松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅11 シベリア

2012年07月30日 | 赤道直下と陸路国境148か所
ベオゴルフスク?駅からチタまで列車で送る
チタからウランウデ経由モンゴル・ウランバートルまで地図からノートに写した。


2003年7月3日木曜 はれ12℃はれ18℃はれ18℃はれ20℃はれ30℃
起きれるかどうか不安だったが8時前に目が覚める。8時過ぎにオートバイを受け取りに行く。又何かと「マネー」を要求するのではと思っていがそれはなかった。ベンジンを入れてホテルに戻った。タクシーの運転者さんにオートバイの「方向指示器」が故障しているので直すところを教えてほしい。運転手はお客を送ってまた戻ってくると出て行った。

荷物をまとめて部屋からオートバイに積み込むとタクシーが戻ってきた。タクシーは10分ぐらい走った自動車修理工で止まった。サンキュウありがとう。50P=200円。修理工二人で荷台をはずして、うしろカバーもはず修理にかかった。タイヤカバーが割れかかった所を「溶接」、電線回路の取り替えなどすべて終わったのは13時になっていた。1000P=4000円これぐらいはしょうがないかな。

チタでの修理工場と従業員の人たちと記念写真


写真を取りモンゴルへの別れ道「ウランウデ」に向かって走り出す。日本とはチト違う家の造りを写真に撮る。なんだろう?けむっているような感じだ。近づくとなんと山火事になっている。道のすぐ脇は燃え上がっている「ヤベーぞ」。いたる所の樹木が黒こげになっている。いつもこんな山火事が起きるのだろうか。山火事はどうして起きるのかな、樹木と樹木がこすれて発火するのだろうかな?。

日本の家とはちょっと造りが違う

煙は何だろうと走ってきたら山火事で道のそばまで燃え上ってきた



途中の村か町みたいなところ(ヒオスク)についた。安いホテルがあったら泊まろう。ビッグなマイカーで通りかかった青年が「ホテル」と言ったら引っ張ってくれた。牛の群れが道いっぱい広がって家路に向かっている。道が空くのを待ってついたところは普通の家で宿ではなかった。青年はわかってなかったんだ。二軒目は休業。三軒目は外人はダメみたいな感じでダメ。ウクライナでも同じようことに出会ったことがあった。

この時間は牛の御帰還

テントを張ったところ・・「そうだ写真をとらなければ」と朝テントを撤収した跡。


しょうがないビールと食料を町で調達してテントを張ることに決める。本線に戻る途中の適当な場所にテントを張った。腹が減って場所はもうどうでもいい気持ち。テントを張り終わると同時に生ぬるいビールをガブガブながし込む。9時からはじめて10時になった。二人連れの男が何か話している地元の青年か「これは金になる」仲間を連れてくるのかも。不安になるが寝袋に入るといつのまにか寝いっていた。

オートバイ人lり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅10 シベリア

2012年07月28日 | 赤道直下と陸路国境148か所
チタについた
2003年7月2日水曜 朝12℃はれ 昼20℃はれ 30℃はれ
ゆうべ真夜中2時30分列車に乗りチタ駅7月2日9時についた。なんとなくせわし空気のチタの街。まずは自宅へ電話・留守。そのあと銀行でドルをルーブルに交換。英語のできる女性行員に「ホテルの名前」と「その場所」を書いてもらった。ありがとう。そのままそのホテルに向かう。歩いて5分ぐらいのところにあった。建物は頑丈に作られている。

入り口には赤い提灯(ちょうちん)を下げられて「ここのホテルは」「中国のホテルだよ」って言っているようだ。受付に入るとつっけんどんの態度は相変わらずである。「いくらですか」390p=1600円。朝10時だったので割り増しを取られたのかなー。370Pと言っていたに??。すぐに洗濯してシャワーを浴びて昼飯・昼寝。夕方オートバイの到着時間を確かめるため駅に行く。「21時に来い」と言われた。21時に行くと23時40分だとゆう。

