松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅42 ウズベキスタン

2013年01月30日 | 赤道直下と陸路国境148か所

いつも食事に通っていた安食堂。ウズベキスタン・タシケント市内

2003年8月28日木曜 はれ はれ あつい あつい 33℃ぐらいか
ジャスト9:00に同じホテル5Fにある旅行会社「ヤスナミツアー」に上がる。同じぴったり9:00社長のラウバエツさんが出社。スタッフ男性も。きょうはこれから進む国のビザ申請を頼むことにする。トルクメニスタン「ビザ」の受け取りまで話しに聞いていたようにやっぱり21日間かかる。それならばと待っているだけではもったいない。それじゃ他の国の「ビザ」も一気に取ろう。一カ月もあれば大丈夫だろうと・・腹をくくる。

その国に入る「だいたいの日程」を組み込んで申請した。トータルで250$~350$かかりそうだと「ツーリスト会社」はゆう。「ディスカウント・・負けて・負けて」と頼んだ。「安くするから」と笑いながらこたえる。まぁ面倒な手続きだからまとめてお願いすることにする。

9カ国の大使館に「ビザ申請書」をヤスナミツアー社に頼んだ。
①トルクメニスタン
②タジキスタン
③アゼルバイジャン
④アルメリア。
⑤グルジア
⑥イラン
⑦パキスタン
⑧アフガニスタン
⑨インド
以上9カ国

よしこれで気持ちも楽になり案心して進むことが出来そうだ。
夕食は永原さんと二人っで食堂に向かった。終わったあと一人でネットを打ち行く


ホテルの前大通りサーカスのドーム

8月29日金曜 はれ はれ あつい はれ 暑い35℃
12時過ぎに「ヤスナミツアー社」にきのう頼んだ「ビザ」の再確認する(される)。
トータル8カ国。アルメニアの大使館はここにはないらしい。
①パキスタンPakistan→無料
②インドIndia →50$
③イランIran →50$
④アゼルバイジャンAgerubaijan→40$
⑤アフガニスタンAfuganistan →30$
⑥トルクメニスタンTrkumenistan→95$+51$=146$
⑦タジキスタンtjikistan →60$+51$=111$
⑧グルジアgurujia →75$
トータル502$+ヤスナミ手数料100$=602$=72000円。
うーんこんなにかかるのか、仕方ないか。これがないと進めないもんなー。

ハガキの下書きをすませてコピー屋に25枚×ハガキ4枚=1500ソン=160円
郵便局を探すがなかなか見つからず。最後にネット屋の人が歩いて連れて行ってもらった。しかし17時を過ぎていてクローズ。夕べは永原さん一人で晩飯に来ていたのは夫婦喧嘩したらしいことをみどりさんから聞いた。きょうの夜永原さん夫婦とフランス人二人5人で夕食。わたしは日本語英語でしゃべる。

8月30日土曜 はれ はれ 暑い 暑い はれ はれ あつい はれ
久しぶりに朝の散歩。北の方に向かって歩く、昔ながらの個人の自動車修理工場、歩けばやっぱり見どころが出てくるな。地元の空気も伝わってくる。7時半から8時半頃まで。午後は永原さんにネットの日本語の「出し方」の操作を教わる。なんと5時間も打っていた。5500ソン=約600円。夕食は永原さん夫婦と3人でいつもの食堂へ。11時にホテルに戻る。


歩道にミシンを使って商売する・・わたしもバッグを直してもらった。

8月31日日曜 はれ はれ あつい あつい はれ
ホテルの近くにあるサーカスがきのう土曜からきょう日曜2日間開催されるようだ。
毎週開催されるのかな。朝の散歩、けさは南の方に向かって歩く。おー大きい公園にぶつかった。長い階段を上がって旧宮邸、噴水もある。大きな池も。ぐるっと回って見るとこっちが正面の入り口見たいだ。二時間ぐらでホテルに戻る。洗濯していつものところで生ビール飲む。1杯30円・・安くてうまいのでうれしい・・天国だ。

