松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

葉隠れフォーラム・・・嘉村 孝 氏 主催

2013年05月21日 | お知らせです
Ⅰ 日時 平成25年5月24日(金)午後4時30分(会費500円)
Ⅱ 場所 〒102-0032中央区八丁堀2-14-4ヤブ原ビル 
℡03-3551-9335 株式会社アヅマ 3階会議室
(1階右側のエレベーターより3階。左側エレベーター4階より3階へ)

Ⅲ 今回のテーマ「三国志的戦いと葉隠」

Ⅳ 前回のご報告と今回への取り組み

前回は、「伊達政宗と葉隠、遣欧使節」と題してお話ししました。

伊達政宗は、文禄・慶長の役に伴い、唐津近郊の名護屋城に彼がやってきたことなど、葉隠とも様々な関わりがあります。名護屋城の城門が戦のあと仙台に運ばれて、第二次世界大戦の末期に爆撃によって焼失するまでは仙台城大手門として使われていたことも、その関わりの1つです。

葉隠の中には、例えばこんな話があります。伊達政宗がその頬を打った相手・兼松又七郎を「日本に隠れなき伊達政宗の頬を打った其の方は曲者に似たる者なり」と褒めて、それを黙視した小姓を切腹させたという話しです。ところが、この話し、もう少し詳しく書いてあるものとして「見聞談叢」があり、そこでは、単純に兼松又四郎(葉隠では「又七郎」)が頬を打ったのを、小姓が黙視したという話しではなくて、内藤左馬介の邸で能狂言の催しがあるときに、政宗も招かれ、つい臨席にいた兼松の膝頭を政宗が蹴ったことによって、兼松がその無礼に憤り、政宗の肩頭を後方から三つ、四つ打ったこと、それに対して政宗が「卑怯なり。それほど腹が立つのならどうして早く切らなかったのか」と兼松に迫って、今にも大事となるべき形勢となり、ようやく双方なだめて仲直りの杯を交わすことになったところ、政宗がその土器の酒を飲み干して、一節舞を舞い、「打て腹だに癒るならば、いくらも打てよ兼松め」と長く引いて謡ったところ、兼松は再び憤激して、全身ぶるぶると震えて手に持った土器を思わず2つに掴み割った、という話になっています。こちらのほうがよりリアルで面白いのではないかと思います。

さて、それはそれとして、当日もっと力を入れたのは支倉常長の慶長遣欧使節でした。天正の少年遣欧使節がいわば宗教に基づくものであったのに対して、キリスト教禁止令がひたひたと押し寄せてきていたこの時期、政宗は貿易上の利益を得ようとしてそのような派遣をしたということは間違いないところでしょう。

政宗がローマ教皇に宛てた文書、その他セビリアの主教に宛てた文書など沢山残っており、特にローマ教皇に宛てたものは非常に面白いものです。貿易のためならばローマ教皇に膝を屈してでもどころか、「五番目之はっは・はうろ(パッパ・パウロ)様の御足を、於日本奥州の屋形伊達政宗、謹而奉吸申上候。」などと、何が何でも貿易を始めたいという意志が極めて強く出ています。180人もの人間を送るような大事業をどうしてしたのか、またそのための土木事業として貞山堀を作ったり、月の浦を整備したことの理由についてはいろんな説があって、最近新幹線に乗ったところ、「1616年に起きた地震の復興資金を集める為」などというものも出てはいましたが、やはりもっと大きく見なければいけないと思います。

これで幕府を潰そうとまでは考えていなかったとしても、西の佐賀までやってきて松浦や長崎方面の国際的大名がポルトガルらとの交易によって相当な利益を得ていることを見た政宗は、自分は東からヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)との交易路を開いて経済的な利益を得ようとした遠大な計画だったのではないかと思う次第です。そして、このような彼の計画の背後には、ヨーロッパにおけるポルトガルとスペインのいわゆるデマルカシオン(世界分割)が大きく機能しているというのもまずは間違いないのではないかと思います。やはり当時の人間は極めてグローバルな視点を持っていたということが考えられるだけでも大変面白い話ではないでしょうか。

