松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

オートバイひとり旅・シベリア横断~中央アジア  75 パキスタン・ラホール~ラワルビンディ

2014年01月30日 | 赤道直下と陸路国境148か所



スライマン山脈をこえて小さい町ふたつををぬけてラ・ホールにつく・・・ラホール駅前にて

ラ・ホールについた

2003年10月27日月曜 はれ22℃ 10時20℃ 昼30℃ 32℃ 夕方温度わからず
朝7時30分ホテルを出る。ここのホテルは交差点にあった。すでに太陽は上がっていて車も人
も三輪車も走りまわっている。あとひとつ気なっていたスタンド・・止めるとき立ち過ぎて不安
定になる。どこかで・・直そう。

スタンドの隣に行くとハンマー・・鉄板を持ってきて「OK」といいながら下駄をたたく・・。
たたいても直らない。当たり前だろ溶接してあるのだから・・仕方ないそのまま走るが「突飛」
が出てくるのがこわいのだ。道は広かったり狭い片側一車線だったり・・二車線だったり交互の
道が続く。

左側に鉄骨を扱いガスバーナーを使っているところを見つけた。Uターンして入り込む。ソーリ
「スタンドの下駄」を取り除いてほしいと指さす。あっとゆう間に20人ぐらいの人だかりが出来
た。バインダーで5分もしないうちに「下駄」を削り取ってくれた。

「いくら」「20ルピ」100ルビ紙幣しかなかったので渡すと「おつりがない」・・「ノーマネ
ー」でいい・・。無料?!すみません、ありがとうございました。これで停まるとき場所を選ばな
くて気にしなくてよくなった。停まるたびに気になっていたがこれで安心できる。途中から渋滞に
なってきた一向に進まない。

ラホール市内に入ったようだ。それにしても進まない。ひどくガスっているラホールに14時に着
いた、途中からついてきたオートバイ青年に「セントラル」「スモール・スモール」「ホテル」
を探していると話す。青年は近くをぐるぐる回る。どうもわかってないらしい。

約一時間回ってついたホテルは「ホリデーイン」高級ホテル。70$8000円レセプションで
「安くして」と頼むがとてもダメ。レセプションの人に聴く、隣りホテルは30$3600円
と高い・。そこのレセプションの人が3軒の安ホテルを書いてくれた。場所は駅前だった。

雑騒とした駅前を回りまわってたどりついた「パークホテル」3$325ルピー360円。よしよし
中庭にオートバイを入れて泊まる。なんとなく陰気さを感じるがこの安さで文句は言えまい。



ラホールからラワルビンディにむかう

10月28日火曜はれ22℃

あしたはゆっくりしようとズボンまで洗っていたが半乾きのままズボンをはいて7時40分ホテル
を出発することにした。なんとなく気持ちがしっくりこない街に感じたのだ。イスラマバードに向
かう。ガタガタのアスファルト、立派なアスファルトが交互に出る道路。

ガスみたいな春がすみみたいな・・2,300m先は見えない程のけむたい気になるモヤ?違うス
モッグかも・・。朝でも走りにくい。13時頃ラワルビンド(ラワルビンディ)市内に着いた。
「セントラル」何度かオートバイの人に聞くが英語が通じない。

市内で一度二度オートバイを停めて聞いていると地元の人が話しかけてきて「ここがセントラル」だ。
エーそんなんだ。安ホテルもここにあるらしい。Uターンして言われた場所に待っているとさっきの
「人のよさそうな」年輩の人が軽自動車で現れた。安ホテルまで引っ張ってもらった。


ラワルビンディのリーゼント・ホテル・・このホテルにはづーと最後までお世話になった。

ホテルのスタッフとガードマン

なんと真っすぐ行って左側2,3分ぐらいでホテルについた。助かったありがとうございました。
ホテルは300ルピー(5$)=600円。日本語を少ししゃべるスタッフもいるようだ。ホテル
前は道を挟んで食堂が並んでいる。小さいオートバイ屋もある。

