松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅31 カザフスタン

2012年11月29日 | 赤道直下と陸路国境148か所


2003年8月13日水曜 くもり20℃ くもり30℃ 小雨33℃ パラパラ30℃ くもり
汗が出てくる蒸し暑い夜だった。内陸で暖ったかいのかな。目が覚めたら7時を過ぎている。まーきょうはあわてなくてもいいのだ、予定首都アスタナまで800km着けばいい。8時にスタート。すぐ36号に乗った。トコトコ走る。ベンジンスタンドで「どこへ行く」「アスタナへ」この道は「クルガン」に向かう道だ。

「エエー」「あと80キロ」戻って「左に」曲がれ。ウァーしょうがない、Uターン。普段80キロぐらいで走っているのに100キロを越えている。別に急がないが気が焦ってスピードが上がっているのだ。途中で停まっていたらマイカーの人が横に着けて「どこへゆく」「アスタナ」「アスタナ」おれの「あとをついて来い」「そこの道を左に」すぐに左に入る道36号が出てきた。ありがとう手をあげて別れる。

きのうまで車がひっきりなしに走っていたのにカザフスタンに入ったら車、トラックもたまにしか会わない。やっぱりロシアM5号線は幹線道路だったんだなと思う。家もそれなりにさびしくない程度に建っていてがここでは距離を走らないと家がない。30キロ、50キロ、70キロとづーーと「誰がこんなにパンを食べるんだ」と言いたくなるような麦畑ばかりが延々と続く。アメリカでもこんなに広大な麦畑を見たことはなかった。


どこまで行っても右も左も麦畑だけが延々と続く

ベンジンスタンドの間隔も30k~50kぐらいだろうか。調子に乗って走っていたらデコボコの避けられないくぼみが道路いっぱいになっていて「あーっ」「バカーン」ついにやってしまった。しばらくしてカラン、カランの音、なにかが落ちたな。Uターンして探してみるとシート下にある金属カバーがはずれて落ちていた。それと左のボックスを支える「取っ手」も折れてしまっている。

カバーはテープで張り付けて応急処置、これで大丈夫。ボックスの取っ手はネジを外して持っていた金具をはめ込んで取っ手の代わりに付け替えた。おれも少しは手当てが出来るようになって来た、えらい。ロシアでは走っていると道ばたには一日20台以上車を停めてボンネットを上げたり、車の下にもぐって修理したり、タイヤ交換したりしていた。それを見るとロシアの人すべての人が自分で直せるのかと感心する。すごいことだと思う。

しかし修理には強いかもしれないがお店での店員さんは「スマイル」「防止法」があるのではないかと思う程「笑顔」が少ないなーと思った。カザフスタンに入ったとたん人なつっこい人柄になんだかホッとして親近感も出て来た。ウラル山脈は「ヨーロッパとアジアを分ける山だ」とM5号で食堂の人が話してくれたことを思いだす。なるほどなー笑顔はこれも影響するのかなー。でもそれとはちがうなー。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅30 カザフスタン

2012年11月26日 | 赤道直下と陸路国境148か所

1回目、2回目あわせて一ヶ月ぐらいだろうかお世話になったモスクワ。クレムリン・ウズベンスキー教会、赤の広場をあとにしてカザフスタンに向かう

これまでロシアポリスのこと

その1.
○いい人、悪い人にポリスを分断
これまで3,4回ポリスの検問にかかった。そのうちの一回は「ナンバープレート」が「付いてない」とクレーム。別にボックスに保管していた国際ナンバーを引き出して見せた。今までのは道がガタガタで振動で途中「とれてしまったのだ」と言っても通じない。とにかく所定についていないからと「マネーマネー」ワイロがほしいのだ。針金で所定に着けて見せる。二人のうち一人は人の好さそうのおまわりである。暑い日差しの中停められたのだ。

