松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

いごごちのいいナイロビ 2 ケニア

2007年09月28日 | ケニア

ナイロビ宿「ニューケニアロッジ」4人部屋800円私は貴重品も置きっぱなし
つりカヤがベッド別についているが蚊はいないようだ。


ホテル前はバス乗り場で朝から行き先を告げる声でさわがしい


オートバイは裏口の狭い通路から倉庫で待機、ここから出すのが一苦労


ナイロビ市内、ビジネス街は5時、食堂は6時に閉める店、24時間の店など
危ない町と聴くが、そんな感じはいまんとこないようである。


2007年9月24日月曜 はれ
土曜、日曜と休みだったザンビア大使館に朝一番オ
ートバイで出かける。久しぶりにオートバイを狭い倉
庫から引っ張り出して朝のラッシュの中混んでいるナ
イロビ市内を走る。

マイカー、ミニバス、トラックはどんどん突っ込んでく
る。ちょっと隙間があるとどんどん寄せてくる。びび
ってはいられない。オートバイにまたがるとこっちの
もの上り下りの車の流れに真横から突っ込んで一台
ずつ止めて横切る。

その後すいている道路をこれ幸いとユーターンした
ところにポリスが二人。「ア、まずいな」止められた。
「ユーターンはだめだ」「免許書を出せ」聞こえない、
わからないふりして「今日始めて」「わからんばい」
などと日本語でしゃべり続けた。「よし行け」と許して
もらった。ありがとう。

これだけ混んでいるケニア市内で今まで接触、追突
の現場は目にしたことはないケニア人の「運転技術」
はへたじゃない。

9時にすんなりザンビア大使館に着いた。申請書を渡
されたが私は「字が読めない」まして細かい文字は見
えないから「代わって」書いてもらうよう返した。しょ
うがないなー」見たいな顔して受け取って記入して
もらった。写真2枚提出。すみませんねーありがとう。

受け取りはあした25日朝10時。3ヶ月ビザ代25$=
3000円。思ってたより安く助かった。

晩飯は日本人男女6人で食べる。自転車でアフリカ
縦断中のTさんの手作り煮込みご飯、みんなで食べ
た、うまかった。エチオピアであったN君も今日着いた。

2007年9月25日火曜 はれ
ここナイロビの天気は今までと違った一段とカラッと
晴れわたり午後に出ていた入道雲を見なくなった。
ザンビアのビザ受け取りにオートバイで出かける。10
時前につく。

受け取った後ウガンダ大使館にビザ申請する。場所は
きのう確かめていたのですんなり大使館へ。申請書は
きのうと同じように係官に記入してもらった。ビザ当日
午後4時受け取り。3ヶ月ビザ代も50$=6000円。

同じ宿に泊まっているウガンダ人に今は雨雨で洪水に
なっている新聞を見せてもらう。10月になれば「雨もお
さまる」と教えてくれた。ビザが取れたらすぐに走ろう
と思っていたがこれから進むウガンダは10月に入って
からにした。

今日も晩飯はみんなでたべる。今日はカップルの作っ
たスパゲティ、うまかった。90S=180円で作ってもらった。

2006年9月26日水曜 はれ
ウガンダへは10月にはいってから進むことにしたので。
きょうルワンダのビザを取りに行く。ホテルから歩いて
いける近い所。立派なビルの中にある。入り口で身体検
査「マイ、ピストル、スモール」「ときどきビッグ」と股を指
差す。男女の係ニヤニヤ笑って通してくれる。

ここルワンダのビザ申請書も「むずかしい」「文字は読
めない」と係り人に返す。けわしい、冷たい顔で「イング
リッシュ」じゃないか、英語もわからないのか。「マイ 
ジャパニーズ オンリ」とやりとり最後は合唱ポーズで
お願いした。