モスクワ時間と現地時間がどうもわからない。「ツデイ・スリーピング。おれはもう寝る」と頭に両手を添えて「ツモーローあした又来る」。いやダメだ、あんたも来いと言ってようだ。24時に行くと列車はまだ着いてない。30分遅れで到着した。その前「取り降ろす」のに「マネー」が必要だと言う。マネーは送る駅で「払っておる」とチケットを見せる。

いや、列車から450kgのオートバイを下ろすのに別に必要だと・・。納得できないが男3人分女性一人分500P=2000円渡した。列車が着いた「どうする」のか。ホームにある4,5mの「長いベンチ」をホームから列車に渡した。おいおい・・「大丈夫かいな」わたしはオートバイにまたがり10人ぐらいでワッショイワッショイとゆう感じでホームに降ろした。そのまま駅の倉庫に保管して今日は終り。

あしたドキューメントが出来てから引き渡すと話す。深夜を歩くのは初めてなので後ろからだれかついて来ていないか確かめながらホテルに戻った。深夜2時になっていた。ホテルの中のキャバレ―みたいな店はまだ営業中である。タクシーも店の前に何台か待機中。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅9 シベリア

2012年07月27日 | 赤道直下と陸路国境148か所
ガススタンドこの窓口でガソリン(ペトロール)の支払いをする。

たどり着いたこの駅からチタまで列車で送る。構内にはレーニン像が建っていた。

めずらしいオートバイみなさん興味がありそう・・。


2003年7月1日
貨物事務所で仮眠したあと2時30分発まで駅の待合室で座って待っていた。この駅にホームはない。昼間は目の前にいつも停まっている列車のところに機関車だけが停まっている。今まで待合室で待っていた人が消えていなくなった。おかしいな??。駅員がチケットを見ながら「こっちこっち」といくつもの線路をまたいで案内してくれる。「お―」どうなっているかびっくりだ。列車は到着していたのだ。

あわてて列車に上がった。もう少しで乗り遅れるところだった。ひとまず安心だ。心をなでおろす。3号車3番の寝台車、すでに眠りについている「ごつい」顔だけがみえる。静かに横になる。4人部屋に二人だけのようだ。朝方になり毛布一枚で肌寒いなー。8時頃目が覚める。ごつい顔の男の人も起きてコーヒーを飲んでいる。「オハヨウ」「モーニング」英語を話せる人のようだ。

男の人は船乗りで日本の港はほとんど知っていると次から次と「港の地名」を並べる。男の出身国は「モルドバ・・・」と話す。男の人に相づちは打つがわたしはモルドバってどこにあるのか知らない。針葉樹の森の中、高原のなだらかな丘陵地帯を列車は走り続ける。窓から朱色の小さ花が目立って見える、山ゆりの花だ。雪の中で育った「山ゆり」はスッキリ透き通った朱色になっている。

白い花?もある。途中で停車した時雪みたいな綿ぼこりみたいな白いものが飛んでいて地面には白く積もっていた。その停車中に列車から降りて線路をまたいで屋台の売店まで行き「揚げパン」を乗客の人たちといっしょに買っていた。まわりに人がいなくなった。急いで列車に戻る・・おおっとっと、列車が動き出している・・前に走って行くがドアーが閉まっている。

そのうしろの車両には女性車掌がいてその車両ステップに飛び乗った。おおーっ「危なかったなー」もう少しで乗り遅れるところだった。女性車掌に放送で「10分」と「言ってたでしょう」とカンカンに怒られてしまった。しかし私には放送がわからないんだよ。まぁこれから注意しなくては・・すみませんでした。同室の人が「心配していたわよ」って感じで心配してうしろまで車掌が探しに来てくれた。

