今日14日で三日連続4時間~5時間続けて
ブログの更新を試みたがどうも写真がうま
く入っていかない。この辺でよしとしよう。
ご勘弁を!。
もうじきブルンジに向いますが、1994年
の虐殺記念館はキガリから南の方へ離れた所
にあるようなので寄ってみるつもりです。
うまく入っていかないとパソコンは
「あー疲れますねー」
ブログの更新を試みたがどうも写真がうま
く入っていかない。この辺でよしとしよう。
ご勘弁を!。
もうじきブルンジに向いますが、1994年
の虐殺記念館はキガリから南の方へ離れた所
にあるようなので寄ってみるつもりです。
うまく入っていかないとパソコンは
「あー疲れますねー」
2007年10月12日金曜 はれ
パソコンに日記の下書きと写真の縮小など午前中
いっぱいかかる。午後から、きのう「接続OK]と話し
たネットカフェへはしまっている。ウン?セキュリテ
ィの人に聞くと日曜まで閉まっているとのこと。
オーナーはイスラムなのかなー。
近くの別のネットカフェで13時から17時までかかっ
たがネットが中断して写真の貼り付けまで出来な
かった。あしたにしよう。
2007年10月13日土曜 はれ
ここキガリは朝方冷え込む、長袖を着て寝ている。
泊まっているホテルはトイレ、シャワーつきの部屋
になっているが水さえ出ないのだ。部屋を見たと
き蛇口をひねって確かめればよかった。
ポリタンクで水を運んでくるのである。頭を洗え
ないのでホテルを替わることにする。きのうホテ
ルを予約していたOKAPIホテルに9時にいく。部屋
が空くのは10時過ぎになるとレセプション。
その間「エンジンの音」と「パワー不足」が気にな
っていたのでホテル前のパーツ屋でプラグを見
てもらう。相当痛んでいたので新品と交換した。
6本=30ドル=3600円。これで大丈夫だろう。
最近出来た新しくきれいな5階建てホテルの部
屋が空いたのは12時近くになった。てっきり新し
い部屋に泊まれると思っていたら案内されたの
は別棟の平屋で古い建物だった。トイレ、水シャ
ワー付ではある。水が出るだけでもよしとしよう。
午後3時から7時までかかって、きのうの残り写真
の貼り付けをしたがどうもうまくいかないなー。
今日はこれまで「またあした」やり直してみるか。
帰りにスーパーによって晩飯用に、コンビーフの
缶詰、パントマト、たまねぎを買う。ビールは隣の
小さい食堂で買う。
<ここにも1994年犠牲者の子供>
となりの食堂で昼間ビールを飲んだ。店には男性
と女性がいた。30歳ぐらいの男性は店の人だろ
うか。私の年は「いくつだ」と聞く、「63歳」と答え
る。あなたの年は「いくつ」と女性に聞いた。
「25歳」と男性が教えてくれる。最初女性を見た
とき35歳ぐらいかなーと思った。「ファザー、マザ
ー」はと聞くと「両親亡くなった」と。「1994年か」
「そうだ」年より老けて見えたのは幼い12歳頃か
ら苦労して過ごしてきたからなのだろうと思う。
女性の「両親と兄弟も殺されたのだ」と男性が話
した。ルワンダには親、兄弟を失った人たちが相
当いるのではないか。なにしろ50万人とも100万
人とも言われる虐殺が短期間で行われたのは13
年前「1994年」のつい最近のことだ。
多数派フツ族が少数派ツチ族への虐殺は「ホテル
ルワンダ」の映画が日本でも上映されているとメ
ールで教えてくれた。わたしはほんとうのところ
詳しく知らない。ドイツヒットラーしかり、おろ
かな人間たち。
私たちは殺されるため、殺すために生まれてき
たのではないのだ。
パソコンに日記の下書きと写真の縮小など午前中
いっぱいかかる。午後から、きのう「接続OK]と話し
たネットカフェへはしまっている。ウン?セキュリテ
ィの人に聞くと日曜まで閉まっているとのこと。
オーナーはイスラムなのかなー。
近くの別のネットカフェで13時から17時までかかっ
たがネットが中断して写真の貼り付けまで出来な
かった。あしたにしよう。
2007年10月13日土曜 はれ
ここキガリは朝方冷え込む、長袖を着て寝ている。
泊まっているホテルはトイレ、シャワーつきの部屋
になっているが水さえ出ないのだ。部屋を見たと
き蛇口をひねって確かめればよかった。
ポリタンクで水を運んでくるのである。頭を洗え
ないのでホテルを替わることにする。きのうホテ
ルを予約していたOKAPIホテルに9時にいく。部屋