とうとう頭に来たので「お前はワールド、ロストーナンバーワン、ハートがコールド、世界で一番冷たい最低のポリスだ」と日本語でまくしたてるとゆうより吠えた。人のよさそうなポリスには「ワールド、ナイス、ハートもホット、フェイスもナイス、スマイルもナイス、ワールド、ナンバーワンポリス」世界で一番いい、おまわりさんだと日本語でほめたたえる。意味は分かってもわからなくてもいいのだ。二人の分断を図ってみた。「道がよくなって次でとりつける」からと「ほめたおまわりさん」に話した。

するとほめた「いいおまわりさん」は「O・K「O・K」行けとゆう。「ナンバー」を取り外して保管してバイバイ。

その2
○「パスポートいらね―」「お前にやる」
二回目はスピードガンを使っている検問所。いきなりスピードオーバーときた。「ノーノー」と言っても、受付ない。「マイ、スロースロー」で走ってきた。そんなにスピードは「出してない」しかしスピードガンを見せて「頑」として受け付けない。「ノー・スピード」とゆうがダメ。パスポートは提出している。もういい「パスポート」は「いらない」「お前にやる」とオートバイにまたがってエンジンをかけ「本気」で「出発しよう」とまたがった。

するとポリスはあわてて「持って行け」とばかりに「パスポート」を「差し出した」。もちろん罰金なし。ほんとにスピードは出してなかったので「いいや」と最後は本気だったのだ。このことがあってから「自分」でも「いい方法」を見つけたものだと。「ポリスとイザコザで長引きそうになったら」開き直って「パスポートいらねー」「お前にやる」と「この手」を使って何回か通過してきた。

その3
○ピストルで脅(おど)かされる(オートバイの旅①でも書いている)サンクトペテルブルグからバルト三国エストニアに向かう途中・・止められた。さっき「50m」手前で女性おまわりさん達3人たちのところで止められたばかりだ。なのに二人の男おまわりにストップをかけられる。○と×の標識を両手に持っていてストップの×を出した。そこから「15センチ」ぐらい過ぎて止まった。それが違反だと言ってるようだ。2mぐらいある「大男」と「普通」の男おまわり二人である。

小さい小屋の中に連れ込まれてパスポート、カルネ、を出した、「国際免許証」も出したこれは海外に出てはじめて提出。OKかと思いきや小さいおまわりが「ちょっと待った」と「お札」を数える「マネー」のしぐさをする。「何のマネだ」前日サンクトペテロブルグ市内で見ていたのと同じおまわりのワイロほしさなのだろう。ハンドブック「規則集」みたいなものを出して「違反した」みたい「文章」のところを指さした。

ロシア語「わかるわけねーだろー」と声には出さないが顔に出す。しかし「ふざけんじゃねー」と大声を出してオートバイに戻りまたがった。すると「オーノー」みたいなしぐさ。大男のおまわりが腰のピストルに手をかけ「カシャッ」と音を出しておどかす。その手には驚かない、ほんとにケンカするつもりでオートバイから下りて大男に「撃つなら撃ってみろ」と突っかかって詰め寄る。

よし「エンバシー」大使館に「電話する」と言ってオートバイに乗って先程の50m手前にあったガススタンドまでバックして給油する。戻るとまだその「でかい」おまわりがいて再び「止まれ」の合図。「テレホンエンバシ・電話したからいま車で「係官が来るぞ」と「日本語」で話す。すると「でかい」方のおまわりが自分の「両手を組み」握手するようなその手を頭の上にかざして「O K」「行け」と言ってるようだ。

「演戯?」したおれの「ジェスチャー」がおまわりに勝った?のだ。とにかくロシアのおまわりは何だかんだと文句をつけてワイロを要求すると聞いていた。止められたとき今回は「解放される」まで「半日ぐらい」かかるだろうと最初から覚悟してかかった。しかし30分もかからず意外と早くすんなりとワイロを渡さなくてすんだ。そこからちょっと2、3kmぐらい走っただろうかエストニアの国境についた。