この列車にはひとつの車両に一人の車掌が乗っている。その車掌さんが探しに来てくれたのだ。車両ごとにお湯を沸かしてお客にサービスしている。「わたしも」「ジャパン」で「車掌」だったんだと話したが言葉が通じなくてあまり関心を示さないような感じを受けた。列車は同じような高原を走り続けている。小さい村の駅を通り過ぎる。その小さい駅のほとんどは女性駅員である。

それに二重丸◎のついた「標識の板」を列車に向けて立っている。「進め」「OK」「安全」の意味なのだろう。一定の距離で村が出てきて寒いところでも住んでいるんだなと感心する。わたしは窓から道路がどうなっているのが興味がある。づーっと列車の窓から道の状態がどうなっているのか観察を続けていた。おそらく日本からの輸入車なのだろうか。

ウラジオストックからどこまで運ぶのか泥をかぶって真っ黒くなったままかなりのスピードで突っ走っているのがときどき見える。ここら辺の道はじゃりみちではないように見えるがぬかるみの道もいたるとこで見ることが出来る。「ぬかるみで苦戦した」と永原さん夫婦がシベリアを横断した情報をネットで書いていた。走るのにはかなりむずかしいような気がする。わたしのようなオンロードオートバイではまず無理だろう。

車内にはロシア人がほとんどで夏休みにはいったのか子供連れも乗っている。わたしがめずらしいのか先生同士のロシアのカップルもわたしの部屋にもやってきた。両親はドイツ人と言う若いドイツ人もやってきてひとしきり二人で話を沸かせる。もちろん同室のモルドバの人の了解を得ながら部屋に来てもらっている。わたしの日本語英語で通じるものなんだなーと不思議に思う。あさ9時にチタについた。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅8 シベリア

2012年07月26日 | 赤道直下と陸路国境148か所
チタまで1500キロ・・じゃりみちが途中出てきたらこわくて走れない


もうこわくてダメだ、列車で送ろう
2003年6月30日月曜 はれ20℃ はれ30℃
朝6時に起床。8時に隣りの警察署にオートバイを取りに行く。フロントで「マネーマネー」と銀行の場所を聞く。が「時間が違う」と言う。??。今7時になので1時間遅くなっているのだった。荷台の補修をしていていると8時なった。下見のつもりで銀行に行って見ると9時からと聞いていたがオープンになっている。あーよかった。 両替は「3万$ドル」=3万6千円だけと言われる。それでも「OK」。

きょうはオートバイを「鉄道」で送ることだけにを考えて走る。きのうトラックの運転手さんにおそわった「ベアゴルスク駅」への道のりを聞いていると「ここの」近くにも駅があると話す。そうだそんなに遠いところまで行かなくても地元にあればそこで送ろう。地元の駅についた。小さい駅だ。「オートバイを送りたい」女性の駅員は「オートバイ」を列車に乗せる「台」がないからダメだと断られる。

しょうがない、「ベアゴルスク」まで向うことにするが、ここの道は本線から外れてしまっている。どこをどう走るのか見当もつかない。タクシーが3台程並んでいた。道を聞くとあっち行って曲がって・・ベアゴルスクまで複雑なような話しだったのでタクシーに交渉して引っ張ってもらうことにした。800ルーブル=3200円と話す。ここは頼るしかない。お願いします。じゃりみちが深くて思うようには走れない。

おろおろしながら転ばないように慎重に慎重に走る。20~30キロのスローで走るタクシーはどんどん先に行ってしまう。途中で待っててくれているが3回目にはどこに行ったのかわからなくなってしまった。「あー逃げられたのか」と頭をよぎる。相変わらずソロソロ走るしかない。恐くてしょうがないのだ。しばらく走っているとタクシーは停まって待っててくれていた。アスファルトに出た本線に出たようだ。

案内は「ここで終わり」と言うタクシーの運ちゃんと別れる。運ちゃんがくわしく教えてくた道を走っているつもりだが違っていた。「シュッポ」「シュッポ」と聞きながらあっちに回りこっちにまわってついにベアゴルスク駅についについた。15時30分。ここまで半分はアスファルトで助かった。構内タクシーの人が「オートバイを送る」受付まで歩いて案内してくれた。

