松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅49 ウズベキスタン~タジキスタン

2013年05月25日 | 赤道直下と陸路国境148か所

ウズベキスタンからタジキスタンの国境についた・・国境係官やら地元の人たちがあつまってきた。

タジキスタン周辺のオートバイで走ったルート地図

タジキスタンに入国。
2003年9月19日金曜 はれ20℃ はれ30℃ 30℃はれ 32℃
8時過ぎにホテルを出た。国境まで30キロ、国境についた。どこでもそうだが人の流れが出来ている。しかしそんなには人は多くない。係官なのか地元の人なのかオートバイの周りに寄ってきた。ウズベキスタン出国手続きは簡単に終わる、レジストレーチャーの提出もなし。泊まったと言う「証明」を毎日ホテルで書いてもらっていたのになー・・必要なかった。タジキスタンの入国手続きへこれで両方で30分ぐらいですみそうだ。

と思いきや、タジキスタン側は3~4カ所回されて最後20分以上待たされた。その間地元の人と思われる人たちは・・歩きでぞろぞろ出ていく人、入っていく人・・平行棒の鉄棒の柵の中を歩いている。結局1時間10分かかった。9時32分→10時40分。国境が変われば地形まで変わるはずはないのにいつも見知らぬ国に入ったばかりはやっぱりどきどき緊張もする。そしてあたらしいことを期待する気持ちも出てくる。


ここタジキスタンに入ったら一面「綿畑」・・最盛期で家族連れで収穫していた。道路にも白いワタがこぼれて・・それを拾って歩く人もみかけた。

日本ではほとんど見なくなったがタジキスタンでは「綿(わた)作り」が盛んのようだ、キルギス、ウズベキスタンも盛んだった。家族で収穫作業をしている畑が多い。中腰で腰も痛かろうと思う。今が最盛期なのかワタを山積みしたトラックが行き交う。道には白いワタが落ちていて、それを拾っている老人も見かけた。道路はきれいな方で案心して走れそう。60キロで首都ドウシャンベについた。

こぎれな街、アーチ型のモニュメントが出て来たここら辺が街の中心か。ジープを運転していたイキな兄ちゃんに「ホテル」「ホテル」と聞いてホテルまで引っ張ってもらう。どうもありがとう。フロントに入って料金「いくら」「3$~5$=400円600円」と話す「安いな」3$と思って「OK」した。しかしどうも様子がおかしいよく聞いてみると「30$=3600円」だったのだ「オ―ノー」。

いったん荷物を部屋に運んでいたので荷物を部屋から出してオートバイに積み替える。フロントにこの近くに「安い」「ホテル」はないか「10$」と紙に書いた。すると同じこの3階にあると話す。エーこのホテルにあるんだ。指定された3階に再び荷物を部屋に運びこむ。いったん降ろした荷物・・あー重い。きょう国境越えてここまで来る間、岩山は木のはえない灰色、砂漠もあった。その向こうには雪山も見えていた。

いまの気持ちは奥まった山間地方に入り込んだ気分になっている。ホテルの前に焼き鳥を売っていたのでビールといっしょに買って部屋で飲む。地元の人も店の人も気持ちは根っからやさしいように感じられる。


タジキスタンの首都ドウシャンベの中心と思われるに到着。

9月20日土曜 はれ 暑い はれ
てっきり金曜だと勘ちがいしていた、金曜なのにどうして銀行は休みなのかと・・(イスラムは金曜が休み)。きょうは土曜日なんだ。でも修理工場は休みでなくてよかった。ボックスの軸が折れていたので9時に修理屋を探して溶接屋に来た。セントラルからちょっと外れた場所にあった。1時間ぐらいで溶接してもらい元に戻ったがまたいつ折れるか心配だ。ホテルに戻って街なかを散歩、郵便局が開いている切手を買おう。ノートをめくるしぐさで「ちょっといろいろの切手を見せてくれ」・・すぐに通じた、笑いながらリーフを見せてくれた。めづらしい切手を選んで買った。

アーチ型のモニューメントを撮ったりしたあとオートバイで郊外まで走ってみた。すぐに水の流れが速い水路に出た。これ以上山に入ったら戻れなくなりそうだ。パミール山脈を走ってみたいが道が悪くてわたしのオートバでは無理だと言われる。それに日数もかかるのでウズベキスタンのビザが切れてしまいそうなのだ。それにしてもドウシャンベ市内は検問が多すぎる、中心街は数百mぐらいににポリスが立ってうんざりだよ。