受け取り当日午後4時、ここルワンダは一ヶ月のみのビ
ザしか発給してくて、一日でも一ヶ月でも同じ値段と言
われる。一ヶ月ビザ代60$=7200円オー高けーなー。

今日の晩飯当番は女性二人組。焼き飯、サラダはうま
かった。


いごごちのいいナイロビ 1 ケニア

2007年09月28日 | ケニア
再びケニアナイロビに戻る

ナイロビ市内は朝が早い信号はあってもなくても同じ、車をよけながら通り抜ける。お年よりは
あるきずらいだろうなー。ここらあたりはビジネス中心街かなー。ビザを取りにいった時撮った。


宿ケニアロッジで晩飯は当番制で作ってもらっている、口ばっかりのわたしは、
でしゃばりでいつもご馳走さまだけ。きょうのスパゲティもビールもうまかった。
今晩の食事代一人90シリング=180円ぐらいかな


宿の通路と屋上洗濯物は屋上に干し場、トイレ、シャワーはすべて共同、トイレは
洋式と手桶水でお尻を洗う二通り。紙も節約できてすっきりする私は手桶派

2007年9月22日土曜 はれ
きのうケニアナイロビ宿「ニューケニアロッジ」にもどる。
エチオピアと違って朝からからっと晴れてきもちいい。
ネット屋でパソコンをつないでもらい日本に送信。

ナイロビ物価
宿「ニューケニアロッジ」
4人部屋一人400シリング=800円
シングル500S=1000円

ビール500ml85S=150円
ニワトリ半分200S=400円
ニワトリ四分の一100s=200円
トマト中10個=100円
玉ねぎ中10個=100円

2007年9月23日日曜 はれ
日曜でナイロビ市内は一段とにぎやか。
全部で30人ぐらい泊まれるここ「ニュケニアロッジ」
宿には日本人旅行者が10人近く泊まっていて今まで
多かった欧米人の姿はめっきり少なくなった。

日本人旅行者は北から来た人南から来た人、近くの
観光地やサファリーツアーに出て行く人、戻ってくる
人と入れ替わり立ち代りのにぎわい。ただ毎日出て
いたサファリーツアーは一週間に一回と少なくなっ
た。

づーっと先の話になるがこれから南アフリカまで走
ったあとガーナーにオートバイを送るつもりでいる。
オートバイは送れるが本人のガーナーのビザをどこ
で取ればいいのか探していたが日本人旅行者がガ
ーナー大使館は南アフリカにあり、ビザが取れそう
なのでひとまずホッとした。


うれしくなった

2007年09月26日 | ケニア


弱肉強食の世界 ケニアサファリにて

2007年9月25日火曜 はれ
9時半にビザ受け取りにザンビア大使館へ、
女性係官3人ザンビアに入るのにタンザニカ
湖から船で入りたいが「船は運航」してます
かと聴くルワンダの人から「運行しているか
ら大丈夫」と聴いてはいたが確認のため聞い
た。「OKOK」の返事。

年配の一人の女性はブスーッとしていたの
で頭の上に「人差し指を突き出し」て怒っ
てるか「マイワイフ セムセム」とおどけ
て見せるとその女性は声を上げて大笑いした。
3ヶ月ビザ代 25$=約3000円

その足でウガンダ大使館へ。ここは先日場
所を確かめにきていたのですんなりとわか
った。ここでも申請書は男性係官に代わっ
て記入しもらう。ここは当日受け取り午後
4時から。3ヶ月ビザ代 50$=6千円
うーん高いなー。

ルワンダ、ブルンジビザはウガンダについ
てからとろう。

うれしいこと
これまで国境での申請書は「自分の名前」
と「パスポートナンバー」以外はローマ
字で丁寧に「わかりません」「すみませ
ん」「よろしく」「お願いします」など
と書いていた。

最近はそれも面倒になりローマ字ではなく
て「ひらがな」で書いて提出してきている。
これでも何の問題もなく国境を越えられて
きた。

さすがアフリカだ、英語だけじゃないん
だよねーその国の文化、その国の文字を
「尊重してくれている」んだなーといい
ほうに取っている。何かうれしくなった。
アフリカは偉い。

ナイロビは今はれ、ザンビアビザ

2007年09月26日 | ケニア
2007年9月24日月曜はれ
月曜になるのを待ってザンビア大使館へ
ビザ申請、久しぶりに宿からオートバイ
を引っ張り出して走る。