オートバイを列車に載せるため、駅の場所を書いてもらう・・わからにくいなー・・ 最後は聴いて聞いて送れる駅までたどり着いた

貨物受付のようだ。あっちの事務所こっちの事務所「オートバイ」「チケット?」など支払った。「オートバイ運賃」ベアゴルスク~チタ1800ルーブル=7200円。わたしの「寝台列車」代1100ルーブル=4400円。合計3000ルーブル=12000円。ところがどっこい20時30分の列車なのにモスクワ時間とやらで発車は夜のとゆうか真夜中の2時30分らしい。あーまいったなー。

せっかく夕めしを早く済ませて7時半に戻ってきたのに・・。オートバイは8時過ぎの列車に積み込もうと待機していた。列車の乗務員に「ベンジン?」が入っていたら「ダメだとか」言われて駅の人たちは積み込みをあきらめた。貨物の詰め所で仮眠させてもらった。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅7 シベリア

2012年07月25日 | 赤道直下と陸路国境148か所
2003年6月29日日曜 はれ20℃ 昼30℃ 32℃
6時頃Nさんがゴソゴソ何かしている。「出発するの」・・「行くしかないでしょ」「短い時間でした、気をつけて走って下さい」。彼にあわせて出発しようと考えていた。しかしゆうべも「あす出発する」とは聞いていなかった。まぁ自分で走る決断をしたんだからいっしょに出ることをためらった。彼は6時半に部屋を出ていった。彼に合わてと考えていたのできょう出発するとは考えてなかった。

急なことでどうするか考えた。わたしもきのうやるべきことをすませている。わたしも7時半ホテルを出発。きのう確認していた通りハバロフスク市内からチタ方面に走る。きのう確かめていた市内からしばらく走ったところからチタ方面の本線に入った。ガソリン・スタンドで給油。店員さんに地図を見せてキロ程を聞いていた。「キーー」と急ブレーキの音。

どうしたんだろう、地元のおじさんが「横断」でもしていたのだろうと思った。止まった場所を見ると車から降りた運転手は血相変えて「ヘルメット」をかぶった人を怒鳴りつけている。相手はペコペコしている。Nさんのようだ。そして当たってないか確かめているのだろう運転手は車の「バンバー」をこすっている。あと少しで吹っ飛ばされる危機一髪だったのだ。

いよいよシベリア横断・・


走っているとボックスが「外れそう」とサイドカーで
走ってきた地元の青年がおしえてくれる。


長い直線あー悲惨な状況にならなくてよかった。考えるだけで身震いする思いだ。直線道路なのにどうしたのだろうかと不思議に思う。運転手も冷や汗もんだったのに違いない。ガススタンドに入ってきた。「どうしたんだよ」「急ブレーキをかけさせてしまった」とNさん。もっと反省しなきゃ。この人といっしょじゃどうなるかわからない。わたしより1時間前に出発したはずなのに道に迷って今やってきたのだろう。

この人といっしょじゃこわくてダメだ。そのままわたしは出発した。飛ばされそうになったこと想像するたびにぞーとする。そこから200kmぐらい走った所からがたがたのじゃりみちになった。ウへぇ―まずいなースピード30k~40km走行になる。恐いな。デコボコ、じゃりみち、砂の道。それにう回道になってきた。そろそろ走っていたらNさんは追いついて追い抜きざま手をあげて走り去った。オフロードのオートバイはじゃりみちでも平気で走れるのでうらやましい。

ガタガタ道にこわくなってきた。地元のサイドカーの人が並行して走りながら「なにか」言っている。道の端に停めた。サイドカーの若い兄ちゃんは「右」「ボックス」が「外れそう」になっていることを教えてくれたのだ。ガタゴトが続く道で「ネジ」がとれてしまっている。ボックスの荷物を下ろしてまわりの「ネジ」を締め直し、さらにゴム紐で補強した。