あとでわかったのだがホテルは上に行くにしたがって安くなっているようだ。上に行くにしたがっ
て部屋の料金が安い・・国が違えばホテル階層の値段がはまったく日本と逆なんだー。「へー」こ
んなにも違うのかとなんだか不思議だ。まさかパキスタンに4カ月も滞在するとはこのときは考え
てなかった


ホテルの前の小さいオートバイ屋。ここのスタッフにはお世話になった

ホテルのまわりには食堂が並んでいる。

小野田寛郎さんのご冥福をお祈りいたします

2014年01月25日 | 赤道直下と陸路国境148か所

ルバング島でキャンプして小野田寛郎さんを待った鈴木紀夫さんは
「おいっ」の声におどろいた・・小野田寛郎さんだった。

鈴木さんは「雪男」探しにヒマラヤに出て行って雪崩で亡くなって
しまった・・なぜ小野田さん探しに行ったのか・・鈴木さんに聴きた
かった。

ルバング島から帰国された小野田さんはブラジルと日本を行ったり来
たりされていたようだ・・以前ラジオ・ニッポン放送にわたしも出演
したことがあった。

その時のデレクターから小野田さんが出演すると連絡がありスタ
ジオにお邪魔して記念の写真をいっしょに撮らせてもらった。

お会いしたとき90歳近い人とは思えないカクシャクとした小野田
さん、奥さんも一緒だった。人生の半分は戦争にとられてしまった
小野田さん。

くわしい話など出来なかったがお会いできて気持ちの区切りはで
きた。小野田さん永い間ごくろうさまでした・・ご冥福お祈りします。


ニッポン放送・スタジオにて

北朝鮮支援のため・・ドイツ・ろうあ者が来日・ご支援をお願いします。

2014年01月22日 | 赤道直下と陸路国境148か所

北朝鮮ろうあ者の調査・掘り起こしなど10数年たずさわってきたロバートさん。
日本に来て支援要請(東京都内で)。横浜・名古屋・大阪で講演会を開いて支援の
協力をお願いする。

北朝鮮ろうあ者支援のためドイツろうあ者、若いロバートさんが来日しています。
北朝鮮ろうあ者の調査・掘り起こしに10年以上たずさわってきました。

日本では各地でろうあ者対象に講演会を行い北朝鮮・ろうあ者に対する
資金援助を集めています。わたしたち健聴者も応援したいものです。

国と国はうまくいってなく、拉致問題もあって協力してとは言い出しにくい
状況ではありますが・・当たり前のことだけどまずは「国交回復」これなしに
話しは進みません。

とりあえず、一人一人の交流がいまこそ大事であろう・・とわたしは思って
います。みなさんのご協力をおねがいします。

ロバートさんとは2年前わたし松尾が北朝鮮に行った時北京北朝鮮の大使館
で会ってそのあと途中高速パーキングでは世界各国のろうあ者の集まりに貸し
切バス で来た時再びあった。ロバート君や日本人も5,6人も一緒でした。


パーキングおみやげ売り場

北朝鮮パーキングでたまたまあった世界のろうあ者たち・・バスの一番前に座っているのがドイツのロバートさん。


いわゆる38度線・・「国境」ではなくて「軍事境界線」と説明を受けた・・うーん・・同じ民族だから
そうなのか・・永い苦しいことだけど・・6か国だけではなくて・・二国間で話し合ったほうが早く一緒になり
そう・・とわたしは思う。正面の建物は韓国側の展望台、北朝鮮側にも同じような展望台が立っている。
ブルーの平屋の真ん中に38度線が走っている。この部屋だけが38度線を越えることができる。白い線は松尾が
書き入れたもの。

オートバイひとり旅・シベリア横断~中央アジア  74 パキスタン・スライマン山脈越え

2014年01月20日 | 赤道直下と陸路国境148か所

スライマン山脈に入る手前からダートの道になって・・パウダーのようなふかふかの道・・トラックの走った
あとは白い土ぼこりで・・・しばらく停車して待つ。

2003年10月25日土曜 はれ昼25℃ 長袖を脱ぐ33℃ 夕方温度計見るひまなし

きょうは日本では関東地区嬉野「ふるさと吉田会」の日だ。メッセージ届いただろうか。
少しでも早く先に進みたい6時40分ガス・スタンド・オーナーの自宅を出る。お世話に
なりました。