狭い宿の倉庫から引っ張り出すのに苦労
する。ここナイロビ市内は車がどんどん
突っ込んでくる。びびっていては走れな
い。

オートバイにまたがったらこっちのもの
横断中の車の中に真横から突っ込んでい
く、一台一台止めながら横切る、根は優
しいケニア人、片手を挙げてありがとう。

すんなりとザンビア大使館に着いた。ビ
ザ申請書を渡される「私は字が読めない」
からと係官に話すとすんなり受け取りかわ
りに書き込んでもらった。受け取りは明
日25日10時。










エチオピアは雨あめ、寒かったー

2007年09月22日 | エチオピア

        首都アジスアベベ市内 エチオピア


         アジスアベベ市内 エチオピア


2007年9月15日土曜 
朝から雨。同じホテルに泊まっている日本人三重出身Nさんが
ホットシャワーを借りに部屋に来た。どこかのホテルで食われ
た南京虫の痕が赤ぐろくなっていてかゆい、かゆいとなげい
ていた。

2007年9月16日日曜17日
アジスアベベから南の方300kmアワサ湖に移動する。づーっと
雨続きで毛布がだんだん重くなってくるようで憂鬱だった。朝
4時半起き雨の中バスターミナルへ。一番バスは6時出発。暗い
うちからターミナルはごったがえすにぎわい。

バス代300km=31S=片道450円と安い。だんだん晴れてきた、
アワサ湖に12時到着。Nさんと三日間ここで過ごすことにした。
一泊20S=300円Nさんは別のホテル30S=450円。朝から太陽
が出て晴れたホテルのベット、毛布は軽くて気持ちいい、やっ
ぱり晴れてないと気持ちも優れない。来てよかった。

ホテルの裏方、帳場で毎日朝のコーヒーから昼飯、晩飯と小さ
なイスをテーブル代わりに帳場の仕事をながめながら裏方さ
ん5,6人としゃべりビールをご馳走したりして楽しんだ。表のレ
ストランやバーで働く人がひっきりなしに食事の注文を持って
くる。ただ夜半1時過ぎまで大音響のもとで寝ることになった。

最初洗っていたのは麦かなんかだろうと思っていたのは、コー
ヒー豆だった。洗い終わったあと干して二日目に平たい釜で炒
り豆引き機で挽いて店に出していた。ふだんうまいと感じない
コーヒーの味はうまかったー。ビールの中でもドイツビールのう
まさのごとくである。コーヒー2S=35円 小ビンビール5S=75
円。何とかランチ10=150円

          コーヒー豆を干す


          コーヒー豆を平たい釜で炒る


コーヒー挽き機で挽く、左の赤いのはトウガラシ、あとで石でこすってつぶしていた。


 こんなにコーヒーがうまいとは知らなかった。一日中調理場にたむろして過ごす
 この奥はかまど三つ1mぐらいの高さでまきをくべていた


2007年9月19日水曜
ゆううつなアジスアベベに戻る。着いたとたんに大雨になった。
Nさんはそのままケニアに向うと話していた。

2007年9月20日木曜雨くもり
あした21日ケニアに戻る飛行機の確認に朝一番エチオピア航
空に行く。エー「午後発15時15分」は「午前発9時45分」に変更
になっているのだ。アー確認に来てよかったー。横着してその
まま空港に行くと「飛んだあとに」なってしまう所だった。

「カラスは黒い」のが常識と思っていたら「灰色」や「首が周り
が真っ白」のカラスもいるように飛行機の変更はここらあたり
では普通なのかも知れません。自分の常識だけが世界の常識
とはならないことをあらためて思い知らされました。

2007年9月21日木曜 エチオピアくもり ケニアはれ
うつらうつらしている間に朝になった。6時すぎにエチオピア
空港へタクシーで向う。約30分で到着。途中の道路では未来
のオリンピックを目指しての早朝練習は集団、あるいは個人で
走り抜けていました。

