまだ会ったことのないSケンジさんを待っていたが現れず。11時から12時半頃まで待っていた。Sさんはネットを見るひまがなかったのだろう。通りの焼き肉屋で昼飯。牛タン、カルビー、キムチを注文カルビーはなんだか半燻製(くんせい)みたいだったが味は牛タンもまずまず、帰えりに肉屋で生のステーキを買った。250g3800モンクル=400円。

きのう約束していたネット屋の女性は「友だちに用事が出来」て「来れなくなった」とのことでいっしょの食事は後日にした。昼間オートバイをホテル前に停めていたら直射日光で温度計は40℃を指していた。この時期はこんなに暑いんだ。




7月10日木曜 はれ はれ暑い はれ
10時頃ホテルを出る。きのうの銀行でT/Cトラベルチェック100$=ドルに両替さらにモンクルに両替。銀行の女性に地図を見せてネット屋を教わった。印をつけてもらい歩きだす。日本の100円ショップがここでは200円ショップ。店に入りひとまわり見て回るけっこう繁盛しているようだ。店を出て歩きだすと「アーマツオさん」声がかかったメガネをかけたSケンジさんだった。初めて会うが偶然でもあった。

郵便ポストに行った帰りで100円ショップに向かうところだったらしい。ネット屋に行くのはやめてビールを買い込みわたしのホテルの部屋で「はじめまして」と「乾杯」。スカイさんやYさん達も途中からオートバイを列車に乗せて来たらしい。いろいろ情報交換とゆうかあれもこれもと話は尽きない。久しぶりに日本語をしゃべれる。わたしより20日ぐらい前に出発した永原さん夫婦もここモンゴルに来ていることを知る。

永原さん夫婦は400kmぐらい離れた知人の家に行ってあした11日には戻ってくるとの話であった。もっともあしたから11日、12日、13日はモンゴルのお祭りらしい。
結局4時頃まで呑んで今度はケンジさんの泊まっているゲストハウスに向かう。10分ぐらい歩いたところにあった。ゲストハウスはマンションの二部屋にベッドを入れて8人は泊まれるようだ。一人600円とか。

部屋にはケンジさんのほかに日本人二人も泊まっている。一人は馬を借りるのではなくて「馬を買って」旅すると話す「へー」こまかい地図を手にしていた。あと一人は沖縄の人できょういっぱいでこのゲストハウスを出なければならないと荷物をまとめている。よかったらわたしの泊まっているホテルに「替えたら」と話してみる。

ルバング島・・小野田寛郎さん90歳と・・

2012年08月07日 | 赤道直下と陸路国境148か所
きょう20012年8月7日火曜・有楽町
ラジオ「ニッポン放送」まで行ってきました。

小野田さんは戦争が終結・昭和20年(1945年)して
からもルバング島で暮らしつづけていたが故鈴木紀夫さん
(冒険家)がひとりで野宿しながら小野田さんと遭遇した
ことがきっかけで日本に1974年(昭和49年)29年
ぶり52歳の時に帰国された。

帰国後はブラジルに移住され今も一年に3か月程はブラジル
で暮らすなど繰り返している。日本では「小野田自然塾」で
スタッフと一緒に活動を続けているときょう聴きました。

帰国されたあと小野田さんの「いまの日本についての思
っている」ことの収録でした。

小野田寛郎さんは奥さんと夫婦で来られていました。
収録の中で小野田さんは90歳と話されていました。
いっしょに写真をとらせてもらいましたが68歳の
わたしと変わらない若さでした。

実はわたしも5,6年前ラジオ「ニッポン放送」で
オートバイ「旅の放送」をさせてもらいました。その縁で
Kデレクターの計らいで今回小野田さんの収録の見学
が出来たのでした。

小野田さんといっしょに撮った写真は残念ながらここ
に掲載することが出来ません。(掲載いいじゃないかと
小野田さんは言ってましたが奥さんの方がちょっと待っ
ててほしいとのことでしたので・・)

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅14 モンゴル

2012年08月06日 | 赤道直下と陸路国境148か所
モンゴル・首都ウランバートルに着いた



2003年・7月7日月曜 はれ はれ はれ はれ
モンゴル・ウランバートル市内を午後からぶらりぶらり市内を歩く。ナンバーワン「ホテル・ウランバートル」でインターネットを打つ。1時間=600モンクル2時間やって1180モンクル。そこの女性にドル計算してもらったら10ドル=1180=1200円となることがわかった。たけーなー。しばらく雑談したあと、もうしまっているだろうと思って17:30ごろ日本大使館に足を伸ばした。お―開(あ)いている。

館内に通された受付で世界の「日本大使館」アドレスのコピーを頼んだ。10分ぐらいで終わった。ありがとう。男の職員は「去年だったかなー高原を走っていて穴に落ちて亡くなった」「穴だったの」で「しばらくわからなかったらしい人」もいるのでオートバイは「充分注意して」とアドバイスを受ける。19時宿に帰って駐車料金、今日の分500モンクル=50円を払った。最初ホテルの狭い空き地に止めていたが駐車場に替えた。