見張り役の兵士も6時前に部屋に戻ってきた。きょう走る道路事情についてきのう
くわしく聞いていた。それも・それもひつっこく聞いた。夜は半そでシャツでも汗
かくような暖かい陽気だった。

走り始めて80キロで給油、ここもスタンドであった。ここを過ぎた137キロから
ガタガタダートの道になった。今までとガラッと変わってしまったダートの道・・
トラックのあとについて走ると砂ぼこりでまったく見えなくなってしまう。

ほこりがおさまるまで待つしかない。まっ白い土けむりパウダーみたいだ。トラック
は歩く速さだ。あまりの遅さ。風向きを待って追い越しをかけ前に出て進む。しかし
こっちのスピードも同じで追い越せない。

前に出たとたん深いふかふかのパウダーに入りこんでしまい転倒した。フロントに挟
んでいた手書きの地図も土ぼこりの中に落ちてしまった。前から来たトラックとうし
ろから来たトラック2,3人の人に起こしてもらう。

エンジンはかかる・・変化なし大丈夫だ。顔も荷物もオートバイもまっ白になってし
まった。まだ続くのかこの悪路・・。「ソーリ」「この悪道」あと「何キロ続く」
何度も途中で会ったドライバーに聞くがはっきりわからない。

日本語だからわかるはずがないのだ。デコボコ道に入って70キロでベンジンスタンド
が出て来た。ここはディゼル用専用のみでベンジンはない。店員に「アスファルト」
の道まであと「何キロ」あと「テン(10)キロメ―タ」でアスファルトだと・・。


パウダーのような白いダートの道を抜け出して・・真っ白になったオートバイ・顔・身体・
を見て笑っている地元の人と一緒に・・。

ほんとに10キロで悪路が終りアスファルトになった。緊張の連続で汗びっしょり。
80キロを3時間かかっている。地元の人が集まっているところで休憩。真っ白になっ
ているわたしの顔を見てみんな笑っている。ヘルメットを脱いでも顔がまっ白なのだ。

地元の人たちを写真に撮りながら休憩。アスファルトになったが今度は狭い道の山岳道路
に入ってきた。トラックは片方が待機してないと通り抜けない狭さ。多少広いところで待
機している気の聞いたトラックもある。行きかう時が面倒なのだ。

トラックには必ず助手が乗っており「石」を持ってバックしないようにタイヤに噛ませる
役目なのだ。歩くより遅いトラック同士・・ほんとに遅いトラック同士。峠を越えること
が出来るかどうかと心配になる。

比較的広い路肩のある場所を狙って追い越しをかける。路肩に石ころがないところを狙う
のだ。クラクションを鳴らして追い越すがすぐにトラックがいる。停まっているように見
える走り方。


のろのろのトラックを追い越しに追い越せなくて・・ようやたどりつたスライマン山脈の峠から
下りの道路。見るからに狭くてカーブが続く恐ろしく感じた山岳道路

追い越すに追い越せない山岳道路。途中パンクして立ち往生のトラック。助手の人にオー
トバイを支えてもらい石ころの路肩を通リ抜ける。下りに入った相変わらず狭い道。
ウヘーィ3000mは楽にある山岳道路だろう。

あの南米のアンデス山脈以上の深い谷底が見えて来た。ぞーっとする。こんなところを下
るのか。慎重に下らなければ大変なことになる。

下りに入った、そろそろ、もっとそろそろ用心して時にはローギアーで走る。よくもこん
なところをトラックが走るものだ。ようやく下り終わった。もう3時を過ぎている。下り
終わった所から二車線のアスファルトでホッとする。

ムルターンまであと30キロだが手前の町で地元の青年にホテルを案内してもらい800
リラのホテルに泊まる・・17時。まっ白になってしまったオートバイを洗いたい。青年
に洗車場まで引っ張ってもらいきれいさっぱりにした。

氷をもらってビールを冷やして晩飯とする19時。目の前の道のことで精いっぱいで
「一人じゃ危ないと」ゲリらのことなど・・・すっかり忘れてここまで来るのに思い出す
暇もなかった。もっともここまで来るのに普段の国と同じで危ない雰囲気などなんにも感
じなかった。