1時間遅れでケニアに飛んだ。待ってる間レバノン出身、ルワ
ンダ在住の男性と話をした。ルワンダの隣ブルンジからザン
ビアへタンザニカ湖を「船で行きたい」と思っている「船は
運航」してだろうかと聴いた。あー「大丈夫」の返事。ルワン
ダにきたら電話せよと電話番号を教えてくれる。

マラソン はだしのアベベ選手のお墓参り

2007年09月22日 | エチオピア

オリンピックではだしのアベベ選手に驚き、衝撃的な感動を受けたアベベ選手に感謝をこめて
ご冥福をお祈りしました。何者かによって倒されていましたが近いうちに修復されるとのこと、
よかったです。


2007年9月13日木曜 朝曇り 雨 夕方曇り 夜雨
薬を飲んで寝たせいかぐっすりと眠れた。起きたら
10時を過ぎていた。朝から雨だ雷もなっている。洗濯し
て干していると晴れ間も見えてきた。がすぐに大雨に
変わった。ホテルの人は雨だろうがなんら関係ないよ
うにシーツを洗濯して干し続けている。いつ乾くのだ
ろうかなー。

風もだいぶ良くなったようなので4日ぶりにシャワーを
浴びろう。ホットシャワーの部屋90ブル=1200円に部
屋換えする。あったかいシャワーは気持ちがいい。夕べ
ここで喰ったひつじはどうも俺には合わないようだ。
自分で「うまい」と思う「食い物」でないと体力が落ちて
しまうように感じる。


レストランのことをスタッフに聞いていると二階の窓から
近くにうまいレストランがあるとイギリス人が教えてくれ
る。同じ2階の別の窓から「ちょっと待って」と下りてきて
少し離れた場所にステーキのうまい店があると地図を
見ながらイタリア人は教えてくれる。

夜は近くのレストランに行きビーフステーキを注文。おそ
らく固いだろうなー期待してなかったが量といい、味は
「うまい」範囲に上、中、下があるとすれば中に当てはま
る味だった。値段は15ブル=200円ぐらい。

パン2個と小さいジャガイモ2個が残った。ここに歩いて
来るとき道路石垣の脇にビニールシートだけで過ごして
いるルンペン2,3人を思い出したので店の人にビニール
袋をもらい帰りに彼らに渡した。

10時近くホテルに戻るが、ホテルのバー、レストランはま
だまだこれからといった感じの賑わいを見せている。

オリンピックマラソン アベベ選手の墓参り

エチオピアの英雄 マラソンのアベベ選手のお墓はアジスアベベから30分ぐらい車で走った
所にありました。花束をささげてきました。


2007年9月14日金曜 雨 曇り 雨 曇り
エチオピア首都アジスアベベ 肌寒い三日目の朝を迎え
る。朝からどんよりの空模様の中から太陽がのぞいてい
る。湿気が多いせいかのどの具合は軽くなった。夜中に
口がからからになり2度、3度水を飲んでいたがそれもな
くなった。

朝から晩まで同じ服装で寝起きしているほど肌寒い。雨が
上がった午後ホテルスタッフが車に誘う、どこに行くのか
知らないが乗る。スタッフの友人も一緒だ。アベベ市内を
あっちこっちと説明しながら走り、最後小さなレストランで
ビールをご馳走にな(りそこなった)

3人でビールを飲みながらオリンピック2連覇アベベ選手
の話になる。出来れば行ってみたいと漠然と思っていた。
「アベベ選手の実家を知っているか」と二人に切り出して
みた。「知っている30分ぐらいでいける」じゃ「明日連れて
行ってくれ」

二人は今日しか時間がない「今から行こう」となった。今5
時前だ。ホテルにカメラを取りに戻り車を走らせる。「アベベ
はイスラム」か、いや「キリストだ」。途中花屋で花束を買う。
黄色いバラの花。なるほど30分ほどで実家ではなくてお墓
に着いた。

門構えの霊園に入り真ん中にアベベ選手のお墓が立ってい
た。ゼッケンナンバー⑪のランニングを着けて走っているモ
ニューメント像。東京オリンピックの時のナンバーなのだろう
か。残念なからその像は何者かによって倒され横倒しになっ
ている。