そこのロシア国境の係官が「なぜ」「どうして」「止まらなかった」みたいに笑いながら話してきた。うん?さっきのおまわりが電話連絡したんだろうか。こいつもグルか?。又ここで時間がかかるのかと不安がよぎる。さいわいに何事もなくすんなりと国境手続きを終えてエストニアに入いることが出来ホッとした。ここの国境には日本人20人ほど乗せたツアーバスが止まっていて国境通過手続きで「通してくれない」と日本人添乗員は苦戦していた。バスの中に入りわたしも日本から来ましたと挨拶して別れる。

その4
○罰金を払う
まさかこの辺にはおまわりはいないだろう。上り坂で遅い車を追い越したとたん「エエーおまわりだ」。「説明しようがない」停められた。「ハロー」と「にこにこ」したが
ダメ。「マネー」いくらだ。「100ドル?」「ええ―」ヨシここはいつもの演技だ「パスポートいらねー」と「オートバイ」にまたがって見せたが効果がない。「500ルーブル=2000円」出してこれが「オールマネー」だ。おまわりはしぶしぶ受け取った。

その5
○見逃してもらった
10台ぐらいつながってゆっくり走っている。一台づつ追い越していく。直線になった
ところで一気に追い越しにかかった。トップに出たとこでおまわりがチェックしている。アア―すぐには止まれないふりして100メートルぐらいすぎた所で停まって待った。しばらく停まってポリスが来るのを待つが来ない。「いいのかな」ヨシ来ないなら「行ってしまえ」とスピードは上げずにそのまま走った。

追いかけられれば止まればいいや。普通に走って行く。5km過ぎた頃バックミラーに映った「来た来た」パトカーが来た。道ばたに停めた「どうして止まらなかった」紙を出して「一台づつ追い越した」「ほかの車」は「一気に追い越して過ぎ去った」と図面を書いて説明した。するとパトカーはなにも言わずにそのまま走り去った。次のチェックポイントでこってりやられそうな感じだ。

チェックポイントについた。パトカーも停まっている。パスポートを見せる。なにも言われない。そのまま走り過ぎた。お―よかったー。ロシアはチェックポイント=おまわりがパスポートや免許証など確認する「検問所」と言った方がわかりやすいだろうか。
道路のいたるところ設けられている。なかには愉快な人のいいポリスもいるがワイロを目的にしたポリスが多い。わたしは罰金を取られたのは一回だけだった。


バルト三国のラトビアからモスクワに入ったのが2001年6月。二回目は日本からシベリア横断してモスクワに入ったのが2003年7月。1989年ソビエト連邦が崩壊して10年。まだまだワイロの要求が常態化。今でもそうかもしれないが・・。それでもわたしはこれまで「社会主義社会」を信用してきた。

ひとりごと
ソ連が崩壊、東ドイツが崩壊していく・・。勝ち誇ったように資本主義諸国は喜んだ。今
欧米しかり、アメリカしかり・日本はゆうにおよばず資本主義社会の行き詰まり・・これからどこえ道を切り拓いて行こうとしているのか。共産主義はイヤだイヤだといいながら資本主義「諸国」は中国に頼り切っているではないか。笑わせないでおくれ。日本では優秀な会社は海外に出ていってしまうともゆう。海外に出て行ってどうするの・・せいぜい20年でおしまいになるじゃないの。そのあと帰国するのだろうかね?。

中国からインドそして南アメりカ・・最後はアフリカに向かう。水は高いところから低い所へ流れるこれ常識。経済も同じではないのかね。じゃーどうすんの・・弱肉強食、自分さえよければすべてよしの「資本主義」から持ちつ持たれつ「社会主義」を目指すしか道はないとわたしは思うけど・・。ちなみにわたしは元社会党・党員→いまの「社民党」・・。自分さえよければすべてよしの考えはまだかなり残っている自分自身がいるけれど・・お許しを。それでもめざす「社会主義への道」は別項で・・。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅29 モスクワ