途中の小さい町で・・オート三輪者・・食堂前で。

10月26日日曜あさはれはれはれ30℃夕方もあったかい半そでで充分19時33℃20時29℃21時28℃

夕べはムザイターゲ―ヒ?muzaitargarhとゆう町に泊まっていた。夜中に蚊にやられて
あまり眠れず。8時過ぎにホテルを出る。夕べホテルの近くにホンダオートバイの看板
を見つけていたので気になっている①セルとギア→ニュートラになってもグリーンのラ
ンプが点灯しない。②スタンドの位置が「突飛」に引っ掛かりづれてしまっている。

どうなるかわからないがとりあえず寄ってみることにした。店では「バネ」が「延びて
いる」とカットしてくれたがスタンドそのもは直らなかった。仕方なくラホールに向か
って走る。30キロでムルトン・・市内を抜けようとしたところにホンダ店の看板・・

折り返して寄ってみる・・ダメだとか・・ここでは無理のようだ。あきらめて出発しよ
うとした・・ところが相変わらずギアーがニュートラに入らなくてエンジンがかからない。
それを見ていた店の人がメカニックを呼ぶ?と店に戻った。

しばらくしてメカニックの人が来た。配線をいじくっている・・・「そこじゃないのに
なー」しばらくして前照灯をはずしにかかる・・「そこらへんなのだ!」核心のところを
直しにかかった・・

11時頃から12時頃までかかってニュートラの電気はつくようになったがギアーの位置
がニュートラに入らないのは直らなかった。スタンドの位置についてもお願いするとメカ
の人が自分の店に案内してくれる。


めずらしいかごを担いでいたので写真を撮らせてもらった

「ホンダ修理販売店」そこはメカニックの人のお店だった。お店の前でスタンドを短くカ
ットして溶接してくれた。少しは気にならなくなった。修理代「いらないと」オーナーす
みませんです。

しかしどうも立ちすぎてしまう懸念が残り不安定だ。停めるときに注意しなければ・・
スタンドに下駄をはかせているのでどこかで外してもらおう。14時を過ぎていたので
きょうは走るのをやめてここにムルタンに泊まることにした。

落ち着いた街並みに最初は感じていたが中心部繁華街に入ると走れないほどごっちゃごち
ゃした街だった。51$6000円の高級ホテルチーフマネージャーやけに冷たい感じを
受けた上に高すぎる。

で別のホテルを探した。300mほど離れた所に3$360円で泊まれるホテルがあった。
ビール・アルコールはさっきの高級ホテルでしか売ってない。そのホテルに戻って物々しい
警備員がいるところの地下特別室?に入ってウォッカー2本・ビール5本買う。

泊まるホテルの建物は旧いが・・寝れればいいんだ。感じのいいおじさんが管理している。
部屋は二階だと説明を受けきょうは早い夕食にする。

地元の子供たち

オートバイひとり旅・シベリア横断~中央アジア  73 パキスタン・クエッタ~スライマン山脈1

2014年01月13日 | 赤道直下と陸路国境148か所

イラン国境から中国国境までのパキスタンの地図

2003年10月22日水曜 はれ はれ

クエッタ―の五つ星ホテルでくつろぐ・・フロントに両替に行った。カウンターに
いた男に頼んだ。何回も札束を数え直している。一回・・3回・4回・・まったく
信用しているので何とも思わなかった。部屋に戻って計算してみるとどうもたらな
いようだ。

なぜ何回も見ている前で数え直していたのか疑うが・・。しかしパキスタン通貨を
まだ充分に把握してなかったのでフロントに戻って文句も言えなかった。人をだま
しやがってと・・イヤな思いが残った。

五つ星ホテルをいいことにこんなごまかし方もあり得ることを知る。きのう「突飛」
で転んだとき痛めたのか左足膝の内側が「あざ」になっている。歩くときビリーっ
ビリーっと痛みが走る。メンソレタムをぬってきょうは静かにしておこう。