さて、次回(5月24日)は、葉隠の戦いと、できれば三国志、諸葛孔明の語録の話しまで検討してみたいと思います。参加の方は嘉村までご連絡ください。嘉 村  孝 (℡03-3261-5860 fax03-3264-8456 kamura@eurus.dti.ne.jp)■武士道バーチャル博物館http://hagakurebushido.jp/ ■東方からの見聞録http://kamura-lu.jp/

9・11。そのときマンハッタンにいた

2011年09月11日 | お知らせです

eldiario news Paper ↑

写真の「12日」日付はヨーロッパから来たばかりで気づかずそのままだった。

ヨーロッパ、中東、東欧、北欧など42カ国を走り終えて、オートバイをニューヨークに船で送った。オートバイがつくあいだ日本に一時帰国しよう。とケネディ国際空港でユナイテッド・サンフランシスコ行9:15分に搭乗していた。飛んでいたらどうなっていたか。となりのニューアーク空港から飛び立った同じユナイテッドサンフランシスコ行はハイジャックされていた。全面ストップで7日後に日本に帰国一カ月後に戻ってきた。

そして一カ月後。現場はまだ煙が上がっている。オートバイが到着したので南米に向かって走り出した。

自由の女神と女性・なにを想う

なぜ、アメリカは攻撃を受けたのか、アメリカホワイトハウスとアメリカ人は考えているのだろうが、疑問を持つ。まだ力でねじ伏せようと考えているのではないか。イラク攻撃(戦争)では大量破壊兵器・アルカイダとの関係もなかったと認めた。イラク国民やアメリカ兵の犠牲者に対してどう責任をとるのか。

責任取るどころかイラク攻撃・大量破壊兵器は「ある男(個人)」からの「情報だった」と言い訳しだした。アメリカは個人情報で動く国防省なのか。ごまかすんじゃない。またパキスタンの国に無断で入り込み「ビンラデン」を殺した。イラクもパキスタンも独立している国である。その国の人たちが決めて行くことが民主主義ではないのか。

民主主義の国と標榜しているアメリはうぬぼれていないか。これがテロを作りだしている原因ではないか。アメリカ人の旅する国はだんだん狭くなっていくことを実感する。カナダの若い女性が「アメリカは王様」と思っているからと話したことを「ほんとに」理解できる。アメリカ・ホワイトハウスの考えは逆算すればシナリオがわかるように最近なってきた。

ブッシュ元大統領・小泉元首相の「罪」のことについてはのちほど述べたいと思う。

 

2001年9月11日のこと

「9・11ビル爆破事件」 

2001年9月11日火曜    はれ    快晴

 ニュヨークマンハッタン・ユースホステルを朝5時半頃ケネディ国際空港に向かった。ヨーロッパ、中東、東欧、北欧など42カ国走ったあとオートバイをオランダからニューヨークに船で送った。オートバイが到着するまでの間約一年ぶりに一時帰国するためである。

 

きのう10日は午後すごい夕立になったがきょうは朝から快晴である。地下鉄Aライン電車に日本人スチュアーデスの人が前の座席に座っている、ロンドンに向かうと話す。夕べはオタワ州に向かうとゆう日本女性は寝過ごすかも知れないので眠らないでテレビ室で朝まで過ごすと話していた。ここのユースホステルは600人ぐらいtoまれるらしい。日本人だけでも30人ぐらいは泊まっていた。

 

ケネディ空港の駅についたことをスチュアーデスさんが教えてくれた。駅前のでかい駐車場をぐるぐるまわって飛行場に7時過ぎについた。カウンターで9時15分発ユナイテッド・サンフランシスコ行き(乗り換え)一番うしろの座席をとった。翼の上に座った時陸・海をなんにも見れなくて到着まで退屈で苦痛を感じた。それからは飛行機からいつも景色を眺められる一番うしろの座席とっているので今回もそうした。

 

よしこれでアメリカの道路や風景を眺められるぞ。8時40分ごろ機内に入る。夕べあまり寝ていないので眠い。9時15分出発時間をとっくに過ぎて9時40分頃なっている。遅れることはままあることなので気にしない。なんか「機内放送」しているがまったくわからない。二回目の機内放送で「ハイジャック」だけ聞きとれた。でもこの飛行機じゃないから関係ないだろうと内心タカをくくっていた。