葉隠れフォーラム・・・嘉村 孝 氏 主催

2013年05月21日 | お知らせです
Ⅰ 日時 平成25年5月24日(金)午後4時30分(会費500円)
Ⅱ 場所 〒102-0032中央区八丁堀2-14-4ヤブ原ビル 
℡03-3551-9335 株式会社アヅマ 3階会議室
(1階右側のエレベーターより3階。左側エレベーター4階より3階へ)

Ⅲ 今回のテーマ「三国志的戦いと葉隠」

Ⅳ 前回のご報告と今回への取り組み

前回は、「伊達政宗と葉隠、遣欧使節」と題してお話ししました。

伊達政宗は、文禄・慶長の役に伴い、唐津近郊の名護屋城に彼がやってきたことなど、葉隠とも様々な関わりがあります。名護屋城の城門が戦のあと仙台に運ばれて、第二次世界大戦の末期に爆撃によって焼失するまでは仙台城大手門として使われていたことも、その関わりの1つです。

葉隠の中には、例えばこんな話があります。伊達政宗がその頬を打った相手・兼松又七郎を「日本に隠れなき伊達政宗の頬を打った其の方は曲者に似たる者なり」と褒めて、それを黙視した小姓を切腹させたという話しです。ところが、この話し、もう少し詳しく書いてあるものとして「見聞談叢」があり、そこでは、単純に兼松又四郎(葉隠では「又七郎」)が頬を打ったのを、小姓が黙視したという話しではなくて、内藤左馬介の邸で能狂言の催しがあるときに、政宗も招かれ、つい臨席にいた兼松の膝頭を政宗が蹴ったことによって、兼松がその無礼に憤り、政宗の肩頭を後方から三つ、四つ打ったこと、それに対して政宗が「卑怯なり。それほど腹が立つのならどうして早く切らなかったのか」と兼松に迫って、今にも大事となるべき形勢となり、ようやく双方なだめて仲直りの杯を交わすことになったところ、政宗がその土器の酒を飲み干して、一節舞を舞い、「打て腹だに癒るならば、いくらも打てよ兼松め」と長く引いて謡ったところ、兼松は再び憤激して、全身ぶるぶると震えて手に持った土器を思わず2つに掴み割った、という話になっています。こちらのほうがよりリアルで面白いのではないかと思います。

さて、それはそれとして、当日もっと力を入れたのは支倉常長の慶長遣欧使節でした。天正の少年遣欧使節がいわば宗教に基づくものであったのに対して、キリスト教禁止令がひたひたと押し寄せてきていたこの時期、政宗は貿易上の利益を得ようとしてそのような派遣をしたということは間違いないところでしょう。

政宗がローマ教皇に宛てた文書、その他セビリアの主教に宛てた文書など沢山残っており、特にローマ教皇に宛てたものは非常に面白いものです。貿易のためならばローマ教皇に膝を屈してでもどころか、「五番目之はっは・はうろ(パッパ・パウロ)様の御足を、於日本奥州の屋形伊達政宗、謹而奉吸申上候。」などと、何が何でも貿易を始めたいという意志が極めて強く出ています。180人もの人間を送るような大事業をどうしてしたのか、またそのための土木事業として貞山堀を作ったり、月の浦を整備したことの理由についてはいろんな説があって、最近新幹線に乗ったところ、「1616年に起きた地震の復興資金を集める為」などというものも出てはいましたが、やはりもっと大きく見なければいけないと思います。

これで幕府を潰そうとまでは考えていなかったとしても、西の佐賀までやってきて松浦や長崎方面の国際的大名がポルトガルらとの交易によって相当な利益を得ていることを見た政宗は、自分は東からヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)との交易路を開いて経済的な利益を得ようとした遠大な計画だったのではないかと思う次第です。そして、このような彼の計画の背後には、ヨーロッパにおけるポルトガルとスペインのいわゆるデマルカシオン(世界分割)が大きく機能しているというのもまずは間違いないのではないかと思います。やはり当時の人間は極めてグローバルな視点を持っていたということが考えられるだけでも大変面白い話ではないでしょうか。

さて、次回(5月24日)は、葉隠の戦いと、できれば三国志、諸葛孔明の語録の話しまで検討してみたいと思います。参加の方は嘉村までご連絡ください。嘉 村  孝 (℡03-3261-5860 fax03-3264-8456 kamura@eurus.dti.ne.jp)■武士道バーチャル博物館http://hagakurebushido.jp/ ■東方からの見聞録http://kamura-lu.jp/