ホテルの玄関前駐車場には満杯の状態で停めてある。兵士のジープもある。
「ソーリ」「マイ、オートバイ」「ラワルビンディ」に行く・・その兵士に走る
ルートについて聞いたみた。


クエッターを出て狭い道にわら屋根の茶店を構えた店・・めずらしかったので行きすぎたあと・・
歩いて戻って写真を撮らせてもらった

地図を見せて・・南の道はあぶない・・北に上がってスライマン山脈を越えて
いくように教えてくれた。夜は走ってはダメとも話す。昼ステーキ7$=800円
ビール、夜もステーキ・ビール。ビールは味がいい一日中ホテルで過ごす。テレビ、
デスカバリ―チャンネルに似た番組を見る。


10月23日木曜12時22℃

日陰にいると涼しいぐらい3時過ぎに暖かくなる昨夜から考えていたオートバイ
のフェンダー修理。市内を走って修理屋を探すホテルで書いてくれた地図の場所は
わからず交差点に立っていたおまわりさんに聞いた。

その場所はすぐ近くだった。10時に修理屋に入って①うしろのライトが割れて
いる②応急処置で走ってきたうしろボックスの軸を直す③突飛で転んだ時曲がった
サブ前照灯を直す以上三点。

ボックスの軸の直しには「銅線」を軸に合わせた形に沿ってガスバーナーで熱して
プラスチックに埋め込んでいく。残り2カ所同じ方法で元の形に直してくれた。
「ふーん」こんなやり方もあるんだ。フェインダー―も鉄板をあててビスを打ちこむ。

前照灯もコロッととれていたがあっとゆう間に溶接して直した。溶接のため取り外した
「風防を取り付けておしまい。14時頃だった。これでしばらくはボックスの軸につい
て気を使うことはないだろう・・。

だけど用心のため今まで通り「布ひも」「ゴムヒモ」で縛りつけボックスが下がって
来てうしろのウインカーにあたるを避けたいのだ。修理代約8$(1000円)と安
かった。

銀行でシティバンクカード使えず・・どうしたのだろう。マスターカードを使って金
を下ろす。2000ルピー。ホテルに戻ってからあした走るルートについて道路の状態、
ホテルのある町、などこまかいことをホテルに常駐している兵士に聞いた。

朝早く出発して夜は絶対に走らないこと。あしたは4時間走ってホテルに入るように
注意される。ありがとうございました。膝の痛みは強くならず安心。



ガソリンスタンドについた、オーナーが泊まって行けと話す・・この先のことを考えてお昼ごろと早かったが
きょうはここに泊ることにした。寝ていたのは旅人かと思ったがガードマンだった。オーナーと一緒。
肩に抱えているのはライフル銃

10月24日金曜 朝17℃ 22℃ 昼30℃
クエッタ―の五つ星ホテル「セリナ」7時40分出る。不安の気持ちの中に最初は北に
向かい東に走るのだが・・。郊外に出るまでがわかりにくい。きのう細かく兵隊さんに
聞いていたので少しは安心だ。本線に乗ったようだ・・よし、北へ北へ走っていく。

教えてもらった別れ道から右の道に入る。ここから東に走るのだ・・・おそらくこの道
で大丈夫だろう。狭い道になってきた、家は見えなくなってさびしい山道に入っていく。

休憩所みたいなワラで編んだ長椅子が家の前に並んでいる。うん、オートバイを停めて
歩きで戻って写真だけ撮らせてもらう。すみませんでした。狭い舗装道を走り続けて本
線みたいな少し大きい道に出た。

ここまではのどかな山道でほんわかした雰囲気の村を通ってきた。200キロを5時間
かかっている。ローラライまで7キロとゆうガス・スタンドに着いた。ここは普通のス
タンドになっていて機械で給油する。

給油を終わったころオーナーがかえってきた「お茶でも飲め」みたいなことをゆう。
「ジャパンから来た」「ホテル?」わたしの家に「泊まって」いけばいい「エエ」
「ノーマネー」でいいと言う。「ゲスト」だからお金はいあらないと言う。

この先走ってホテルがあるかどうかわからないし暗くなるかもしれない。兵隊さんの
言ったことを守ろう。時間はだいぶ早いがよし今日はここに泊まることにする。
13時を過ぎている