が空くのは10時過ぎになるとレセプション。
その間「エンジンの音」と「パワー不足」が気にな
っていたのでホテル前のパーツ屋でプラグを見
てもらう。相当痛んでいたので新品と交換した。
6本=30ドル=3600円。これで大丈夫だろう。
最近出来た新しくきれいな5階建てホテルの部
屋が空いたのは12時近くになった。てっきり新し
い部屋に泊まれると思っていたら案内されたの
は別棟の平屋で古い建物だった。トイレ、水シャ
ワー付ではある。水が出るだけでもよしとしよう。
午後3時から7時までかかって、きのうの残り写真
の貼り付けをしたがどうもうまくいかないなー。
今日はこれまで「またあした」やり直してみるか。
帰りにスーパーによって晩飯用に、コンビーフの
缶詰、パントマト、たまねぎを買う。ビールは隣の
小さい食堂で買う。
<ここにも1994年犠牲者の子供>
となりの食堂で昼間ビールを飲んだ。店には男性
と女性がいた。30歳ぐらいの男性は店の人だろ
うか。私の年は「いくつだ」と聞く、「63歳」と答え
る。あなたの年は「いくつ」と女性に聞いた。
「25歳」と男性が教えてくれる。最初女性を見た
とき35歳ぐらいかなーと思った。「ファザー、マザ
ー」はと聞くと「両親亡くなった」と。「1994年か」
「そうだ」年より老けて見えたのは幼い12歳頃か
ら苦労して過ごしてきたからなのだろうと思う。
女性の「両親と兄弟も殺されたのだ」と男性が話
した。ルワンダには親、兄弟を失った人たちが相
当いるのではないか。なにしろ50万人とも100万
人とも言われる虐殺が短期間で行われたのは13
年前「1994年」のつい最近のことだ。
多数派フツ族が少数派ツチ族への虐殺は「ホテル
ルワンダ」の映画が日本でも上映されているとメ
ールで教えてくれた。わたしはほんとうのところ
詳しく知らない。ドイツヒットラーしかり、おろ
かな人間たち。
私たちは殺されるため、殺すために生まれてき
たのではないのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/09/c1d7e9b4d152b3187ea593893dd05ed8.jpg)
ルワンダに入った直後地元の人たち
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/c6/eb598dcd517997a9bdd4a911c412342d.jpg)
こんなに立派な角になりました。ルワンダ
2007年10月11日木曜 朝くもり 昼はれ
ルワンダの始めての朝。今日やらなければならない
①銀行でお金を下ろす②ブルンジの大使館を確かめ
る、二つである。
ホテル前に出て地元の人にバンクは「何時に」開くの
と聞くと「8時」とのこと。それじゃもう「開いて」るね。
ホテルの人が時計を見せて「ルワンダ時刻」は一時間
遅くなってるのだった。
散歩がてら銀行に歩いて行く、二件の大きな銀行のう
ち一軒目はカードを使えない。二軒目もATMカードを使
う器械はないが窓口で下ろせる。しかしシティバンクカ
ードではダメだった。「マスター」か「ビザ」カードで下ろ
すことになった。
米ドルが少なくなったので600$米ドルを下ろした。その
内の100ドルを「町の両替屋」で交換した方がいいとそこ
の銀行員は教えてくれる。とりあえず米ドルを確保した
ので少し安心できる。
ブルンジ大使館をオートバイタクシーに聞くと市内から
5kぐらい離れた所にあるらしい。宿に帰りオートバイタ
クシーの後ろについて行く。キガリは丘陵地帯にある
ので上り下りの連続である。周りの丘陵地帯にも住宅
が建っている。
丘陵を登りくだり住宅地の中にあるルワンダ大使館に
ついた。ここは車はそんなには多くなく静かな中堅都
市と言った所だろうか。いつものようビザ申請書には
名前、パスポートナンバー以外ひらがなで記入する。
なんてかいてあるのでしょう、わかりません、こまりま
した、ここもわかりません、どうかよろしく、おねがいし
ますなどと全部ひらがなで記入した。「フランス語」
かと係官、イヤわたしは「ジャパーニーズ」しか「書け
ないんです」すみません。
イヤーな顔で受け取ってもらった。パスポートの発給
受け取りは午後3時」「いやすぐにほしい」その時笑顔
の責任者みたいな人が来た「すみません」いったん帰る