43年前(昭和39年1964年)東京オリンピック、マラソンランナ
ーは、はだしでトップを走っている。その姿を見た時の驚きと
興奮をいまでも忘れない。ゴールした後も余裕しゃくしゃくの
アベベ選手に度肝を抜かれる思いだった。晩年は車椅子で過
ごしていることは知っていた。感動を与えてくれたアベベ選手
のお墓に花束をささげ、ご冥福をお祈りする。

最初写真撮影はダメだと言っていた見張り番は撮影を許可し
てくれる。ホテルスタッフが交渉してくれたのだろうか。10ブ
ル150円払った。モニューメントを倒した男はすぐに捕まった、
モニューメントを近いうちに元どうりに直すことも決まってい
るようだ。

ちょっとした話のきっかけでとんとん拍子に話が進み、漠然と
思っていたことが今日あっけなく実現出来て何か不思議な感
じのする一日だった。思っていることは話してみるもんだなー
としみじみ思う。

エチオピアに入りました

2007年09月22日 | エチオピア
 
        首都アジスアベベ市内 雨ばかりで寒かった。

9月12日エチオピアに入りました。

2007年9月12日水曜 朝ケニアはれ 午後エチオピア雨
泊まっているナイロビ「ニューケニアロッジ」をタクシーで
朝8時20分に出発。8時にとホテルスタッフの知人に頼んだ
タクシーは来なかったので別のタクシーを呼んでもらう。

朝のラッシュを考えて早めに頼んでいたのだ。走行中私に
運転手がポリスに聞かれたら「フレンド」と答えるようにと検
問のポリスを前に話しかける。ハハーンこの車は日本でゆう
白タクなんだー。「OK OK」と応える。ポリスの検問もなくナイ
ロビ空港に9時前に着いた。

飛行機の出発は12時15分。搭乗手続きカウンターもまだあい
てない一番乗りである。10時前に始まった搭乗手続きカウン
ターの前にカーゴに荷物を載せて一番前に並んでいたのに
平気で3人が搭乗手続きをすませている。これも国柄で順番
待ちが出来ずわれ先にとの考えなのだろう。

日本でもバス、電車、列車など着いたとたん入り口にドッと流
れ込んでいた時代は昭和40年代(1970)前半まで続いていた
ように思う。飛行機の席はいつも一番後ろの窓際を取るため
にいつも3時間前に空港に着くようにしている。飛行機から景
色を見るのが楽しみだから。

いつか翼の上の席で何にも見えないで悔しい思いをした。そ
れ以降は間違いなく景色を見れる一番後ろに決めている。
座席を取るとき飛行機を描き一番後ろの窓印を見せながら
行く先によって左側を取ったり右側を取ったりしている。きょう
も一番うしろ左窓際A席を取った。

ビールが有料(ユナイテッド)やアルコールのない機内食が出始
めた中でエチオピア航空はビールが出た。搭乗するときスチュー
ワデスさんに「ビールOK」と聞くと「OK」の返事。「マイ2」と伝える。
水平飛行になって機内食が来た、ビールを2本忘れずに置いてい
ってくれる。うれしかったー。

赤道を越えて北半球へ二時間、エチオピア、アジスアベベ空港に
14時17分2分送れのほぼ定時刻に着いた。エチオピアの上空は曇
りで楽しみの景色は見られなかった。空港は雨模様。入国手続き
も問題なし。ここでも後ろから割り込んでくる者あり「順番順番」
と日本語でさとす。

アジスアベベ、セントラル市内までタクシー。空港内で両替屋、係官
など2,3人に市内までのタクシー料金を聞く。100、40、50、とまち
まちだったが大体の相場はわかった。タクシーの運転手が近寄って
きた。セントロまで60.私は「50」といいながら次のタクシーに向う
さっきの運転手は負けて「50」「OK」ときた。