ハガキ100枚の住所書き、少しづつ書いてきょうの分20枚書き終わる。夕方隣りのドームにサーカスを一人で見に行く。子供だましみたいなものなのではと入ってみた。ブランコ、曲芸、最後は狭い丸いグランドみたいな場所を馬は全速力で走り回るのには驚いた・・迫力満点。800ソン=100円は安かった。

オートバイひとり旅・シベリア横断~中央アジア41-キルギス~ウズベキスタン

2013年01月23日 | 赤道直下と陸路国境148か所


もうすぐウズベキスタンの国境付近・・・地元キルギスの子供たち

ウズベキスタンに入る
2003年8月27日水曜 はれ22℃ 32℃あつい 32℃暑い 30℃以上の感じ 40℃
約束していた二人組は9時になっても現れない、その気配もないのでオートバイのカバーを取り外して出発しようとしたところに一人の男が車で現われた。「休みがとれなかった」「キューズミー」と伝えに来た。「あーOK・OK」わざわざありがとう。わたしとしてもそっちの方がよかったのだ。

9時15分ウズベキスタンに向かって出発。とりあえず国境のオシをめざす。きのうの永原さん達と同じ時刻だ。静かな村々を走る。キルギスの独特のぐにゃぐにゃしたとんがり帽子をかぶっっているのはおじいさんたちだけだった。国境の町に着いたがどこをどう走ればいいのか・・。二度三度町の人に聞きながらボーダーに着いた。ようやくたどり着いたオシOSHどこでもそうだが国境はにぎやかである。

キルギス出国手続き50ソン=150円を払って10分ぐらいで出国OK.今度はウズベキスタン入国手続き。係官全員ライフル銃?をかかえている。手続きの最後のところで「ほら・ほら」と言う感じで一生懸命係官は「質問」する「・・・・」「ほら・ほら」「・・・」そのうち結婚式の歌のメロディー「チャンチャチャチャン♪」を歌い出した。結婚式?「妻」のことか「マイ・ワイフ?」「ノーノー」生まれてから今「トシ(歳)はいくつか」と聞いていることに気付いた。「シックスティ・・60歳」そーだったのか、お互いに「アッハハー」そのあと書くこともなくOK.これで手続き終わりだ。

ただキルギス側でわからないだろうと思って国境の「写真を撮った」それを警備官が見ていたのだろう「フォト・フォト」カメラを出せと言ってきた。「オ―ノ―ノ―」これは「キルギス側で撮った」んだ。やりとりしているうちになにもなかったような空気になって荷物の検査もなく入国できた。出国・入国で50分ぐらいですんだ。キルギスの残った「紙幣」を個人の両替屋でウズベキスタン紙幣に両替する。


国境の町「オシ」の町に着く

キルギスとウズベキスタンの国境

さて、ウズベキスタン通貨はなんとゆうのだろう、日本円でいくらだろう。ベンジンスタンドで給油「ノ―ノ―」ウズベキスタンのベンジン・スタンドには「ベンジン・ノ―!」。ガソリンがないと言う。
「エ―」心配になってきた。20キロ走ったところにスタンドがあった。車が上り下りとも両サイドに列をなして待っている。最後に並んで待っていると「前に行け」と運転手さん。「すみませんです」一台づつ頭を下げて「相手もウンウン」と合図。

一番前にきた。オクタンカ90、92、標示のタンクはあるが「ノーノー」。76しかないとゆう。
仕方ない76を満タンにした。走りだしたがベンジンスタンドはあるが「ロープ」を張ったりしてすべて「営業休止」になっている。なにか心配になってきた。道路はまずまずで心配はない。一度間違えて違う方向に走っていた。小川の水でタオル洗っていたら地元の人に話しかけられた。「どこに行く」「タシケント」

「こっちがじゃない」戻れと。エー通りかかった地元の運行バス「軽ミニバン」に途中まで引っ張ってもらった。そこからは高速並みの道になった。チェックポイントでさっき「日本人二人」が「来たぞー」・・ははーん永原さんたちのことだろう。街には食堂見たいな店には表にテーブルが出してあり飲み屋の雰囲気がいい「呑み助」のわたしにはありがたい店だなーいいぞ早くこんなところで飲んでみたい。なんだか・・うきうきになってきた。暗くなって首都タシケント市内に入った。