青年が手伝ってくれたとゆうよりほとんど一人で直してくれたので助かった。車が通ると土けむりでわまりが見えなくなる中補修を終えた。ありがとう。しかしガタガタ道でこれから先も不安になる。次のガススタンドまでしばらく青年は一緒に走ってくれた。「エエー」ガソリン(ベンジン)スタンドじゃないの。ガソリン・タンクローリー車が停まっている。タンクローリからそのまま直接給油するのだ。

「へー」まぁいいや満タンに入れる。わたしのオートバイに青年を乗せた写真を撮って「ありがとう」と別れる。いつものことだけど写真撮っても相手に渡せないから困るんだ。

タンクローリから直接給油


休憩した時地元の人たちが寄ってきた


小型トラックの親子づれに「安いホテル」を聴いたら・・
ていねいに地図まで書いておしえてくれた時の娘さん


やっとアスファルトになった「よし、よし」これまで走れなかった「うっぷんをはらそう」とスピードを上げると穴ぼこ穴ぼこが出てきてその穴ぼこを避けることが出来ずどーんと飛び上がる「危びね―」。これもトルコで味わったこわさは経験済みだ。途中で「トランクボックス」がずれてきているので再び固定しなおした。そこに小型トラックが「どうした」と停まってくれた。

もうダメだ。これじゃこわくて走れない。トラックの運転手に「駅からチタまで」「オートバイ」を「列車で送りたい」と訪ねる。きれいな娘さんといっしょだ。くわしく紙に書き込んでくれた。途中まで教えてくれたトラックのうしろについて走る。検問所を過ぎるとすぐ2分で小さな街についた。検問所で出会った青年がたまたまスーパーに来たのでホテルまで案内してもらった。きょうはここに泊まろう。

19時になっている。だいぶ古いホテル340ルーブル=1360円。シャワーはない。もうこれ以上他のホテル探す気力なし。駐車場は隣りの警察署へ200Rを100R=400円にしてもらう。二階の部屋で水洗の水がぽとぽと落ちていく。なんでバケツを用意しないんだと怒鳴ってしまう。近くでチキンを買って夕食とした。それにしてもじゃりみちはこわかったなー。もう走るのやめようと昼間から決めていた。

本線から宿に泊まるため外れた道に咲いていた花



オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅6 ハバロフスク

2012年07月24日 | 赤道直下と陸路国境148か所
2003年6月28日土曜
朝起きがけにベッドの中できょうやらなければならないことを頭に入れた。
①国境で使う書類の「コピー」
②オイル交換。(オイルフィルターここにはないだろうな)
③サインペンを買う(行った先々でオートバイにトランクに書いてもらうため)
9時過ぎに起きてフロントにいって「コピー」を頼む。まだ「カラーコピー」はないようだ。とりあえず必要なコピーを頼んだ。白黒A4=6枚=200円。えー高けー。

オートバイの駐車場から出して洗車する。洗車場で話しかけてくる人に「オイル交換」「オイル交換」と聞く。すると「そこにだよ」「やっている」のはとホテルの前を指さしながら教えてくれる。洗車を終わらせてそこに行くと、ここも「洗車場・・?」オイル交換・オイル・・・わからないようだ。オートバイを指さしてオイル・・「マースロ」とオイルのことを言うらしい。そのマースロ交換は隣りでやっていると話す。

暗い倉庫みたいなところは自動車修理工場だった。オイル交換とオイルフィルター交換もできた。トータル2000ルーブル=8000円。ちょっと高いぞ―と思うがオーナーの顔を見るとごまかすような人には見えない。うん大丈夫だ。どこでも同じだろうと自分を納得させる。しかしお金がない。若い従業員をオートバイのうしろに乗せて銀行まで降ろしに行く。

