松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

10月15日 松尾清晴 64才に!

2007年10月15日 | ルワンダ

ルワンダで迎えた64才の誕生日

1943年(昭和18年)10月15日生まれ
今日で松尾清晴64歳になった。

走り始めのオランダ、ニューヨーク、イラン
ネパールそしてルワンダで5回目の誕生日を
迎えたことになる。

人生もうあとがない、いつまで走れるんだろう
かね、10年後74才なにをしてるんだろうか
なんか、考えると恐ろしくなってくる。

豪華絢爛の食事をもう用意した。いつもより
トマト、たまねぎを多めにして、ピーナツ、魚
の缶詰もある。宿の部屋でひとり盛大に祝おう。
もちろんメデソン(くすり)ビールで。






10月14日 写真が入らない

2007年10月14日 | ルワンダ
今日14日で三日連続4時間~5時間続けて
ブログの更新を試みたがどうも写真がうま
く入っていかない。この辺でよしとしよう。

ご勘弁を!。

もうじきブルンジに向いますが、1994年
の虐殺記念館はキガリから南の方へ離れた所
にあるようなので寄ってみるつもりです。

うまく入っていかないとパソコンは
「あー疲れますねー」

10月12日 13日 虐殺犠牲者の子供 

2007年10月14日 | ルワンダ
2007年10月12日金曜 はれ
パソコンに日記の下書きと写真の縮小など午前中
いっぱいかかる。午後から、きのう「接続OK]と話し
たネットカフェへはしまっている。ウン?セキュリテ
ィの人に聞くと日曜まで閉まっているとのこと。
オーナーはイスラムなのかなー。

近くの別のネットカフェで13時から17時までかかっ
たがネットが中断して写真の貼り付けまで出来な
かった。あしたにしよう。

2007年10月13日土曜 はれ
ここキガリは朝方冷え込む、長袖を着て寝ている。
泊まっているホテルはトイレ、シャワーつきの部屋
になっているが水さえ出ないのだ。部屋を見たと
き蛇口をひねって確かめればよかった。

ポリタンクで水を運んでくるのである。頭を洗え
ないのでホテルを替わることにする。きのうホテ
ルを予約していたOKAPIホテルに9時にいく。部屋
が空くのは10時過ぎになるとレセプション。

その間「エンジンの音」と「パワー不足」が気にな
っていたのでホテル前のパーツ屋でプラグを見
てもらう。相当痛んでいたので新品と交換した。
6本=30ドル=3600円。これで大丈夫だろう。

最近出来た新しくきれいな5階建てホテルの部
屋が空いたのは12時近くになった。てっきり新し
い部屋に泊まれると思っていたら案内されたの
は別棟の平屋で古い建物だった。トイレ、水シャ
ワー付ではある。水が出るだけでもよしとしよう。

午後3時から7時までかかって、きのうの残り写真
の貼り付けをしたがどうもうまくいかないなー。
今日はこれまで「またあした」やり直してみるか。
帰りにスーパーによって晩飯用に、コンビーフの
缶詰、パントマト、たまねぎを買う。ビールは隣の
小さい食堂で買う。

<ここにも1994年犠牲者の子供>
となりの食堂で昼間ビールを飲んだ。店には男性
と女性がいた。30歳ぐらいの男性は店の人だろ
うか。私の年は「いくつだ」と聞く、「63歳」と答え
る。あなたの年は「いくつ」と女性に聞いた。

「25歳」と男性が教えてくれる。最初女性を見た
とき35歳ぐらいかなーと思った。「ファザー、マザ
ー」はと聞くと「両親亡くなった」と。「1994年か」
「そうだ」年より老けて見えたのは幼い12歳頃か
ら苦労して過ごしてきたからなのだろうと思う。

女性の「両親と兄弟も殺されたのだ」と男性が話
した。ルワンダには親、兄弟を失った人たちが相
当いるのではないか。なにしろ50万人とも100万
人とも言われる虐殺が短期間で行われたのは13
年前「1994年」のつい最近のことだ。

多数派フツ族が少数派ツチ族への虐殺は「ホテル
ルワンダ」の映画が日本でも上映されているとメ
ールで教えてくれた。わたしはほんとうのところ
詳しく知らない。ドイツヒットラーしかり、おろ
かな人間たち。