マイカーの兄ちゃん四人組に停まってもらって「アドレス」を見せる。「ソーリ」「連れて行ってくれ」いつものように両手の甲を出して。左手甲は「ユー」右手甲は「マイ、オートバイ」「ユー」が先に走って「マイ」がうしろからついて行くと。「OKOK」やさしい兄ちゃんたちと言うよりちょっとやんちゃな坊風の4人組。走りだしてすぐ停まった、どうした?オートバイのサブライトがミラーにあたって光がまぶしくてポリスに捕まる「消してくれ」と車から降りてきて注意される。

「ソーリ、ソーリ」市内を結構走った・・20キロぐらい走ったろうか。ホテル前に着いたようだ。アドレスだけで一発でついた。「マネー」は「ノーノー」「すみませんでした」「ありがとうございました」。本線から50mほど入った場所に「ハドラHadraホテル」はあった。あーでも助かったなー。ホテルに入るとフロントにオートバイ二台並んでいる。おー永原さん達だとすぐわかる。

トルクメニスタンのビザを頼む「ヤスナミツアー社」はこのホテルにあるのだ。受付をすませて部屋に入ろうと、すると隣りの部屋から「オー」「アラー」と永原さん夫婦が食事に向かうところだった。先に行ってもらいシャワーを浴びて食堂街に行く。4,5分ぐらい歩いた食堂街、走っている時見て来た広い庭、いいぞ・ここにもテーブルが出ている。うまそうな食堂だ。永原さん夫婦といっしょに食事。

最後は日本の学生二人と日本が話せるウズベキスタンの男性も最後にテーブルに加わり12時頃まで話をして過ごした。

ウズベキスタン通貨
25ソン=3円
50ソン=6円
100ソン=12円
1000ソン=120円

食堂生ビール(中)250ソン=30円毎日昼間から生ビール飲んでました。
トコヤ 1000ソン=120円
ホテル 6000ソン=720円

最初50ドル=6000円を銀行で両替したら5cmぐらいの束の厚さ、金持ちになった気分になる。しかし支払う段階になると見る見るうちにへってゆく。

一日の食事
ビール中3本、焼とり4本、肉じゃがどんぶり、うどんどんぶり小。トータル2500=
300円。ホテル代、食事含めて1500円ぐらいで充分か。(2003年8月28日)



オートバイひとり旅・シベリア横断~中央アジア40-キルギス

2013年01月16日 | 赤道直下と陸路国境148か所




2003年8月25日月曜 はれ はれ はれ
ボックスがだんだん下がってきてボルトが抜け落ちてしまっている。ここのご主人と直しに出かけた。そこには地元の人たち10人ぐらい集まってワイワイいいながら30分ぐらいで直してくれた。20ソ=60円でいいとゆう。ありがたい。民宿に戻るが準備で永原さん達もう少し時間がかかりそう。マフラーのワッカを直しに再び出かけた。ついたところは先と違った個人の家でやっている修理場

オートバイマフラーの修理

ウズベキスタン国境「オシ」に向かって走る

すぐに終わるかと思ったが12時ごろに・・。心配して宿のご主人が迎えに来た。料金500ソ、いや半分だ。民宿に戻り250ソ=750円払う。民宿のおばさん達は100ソ=50円で「充分だ」とぶつぶつ言ってるのを聞いて・・どこにでもごまかす人がいるもんだなーと苦笑。家族全員の写真を撮ったりして12時15分スタート。きょうは国境まで90キロと楽勝だ、気楽に走り始める。

道路の右側はウズベキスタン、左はキルギスの国境沿いを走る
国境手前で昼飯、涼しそうな食堂に入った。食事を終えて外に出たら地元の人たちがオートバイを囲んでいる。みなさんといっしょに写真を撮る。国境の入り口らしいところに気づいてUターンした。そうだった、キルギスとウズベキスタン国境。コンテナが事務所になっている。まずキルギス側すぐにOK。しばらく1キロぐらい走ってウズベキスタンのゲートが出て来た。