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅48 ウズベキスタン~タジキスタン

2013年05月14日 | 赤道直下と陸路国境148か所

タジキスタンの国境はすぐだと思っていたがちょっと様子が違って走っても走っても国境につかない・・どうしてだ。


まっすぐ行くと国境アフガニスタン・テルミズ方面の標識・・タジキスタンの首都ドウシャンベはここから左に入る

ウズベキスタンからタジキスタンへ向かう
2003年9月18日木曜 20℃はれ 30℃はれ
夜中も仕事で働いているルスタンさん9時に帰って来た。朝食をごちそうになったあと、さータジキスタンに向かおう。気持ちだけでもとお金を渡そうとしたが受け取りは拒否される。家族の写真を撮ったあと10時に出発・・ほんとうにおせわになりました。朝から太陽の陽差しは強く照らしてくる。タジキスタン国境まで60キロぐらいだからすぐに入国出来るだろう思っていたが・・・道なりに走っていたのにどうも違うようだ・・。どうしたんべ・・ドウシャンベ。

400キロ走っても国境ゲートに着かない、どうしてだ。走るに走る。ベンジンを入れよう。交差点の大きなスタンドは閉まっている。少し待っていると開いた(開けてくれた)満タンに入れて進む。途中スタンドではないところでベンジンをペットポトルで売っている。開いているとこで補給しておかないとどうなるか不安だったので2リッター二本を買って走る。ウズベキスタンのベンジンスタンドはほとんど閉まっているのでひやひやしながらの走行だ。

砂漠の山岳地帯に入った。車は走ってこない。追い越す車もない。なんだか不気味な砂漠の岩山が続く。標識は真っすぐ行くとアフガニスタン・テルミズ。ここから左に入ってドウシャンベに向かう。直線になっている道路でアイスの水を売っている子供たち。なんだか小さい顔の日本人の顔に似ている子供たち。こんなところで売れるのかなー。ちょっと休みながら写真を撮らせてもらった。


砂漠地帯みたいなところで冷たい水を売っていた、タジキスタンに近いウズべキスタンのはずれに住む子供たち・・顔が小さくて日本人に近いかわいい顔(日本人に似ているじゃなくて日本人がにてるのか・・)

標識で見るとタジキスタン・首都ドウシャンベまであと100キロのところの「デノ」とゆう街についた。宿に入ってシャワーを浴びてすぐ食堂に行く。ホテルの一人がついてくる・・なぜだろう。ひとりの方が気が楽だからと帰ってもらった。二軒目のうどんや見たいな食堂に入る。地元の腹の出た中年がまとわりつき・・隣りに座る。言いがかりみたいな言葉を言っている。いやなので席を移りさけた。

食堂の人がなにかゆうが効き目がないようだ。「うるせ―なー」怒鳴った、するとおれの「胸ぐらをつかんだ」。ゴムゾ―リを脱いで裸足になった。片足上げて空手の姿勢で「カモン!」「お前の眼」を「えぐり抜く」ぞと「眼球を獲る」「しぐさ」を見せた。すると今まで威勢(いせい)のよかった太った男は突然両手を上げて「バンザイ」の形でおとなしく降参した。本気でけんかするつもりだった。どこにでも安い酒を飲むといばってからむ男がいるもんだ。まったく気分が悪い。


ほとんど民家がなくなり砂漠の中の道路になってきた

鉄人マラソンランナー楠田昭徳さん・・ベルギーで走る・6月初旬

2013年05月10日 | 赤道直下と陸路国境148か所

連続52日間走破・世界ギネス記録(当時)をつくった。楠田昭徳さん(最終日52日目は東京マラソン)


普段は別所沼公園でトレーニングしている

楠田さんはブログ(http://blog.goo.ne.jp/smile8404-2586)の更新を毎日やっている・・ついでにわたしの写真も載せていただいた・・その写真を拝借しました。


だいじょうぶなのかねー・・こんな自慢ばなしして・・
腹筋・拝金・・ちがう背筋・ものにつかまらず片足あげ1分づつ・1分って長い
んですよねー、腕立て伏せ・ステップ運動、高さ60センチ左脚が弱いから右よ
り回数を多くしている・・など準備体操・最近はストレッチとかゆうんだって全
部自己流で50分ぐらいやる

そして最後は目にもとまらぬ速さ(笑)・・3キロ(18分~20分)走って終わり。
家を6時に出て8時半ごろまで・25分かかって自宅に戻ってからがまた大変にがい
くすり(ビール)を飲まなきゃならない・・これがとてもつらいんです・・運動もア
ルコールも・毎日欠かさないで続けるってゆうことが(笑)・・・うぅーい。
運動するため呑んでるのか・呑むために運動しているのか・うーんこまった。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅47 ウズベキスタン・サマルカンド

2013年05月02日 | 赤道直下と陸路国境148か所


トルクメニスタン「ビザ」20日間かかった。
2003年・9月15日月曜 はれ はれ はれ
10時にハドラホテルの中にある「ヤスナミツアー社」に「トルクメニスタンのビザ」どうなっているのか確かめにオートバイで出かけた。永原さん夫婦の分はインビテーションがおりていると話す。社員をオートバイに乗せてトルクメニスタン大使館に向かう。11時になってもオープンしない。11時半になってようやく開いた。永原さん夫婦は一週間のショート「ビザ」、通過するだけだからこれでいいと話す。