午後13時ホテルに戻る。Nさんもいていっしょにビールを飲む。これから走るハバロフスク市内からチタ方面の道を確認するために17時過ぎオートバイで下見にひとりで出かける。
最初ハバロフスクのセンタ―につきロータリー広場でハガキなど売っているおみやげ屋など見て回る。売店の人に名刺を差し出してこれからモスクワまでなどと自慢話を一方的にする。売店の人は「すごい」みたいな言葉で応じてくれる。

目立ちたい気持ちはどこに行っても直らない。話しかけられた人の迷惑などかまわないのだ・・。そのあと再びにぎやかな場所に止まった。軽食など数軒あってくつろぐ場所かなりの人が休んでいる。するとなれなれしく話しかける男二人女ひとりグループがいた。なんだかんだと聴くふりして近づいてきた。どうも普通の人と「様子が変だなー」ハハ―ンこいつらは「スリ集団」ではないかと直感。「オーノーサンキュウ」と右手をあげてバイバイ。

市内からチタ方面に入る標識まで走って下見の確認ができた「よし」「OK」だ。これでひと安心。きょうやらなければならないことが考えた以上にはやく済ませることが出来てホッとする。

ロシアのサイドカー。そのサイドカーに乗って子どもたちと遊ぶ


オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅5 ハバロフスク

2012年07月23日 | 赤道直下と陸路国境148か所
2003年6月27日金曜 はれ20℃ はれ はれ30℃
ひんやりした朝7時ちょっと前に起きた。ご主人が7時に起きてきて「紅茶」とパンを用意してくれた。ご主人にお世話になりました。ありがとうございましたとあいさつ。
8時7分にスタート。きのう看板を仕上げていたのでよかったなー。道路は工事中なのかじゃりみちがひんんぱんに出てくる。

ドキッとするほど深いジャリ道、バランスがとれない、スロースローでどうにか通り抜ける。Nさんが抜けだされずついにジャリにつかまり横転。今度は安全な場所に止めて起こしに行く。ケガはない、すぐに出発できた。まったくこの人これから大丈夫かいなと思う。「朝起きるのが遅いんですよねー」「支度も遅いんですよねー」いまそんな世間話している場合じゃないよ。

自分のこと「わかっていたら早目にやったら」「あんた」のことが「あした」から「心配なんだよ」と「口に出し」言いたいこといっぱいの気持ちだ。ハバロフスクに17時30分についた。途中マイカーの人をつかまえて「セントラル」まで引っ張ってもらった。これから先の国で地元の人に引っ張ってもらうには「このようにして」「頼むんだよ」と実はNさんに教えてあげたかったのだ。セントラルのロータリ公園にとりあえず停めてホテルを探そう。

いたいたお巡りさんが4,5人いた。これ幸いと「ソーリ・ホテル、ホテル」「安い・デスカウント・スモール・ホテル」すると無線で連絡したあと「パトカー」でホテルまで引っ張ってもらった。おまわりさんは道を間違えたのか道じゃない林の中の急な坂道を走って行く。「ちょっと待ってくれ―」と言いたくなるほどついて行くのに必死。ありがとうございました。

18時なっていた。ホテル「ザンリア」720ルーブル=2880円:一人1440円。駐車場は前のビル70ルーブル=280円。合わせて一人1720円。ハバロフスクは考えていた以上に大きな街なんだなーと思う。

ハバロフスクの広場についたらポリスが集まっていた・・「ソーリ・デスカウントホテル」
「スモール・スモールホテル」を「お願いします」

パトカーで引っ張ってもらい着いたホテル

ハバロフスク市内


オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅4 ウラジオストック

2012年07月22日 | 赤道直下と陸路国境148か所
オートバイでロシア・シベリアを走り始める




2003年6月26日木曜 小雨 雨 20℃
7時ホテルをスタート。グル―っとまわって駅に出て記念写真。きのう聞いていた道を北に向かって走る。ロータリー越えて一旦停車してハバロフスクの道を聞き直す。目の前にハイウェイが走っているのが見える。いいところで止まってよかった。あーそうなんだ。よかったよかった。一発でハバロフスクへの道に乗ることが出来た。午前中小雨、霧、雨あーいやだなー。