 

しかし、満員の乗客は携帯電話で機外と連絡しているようであっちこっちで身振り手振りで周りの人と話している。その内機内から全員下ろされてロビーに向かった。ロビーにあるテレビ二台に乗客が群がっている。そのテレビを見て驚いた。高いビルの上層部から煙が出て燃えている。そのビルの隣のビルに突っ込んでいく飛行機が映っている。「あーこれは戦争になる」と一瞬頭をよぎった。

 

ビルに次々突っ込んでいく飛行機の映像が繰り返されていた。乗客の中から「BBC,BBC」とチャンネルを変えるような男の声。信用できるチャンネルなのだろうか。ビルが崩れる瞬間テレビを見ていた女性は頭を抱えて「オオー」と泣き崩れた。空港内にあったネットや電話はすべて満員。空港は「全面閉鎖」になり空港から「シーシー」とゆう感じで追い出された。

 

ちょっと「おれの航空券はどうなるんだ」だれもチケットのことなど聴いている人はいないようだ。仕方なく空港の外に出た。空港の目の前にはビル爆破の黒々した煙が長くなびいているのが見える。バスで避難するのだがどこに行けばいいのわからない。取り残される前に「とにかく乗ろう」あまり混んでいないバスに飛び込んだ。住宅街を走り、幹線道路は走らない。どこに向かうのかまったくわからない。

 

1時間ぐらいして終点についた。さてここはどこだろうバスターミナルのようだがまったく見当がつかない。「地下鉄の地図」を見せてもわからない。○○で番に乗って行けとか教えてくれ、うろうろしていると日本のおばさんが黒人の女性に二人に連れられて「助けてやってくれ」みたいなことを言われる「あんた、日本人ね、あーよかった」すぐに九州の人とわかる。わたしの佐賀弁にそっくりだ。

 

わたしの田舎佐賀・嬉野の隣佐世保の人だった「どうしたんですか」娘さんと一緒にきたが娘さんが具合が悪くて病院に行ったら「入院せよ」と言われた。(話せば長いので省略)その病院に戻りたいと話す。飛行場に行けばわかると話す。おばさんにきょう何があったのか知ってますか「知らないと言う」。実は今日ビル爆破事件があって地下鉄も飛行機もすべてストップしているんです。

 

バスの運転手さんに「ケネディエアーポート」まで「乗っけていってくれ」と頼んだ。運転手さんは「うんうん」とうなずいてくれたがはたしてうまくいってくれるか、心配だ。人のこと心配している場合じゃない。自分の今いる場所だってまったくわからないのだ。しかたない、またしてもどこに行くのかわからないバスに乗り込んだ。バスの中年の乗客にこのバスはどこに行くのか聞いた。

 

地下鉄の終点に着くとか教えてくれた。まぁいいや。そこまでいってから考えよう。今度も一時間ぐらい乗ってついたところは地下鉄の終点、プロ野球場があるところだった。朝から何も食ってない腹へってトイレにも行きたい中華街みたいの店でホッカホカ弁当みたいものを買って食った。不思議だったのはバスの中で事件のことなど話題にならないようだ。

 

あれだけの事件だったら日本では知らない同士でも「ひそひそ話」を必ずするのにそのような雰囲気がまったく感じなかった。国民性の違いだろうか、とても不思議であった。きょうは全面ストップなので早目に泊まるところを探しておかなければと泊まれないとホテルを探す。もう4時になる。立派なホテルは満杯、値段は聞かなかったが、おそらく2万円はする高層ホテルだった。

 

そこのホテルに安いホテルを聞いてみた、500mぐらい先にあると、そこに行くと「満杯でダメ」「アーアー」と思っていたら夕方6時に来いと話す。荷物を預けてもいいとのことで荷物を預ける。地下鉄が動き出しているようだ。ここは終点の駅のようだ。ホームに上がるとビル爆破の煙が見える。現場まで行ってみよう。電車の中で若い人にビル爆破の現場はどこで降りた方がいいのか聞く。