ビールを買い帰る途中「牛」の焼きとりを買ってビニールに入れてもらった。そう言えばロシアはマーケットで「ビニールのお金」をとられる、ここでは大きな袋でも無料だ。

7月8日火曜 はれ はれ はれ
9時過ぎオートバイの青空駐車場まで歩いて3、4分。ナンバープレートがこれまでの道悪でとれそうになっていたので心配になっていた。どこかで直してもらおうと聞いてみた。ところが駐車場のおじさんが次々に代わるものを持ってきてくれた。最初のはすぐに折れてしまう代物。次は「ブリキ」を持ってきてくれた。幅の「サイズ」はちょうどいい。金切りハサミで切り取って穴をあけてガタガタ道でも耐えらえ落ちないようにがっちり補強できた。

身近に「あるもの」を使って直すことは地元の人の「知恵」なんだなー感心する。これで安心して走れるので心配ごとがなくなった。ほんとうにうれしく思う。おじさんに500円をお礼として渡した。ありがとうございました。いつも想うことだけど日本ではそれなりに専門のところに頼むのだが外国では自分で直す人たちが多い。たいしたものだと思う。

マーケットで買った牛肉を買った、焼いてみたがどうも硬い肉だこと。1時間昼寝してきのうも行ったホテル「ウランバートル」でネット1時間半ぐらいやる。そのネットで「大阪のSケンジさん」がオートバイでここ「ウランバートルに来ている」とわたしにメッセージが入っているのがわかった。「あした9日・12時に」「ホテルウランバートル」で「待っています」と返事したがどうなることやら・・。

銀行でT/C(トラベルチェック)200$(ドル)をドル紙幣に両替した。ネット屋の女性とその友達ともあした9時にみんなといっしょに食事することに決めた。宿に帰り20時頃から晩飯をはじめる。博物館でテレビのドキューメント撮っていたスタッフといっしょになる。きょうはオートバイの気になっていた「ナンバー」を直したので気持ちが楽に、晴ればれの気持ちだ。

モンゴル・ウランバートル市内

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅13 モンゴル

2012年08月04日 | 赤道直下と陸路国境148か所
ウランバートル市内では「80」(周年だと思う)のタイトルでフェスティバルは大音響で開かれていた。

ロシア国境の手続きを終わり次はモンゴルだ.しかし昼めし休憩時間で緩衝地帯でモンゴル入国
出来ずストップ。しょうがない暑い中トイレに行ったりして時間をつぶす。

モンゴル・首都ウランバードルに入る
2003年・7月6日日曜 はれ10℃ 18℃18℃ はれ15時30℃ はれ20時30℃
ジャスト7時にモンゴルに向かってホテルを出発。ウランウデに入る時モンゴル方面の道を聞いていたのですんなりと乗れる。ズボン下、長袖下着、それにカッパを着こんできてよかった。走り出すとやっぱり涼しさを感じる。モンゴル国境まで250km。
工事中ためガタガタ道になってしまった。

うーん、シベリアと同じでそろそろと走るしかない。じゃりみちは5kぐらい続いただろうか。まわりは高原。工事中の道路以外はいい道だった。国境についた11時半。やっぱり時間がかかったなー。夕べの計算ではモンゴル・ウランバードルまで500kmと聞いていたので15時には着くだろうと思っていた。国境ロシア側は慎重とゆうかノロマってゆうか「出国」手続きでなんと13時なってしまった。

モンゴル側に入れない、どうしたん。ロシア側もモンゴルも13時から14時まで昼休みだと。ロシア側を出た所のいわゆる「緩衝地帯」でストップ。わたしのうしろには自動車一台が待機している。仕方ない待つしかない緩衝地帯に掘立小屋のトイレに行った。トイレの中を覗くと普通より高く造られて板を渡してあるだけ落っこちたら大変なところだ。一時間待たされて鉄の国境の扉が開いた14時過ぎにモンゴルに入った。

モンゴル側は荷物の検査もなし意外スムーズに手続きが終わりすんなりと入国できた。でかい帽子をかぶった係官はロシアに比べて親切心を感じる。国境を出た所に食堂があった。ここは両替屋も出入りしている。3000ルーブルを両替した。たべものはメニューを見てもわからないので厨房入れてもらって冷蔵庫をのぞいて「これ・これ」と注文。冷たいビールも注文。するとどこに行ったのか冷たいビールを持って帰ってきた。

食事中に通貨の計算。ビンビール大1500=200円。ジャガイモ肉入りライス1500=200円。ビールが高いようだ。16時を過ぎているが太陽はまだまだ高い。ウランバードルまであと350km。モンゴル側はとたんに道がよくなって気持ちがいい。80k~100kmで走れる。素晴らしい緑の高原の景色の中を走れる、こうじゃなくちゃ。ついついあまりの景色に顔を奪われる。ウランバードルについた。

21時なっているがまだ太陽がある。市内に入りタクシーの運転手さんに「安いホテル」をと「お札を数える」「下に降ろす」指のしぐさをして頼んだ。ところがついたところは高級ホテル62ドル=7500円。「違うよ」こんないいホテルじゃなくてとつぶやきながら、そのホテル・フロントで「ソーリ、デスカウント、スモール・安いホテルを」と頼んでみた。いやな顔もせずに1600円のホテルを紹介してもらった。

そこはバーの飲み屋が一階に二軒、二階に一軒合わせて3軒入っているホテルであった。部屋は二階、まぁいいだろう。となりにある食堂で23時過ぎた遅い食事をすませる。来たんだなーモンゴルだ。