民家もない山道を走る・・前方にはテーブルマウンテン

時間もあるしゆっくり出来そうだ。とりあえずオイル交換することにした。トラックが
入るたびにほこりが舞い上がりオイルに入らないかと気になる。さっそくオーナーの自
宅に入れさせてもらう。


旅人と思っていたが違った・・起きてきたときライフルを抱えていたのでびっくり。昼間寝てよる警備に当たる
ガードマンだった。

「うん?」「寝ている」人もいてふとんもある「旅人か」。大丈夫かいなこの男。まぁ
いいか・・荷物を運びこんだ。部屋は15畳ぐらいあるじゅうたんを敷いただけ。トイレは
中にある。ふとんはあとで自宅から運ぶとオーナー・・。

昼飯はチキンカレーに似たものだった。これも無料でいいと。このあと寝ている男の
じゃまにならないようにフトンを敷き夕べあまり眠れなかったので2時頃から4時頃
までぐっすり眠る。夕方オートバイをガススタンドからオーナーの家の中庭に移す。


礼拝堂みたいな部屋に泊めてもらった。

部屋でオーナーのほか地元の人と雑談言葉は通じないがなんとなく話しはすすむ。不思
議なもんだ。オーナーの長男15,6才は英語が出来る。アルカイダーは悪いものでは
ないと長男は言っているようだ。

6時には日が暮れた。ここのオーナーはこの地域のガススタンド4軒(店舗)受け持っ
ていて地域のチーフだとか従業員が話していた。さっきまで寝ていた男が起きて来た。
「旅人」と思っていた男が「銃」を持って出ていく。

ウン?兵士?オーナーに聞くとテロ対策のため雇っている男だと話した。夜中は見張り
をして昼間は寝ているのだった。寒気がしてきたのでジャンバーを着たままそのままふ
とんに入る。オーナーは「食事は」と聞くが「いやー」「ノー」あまり食欲もない。

もってきたコニャックをぐいぐい呑みココナツをかじり、リンゴをかじりそのまま夜
を迎える。寒さはなくなってきた。寝る前に中庭で見はりの兵士とオーナー、息子など
といっしょに写真を撮る。

ガードマンの「機関銃」を貸してもらって写真を撮る。真っ暗なところで馬の糞を踏
んでしまった。


オートバイひとり旅・シベリア横断~中央アジア  72 パキスタン入国~クエッタ

2014年01月06日 | 赤道直下と陸路国境148か所


国境のそばのホテルで一泊・・クエッターを目指して走る

2003年10月21日火曜 はれ 朝20℃ 10時30℃ 12時33℃ 14時30℃

パキスタンの国境のホテルをジャスト8時に出る。走り出すといつものように寒い・・
これまでのイランと違って砂漠の平原が続く。ここらあたりは砂漠地帯なのだろうか。
不安になってきた。朝もやの中に平屋の民家が朝日に照らされている

道が悪いと聞いていたが最初の20~30キロだけ。そのあとはイランににも負けない
いい道路が続く。ベンジン(ガソリン)スタンドは100キロぐらい置きぐらいにある
と夕べ聞いていたがスタンドが出てこない。

「ベンジン・ベンジン」とかたまっている村で聞くと「ここだ」とゆう。スタンドでは
なくてポリ容器を集めて売っているのだった。よく見ると前にも後ろにもポリ容器を集め
ている場所が何カ所かあった。

あーそうなのか「ベンジン」はこんな風になっているところで入れるんだ。「よし、納得」
道ばたにポリ容器を集めているところが「スタンド代わり」である。それからはそこで給
油する。何回か入れているうちに「ガススタンド」がわかってきた。

オートバイタンクに入れるのは「ホース」ではなくてどこでも「ジョウゴ」に「布」を貼
って入れてくれる。こまかい「ゴミ」が入らないように布を使うのだ。左は砂漠右には光
った岩山がつづく。これ以上砂の道がつづかないようにと・・祈る。

ウーンこの調子ならクエッタには3時頃に着くぞ。よしよしと・・ところが300キロぐ
らい走った所を過ぎたあたりから道が狭くなってガタガタ道のアスファルトになって60
キロが精いっぱいである。