 

電車は途中の駅でストップ。そこからバスに乗り降りた。バス代は乗客の人にカードで払ってもらった。ありがたい。今度は歩きで現場をめざした。現場まで歩く人はそんなに多くはない。現場から帰る人と行く人はおなじぐらいの人だった。両サイドのお店はガランとしている。教会と思われる入り口にはテーブルの上に紙コップをな並べて給水のボランテァ活動しているところを二か所みた。

 

黒煙をめざして歩く。現場についたロープが張られていてそれ以上進むことが出来ないようになっている。パトカー、救急車、消防車など走りまわっている。肩に載せて映像を撮っているTV報道陣。マイカーから降りて逃げたと思われる車の上や道路には白いプアスチックを削ったようなほこりが10センチぐらい積もっている。夕日に照らされたビルとその陰のあいだに真っ黒に煙をあげているのが見える。

 

消防車がそばに止まった、ガスボンベを背負った消防士は現場に向かうのだろう地下鉄の出入口から入って行く。手話を使っている聴覚障害者の人とは「日本から来た」と少しだけ話した。30分近くいただろうか。どうして起きたのかわからないままホテルに戻った。「エー120$=約1万5千円」もするの!。あーしかたないか。ここは韓国系のホテルのようだ。

 

しょうがない料金は「カード」で支払う。部屋に電話はあるが日本にはかけられない。外に出てガマンしていたビールを飲みながら晩飯とする。朝早くから長―い1日だった。疲れたなー。ホテルの窓からも黒煙が見えている。(この時煙はすぐにおさまり、飛行機もあしたは飛ぶだろうと考えていたが飛行場は16日再開・ビル爆破の煙は1カ月以上立ちのぼっていた)

 

日本には16日帰国。一年ぶり自宅に帰り自慢したい「旅の話」などしたかった。しかしビル爆破ですべて吹っ飛んでしまい打ちひしがれてなんにも話する気にならなかった。10月15日再びニューヨークに戻りオートバイの旅を続ける。

 


放射能・どうもわからん「わら」のはなし・魚は大丈夫なのか

2011年07月22日 | お知らせです

牛が食った「わら」が原因で肉が放射能を浴びているとのこと。今年の「わら」はまだ田んぼの中で育っているはず。

だから去年の9月か10月に刈り取った後のわらだとおもうが。どうして放射能をあびているのか、わからないなー。

3月11日以降まで田んぼにに置きっぱなしだったのだろうか?どうなっているのだろうか。

どこの各テレビ・新聞も疑問を待って報道してくれないから一層わからない。少しは考えてから報道してほしいものだ。

「わら」が放射能を受けているとしたらそれこそ「ほかの植物」だって当然放射能を「浴びている」ことは「確実で」避けられないはず。何か抜けている「報道の仕方だなー」と不思議に思うよ。

3月11日以降少しも進んでいない東京電力のいい加減な報告を聞いていると放射能を海に「垂れ流して」いることは明らかではないかとおもう。

「海の魚」のことはもっと深刻ではないのだろうかね。あとから「放射能漏れてました」ではすまされないぞ。

200km離れた静岡のお茶でも問題あったし、そのあとどうなってんだか報道もないし、なんだかだまされているような気がする。

全国で放射能の検査を続けてやってほしい。

東京電力は本当ことを話さないとこれからどうして暮らしていくのか対策だってたてられないので不安でしょうがないよ。

 


どうしても許されない原発と冤罪の二つ

2011年05月27日 | お知らせです

その①

 人間ロボット化とした東京電力の人間はまだわかっていないようだ。人を殺しても自分の身にかかわらないので「福島原発の実情の解説は「それなりに」「いいわけの会見」さすがのロボット人間だ。

しかし、現状を報告してもしてもなぜ「こんなことが起きたのか」「原因」をつかんでいないのではないか。つかんでいても東電の社員として「言いたいこと」を「言えない雰囲気の会社ではなかったかのか」決定的な「原因が見えてこない」現状だ。