森の中を走る走る。雨も上がった。80kぐらいのスピード。早目の昼食、ここらへんは平坦の道。ガススタンドの中にミニ売店・もあった。きのう作ってもらったゆで卵でおしまい。Nさんはソーセージを食べる。じゃりみちになった。深いジャリのところも出て来た。Nさんがじゃりみちにタイヤを取られて苦戦しているがバックミラーでわかる。14時半ごろだろうか260kmぐらい走った所で急にふた道にわかれる。

そのまま左側に入った。ああぁーと思いストップした。まぁいいや前に進もうとしたとたん「ズドーン」どうした??。なにが起きたのかわからない。あーここで「旅も終りか」と一瞬頭をよぎる。Nさんはヘルメットかぶったまま横倒しになっている。すぐNさんを起しに行く。「だいじょうぶ」Nさんは「大丈夫です」と応える。うしろから来た赤い乗用車も止まって協力してもらった。ばらばらと小さい荷物が散らばっているのを拾う。

なんの荷物だろうと拾い上げて自分のオートバイに戻って見るとボックスがポッカリ空いている。拾った小さい荷物は自分のボックスから落ちこぼれた荷物だった。なんだ―自分の荷物だったのか。荷物をまとめてこわれてしまったボックスは予備の「ゴムヒモ」でうしろにくくりつける。これは「トルコ」で経験している。そのまま修理屋を見つけながら走り続ける。

50kmぐらい走っところで中古屋みたいな鉄骨屋みたいな家を左に見つけた。Uターンして入ってみた。ご主人はわたしと同じ歳ぐらいかな。「これこれ」「あれあれ」とと話すと平然とした顔で「お―オ―」「まかせとけ」みたいな言葉にわたしには聞こえる。こわれているボックスに穴をあけて針金を通して「完全には」閉まらないが走るには支障がない補修。

修理中子どもたちとロシアオートバイで林の中を走り回ったりして過ごす。思ったより早い1時半ぐらいで終わった。ラッキーだ。これもいい「旅の記念」になるとNさんに話して気持ちをやわらげてやる。修理が終わったころおやじさんは部屋を見せて「ここでよかったら」「泊まっていけ」と。いやこれで充分です「よろしくお願いします」と泊まることにした。さっそくビールと食べ物をおやじさんの車で買い出しに行く。

5時半と早い時間だけれど「呑み始める」。ご主人と奥さん、息子双子兄弟、おとこ、孫などいっしょに話しながら日が暮れてからも飲み続ける。買い物に行った帰りには自宅にサウナにも入れさせてもらった。離れに作ってあるサウナ小屋、「へー」これが本格的なサウナなんだ。いやなことになってしまったが結果的には地元の人たちとも話が出来たしめずらしい経験もできた。

またオートバイ修理中に近い将来喫茶店みたいなお店を開きたいとおやじさんから頼まれた「看板」も作った。幹線道路から目立つよう「べニア板」サイズに「ここがアナトりですご自由におやすみください」と日本人にわかるように二段書きに仕上げた。

(上)ハバロフスクのホテル
(中)鉄骨やで修理
(下)ハバロフスクまで524km

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅3 ウラジオストック

2012年07月21日 | 赤道直下と陸路国境148か所
オートバイの旅日記11冊

ウラジオストク港


2003年6月23日月曜 くもり はれ くもり

夕べ打ち合わせしていたホテルロビーに朝10時集まり「○○○レーチャ―?」(レジストレーション)なんだかわかんね―発音。ようするに「わたしはここに泊まって」いましたと言う「証明書」が必要になる。その証明書を発行する「警察署」はさいわいにホテルから300mぐらいと近いそこに行く。わからない文字の「申請書」とコピーも必要らしい。申請用紙を持ってホテルに戻る。