とここまで「戻って来れない」ので今スタンプを「お願
いします」必死に合唱ポーズ。
どうなるのか心配しながら現地の人5,6人と一緒にロ
ビーで待つ。20分ぐらいしてビザのシールを貼ったパ
スポートを返してくれた、ありがたい。
責任者の部屋まで行き胸をなでおろすポーズで「あり
がとうがざいました」とゼスチャーでお礼をした。
受付の人にも同じポーズをして宿に戻る。
パスポート一ヶ月ビザ代=40$=5000円現地通貨
はダメである。オートバイタクシー700ルワンダフラ
ン=175円。ついでにビール750リットル800
RF=200円、晩飯セット1600RF=400円ぐらいかな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/2b/b55dac4dcbe9b650b6eda96940ceeee3.jpg)
ルワンダ 首都キガリ市内
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/9d/a098b2ab6e77ec229d50814fc54c039d.jpg)
キガリ市内
夕方昼間見つけていたネットカフェに自分のパソコ
ンをつなげて貰えるかどうかを聞きに行く。「大丈夫」
とのことなので明日12日に来ますので「よろしくと」
頼んでかえる。
帰る途中「彼のことが」気になった。11日キガリに着
いた、その日の夕方レストランを案内してくれた青年
のことを。二軒のレストランを案内してくれた帰りに
「ファザー、マザー」はキガリに住んでいるのと聞い
た「二人ともなくなった」「1994」このとき二人とも
亡くなるなんておかしいなー
若くして両親はなくなったんだー、彼はまだ25歳ぐ
らいだから幼い頃なくなったんだーぐらにしか、そ
の時は思わなかった。部族の争いで100万人と言
われる大虐殺があったのは1994年。13年前で
あったことは知っていた。阪神大震災の3年前のこ
とである。最近のことなどである。
歩きながらフッと「アーそうだったんのか」彼が
「1994」と言ったのは大虐殺のあった年なのだ。
どのようにして連れ去られたのか、自宅で殺され
たのかはわからないが彼の幼い心に大きな傷を
残していることは間違いない。彼とはそれっきり
会っていない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/c8/1bd42b36976f505639a441583016a2c0.jpg)
赤道の下で暮らす人々
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/5c/c39dcc2c17612dc4e4be9c6238f50b88.jpg)
ルワンダへの道
ルワンダの国へ
2007年10月10日 水曜 はれ朝20℃ 昼30℃
ムバララのホテルを7時10分出る。一路ルワンダ国
境カバレKabaleの町に向う。道は心配しなくていい
ようだ平均60kmで走れる。アレーこの道でいいの
だろうかと一時心配したがカバレの町から10kぐら
い走ったところに国境があった。
ここまで山をどんどん上ってきたところが国境だ
った。トラックが長い行列を作っている、その行列
を追い抜いてウガンダの出国手続き。ルワンダの
入国手続きも難なく終わる。10時半について入国
したのは11時半と早かった。これで92カ国。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/ae/98ca42e78d56e562a15f667a6137c29e.jpg)
赤道の下で暮らす人々ここでバナナを買いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/72/5da151ff4f70651caa1245b1f3bc37f4.jpg)
赤道の下の子供たち
ウガンダの首都キガリKIgaliまで80km。国境を出
てからは小さいカーブの道になる、時々ダートの
道になったりするが心配入らない60kmで走れる。
高い山からだんだん下っていく、亜熱帯植物の茂る
周りの山の斜面にはバナナ畑が続いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/7f/6aeba9504d1a67877439295ba52fcebe.jpg)