会社では「言いたいことを言ったらあしたから来なくていい」と言われる恐ろしさ、それが全体に広がっていく。そして最後の原発事故爆発を招いたのだった、違いますか。

普通は「働く人のため」「不満」「不安」をなるだけなくすために「労働組合」はあるはずなのに「東電組合は」違った。

東電「労働組合」は会社の代弁者として社員を苦しめてきた。長い時間をかけて会社員をおかしいとと思っても不思議と疑問を持たないように仕向
けて行く。おかしいと思っても、ものが言えないのである。ここから人間ロボット化が始まる。

今回の「東電・労働組合」は会社を残すためにどうするのかと政府に働きかけている。何を考えているのか「ロボット労働組合」。

いま労働組合としてやらなければならないのは「思っていること」を「職場で自由に言える」雰囲気作りなのでなないのか」何を考えているのか。しかし組合を変えようと一人ぐらい、いや二人ぐらいは立ちあがってしい。で、なければ再建はない。

東京電力はここまでくるのに「違う意見の人間を」「ことごとく排除して」きた事を述べよう。約30年前「人間らしく生きよう」と学習しようと働きかけた東電の仲間は車の中で「学習した」会議室など借りるなど認められない。

それを嗅ぎつけた東電会社は一日中あとをつけて夕方「学習」しようと集まった仲間の車さえ後ろからつけまわしてきたのである。違いますか。会社の考えと「違う意見を」徹底的に排除してきたのである。

なぜなら「原発開発推進」を進めることが第一使命だった。しかしどうだだろう。違う意見を受け入れなかった「東京電力」そして「東電労働組合」の結果がこのこのありさま
。まさに上からの指示、通りに動く「ロボット人間」の集まり「東電社員」「労働組合」のたどり着いた完成品がこれだ。「死に体」。

その2
無罪の人を捕まえて「めし」くっている警察・検察・
裁判官がいる。金返せ。

またもや免罪府川事件が無罪になってよかった。無罪の人を捕まえた警察・起訴した検察庁、そして裁判官。

40年間牢屋に入れたこの事件。この事件にかかわった警察官・検察官、裁判官は
このまま黙ってすまされるのか。ふざけるんじゃない。

このほか免罪で最近無罪になった足利事件の菅谷さん。村木さん事件、わたしが知っている白鳥事件も冤罪なのである。このほかにもいっぱいある。

わたしが思うのに免罪事件にかかわった警察官・検察官・そして裁判官を始め最高裁判官も牢屋に入るべきである。せめて半分の期間は牢屋に入るように法律を作りかえたいと強くおもう。で、なければたったものではない。

無実の人を捕まえて何十年間も牢屋に入れてその間賃金(給料)を得る行為は許されない。結果は無実「ごめんなさいでは許されない」。無実の人を捕まえ取り調べた警察官・検察官・裁判した裁判官・最高裁判官のその間の賃金を得る行為はどうなっているのだろうか。

とうぜんかかわった期間の警察官・検察官・裁判官の賃金(給料)は返還されるべきもので即没収されるべきものと考える。詐欺以上ではないのか。

一体無実の人を何人殺してこれからも何人殺すのであろうか、おかしな世の中だ。いまの実情に合わない取り調べはやめて全面ビデオ、録音で全面可視化して隠す必要はないはず、警察・検察・の横暴を許さず裁判官(特に最高裁判官)は自分の頭で考えるようにして誰でもなるほどと納得できる取り調べや裁判を実現させたい。

警察・検察・裁判官がすべての人が体たらくではないことはもちろんわかっている。

 




被災地・南三陸町にボランテア

2011年05月22日 | お知らせです

屋上に車、屋上に船も

 

市内一号のお店と店員さんの話しだった。セブンイレブン

がれきの中に元建っていた敷地に代用車で店オープン

ここのほかにコンビニ・ローソンの二軒だけが営業。

 

テントでばんめし 。豆腐、キムチコロッケ、唐揚げ、

自宅から安いビール500m(117円)12本

 

南三陸町スポーツ交流センター

 

臨時キャンプ場。最初3張りから9張りに増えた。

 