ウズベキスタンの国境だったがここの国境では入れなかった。どうしてだろうか、やっぱり「オス」でないとだめなのかな。

食事していると地元の人たちが集まってきた

しかし閉まっている。国境係官「ネ―ネ―」ここじゃない「100キロ」先の国境「オスoch」に回れと。エエーッ。仕方ない3人で引き返す。でも面白い地域である。まわりは畑ばかりであるが道路の右側はウズベキスタンの畑、左はキルギスの畑国境沿いを走っていることになる。めずらしい道路だこと。しばらく走っていると、ここも国境か?行き止りである。しかしここもウズベキスタンはダメと話す。

地元の人たちの「出入りは自由」で外国人はダメなのかもしれない。わっと地元の子供たちなど集まってにぎやか、オートバイをぐるっと囲んでしまう。時間が経ってしまった。90km先国境と思って走ってきたがとんだ計算違いになってしまった。回りを見ると日が暮れそうだ。7時を過ぎている。近くの町に泊まるホテルを探そうと3人で相談。ちょっと戻ったガススタンドで給油。

給油に来ていた人に頼んでホテルまで連れて行ってもらった。早くホテルが見つかってよかった。永原さん夫婦280ソ=900円ぐらい。マツオ166ソ=500円ぐらい。シャワーを浴びて食堂で9時から11時まで夕食。わたしはここの複雑な国境地帯ジグソーパズルのように入り込んでややこしいここの国境地帯を気にいった。わたしだけあと一泊することにした。


ここの国境でも「ダメ」と追い返されたので近くの町まで走って泊まる。

右はウズベキスタン左はキルギスの国境沿いを走る。両サイドの畑は「ワタ」畑がづーっと広がっていた。


国境地帯の町が気に入ったのであと一泊する。永原さん夫婦の出発のスナップ

ジグソーパズルのような国境地帯に魅力
8月26日火曜 はれ あつい35℃ はれ
ややこし国境地帯がおもしろそうなので急きょあと一泊しようと気が変わった。永原さん夫婦は9時30分にホテルを出発、その「出発の写真」を撮った。こうゆう時はグループで走る時のいい記念写真にもなる。よく撮れればの話。ゆっくりと町の中を散歩。郵便局を探して切手を買おう。おばあちゃんと孫だろうか道ばたの出店で出会った。むかしわたしの実家の「おんぼちゃん(おばあさん)」と重なるなー。

でこんなところでめずらしい切手も買えるとなるとうれしい。何枚か見せてもらって「切手」と「はがき」8枚買った。部屋に戻ってハガキを書き終わった。夕食の時遊びに来ていた地元の若い青年二人が話しかけて来た。地下喫茶店に移り紅茶を飲みながら話を聞く「あしたきれいなところ」がある100キロぐらいのところで往復5時間ぐらいと言う。休みが取れたら連れて行くと話を続ける。「OK・いいよ」と返事した。

しかし、ホテルに戻って考えてみるとウズベキスタンに入ってから「トルクメニスタン」の「ビザ」は受け取りに3週間もかかると永原さんが話していたのを思い出した。青年の誘いはやっぱり断るべきだったかな。まぁしょうがない、早目に帰ってきて少しでも先に進むことにしよう


おばあさんと孫だろうか郵便局前で商売していた。

郵便局玄関

郵便局に入って「切手」を買い求めた。

オートバイひとり旅・シベリア横断~中央アジア39-キルギス

2013年01月12日 | 赤道直下と陸路国境148か所

キルギスからウズベキスタンに向かって3人で走る

2003年8月24日日曜 はれ20℃ はれ20℃
10時に永原夫婦とビシュケクのホテルを出発。初めて3人でのツーリングになる。先頭永原さん、みどりさん、松尾の順で走り始める。60キロぐらいして左に入る。GPS持参の永原さん…ぴったりの距離だ!すごいもんだ。心強いツーリングに気持ちもリラックス。100kmぐらいしか走ってないが用心のためベンジン給油をとスタンドに寄るがベンジンはここにはないと言う。