私たちは殺されるため、殺すために生まれてき
たのではないのだ。

10月11日 ルワンダの首都キガリにつきました。

2007年10月12日 | ルワンダ

ルワンダに入った直後地元の人たち


こんなに立派な角になりました。ルワンダ

2007年10月11日木曜 朝くもり 昼はれ
ルワンダの始めての朝。今日やらなければならない
①銀行でお金を下ろす②ブルンジの大使館を確かめ
る、二つである。

ホテル前に出て地元の人にバンクは「何時に」開くの
と聞くと「8時」とのこと。それじゃもう「開いて」るね。
ホテルの人が時計を見せて「ルワンダ時刻」は一時間
遅くなってるのだった。

散歩がてら銀行に歩いて行く、二件の大きな銀行のう
ち一軒目はカードを使えない。二軒目もATMカードを使
う器械はないが窓口で下ろせる。しかしシティバンクカ
ードではダメだった。「マスター」か「ビザ」カードで下ろ
すことになった。

米ドルが少なくなったので600$米ドルを下ろした。その
内の100ドルを「町の両替屋」で交換した方がいいとそこ
の銀行員は教えてくれる。とりあえず米ドルを確保した
ので少し安心できる。

ブルンジ大使館をオートバイタクシーに聞くと市内から
5kぐらい離れた所にあるらしい。宿に帰りオートバイタ
クシーの後ろについて行く。キガリは丘陵地帯にある
ので上り下りの連続である。周りの丘陵地帯にも住宅
が建っている。

丘陵を登りくだり住宅地の中にあるルワンダ大使館に
ついた。ここは車はそんなには多くなく静かな中堅都
市と言った所だろうか。いつものようビザ申請書には
名前、パスポートナンバー以外ひらがなで記入する。

なんてかいてあるのでしょう、わかりません、こまりま
した、ここもわかりません、どうかよろしく、おねがいし
ますなどと全部ひらがなで記入した。「フランス語」
かと係官、イヤわたしは「ジャパーニーズ」しか「書け
ないんです」すみません。

イヤーな顔で受け取ってもらった。パスポートの発給
受け取りは午後3時」「いやすぐにほしい」その時笑顔
の責任者みたいな人が来た「すみません」いったん帰る
とここまで「戻って来れない」ので今スタンプを「お願
いします」必死に合唱ポーズ。

どうなるのか心配しながら現地の人5,6人と一緒にロ
ビーで待つ。20分ぐらいしてビザのシールを貼ったパ
スポートを返してくれた、ありがたい。

責任者の部屋まで行き胸をなでおろすポーズで「あり
がとうがざいました」とゼスチャーでお礼をした。
受付の人にも同じポーズをして宿に戻る。

パスポート一ヶ月ビザ代=40$=5000円現地通貨
はダメである。オートバイタクシー700ルワンダフラ
ン=175円。ついでにビール750リットル800
RF=200円、晩飯セット1600RF=400円ぐらいかな。

ルワンダ 首都キガリ市内

キガリ市内

夕方昼間見つけていたネットカフェに自分のパソコ
ンをつなげて貰えるかどうかを聞きに行く。「大丈夫」
とのことなので明日12日に来ますので「よろしくと」
頼んでかえる。

帰る途中「彼のことが」気になった。11日キガリに着
いた、その日の夕方レストランを案内してくれた青年
のことを。二軒のレストランを案内してくれた帰りに
「ファザー、マザー」はキガリに住んでいるのと聞い
た「二人ともなくなった」「1994」このとき二人とも
亡くなるなんておかしいなー

若くして両親はなくなったんだー、彼はまだ25歳ぐ
らいだから幼い頃なくなったんだーぐらにしか、そ
の時は思わなかった。部族の争いで100万人と言
われる大虐殺があったのは1994年。13年前で
あったことは知っていた。阪神大震災の3年前のこ
とである。最近のことなどである。

歩きながらフッと「アーそうだったんのか」彼が
「1994」と言ったのは大虐殺のあった年なのだ。
どのようにして連れ去られたのか、自宅で殺され
たのかはわからないが彼の幼い心に大きな傷を
残していることは間違いない。彼とはそれっきり
会っていない。