2012年11月23日 | 赤道直下と陸路国境148か所

よし、間違いないようだ。カザフスタンの国境に近づいた。

カザフスタンの国境では手続きのため順番待ち。なんともかわいい赤ちゃん連れも

ロシアとカザフスタンの国境で順番待ち

カザフスタンに入る
2003年8月12日火曜 はれ20℃ はれ20℃ はれ30℃ はれ30℃
7時03分にスタート。チェリャビンスクに12時前についた。途中ベンジンスタンドでカザフスタンの入り口を聞く。ていねいに紙に書いてくれる。フンフンなるほど。ここは来過ぎてしまったようだ。ここから少し戻るのだ。するとスタンドに来た地元のマイカーの人が「おれのあと」について来いと、ありがたいなんだかスタンドで聞いた道ではなく裏道を通り「近道」を走っていくようだ。本線M5号からM36号に乗ったようだ。

カザフスタンに向かう本線まで誘導してもらった。助かったな。ありがとうございました。スタンドで書いてもらった地図ではこんなにすんなりこれなかったと思う。昼めし、昼寝して14時頃出発。道に停めて道下の草むら昼寝していたら家族連れがオートバイを見に来ていた。「ハロー」いっしょに写真を獲った。15時08分カザフスタン国境につく。入国する車が結構並んでいる。ロシア側出国15時40分終わる。


だいぶでかい帽子をかぶっているカザフスタン国境係官

カザフスタンは何も書かなくてよかったが「特別室」に入れられて「サウナ」はどうか「ウォッカ」はどうか・・冗談みたいな話をして終わり。それからなんだかんだかかって結局入り口で360P=1500円プラス760カザフスタン「通貨」を払った。入国できたのは17時30分になってしまった、さー手続き終了。いい道だ、と走り始めたら「突飛」みたいな「ドン」と飛び上がる「エ―っ」どうなってんだろう。

用心して走ろう。さてカザフスタン「通貨」はいくらだろう。国境を越えるといつも通貨の計算だ。そのまま走っていたらパトカーが追いかけてくる。停まる。どうした?。「パスポート」?。違うようだパトカーから降りてオートバイをながめている。どこからかわたしのオートバイを見つけて追いかけて来たようだ。ひとりづつ写真をとってバイバイと去っていく。ロシアに比べりゃ人なつっこいし愛きょうもあり許せる人たちだ。


パトカーが追いかけてくる・・なんとオートバイを見るために追いかけて来たのだった。オートバイが珍しいのか、このあとも何回かパトカーに追いかけられる。

広大などこまでも麦畑が続くクスタナイのホテルまで170キロ走った。ホテル代いくらだろう。2000T-いくらなのかわからない。食事+ビール3本+にわとりモモ焼き=998T=???。このホテルなんだかにぎやかで男女がいっぱいたむろしている。部屋をノックする人がいる。ドアを開けると「男と若い女性」がたっている。「女はどうだい」と言いたいような感じである。「ソーリ、ノーサンキュウ」

ここは若い男女が集まっている。音楽もかかってにぎやかだと思っていたら女性を斡旋する宿だったんだ、あーそうだったのか。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅28 モスクワ

2012年11月19日 | 赤道直下と陸路国境148か所


オートバイ「セル」も直ってお世話になったモスクワからカザフスタンにむかう

モスクワを出てカザフスタンに向かう。道の両サイドには煙が上がるうまそうな食堂の店がならんでトラックが集まる休憩所なのだろうか。肉を注文。

お世話になったモスクワよさようなら
2003年8月10日日曜 くもり18℃ はれ18℃ はれ18℃
タンニャさん、アレックスさんほんとお世話になりました。ありがとうございました。15日間滞在したモスクワホテルを7時15分出発。日曜とあって車は少ない。郊外に出るとすぐに霧につつまれる。9時過ぎまでスピードを落として走る。予定通りの走りであるが久しぶりの走りで疲れた。前回走ったサマ―ラまで250km残して泊まることにする。いかがわしいホテルだが仕方がない。250P=750円

シャワー、水もチョロチョロしか出ない。水だけでも困る。熱いお湯だけ出てももっと困るんだ交互に出して時間はかかる。音楽は朝まで流れていた。そう言えばモスクワではバックミラーが付いてない車が多かったなー。わたしは不安に感じたが「なれれば」平気なのだろうか。