臨時南三陸町役場

 

被災地南三陸

 

1m以上地盤沈下しているとか

 

青い海、おだやかな海に戻っているがうみはこわい

 

ねこそぎにかげかたちもない津波の恐ろしさ、南三陸町

 

元の防災センター(茶色)鉄塔につかまって5,6人助か

ったとか。

 

拾い集めた写真の整理作業

 

写真を28日に被災者わたすための作業。廊下に張り出

した。

 

自衛隊の「火の国温泉」いいお湯だった。地元の人とも話

しができてよかった。   

 

 

被災地・南三陸町ボランテアでいきました。

5月18日水曜

残り40kmぐらいで行きどまりの看板。Uターンして浜の方面に迂回しよう「こっちじゃないよ」と地元の人。ここは山があったから大丈夫だったけど、山の向こうにある海辺の学校では160人のうち20人ぐらいしか残らなかったと、かなしい話を聞いた。

  

南三陸についたようだ山あいから海に向かって下って行く。津波のつめ跡がこんな山間まで襲っている。市内についたガソリンスタンドが営業している。がれきの中でも骨組みだけの鉄骨の下に「営業中」の看板。従業員の人12人3月11日当日津波警報で全員山に逃げて無事だったと、しかし目の前の家は土砂に流され土台だけ残った家の人、隣りの病院では60人ぐらい、50mの範囲で100人以上亡くなったと話してくれた。

 

  ボランテアは朝9時から受付とスタッフ。がれきの撤去、拾い上げた写真の洗浄、その写真の整理など仕事はあした指示しますとのこと。簡易・テント指定場所は道路のそば。草刈りのあとで快適な感じである。テントはわたしで3人目。お店はコンビニ「ローソン」この一軒だけのスーパーの代りようだ。コロッケ50円×2.鳥の空揚げ100円、豆腐一丁105円、キムチ105円、缶詰105円、トータル500円。

 

 5月19日木曜

 道路は部分部分「ガレキ」を片付けられている中を進む。息をのむとゆうことはこのことだろうか。申し訳ない気持ちだがこれは誰にでも見てもらいたいと強く思う。なにかを訴えている。だれでもなにかをつかむことが出来るのではないか。「海岸は美しくていいなー」とわたしはこれまでづーっと見てきたがなんだか怖くなってきた。日本の海岸で暮らしているみなさんには津波に警戒してほしいと思う。今、青い海、おだやかな波、美しい海に戻っている。しかしなんだか不気味に感じる。

 

なにもかも押し流してしまった。

 

満潮時には海水がたまる市内一軒だけのスタンド

12人全員逃げて無事だったと聞いた。

 

仮設住宅も急ピッチで竣工

 

 

ボランテア本部

 

被災地を見て想うこと。

三度目の犠牲者を出してはいけない。特に子供の命は絶対に守る設備を造ってほしい。本四架橋を造ったことを考えればその造成地をつなぐのはむずかしいことではない。陸と陸、山と山を風の当たらないように削って橋でつないで途中には大きな広場を造ることも可能ではと思う、最後は案心して住める住宅広場にして目を見張る「おっと」日本中、世界でも驚く陸の竜宮城を実現してほしい。

 

「文字数が多い」と投稿できず、はしょりました。

2011年5月20日


ほとんどボケたおそまつ写真展ですが

2011年04月16日 | お知らせです

5月1,2,3,4,5日写真展を開きます。「エコギャラリー新宿」入場料無料です。http://www.shinjuku-ecocenter.jp/facilities/access.html

「上野さん綾子おばさん偲ぶ写真展」と「オートバイの旅102カ国・28万km松尾清晴写真展」合同写真展です。

上野さんはアルゼンチン・ウスアイアで日本人宿として長い間宿を提供されてきました。御主人は2002年5月に亡くなられ奥さんの綾子おばさんは去年2010年4月に亡くなられました。お二人の「写真」を展示致します。