10月10日 ルワンダに向って

2007年10月12日 | ルワンダ

赤道の下で暮らす人々


ルワンダへの道

ルワンダの国へ
2007年10月10日 水曜 はれ朝20℃ 昼30℃
ムバララのホテルを7時10分出る。一路ルワンダ国
境カバレKabaleの町に向う。道は心配しなくていい
ようだ平均60kmで走れる。アレーこの道でいいの
だろうかと一時心配したがカバレの町から10kぐら
い走ったところに国境があった。

ここまで山をどんどん上ってきたところが国境だ
った。トラックが長い行列を作っている、その行列
を追い抜いてウガンダの出国手続き。ルワンダの
入国手続きも難なく終わる。10時半について入国
したのは11時半と早かった。これで92カ国。

赤道の下で暮らす人々ここでバナナを買いました。


赤道の下の子供たち

ウガンダの首都キガリKIgaliまで80km。国境を出
てからは小さいカーブの道になる、時々ダートの
道になったりするが心配入らない60kmで走れる。
高い山からだんだん下っていく、亜熱帯植物の茂る
周りの山の斜面にはバナナ畑が続いている。


ウガンダとルワンダの国境に着く

自転車にバナナをどっさり積んで走っている人、坂
を押して登っていく現地の人たち。ルワンダに入っ
てからなんとなく気持ちが楽になったように感じる
走っているトラック、車からも「ゆずりあい」の気持
ちが伝わってくる。

国境を出て左側に止めて写真を撮ろうとしたら「ダ
メ」だと注意される。ここは右側通行なのである。
「すみません」。アフリカではエチオピアが右側だっ
たが運転はしなかったのでルワンダが始めてにな
る。

ルワンダの首都キガリKigaliniに13時半ごろ着いた。
朝出てから緑の山を畑の中を気持ちよく走ってきた。
2軒目の安いホテル一泊6000ルワンダフラン=150
0円に泊まる。オートバイは玄関前の路上、オートバ
イの回りは地元の人がいっぱい集まっている。

10月9日 赤道直下越えてルワンダへ

2007年10月12日 | ルワンダ

赤道直下に到着。2mほどの丸いモニューメントが
両サイドに建ててあった。赤道直下に家があるのも
珍しいのでは、、。

赤道越えて南半球 ルワンダへ出発

2007年10月9日火曜日 朝22℃ 昼31℃夕方20℃
朝6時に起床、出発の準備7時には空がパッと明るく
なる。まずまずの天気7時30分ホテルを出る。きのう
市内からルワンダに向う幹線道路を確認していたの
で楽に幹線に乗れる。

マサカMasaka,マサカと聞きながら走る。ガススタンド
で給油。赤道のモニューメントが「あるか」と聞くと4~
5km先と教えてくれたが10k先の場所にあった。丸い
2mぐらいの円形のモニューメントが両サイドに建てら
れている。

北半球の渦巻きは右回り


南半球の渦巻きは左回り


赤道直下の水は渦巻きしないでそのまま
すーっと落ちていった。


赤道直下の下でいつもの自慢のポーズです。

さっそく写真を撮る。赤道をはさんで北半球、南半球、
そして赤道直下の三箇所に置いてあった。案内人?
にその水流計?に水を入れて渦巻きを見せてもらう。
北半球の水流器の水は「右巻き」に花びらが落ちて、
南半球の水は「左巻き」に花びらが落ちた。そして赤
道直下の容器の水は回転せずにそのままストンと落
ちた。

南米のエクアドルでも同じような容器を置いてある
ようだったがその時は知らなかった。ブラジルでは
ただ標識があるだけだった。いつかは自分で渦巻き
を見てみたいと思っていた。その実験をすることが
出来てうれしかった。

なんだか手品を見ているようで不思議な感じがする。
赤道の幅はどのくらいのあるのだろうか、1m、10mだ
ろうかとづーっと考えていたがここで「幅」はない
「赤道線」であることを初めて知った。陸路で赤道を
超えたのは、南米のエクアドル、ブラジル、アフリカの
ケニアそしてウガンダと4回目になった。

ここまで心配した悪路はなく狭い道路ではあるがま
ずまずである。ムバララMbararani13時半に到着。ル
ワンダ方面は真っ黒雨模様なのでここに泊まること
にする。カンパラと違って顔立ちは長くなりすっきり
してきれいに見える。

ウガンダ最後の町ムバララの町でかわいい顔の
時計屋さんの姉妹