8月11日月曜 18℃はれ 25℃はれ 39℃ はれ30℃
夜中1時半に目が覚めた。それからウツラウツラしていて目が覚めたら5時半。もういいや出発しようと6時に出発。きのうと同じで朝はすごい霧、だんだん登っていく山になってくる。先が見えないすごい霧になってきた。80キロでサマ―ラ通過、ヤフー通過。5,6台並んで走っていたのを追い越した、そこへポリスが立っていた・・停止命令。やばい、すぐには止まれない、わざと100mぐらい走りすぎて停まる。

待っていたがポリスは来ない。振り向きながらしばらく待っていた。来なければいいや、普通のスピードで走りだした。5kぐらい走った所でバックミラーにパトカーが映った。来た来た、道ばたに停めて待つ。「どうした」みたいな言葉、紙に追い越した理由を「図」で説明。一台づつ追い越していた。他の車は一気に追い抜いて走ったと話す。てっきり罰金かと覚悟したが「パスポート」を渡されてOK罰金なし。

次の検問所でばっちりお金を取られるかもしれない。しばらく走った所に検問所チュックポイント。ドキドキしながら停められるかな。トレーラーのうしろをソロソロと隠れるようについて行く・・よし通過できそうだ。スーッと走りぬける。お―止められなくてよかったよかった。カザフスタン国境チェリャビンスクまであと250km。泊まろうとドライバーに聞くと本線から高台に上がっところにある宿を教わる。

すぐにわかった見晴らしのいい感じのいい宿だ。トラックいっぱい分ぐらいの「石」を入れた「サウナ」小屋。これがロシアのサウナだろうか。宿代160P=480円、サウナ40P=120円、駐車代20P=60円。トータルで220P=660円。ビール3本、餃子のいとことスープ=160P=480円。全部で1100円どこでもこのぐらだとうれしくなる。ここまで来たのでウラル山脈を行ったり来たりしたことになった。

そう言えばモスクワに向かっていた時広大な麦畑は青々していたが今は黄金色に輝く麦畑になっている。もう刈り取ったあとの畑もある。

トラックの運転手から教えてもらった・・本線からちょっと上がった見晴らしのいい場所の安宿。うしろの道は本線。ホテルのことロシア語では「むずかしい」発音・・覚えられない・・「ネンネ・ネンネ」これでで充分通じる。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅27 モスクワ

2012年11月16日 | 赤道直下と陸路国境148か所
オートバイの修理が終わればモスクワからシベリア方面へ戻ってカザフスタンに入り中央アジアを走る・早く修理終わってくれーい。


2003年8月8日金曜 くもり 一時雨 くもり 肌寒い
いよいよどうなるかきょうの日程。10時にアレックスさんが来てくれた。「アレキ」ではなく正式には「アレックス」さんだった。小雨も降ってきた。雨が降っているのでバイクではなくて地下鉄でオートバイ屋に行くことにする。わたしもその方が今度行く時都合がいい、それにきれいだと言われている地下鉄に乗って見たかったのだ。6つ目で降りた駅から10分ぐらいでオートバイ屋についた。

もっときれいな地下鉄かと思ったがわたしには普通の地下鉄に写る。オレックスさんを交えて話、あした3時か4時遅くとも19時までにはオートバイの修理を終わらせるとのこと。二人でホテルに戻り夜中2時頃まで呑み、又あした3時か4時・頃オートバイ屋に行くからと帰った。ありがとうございました。頭は虎刈りのまま歩いたがおそらく誰も気づかなかった、こっちの人はジロジロ見ないのでいいぞ。

それともすれ違ったあとで「くすくす」笑われているかもしれないな。ここに来てすっかり秋の気配を感じる気候になってきた。いままで朝から暑い日射(ひざし)が続いて昼間は暑くて出かけるのがいやになるほどだった。涼しいだろうと思っていたモスクワでもこんなに暑いのかと驚く。最近までクレムリンの公園の中にある噴水の水や池では大勢の子供たちが歓声をあげて水遊びをしていた見ているだけで涼しさを感じる。