①パスポート・コピー
②ロシアビザ・コピー
③入国カード・コピー
④入国スタンプ・コピー
⑤泊まっているホテルのサイン・コピー
以上のコピーをそろえて再び警察へ。結局待たされて13時に終了。あーぁ、まったく時間がかかる国だこと。ホテルに戻ってNさん、イトウさん、松尾3人でホテル内のレストランで昼食は中華を注文。

Nさんと二人でオートバイの受け取りにタクシーで向かう。きのう港で聞いていたオフィスに行くがカスタム(税関)は別の場所だと言う。タクシーで向うがカスタムはかなり離れた山の上にあった。カスタムで「受け取った」「申請書」はロシア語「まったくわからない」ばかりか「書くこと」などまったく出来ない。受付には大勢並んで申請している現地の人に聞いてもお互いに言葉がわからない同士。

「悪戦苦闘」とゆうより「手も足」もでない「お手上げ」状況になってしまった。申請に来ていた御婦人が見かねたのか係官のいる個室に連れて行ってもらった。何か話してくれた。いったいどうなるのか途方にくれていると、「どこでどうなった」のか、こちらに向かっている人がいると聴く。
てっきり現地で働くロシア語がわかる日本の「商事会社」かだれかが来てくれているのだろうと思っていた。

「ジャパン」「ジャパン」と呼ばれた。黒の乗用車が来ていた。運転手さんは現地の人。車に乗って話しを聞くと「日本大使館」の車だった。「すみません、お世話になります」大使館で必要な書類すべてを「コピー」してもらった。コピー代は「いらない」と言うありがたい。ふたたび「カスタム」に戻った。どうにか5時に終了。しかしオートバイ受け取りは、あした24日9時30分に来るようにと言われる。

夕方5時30分発シベリア鉄道でモスクワに向かうイトウさんを見送りに駅に向かう。Nさんと二人で発車間際の列車を探したが残念ながらわからずじまい。列車は5時40分発車した。あしたコミナミさんが第二シベリア鉄道でモスクワに旅発つと聞いているがおなじ時刻なのだろうか。夕食はニワトリブロイラー丸ごと162P=648円を買って二人で割って食べる。今晩はこれだけで終わり。


ウラジオストク~モスクワまで走るシベリア鉄道

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅2 ウラジオストック

2012年07月20日 | 赤道直下と陸路国境148か所
富山・伏木港からウラジオストク行フェリー2003年当時(2012年現在運航していない)
今2012年は島根の境港から韓国経由ウラジオストク行が運航されている。


6月20日金曜 小雨 くもり 小雨
9時に税関に行く。出国手続きは15分で簡単にすんだ。日記の「ノート」、カミソリの刃、「パンク用ガス」を買うため高岡市内まで走る。気にいった「ノート」はなかった。13時に乗船する。14時から船のレストランで食事。15時「FKK」(FKKエアーサービス株式会社 )の人におそわりオートバイを積み込む場所の「入口」まで動かす。オートバイがあと一台あった。北海道からシベリア横断するNさんだった。二人だと心強い。

「これからもよろしくと」握手する。Nさんなんだか手が震えているいるように感じたな。いよいよ出国。18時出港だけれど少し遅れて出航。きのうの台風も熱帯低気圧に変わったようでホッとする。船のレストラン兼飲み屋みたいな所で日本人の旅行者のひとり旅。イトウさん、コミナミさん、イチジョウさんなどと夜遅くまで飲みながら語り合う。船は静かに静かに進んでいる。

6月21日土曜 くもり はれ
日本海は荒れると聞いていたが船は揺れないで進んでいく。きのうの夜も飲んだ船内の船尾に「焼き鳥」がある。そこで午後からビールを飲みながら過ごす。夜は「歌」や「踊り」それにめずらしい楽器を使って世界をまわっている長野出身のMさんたちのアトラクションを見ながら「ひとり旅」の人たちといっしょに夜遅くまで過ごす。

実際に使ったノートに書きいれた地図