ウガンダとルワンダの国境に着く
自転車にバナナをどっさり積んで走っている人、坂
を押して登っていく現地の人たち。ルワンダに入っ
てからなんとなく気持ちが楽になったように感じる
走っているトラック、車からも「ゆずりあい」の気持
ちが伝わってくる。
国境を出て左側に止めて写真を撮ろうとしたら「ダ
メ」だと注意される。ここは右側通行なのである。
「すみません」。アフリカではエチオピアが右側だっ
たが運転はしなかったのでルワンダが始めてにな
る。
ルワンダの首都キガリKigaliniに13時半ごろ着いた。
朝出てから緑の山を畑の中を気持ちよく走ってきた。
2軒目の安いホテル一泊6000ルワンダフラン=150
0円に泊まる。オートバイは玄関前の路上、オートバ
イの回りは地元の人がいっぱい集まっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/19/4c93694f191f210b7212dc23b9b53b11.jpg)
赤道直下に到着。2mほどの丸いモニューメントが
両サイドに建ててあった。赤道直下に家があるのも
珍しいのでは、、。
赤道越えて南半球 ルワンダへ出発
2007年10月9日火曜日 朝22℃ 昼31℃夕方20℃
朝6時に起床、出発の準備7時には空がパッと明るく
なる。まずまずの天気7時30分ホテルを出る。きのう
市内からルワンダに向う幹線道路を確認していたの
で楽に幹線に乗れる。
マサカMasaka,マサカと聞きながら走る。ガススタンド
で給油。赤道のモニューメントが「あるか」と聞くと4~
5km先と教えてくれたが10k先の場所にあった。丸い
2mぐらいの円形のモニューメントが両サイドに建てら
れている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/8a/a096b69b59ea054889d2e5a3704a675c.jpg)
北半球の渦巻きは右回り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/d2/47ed6e19ccc3189f354ca40ef2bb4326.jpg)
南半球の渦巻きは左回り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/27/0bfcd507acac0d784b896a483e68afca.jpg)
赤道直下の水は渦巻きしないでそのまま
すーっと落ちていった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/7c/e6d9b1d054f50f68fd7d521f28b0989a.jpg)
赤道直下の下でいつもの自慢のポーズです。
さっそく写真を撮る。赤道をはさんで北半球、南半球、
そして赤道直下の三箇所に置いてあった。案内人?
にその水流計?に水を入れて渦巻きを見せてもらう。
北半球の水流器の水は「右巻き」に花びらが落ちて、
南半球の水は「左巻き」に花びらが落ちた。そして赤
道直下の容器の水は回転せずにそのままストンと落
ちた。
南米のエクアドルでも同じような容器を置いてある
ようだったがその時は知らなかった。ブラジルでは
ただ標識があるだけだった。いつかは自分で渦巻き
を見てみたいと思っていた。その実験をすることが
出来てうれしかった。
なんだか手品を見ているようで不思議な感じがする。
赤道の幅はどのくらいのあるのだろうか、1m、10mだ
ろうかとづーっと考えていたがここで「幅」はない
「赤道線」であることを初めて知った。陸路で赤道を
超えたのは、南米のエクアドル、ブラジル、アフリカの
ケニアそしてウガンダと4回目になった。
ここまで心配した悪路はなく狭い道路ではあるがま
ずまずである。ムバララMbararani13時半に到着。ル
ワンダ方面は真っ黒雨模様なのでここに泊まること
にする。カンパラと違って顔立ちは長くなりすっきり
してきれいに見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/e4/a2d66ac7d74e995190468072ea4715bf.jpg)
ウガンダ最後の町ムバララの町でかわいい顔の
時計屋さんの姉妹