5月3日16時~18時「上野さん夫婦を語る会」終了した後新宿甲州街道「さくら水産」で「偲ぶ会」を行います。

「オートバイの旅102カ国・28万km松尾清晴記録写真展」も同時に開催致します。

わたしのはほとんどボケた写真で、それもラミネーターで挟んだだけ。時にはこんな「写真展」もいいのではないかと開き直り自分を慰めながら進めています。

よかったら寄ってみてください。

http://baikunomatsuo.sakura.ne.jp/

「バイクの松尾」ホームページです。

または「バイクの松尾」→検索・をおねがいします。


被災地・南相馬市に行ってきました

2011年04月03日 | お知らせです

被災地・南相馬市役所

電動バイクを提供された「オリエント」社のおぎすさんとスタッフ(黒の上着)と受け入れの南相馬市の職員

「集団避難先受け入れOK]嬉野谷口市長のメッセージを届けました

福島原子力爆発で動くに動けない被災地南相馬市に行ってきました。

きのう4月2日地震・津波・それに原子力爆発20km~30km
範囲で動くに動けない南相馬市に電動スクーターを提供される

「オリエント」の代表者おぎすさんとスタッフと

佐賀・嬉野市からの被災地に対する「被災お見舞いと集団
避難先受け入れ準備OK」の手紙の依頼を受けた嬉野市出
身・わたくし松尾の3人で向かいました。

初めて顔を合わせるオリエントのおぎすさん、朝6時半に
北浦和駅まで来ていただき便乗させてもらいました。

東北高速・郡山近くになったあたりから地震の影響を受け
補修した跡は段差が出来ています。二本松で下りて南相馬
市へ。お見舞いか、帰省なのか土曜日のせいか車の往来は
多かったです。

原子力爆発の影響で避難命令が出ている、双葉町・浪江町
に向かう道は通行止め。迂回して回り道。放射能が多いと
報道されている飯館村を通過。

雪が残る峠を超える。南相馬市に入る手前30kmと思わ
れる地点で警察による検問所で一時停止。

11時ごろ南相馬市役所に到着。おぎすさんたちが用意した
電動スクーター2台のほか、灯油、トイレットペーパーなど
ネットで「何が」足りないのかを調べて(さすがです)用意
したと話していた荷物をおろして市役所の人に渡しました。

そのあとわたしも「嬉野谷口市長」から依頼された手紙を渡
しました。「嬉野市の気持ち」が少しでも伝われればと思い
ます。

市役所の人たちも全員マスク、ものも言えない忙しさ。市長
さんももちろん「外出している」と市長室に掲げられている、
事前に連絡はしていたのですが応対に出てきてくれた人も忙
しい中対応して頂きました。

屋内退避地区の南相馬市役所には地元の人5,6人が訪れて
いましたが市内には歩いている人を見かけません、商店も
ガソリンスタンドも閉鎖中でした。市役所の玄関に被ばく
を少しでも防ごうと水ががまかれてマットが敷かれていま
した。

市役所周辺での被害は屋根瓦が崩れていて青いシートをか
ぶせているところもありましたが崩壊している家は見かけ
ませんでした。

電動スクーターを提供されたオリエントの人たちは貿易中心
の仕事です。海外で仕事する事が多いのです。自分では大丈
夫だと思っていても日本から「外国」に向かったその時、その
国で放射線の検査を受けて「入国できない」人たちも出てき
ていると聞きました。

日本でもよくやっているごく僅かなマリファナ所持者でも摘発
する窓際作戦と同じでその国の使命でもあるのです。
物は微量で小さくとも敵は見えない影響力のある放射能です。

ワゴン車の座席には保護ビニールシートを敷き、おぎすさん
たちが着ている上着は帰ったら上着、ビニールシートなど
廃棄処分すると話されていました。自分の事は自分で守る。

なるだけ被ばくしないように少なくて済むようにしていました。
大したことはないだろうと思っていましたが、横浜など大型旅
客船は被ばくを避けるため立ち寄らないなど国際的にはおおごと
になって来ているようです。

わたしは自分の危機管理の甘さに反省させられました。
そのようなわけで被害の出ていると思われる海岸通りには
行くことはしませんでした。

おにぎりを3人分9個作って持って行きました。行き帰り
トイレ一回だけ、それ以外車から出ることはなかったです。