「エエー」2キロ戻って給油した。結果的にそこから200キロスタンドがなかったので戻って給油していてよかったなー。雪が残っている大きな山に向かっている道はときどきダートの道が出てくる程度。山頂からの眺めがすばらしい、気にいった高原の景色に出会った。山を越えて下りきった所で昼飯。コンテナみたいな小屋で食堂をやっている。しばし休憩、気持ちがいいな。


こんな山道をはしるのか・・不安だ.走り続けて峠に出ると雄大な景色がでてきた。




日本では見かけない珍しい山の形と・・珍しい色の湖も出てきた

すがすがしい高原を走る、しかし日差しが強い.。車はあまり見かけない。三人で走っているのでお互いに写真を撮ったり撮られたり、走っている姿の写真など一人ではまず出来ない記念の写真を撮ってもらった。再び山道に入った寒さを感じて来た。もっと寒くなるだろうと思って服を重ね着したが走っているうちにだんだん暑くなってきた。ベンジン・スタンドで脱ぎ捨てる。あー暑かったー。

白い岩山が出て来た、手前には菜の花みたいな花も咲いている。ギザギザになったのこぎりみたいなめずらしい幻想的な岩山。そろそろ5時になる。あと100キロ先の町をめざす。湖の前方には真っ黒な雨雲が横たわっている。今にもやられそうな雨雲。そのまま走っていると湖をぐるっと回って道は大きく右に旋回して雨にはあわなくてすんだ。

「マツオさん」って「雨雲」さえ「割ってしまうんだ」と永原さんは冗談を飛ばす。山間地帯の湖は日本では見たことんない水色の色?、違う、空色?、違うな。日本では見ない湖の色。トコトブル?の町に着いた。小さい町だ、学校みたいな誰も泊まっていないような一軒目のホテル?を下見していたら・・民宿をやっているとゆう40歳ぐらいの男が3人で10$=1200円と言ってると永原さん。

そこについて行くと宿は自宅から2、3分歩いたところの離れたアパートの4階に下見に歩いた。永原さんは荷物を4階まで上げるのが大変だから次を見つけようと言いだした。「じゃ弘ちゃん自分で見つけてよ」とみどりさんは怒り気味。そうこうしているうちに「実家」でもいいと言ってくれる。三人とも疲れて動く気配なし。ここに泊まることになった。平屋の家に荷物を運んで夕食になる。



民家に泊めてもらう。

両親、兄弟、親戚など7,8人集まってきた。なごやかな家族で親しく感じて安心できる。晩飯は外の小さい庭にテーブルで。途中で買ったビール、マカロニ、まんじゅうとか買って来ていたが家の人が手作りの料理など出してくれた。トマトやスイカも。10時過ぎても明るかったのに9時を過ぎて暗くなった。少しづつ日暮は早くなってここんとこ8時半ぐらいで暗くなってきた。疲れている11時に床に着く。


オートバイひとり旅・シベリア横断~中央アジア38・キルギス

2013年01月09日 | 赤道直下と陸路国境148か所
2003年8月22日金曜 はれ 久しぶりの青空 はれ はれ さわやかな空気 はれ
朝8時過ぎに日記を書いていると「トン・トン」ノックする音。ドアの外から「おはよう」の声・うん?日本語。「なーんだ永原さん夫婦」どうしたの?。同じホテルに泊まっていたのだ。夕べこのホテルに着いたら偶然にも「マツオさん」のオートバイがあったと話す。9時頃まで永原さん夫婦としゃべった。

帰ってきたら又と、永原さん夫婦はウズベキスタンの「ビザ」を取りに出て行った。ようやく4時頃帰ってきた。これまで1回目、2回目とも通訳を連れてこいとか「意地悪」なことを言われて申請してから9日間も待たされていた。きょうはみどりさんが切れて「ふざけるじゃない」と開き直って、ようやく今日「1カ月」の「ビザ」がとれたと話す。まずはめでたしめでたし。