わたしは一カ月間インビテーションをとりにヤスナミツアーまで戻り大使館に申請した。受け取りは17時と言う。その間靴の左を手当てして銀行に行く。そのままハドラホテル・ヤスナミツアー社に寄ってトルクメニスタン大使館へ17時「ビザ」を受けとった。
ついにトルクメニスタンの「ビザ一カ月」手にしたぞ―。9月25日から10月24日まで
トータル131$+45$=176$=21000円。ウーヘィ今までで最高の高いビザ料金だ。

「ビザ」申請して受け取るまで20日間かかった、これも最高の日数。これも旅のうちと考え直すしかないか。それにしても高けーなー。いつの日かソビエト時代の旧い切手、台帳になっていたものを街角で売っていた貴重な切手台帳本人が集めたもので手放すことに未練があるような顔。千円か二千円ぐらいだったと思う。わたしは切手のことはまったくわからない。

訪れたその国々の切手を買っているのは軽くてお金をかけなくても手に入るからだ。その台帳日本に送った。11830ソン=1200円。そういえばロシア・サンクトペテルブルグのネバー川の橋の真ん中の見晴らし台で売っていたのを3冊買ったことがある。20代と思われるろうあ者が売っていた。これも自分で集めていたと思われる切手台帳であった。疲れていたのだろう、そこで立ちごけしてしまったのでよく覚えている。

残念ながら女性宇宙飛行士「テレシコワ」さんはわたしが買った切手台帳では見ることが出来なかった。世界初の女性宇宙飛行士だから必ず「切手になっている」はずとは思っているが・・。実はボリショイ劇場に夫婦で来ていたテレシコワさんを見たことはある。控えめできれいな女性(ひと)だった。


個人で集めていた切手集を露店で売りに出していた、意外と安かったので買い求める

9月16日火曜 はれ はれ はれ
朝8時にハドラホテルに永原さん夫婦と待ち合わせ。二度目のサマルカンドに向かう。路上でスイカ売り、の写真を撮って・・チェックポイントを次々通過二回目だから気持ちは楽だ。ベンジンスタンドで給油しようとしたらようすがおかしい。「どうした?」12時から15時まで停電のため給油出来ないと話す。しょうがない昼飯食って、スタンドで用意してくれた敷き座布団を木陰に敷いて昼寝する。15時過ぎてもダメ・・。

少し走った所のスタンドでプールしていたベンジンを3人で7リッターづつ入れて、ガス欠になったら永原さんからもらうことにしてサマルカンドへ。何回かベンジンを入れて顔見知りになっているサマルカンド入口のベンジンスタンドについた。閉まっていたが特別に93オクタンカを入れてくれた。ラッキーだった。ほっとした。先週永原さん達がホームスティした家に向かう。

永原さんは「マツオの顔も見たい」ので「連れてこい」と言われていたとかでいっしょに連れて行ってもらった。ルスタンさんの家に17時ごろ着き家族みんなが喜んでくれた。広い玄関にオートバイを乗り入れる。大きな家で中庭には家庭菜園や花を植えられていた。ルスタン夫婦、おばあちゃん、長男高校生と長女中学生。二人ともおだやかでやさしい性格でうらやましい家族である。


永原さん夫婦とサマルカンドにむかう・・ガソリンスタンドは電気が来てなくて給油できない・・
仕方なく電気が来るまで3人は昼寝して待った。とうとう電気は来なかったのでいけるところまで走ることになる。


永原さん夫婦が前回来たとき泊めてもらった・・元ソ連のミグ戦闘機の整備士だったルスタンさん宅にわたしもお世話になる。

9月17日水曜 はれ はれ
ルスタンさんは片足が曲がらない。オートバイで事故って今もその後遺症が残ってる。しかし持ち前の気の強さは身体から感じることが出来る。もとはミグ戦闘機の整備士だったことも聞いた。今は川魚の卸しをやっているようである。オートバイのスプリングの修理をあっちこっち行って見てもらったがダメだった。昼間は森の中にあるレストランへ連れて行ってもらった。

広い池もありテーブルを木陰下に配置されたしゃれたレストラン。みどりさんは結婚式に呼ばれて家族といっしょに出かける。夕食は家族といっしょにごちそうになった。あしたはタジキスタンに向かおう。


みどりさんはルスタンさんの家族と一緒に結婚式に呼ばれて・・地元の衣装で盛装して出かけて行った。右二人は永原さん夫婦