ここに来て朝はもちろん昼間も涼しさを感じるようになってきた。もう夏は終わりだろうか。もう一度暑い日が戻ってくるのだろうか。

オートバイの「ギア」の取り換えもやっと終わりになる。

よーやくオートバイ修理完了
8月9日土曜 くもり 雨
ホテルを2時に出てオートバイ屋に向かう。さて、どうなっているだろうか不安である。地下鉄六つ目の駅で降りる。きのう来ていてよかった。3時前にオートバイ屋についた。工場では修理完了寸前だった。ボックスを取り着けてテスト走行してもらう。テスト走行OKだ。タンニャさんの友だち、きのうお世話になったアレックスさんも4時頃来てくれた。修理代はきのう600$=7万円ぐらいだろうと言われていた。

全部で256$=約3万円だいぶサービスしてくれたようだ。いやーほんと助かった。もしかしたらタンニャさんやアレックスさん達オートバイ仲間が500$負担してくれていたのかもしれないなーあとあとになって気づく、そうだとしたら申し訳ない。オートバイを受け取りそのままホテルに戻る。あしたカザフスタンに向かうときのM5号をアレックスさんに教えてもらおう。

ぐるーっとまわってM5に入った。どうなっているのだろうかこんなに回って・??。アレックスさんが間違っていたらしくホテルに戻るときようやく道順がわかった。5,6分ででM5号に乗れそうだ。ホテルに戻ってネットを打ちに行く。もうすっかり秋の気配を感じる。ここ4、5日不安定な天気が続いている。あしたカザフスタンに向かう・・「はれて」くれーい。
アレックスさんありがとうございました。

オートバイひとり旅・袴田耕平さん(deaf)再びアフリカに戻り・・走る

2012年11月11日 | 赤道直下と陸路国境148か所



袴田耕平さん2010年定年退職した60歳から
オートバイで走り始める・・

今年カードや現金を盗られて、やむなく一時帰国
した袴田耕平さん。なんと帰国して間もなくして
倒れてしまった。原因は「マラリア」にかかって
いたそうだ日本でよかった。

今は病気もすっかり治り11月16日オートバイを
預けている西アフリカ・ギニア・コナクリに戻り走
りだします。

袴田さんはこれまでシベリア~中央アジア~中近東~
アフリカ・・。50カ国・6万キロ走破しています。

9日に横浜で会ってきました。ビザや国境でのやり
とりなど聞いていると。「ろうあ者」「何するもの
ぞ」とその対応にはびっくり、おどろくことばかり
でした。オートバイにはdeaf(ろうあ者)と書いて
走り続けています。

元気そのもので北アフリカのアルジェリア~エジプト
の横断に挑戦してみようとの話でした。しかし病気
検査のため3か月で又帰国しなければならないこと
を残念がっていました。

イヤーまいった。袴田さん元気で走り続けてください
みなさんもよかったら応援してください

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅26 モスクワ

2012年11月08日 | 赤道直下と陸路国境148か所
モスクワ・オートバイ仲間の人たち

8月6日水曜 くもり 小雨 雨
8時前に起きた。きょうタンニャさんに連絡出来なかったら直接タクシーでオートバイサービスまで行って確かめてこようと思う。10時半おばさんのタクシーの運転手。地図を見せながらオートバイサービスのアドレス見せると違うところに指をさす?。
おかしいなー。M8号で有名な公園があるところなのにな。きれいな大きな噴水、まるい高いゴンドラ、男女のモニューメントを紙に書いて見せた。

「あ―ここだ、ここだ」とわたしの示した場所と一致した。「O K」「行って帰って」650P=約2000円。O Kタクシーに乗る。30分ぐらいでオートバイサービスについた。オートバイはどうなっているか。まだ「ばらした」ままだ。宙ぶらりんにオートバイが吊られている。いつ直る。フライデーかサタディと係の人が応える。牛をさばくのと同じ吊るしたままじゃ直んないよな。しょうがないか。