「朝起きたら日本語でドアーをノックする人・・永原さん夫婦だった。自転車で旅しているスイスの夫婦も同じホテルに泊まっていた。たまたまとはいえ安いホテルで会えるとは何とも不思議なこと。永原さんと会ったのはモンゴル、ウランバートル。バイカル湖のイルクーツクに次いで3回目」

永原さんは朝9時過ぎに行ってすぐに「ビザ」発給と思っていたら午後3時に来いと言われて最後は開き直って結局今になってしまった話す。わたしはアルマティですんなり「ビザ」は気持ちよく取れたのに同じ国の大使館でも場所に寄って違うものなんだ。永原さん夫婦は待たされている間山奥の温泉に行っていた。とゆうことはわたしがこのホテルに来る前泊まっていたのだった。

このホテルに着いたとたん「アーマツオさん」とオートバイのカバーを見てわかったと話した。ウォカーを飲んで早めに寝ていたのでその夜は起こさずに次の朝にしたらしい。夜7時頃から11時頃まで今までのことこれからのことを思いっきり日本語でしゃべりまくった。永原さんが買ってきたでかいメロンはうまかった。永原さん夫婦はあした出発することになっている。朝ネットをやりに行ったたり、両替したり行ったり来たりして一日が終わった。

2003年8月23日土曜 青空はれ はれ はれ はれ
朝8時前に近くの中央広場写真を撮りに行った。レーニン像は壊したのではなく大道りの正面から目立たない裏庭に移し替えたとのことだった。裏に横たわっているレーニン像はシートをかぶせられていた。そこにいるのは工事の人だろう「マネーマネーー」指で丸を作っている。この国はお金ほしさに移動したのだろうか。移動するお金を出したのはどこの国だろうか。「条件付き」でお金を出したのだろう。

だいたいのその国は予測はつく。しかしなぜだろう、あとで後悔すると思うよキルギスは。まぁ、壊したのではなく移動したのだから地元の気になる人たちも許せる範囲なのかなと思う。

キルギスの物価100ソ(ソム)=300円
ビール(中)20~30ソ=60円~90円
ホテル400ソ=1200円
うどん50ソ=150円

永原さんの出発を部屋で待っている。10時になっても出発の気配なし。そのうちきのう市内で会ったスイス・ライダーのカップルもこのホテルに泊まっていて廊下でばったり。永原さん夫婦に紹介した。すると永原さんの知っている「ふみえ」「けんじ」さん達のこともスイスのカップルは知っていた・・・話は長ーくなっていく。結局写真を撮ったりしていたらあした24日に出発すると永原さん。

メロンを喰いすぎて腹が痛くて吐いたとか気分も良くないようだ。午後からネットを打ちに行く13:30分から16時ごろまで60ソ=780円ぐらいか。自宅にも電話を入れた40ソ=120円うん、ここは電話が安いな。夕方スイス人ライダーと夕食の約束をしている。5人でぴったり19時ホテル前のレストランに入りしゃべる。スイスの人はオートバイで旅していたが今は自転車に代えて旅を続けていると話していた。

永原さんの部屋に戻ってパソコンを見ながら11時に解散。いっしょに「連れて行って」と頼んであしたから永原さん夫婦とウズベキスタン向かうことになった。

10年前・・いま・・10年あと・・

2013年01月05日 | 赤道直下と陸路国境148か所
10年前
2002年1月1日
ペルー、地上絵のあるナスカからアンデス山脈を越えてクスコへ
クスコから列車でマチュピチュに・・。マチュピチュ町のはずれ
になる露天ふろにはいった。次の日もマチュピチュにいき、とが
った山、ワイナー山にのぼって世界遺産マチュピチュを眺めた。
降りるときこわかった。