パークホテルと告げるとOKの返事。30分ぐらいだろうかわき道の
ガタガタ道に入るエーッと思ったが確かに「perk hotel」の看板。
雰囲気はいいが入り口にはにぎやかなバーと右手にレストラン、と
りあえず宿泊手続きシングル共同水シャワー  45ブル=600円
        シングルホットシャワー付  90ブル=1200円
ぐらいか(まだエチオピア通貨がわかっていない)。風邪気味でシャ
ワーを教は使わないのでシングル45ブル=600円に決める。

荷物をレセプションに置いたまま他のホテルをあたってみる。正月だ
からだろうか、きらきらぴかぴかのネオンに大音響、日本の昔のキャバ
レーみたいだ、店内は正月らしく着飾った男女がいっぱいでビール
などを飲んでいる。部屋はその店内を通り奥の方にあったり、裏手に
まわったところにあったり、それにしてもこの大騒音じゃ慣れないと眠
れそうにもない。

4,5軒見て回る、どこもバーとホテルが併設されていて同じにぎや
かさである。正月だからなのか4軒はいっぱいで断られる。これに比
べると最初のパークホテルがまだ静かな方で落ち着きがある。もっ
といい雰囲気があるホテルがあったら替えようと思ったがこのパー
クホテルに泊まることにした。

荷物を部屋に運んで落ち着いた後、満杯のお客で大賑わいのバーに
はいる。ビール、隣のレストランにひつじの肉(しかない)を注文。ビー
ル小瓶5ブル=65円 ランチ15ブル=200円。こちらから話しかけな
いとあまり向こうから話しかけては来ない、にぎやかなのは嫌いじゃ
ないが風邪気味なのでビール2本と持ち込みのウィスキーを飲みな
がら8時過ぎに部屋に戻る。

きのう9月11日はエチオピア暦2000年1月1日にあたるらしい。きょうは
1月2日。63歳の私は56歳になった。正月のしきたりだろうか、ゴザを
作る井草を4,50cmに切り落とし、どこのホテルでも玄関から店内まで
巻き散らかしてある。さしずめ松飾りにあたるのだろうか。

ここアジスアベベは標高2400mもあるらしい。寒い寒い上着5枚下ジ
ャージーの上にジャージーの重ね着、風邪薬を飲んでベッドに入る。
今年もいい年でありますように祈ろう。
2000年新年を迎えた90カ国目のエチオピアでした。

ナクル湖のフラミンゴ

2007年09月10日 | ケニア

    ナクル湖のフラミンゴ、ほんとにすごい数のフラミンゴでした。


9月5,6,7,8日ケニア サファリー
に行きました。4日間300$=3万6千円
キャンプ地テント泊まり、もちろん食事つき
ではありますがちょっとちゅうちょする金額
です。入場料が高いので致し方ないことなの
でしょうか。

そろそろ雨期に入りますので少しは参加者は
減ってきているようでした。それでも毎日毎日
ツアーが続く人気のサファリなのです。ナクル
湖のフラミンゴはすごいものでした。

移動に丸二日間かかりましたので実質二日間
です。タンザニア、マニャラ、ゴロンゴロに
比べると身近に見られる動物の姿、数も少な
いように感じました。もっともその日によって
い違いはあるのでしょうが。

それにしても移動の道は前がまったく見えない
ほこりの道でした。昼間でもライトをつけて走っ
た区間もありました。よく事故が起きないもの
だと思いました。四日間ほこりを吸ったおかげ
でのどがががらがらで風邪気味です。

エチオピアのビザを取りました。ケニア、エチ
オピアの道が悪くて私のオートバイでは無理の
ようです。このあとオートバイはナイロビにお
いてエチオピアに向います。

ナイロビ スラム街を歩く

2007年09月09日 | ケニア

          ナイロビ スラム街の子供たち

2007年9月3日月曜 はれ
タツさんの案内でナイロビ、スラム街を歩く。マコトさん
ヨウコさん、ユウ君の5人。ナイロビ一番のスラム街に
ミニバスで9時に出発。狭い路地、スラム街特有のすっ
ぱい臭いが鼻をつく。