「マイ、カザフスタン・ビザ」切れる「ビザ・ビザ」「オ―ガスト・テンディ」「8月10日」で切れる。「早く早く」「タイムリミット」「ハリーハリ」と日本語と英語で急がせるように話をしたつもりである。「フライデーテレホン」金曜日に電話を入れるからと。伝えたつもりでタクシーでホテルに戻る。土曜にはメドがつくだろう。どうなっているのか自分で確かめたのでとりあえずホッとした。

夕方部屋に電話がきた。「誰だろう」「ヘルプミー」「・・・・?」「フイレイダー?」「レセプション?」「OK」とりあえず下に降りていく。小太りの男は「マツオサン」いったい誰だろう。お互いチンプンカンプンの英語で進んでゆく。タンニャから頼まれた。うん?。タンニャさんのオートバイ仲間だとわかった。金曜日に行けないタンニャに頼まれて「代わってわたしが来た」と話す。アレキさんとゆう方だった。部屋でビールを呑みながらお互い片言の英語で話す・アレキさんは日本にしばらく滞在したことがあるような話す。おもしろいことに「くそったれー」の「発音」にはわたしもおお笑い。

これからの「オートバイのこと」「OK」「サンキュウ」8日に10時にホテルから部品を取りに行きそこからオートバイサービスに行ってくれると言う。部品はオートバイ屋で調達するのではないのか?。タンニャに電話を入れてもらうと「OK」あした又電話を入れるからとタンニャさん。とりあえず8日10時にホテルを出ることにしてアレキさんとバイバイ。夕方ネットをうちに行く


モスクワ・赤の広場のそばの商店街

8月7日 はれ はれ
きょうもなにもすることなし。午前中にペットボトル入りのビール2250mℓ60P=180円を二本買う。日本もペットボトル・ねじ式ふたがあるといいと思う。トコヤに行きたいがここは高そうだ。そうだ自分で切ってやれ。ハサミでジョキジょキ大胆に切った。だいたいうまく切れたように感じた。あーさっぱりした。明るいところで見るとかなり「トラ刈り」になってしまった。まぁいいか。茶髪の毛染めを買いに行く。

地下鉄入り口売店で売っていた。夕方タンヤさんから21時にホテルに来ると電話が入った。20時前に食事をすませるがなんだか「風邪」気味であまり食欲がない、ビール半分で入っていかない。普通は軽くペットポトル2リッターを飲めるに・・。9時にタンニャさんが来てくれた。

あしたからオートバイの集まりで「サンクトペトロブルグに向かうと」タンニャさん。みんなを引き連れていくらしい。いなくなるのでそのため代わりのアレックスさんに頼んだと伝えに来てくれた。10時過ぎに別れる。ロシア人形をプレゼントしてもらった。部品代100$払うが本当はもっと高かったに違いない。でも100$でいいとタンニャさんは言う。タンニャさんすみませんです。ほんとうにありがとう。

四国ツーリング5泊6日~行ってきました

2012年11月04日 | 赤道直下と陸路国境148か所
2012年10月29日~11月3日まで四国ツーリングにいきました。
休みがとりずらい蘭丸君は月末と月始めに分けて休みをとることができた。
相模のコンさん・松尾はいつでもOK。

10月29日月曜・はれ
足柄SA7時集合のため。わたしは3時半起床・・高速道路6時前に乗ると「安くなる」と相模のコンさんのアドバイスにあわせて走る。朝5時でも環八道路は混んでいる・・うーん一晩中走っているのだなー・・。新東名に入る。はっきりくっきりのこんな富士山はめずらしい、停まってカメラに収めたいが停まれない。名古屋の手前で湾岸道路~京都・大阪吹田あたりもすいていた。いいぞいいぞ。