ナスカの地上絵

インカ帝国のお墓を見て



アンデス山脈を越えてクスコに向かう

クスコの町

入場料を払って階段を上がると目の前にぱっと出てきたマチュピチュ。一番高いとがった山
に登ってみた

マチュピチュの・・これも造り上げた・・もの。


町はずれにあった露天ふろに入り次の日もマチュピチュへ


次の日とがった山ワイナー山に登った。登るとき岩に「鬼の顔」を発見・・降りるときこわかった

いま・・2013年1月
ことし70歳になる・・朝6時から8時半ごろまでトレーニング。5キロの鉄アレーをもって2キロ
先の別所沼公園。ラジオ体操・腹筋・背筋・交互片足あげ1分・腕立てふせ・ステップ運動上り下り
など準備体操いまストレッチとゆうらしいことを50分。最後一周一キロ3週から5周・・走る。今
年早いとき3キロ17分、5キロ30分を切る・・1キロ平均6分~6分半ぐらい。

8時半家に戻って朝食兼昼飯・・まず500ミリロング缶ビール×3本・・暑い夏これがなんとも
にがくて・・呑まなきゃならない、こんなつらいことはない日課。茶碗半分のご飯はチーんして卵
でおしまい。トレーニングは寒い今の冬はさぼることが多いが呑むのはさぼったことがない。エラ
イ。

新聞読んで昼寝きっちり15分・・1時ごろからパソコンに向かうオートバイの旅パソコンに移す
作業。アフリカから帰った翌年2009年からいままで3年で7冊終わらせた、あと残り4冊早く
終わらせないと・・その前に人生が終わってしまいそう・・・あせってきた。しかも目がしょぼ
しょぼしてきて文字が読めなくなりそう。

目もそうだが・・あれーっきょうは「何曜日だ」うーん?、生ごみが出てたからきょうは木曜日だ・
危険物だから火曜日だ・・「ごみ小屋」を見てわかるほど。これらの症状はアルツハイマーの始まり
らしいことを新聞で知る。うーん、そうなのか・・確実に進むアルツの進行を止めたい・・

4時になると晩飯の時間・・おそらくどっちが患者かわからない特養施設で働いている家内が仕事
から7時に帰ってくるのでその前に風呂も終わらせておく・・一緒のときでも「おかずは」お互いに
「別々」にテーブルの前は自分の好きなものが並ぶといってもわたしのは常備は梅干し、味噌二種
類。そうだおしんこ、マグロは毎回並ぶ、マグロ「ひと・さく」を20個ぐらいのサイコロ並みに
切り分けラップで包んで冷凍庫へ。食べ終わってから冷凍庫から一個出しておく。なおサランラッ
プは2度、3度洗って使う。何にでも酢を使って1カ月1瓶以上使っている。

夜はビール500ミリ×二缶、焼酎夏水割り・冬お湯割り3杯~4杯・・時には日本酒1,2合。
スナオシ干麺うどん200g一把48円の半分100グラム、他にインスタンド、ラーメン、ちゃ
んぽん、焼きそばを用意して気分によって夜は必ず麺類。メールを確認して9時には寝る。夜中、
2時か3時ごろ小便に起きる。ほとんど毎日この繰り返し。

10年後2023年
80歳か・。いくつまで今のオートバイに乗って回れることができるのか・・気になる。あと2,
3年はどうにかもちそうだが・・わからない。そういえば60才のときも同じこと考えていたなー。
シベリア横断しているとき・・道の悪さに加えて体の限界みたいなこと感じてあと、2,3年ぐら
いかなと思っていた時もあった。とりあえず今年じゃないよ鬼が笑う来年「2014年」シベリア
を走ったときハバロフスクを過ぎてじゃり道が深くてバイカル湖の近くチタまで列車に載せた。

本当は中国本土を走りたいのですが自分のオートバイで走ることは特別のこと以外認めていません
からね・・。仕方ないから・・走れるようになるまで我慢して・・シベリアの列車に載せた区間は、
いまは道も整備されたようなので走ってつないでみたいと考えています。何せ450キロと重たい
オートバイなので取り回しも気持ちも重たいです。