峠には砂が道に張りだして埋め尽くしている。「エエー」停まって歩いて確かめる。50m
ぐらなので乗り越えることが出来そうだ。ローギアーで足をつきながら転ばずに越えること
が出来た。

だんだん道幅が狭くなってくる。大型トラックが来たら路肩の砂によけなければなんない。
幸い交通量が少なくトラック・自動車がきても路肩の砂によけることなくスローで通り過ぎ
てくれる。

小さな町を左に見る。泊まるにはまだまだ早い。山に入ってどんどん登り坂カーブが多く、
ところどころジャリも出て来た。途中では「駅」ではないかと思われる場所を通過。スロー
スローで進む。


小さいものから大きいものまで・・「toppi」日本では「突飛」と書くのだろうか・・標識がでているところも
あるがないところが多い。

山を過ぎて村に入った。その入り口出口に「突飛」が出て来た。突然ドーンと飛び上ってから
気づく・・スピードを落とすためのオートバイの腹がつかえ・・スタンドの土台がずれるとき
もあった。「土盛り」南米では何回もやられてきた「突飛」だ。

線路のある前後にも造られている。注意していても大きくジャンプするほどでかい「突飛」
が出て来た。何回かジャンプした。クエッタ―市内に入る時「エエーッツ」停まらざるを
えないほど大きな突飛が出て来た。チェックポイントらしき兵士の見張り人もいる前でい
ったん停まった。

斜めに乗り越えようとしたがオートバイの腹がつかえてしまって転倒してしまった。ライト
の右が折れてしまいゴムひもでとりあえず固定して走る。なんでこんなでかいストップ
「突飛を作るんだ!」捨てセリフを吐きながら手伝ってもらって起こす。


キンキラキンのトラック・・ド派手なカラーのトラックばかりが走っている。しかしパワーが
足りなくてのろのろ・・笑ってしまった。

市内に入った。ホテルを探すため地元の人が多くたむろしている場所に止める。「ホテル・
オテル」手招きしてくれる人に着いて行く。こんな近くにホテルがあるのか。二階に上がっ
てみるとそこは「電話」する場所みたいなところだった「ノーノー」。

両手を耳に当てて「ホテル」とやったものだから「電話」と勘違いしたようだ。「ノーノー」
「スリーピング」「スモール・スモールホテル」再び聞く。オートバイに乗った青年が案内
してくれるようだ。うしろについて走る。ついたホテルはなんと五つ星180$(2万円)
だと。

ええーなんとか52$(6千円)まで下げてもらって泊まることにした。19時になっている。
でっかい高級ホテルは泊まりのお客でにぎやかさがある。兵士の姿もホテルの入り口にも玄関
前の広い駐車場にも兵士を見かける。フロントで日本人男性3人とあった。


日本人二人と日本大使館に勤めているパキスタン人と聞いた。「おれたち」はパキスタン・南
のカラチの方から列車でくるつもりだったがゲリラが○○砲?で「列所を爆破する」との予告
を聞いたので「兵士を雇って」「ジープで来た」とも話す。

クエッタ―でゲリラの話にビビる・・その話を聞いて「恐ろしいところ」に来たと本当にビビ
ってしまった。この辺は危ないので「一人は」よした方がいいと話す。危ないと言われてもど
うしようもない。

しかし落ち着いてよく考えてみると「列車が爆破」されるのなら「ジープ」の方がよっぽど危
ないのではないのか。こっぱみじんになってしまうのではないか。まじめな顔で話している本
人の方がかえってあぶない、おかしな話ではないかと自問自答して笑ってしまった。

これまで世界のその国の日本大使館に赴任して働く日本人は厳重に保護された「檻(おり)中」
で仕事しているから余計に敏感になるのだろうと思う。地元の現地の人をもっと信用して仕事し
た方がよかろうとも想う。

他の国では現地の人たちとの交流など積極的にしている大使館員もおられるはずだ。見習って
ほしいものだ。晩飯は部屋まで運んでもらってビール5本、チキン焼き7$=800円。
久しぶりに満足した夜になった。