コンさんのオートバイ仲間がハイウェイ倉敷の手前まで出迎えてユースまで誘導してくれたので助かった。ありがとうございました。

岡山・倉敷まで700キロ走り夕方5時についた「ユースホステル倉敷」管理人ご夫婦


10月30日火曜・はれ
きょうは倉敷の山の上にあるユースから瀬戸大橋を渡って高知まで・・。

朝・倉敷の町をちょこっと寄ってみる


はじめて走る瀬戸大橋はけっこう長い橋だなー。琴平もちょっと寄って(駐車料金もったいなくて)。大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ) の渓谷清流

かづらつり橋まで行ってみた


高知のMUGAKUさんが高速まで迎えに来ていただいて・・そして紹介してくれた「ゲストハウス・カツオ」へ。ことし4月にオープンしたばかりとか・・こぎれなゲストハウス。使いやすく工夫もしている。荷物を預けてMUGAKUさん宅へ。奥さんがケガで入院中・・何かすみませんですね。4時ごろからイノシシ鍋のご馳走・・カツオの刺身も・・。

普通の肉はげぷーっとくるのに・・話しには聞いていたがいくら喰っても「イノシシ」は飽きがこなくてあれほどの肉も・・汁も平らげてなべ底は空っぽ・・。本場カツオもやっぱり舌ざわりがちがう、活きているとはこのことだろうか。地元の日本酒2本・地元の焼酎1本すっかりご馳走になってゲストハウスに戻る。MUGAKUさんはアルコールをうけつけない身体らしい。すみませんねー。
(カメラ持っていくのを忘れて写真なし・・コンさんがとってくれたのであとで載せます)

よく決断してオープンさせた「ゲストハウス・かつお」のオーナー「マキ」さんは若き26歳とか言ってたなー。これからは素泊まりの宿が拡がっていくことになると思われる。すぐにあと一軒と・・はやるのではないだろうか。京都の「J-ホッパーズ」はすでに5軒に増えている。MUGAKUさんこと歴史の先生は地元の活性を手助け・・実践して見せてくれたことに感謝。その若きマキさんと10時か11時ごろまでしゃべりまくっておやすみ。泊まり客つめれば20人ぐらいは泊まれるかな・・とおもう。素泊まり2500円

次の朝マキさんの見送りを受けて出発・・お世話になりました。

10月31日水曜はれ
きょうは下道380キロきつい走りになりそうだ。足摺岬で12時・・
森を走りもうすぐ足摺岬



昔は「中村」・今は「四万十川市」に変わっていた。その四万十川を登っていく.沈下橋に降りて渡ってみた。



松山・道後温泉に着いたのは暗くなって5時半。狭い裏道でゲストハウスが見つからない。
道後温泉で一時間ぐらいうろうろ、スタッフが駆け付けてくれてようやく「ゲストハウス・富士」につく。道後温泉にさっそく入り・・あー疲れたー。こたつのテーブルで呑んで食って・・ベッドに入る。ここは若い学生の人たちが12、3人泊まっていたが次の朝早く出て行った。

11月1日木曜朝パラパラ雨・はれ
きょうは11号線をひたすら走り徳島に向かう。朝もうどん、おそい昼めしも讃岐うどん。冷やしうどん・釜揚げうどん注文。冷やしうどんの方がわたしはうまかった。


「鳴門渦巻き」を見て見よう。瀬戸大橋下に併設されている歩道・・何カ所か「ガラス張り」のぞくことはできるが、ガラスの上を歩くこと・・ブルってしまう。

暗くなってしまいユースホステルについたのは6時・・。明るいユースできょうはお客も少ないとひとり一部屋でいいとオーナーの計らいでゆっくりできた。呑みながら夕食・・部屋でも呑んで11時頃だったろうか・・。

11月2日・3日
11時30分発徳島港からフェリー船に乗る・・乗船してすぐ11時ごろからコンビニで買ったキャベツ、缶詰などでサーサー呑み始めて夜8時か9時ごろまで・・。高知のオートバイ仲間もいっしょに・・。3日朝6時30分ごろ・新木場・東京到着。

フェリー船寝室

相模のコンさん、蘭丸さん・・お世話になりました。