以上結果的にはいつも自慢ばなしになってしまいました・・ごめん。



オートバイの旅・シベリア横断~中央アジアの旅37・カザフスタンからキルギスへ

2013年01月01日 | 赤道直下と陸路国境148か所

アルマティの郊外から・・車はあまり走ってないキルギスへの道

キルギスへ
2003年8月21日 はれ20℃ はれ30℃
朝ホテルを8時に出てウズベキスタン大使館へ「ビザ」受け取りに出かける。8時40分到着。すでに待っている人が3人並んでいる。そのうちアメリカ人は申請の時会った夫婦、2年間世界を回っていると話していた。ビザは10時10分受け取った。ホテルに寄って「お世話になりました」「さようなら」「バイバイ」とあいさつして別れる。一路キルギスへ。なんとなくちょっと不安だ。

「プリャマー・プリャマー」と言うけれど・・。きのう300kmと聞いていたが標識には
220kmと出てきた。作物は作れないような高原みたいなところ・・左には低い山があるだけの風景はこれまでのカザフスタンの麦畑とは違ってきた。途中うどんを喰って走る。やっぱり初めてのみちは不安だ。国境に着いたようだ、15時。ホッとする。カザフスタンの出国手続き10分でおしまい。大事な書類?も渡さずにOK.

遠い国だと思っていたキルギスに入国
ついに来たキルギス。アーチ型になっているイミグレ。キルギスここはノー「ビザ」でOKだけれど、すぐに通れるのかと思ったら「なにか」種類が必要とかで階下の狭い部屋に連れていかれた。前の人の書類を20分ぐらいゆっくり数えている。記入する用紙は持っている。用紙を見ながら真似して書き込んだ。ちょっとせかせて「OK」かと思いきや若い係官が「ちょっ・ちょっと」食堂みたいな場所に連れて行く。

そこには年配がいた。まァ職場の先輩と言ったところか。その年配が「酒臭い」。まぁまぁと寝室へ・うん?ワイロ要求か。酒の匂いをぷんぷんさせながら「ろれつ」の回らない言葉で何か言っている。「こんなところ」で「話は出来ない」二階のオフィスで話をしようと怒って外に出た。先ほど書類を作ってくれた二階に上がって若い係官に「下のやつは酒臭いぞ」

それに「バイクのがどうの」とか「おれに文句」を言っていると告げる。あと「何が必要」なんだ。時間ばかりかかって「許さんぞー」と日本語でまくしたてる。しばらくして真面目そうな係官が来て「年配」が「アルコール飲んでいたこと」「キューズミー」みたいなことを言って謝った。これからは頼りになる若い人に任せていた方がこの国はいいなと思いながら気分はむしゃくしゃしながら入国。


キルギスの国境

キルギスに入国してすぐの地元の人たちと。

キルギスのセントラル中央官庁かと思われる場所に着いたが人もあまり歩いていなかった。

国境に入ったすぐの小さい自動車修理工場前で停まって記念写真を撮らせてもらった。いつものように首都ビシュケク・セントロまで走る。あまり高層ビルはない。人通りも少ないがなんとなくここらあたりだろうと停まって「ホテルを聞いた。200m先に「ホテル」はあると教えてもらった。受付の人は一泊10$=1200円。シャワーは水だけ、まぁいいや静かな場所だし泊まることにした。

夕食をすませて近くを散歩8時だけれどまだ太陽はある。中央広場はロシア・ソビエト時代の白い建物、クレーン車が二台停まっている。もしかしたらレーニン像を取りはらったあとなのかもしれない。それともテレビで倒したのを見たのはここのビシュケクのものだったのだろうか。写真を売っているおみやげ売店で見るとやっぱりレーニン像が建っていたのだ。

今はなきレーニン像、複雑な気持ちでいるキルギスの人もいるのではないだろうか。わたしも同じ思いである。自分と家族を養う以上のものを作ることができる、したがって人間は「働けば働くほど豊かになる」たったこれだけの教育「モラル」が行き渡らないままソビエトは沈んだのではないかと。マルクス・レーニンの考えそのものは間違ってはいなかったとわたしは今でも思う。


表舞台から「レーニン像」はクレーン車で裏の庭に移されていた。写真を撮りに行ったときレーニン像はブルーシートを掛けられていた。地元の人は「マネーマネー」と指を丸くしながら話してくれた。どこかの国から経済援助を口実に・・目立たない場所に移されたのではないかと推測した。