子供たちの「ハウ ズウユウズ」あっちこっちからひん
ぱんに声がかかる。ナイロビのごみが集まる場所には
何を拾ってるのだろうか親子の姿、豚もいる。2時間程
歩いてスラム街のはずれに来た。


           ナイロビ スラム街のトコヤさん

途中には小さな小屋に学校らしき所では、地元で育った
先生にも会った。タツさんが引き継いだ学校に着く。学
校と言っても小さい掘っ立て小屋に小さい庭にブラン
コと滑り台があるだけ、どちらも手作りのもの。机など
あるはずがない。

タツさんの話によると7年前に立ち上げた日本人から
タツさんが引き継いで3年あまりたった。4ヶ月前に誰か
が放火したらしく小屋の焼け跡が残っていた。何の「恨
みがあるか知らない」がこれまでもいろいろあったと。

いいことをしていることだけどなかなか理解を得るの
がむずかしいようだ。優しい顔の40代,50代、60代の
3人の女性の先生に「学校を閉めますから」と長い時間
をかけて話していた。

途中で煮ていたなべを下ろしに来た先生の顔は曇って
いる。最後に別れのあいさつをした時先生の目には涙が
たまっていた。庭のブランコには小さい子供たちがはし
ゃいで遊んでいる。


           ナイロビ スラム街を歩く

子供たちや先生たちのことを考えると「何とかしてやり
たい」気持ちはあるが何にも出来ない「旅びと」のむな
しさ。学校を立ち上げることも難しい、しかし続けること
の方がいかに難しいことかも思い知らされた。

23歳で引き継ぎ今27歳のタツさんも顔には出さないが
やはりやるせない思いは後姿から察することが出来る。
5人はうちひさがれたようにスラム街をあとにした。私
には到底出来ないこと。出来ることを精一杯やったタツ
さんに感謝。

すごい人がいるもんだ。

2007年09月02日 | ケニア
2007年9月1日土曜 はれ
暑くもなし、寒くもなし快適な朝をナイロビで迎
える。4人部屋ドミトリー400ケニアシリング800円
日本人だけである。全部で日本人10にぐらい泊まってる
ようである。

昼飯は夕べいっしょに飲みに連れてもらった「たつ
さん」の経営するレストランに同じ部屋のマコトさん
ヨウコさん3人で出かける。さっそくビールを注文し
た。待ち合わせはしてなかったのにいっしょに夕べ
飲みに行ったコウさんも入ってきた。お互いに「アレ
ーッ」。コウさんはジャーナリストカメラマン。

すごい人がいるもんだ!
そこへ男女二人が入ってきた。タツさんの紹介によ
ると「アイハラ」さんと現地の奥さん「ジャシンタ」さ
ん。アイハラさんはタンザニアとケニアの国境ナマ
ンガで小さい子供たちの面倒を見る「キラキラ」と
言う施設を立ち上げている方だった。

孤児の世話もしていることもアイハラさんから伺っ
た。日本では医者の資格を持ってることも分った。
世界を走っているといつも自慢話している自分は
恥ずかしくみじめに感じる。そこへ中年の男と若い
人たちがぞろぞろ入ってきた、小さい食堂はいっぱ
いになる。

中年の男の人は「旅行人」発行「アフリカ」編に執筆
されているケニア研究のカンベ先生だった。先生の
話によるといっしょに来たのは東京の医学生の研修
生たちで、これからあっちこっちを案内して回ると説
明を受ける。

学生は男女9人、その中の一人は私の名刺を渡すと
ブログでチベットを走っていることを知っていたので
うれしかった。これからもブログを見てくださいとお
願いした。

わたしみたいに旅だけを続けているだけじゃなくて誰
も知らぬ土地で現地の人たちのためにつくしている人
たちがいることを知り、あらためて感心する。チキン
カレーを食って宿に戻る。

ここナイロビにしばらく滞在して、気が変われば予定
してないエチオピアへは道が悪いのでオートバイを
置いてバスかなんかで行くかもしれない。ま、もう少し
落ち着いてからの話になるが。