松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅 58 イラン  

2013年08月25日 | 赤道直下と陸路国境148か所

水たばこ・・味はわからなかったな。

オートバイ修理屋さん・・・スプリングなど治してもらう


2003年10月1日水曜 はれ20℃ はれ30℃ 30℃
昨日夕方オートバイのスプリングの修理に出していた、オートバイ屋から直したと連絡があり取りに行く。スプリングは元に戻っていた。あー直ったんだ。しかし店のオーナーは出かけていてしばらく待つ。戻ってきたのは18時過ぎ。それからテスト運転なのか街を2,3回走りバランスを調整しているのか?。そのあと「OK」と店主。
日本の俳優井上順さんに似たやさしそうな人だ。

昨夜ホシンさん宅に来た時100000リラ=1万2千円ぐらいかなと話ししていた。50000リラ=6000円でと安くしてくれた。さらにこのお金はあなたが使ってとわたしにそっくり戻そうとした。いやいや安くしてもらって上にタダでは申し訳ないと日本語でお礼を言って受け取ってもらった。アマド兄ちゃんには20$を両替して「この」新しく「日記帳」を買ってもらうように頼んでいた。

夜9時頃奥さんの両親も昼ごろ見えていっしょに食事する。夕べどこからか仕入れてきてもらったウォッカをお湯で薄めて飲む。ニワトリ・ブロイラー1羽を買って奥さんに料理してもらう。オートバイはアマド兄ちゃんの話だとイランではすべて125cc以下と決めてある。それ以上のオートバイは警察に捕まるとかの話もしていた。もちろんアルコール類もすべてダメ・・しかしツーリストは問題ないとも。

昼間幼稚園に通っている6歳の男の子供を迎えに行く。ここでは男・おんな別々の幼稚園になっているようだ。街にあるパン屋さんの入り口も男・女・別々柵で仕切られ並んでいた。気になっていたオイル交換、オイルフィルター、フワン、フワンと弾んでいたスプリングの修理、「チチチ」と小さい音がして気になっていたフロントの音も直った。スプリングを直したのでうしろのボックスを直す必要もないかもと思う。心おきなくあしたから走れそうだ。


わたしのオートバイで妹さんの家まで送って行くことに・・妹さん宅にはこのようにいっぱいの人が集まっていた

イランのガソリン1リッター=6円

10月2日木曜 はれ20℃ 30℃ 30℃
イランのガソリン1リッター=6円。わたしのオートバイ満タン20リッター入れても120円。お金がないわたしにとっては大助かり。
8時前にホシンさんは250km離れた妹さんの家に行くと昨日から話していた。アマド兄ちゃんのオートバイで行くのかと思っていたらわたしのオートバイに乗っていくと言う。うーん弱ったなーでもこんなに今までお世話になって自分勝手なことは許されまい・・反省。ただめし喰って悪いとおもいごちそうになった奥さんに100000=1200円渡した。

ホシンさんを乗せるためうしろのバックはトランクの上に移動ゴムロープで固定した。100キロ近い体重のホシンさんを乗せて出発。約2時間走って10時に妹さん宅に着いた。思ったより早くついた。幹線道路からちょっと入った場所だった。ティをごちそうになり10時45分再スタート。今まで80キロ平均で走ってきた,道路が良くて120キロ~140キロで走れる気持ちのいい道だ。


この建物なんだろう・・大きく手を振ってトラックを止めて写真を撮ってもらった。運転手さんにはいい迷惑なことだったろう。
なのに・・「なにの」建物かわからなかった

テヘランに向かう道・・道はいいしガソリンは6円と安いしゆうことない

200キロ、400キロの距離があっとゆう間にすぎてゆく。でもこのまま走って首都・テヘランには暗くなる・・18時~19時になる。200キロ手前の街で泊まることにする。さいわい今日も二人連れのオートバイの兄ちゃんたちが途中からついてきたので「ソーリ・・デスカウントホテル」と頼むと・・安ホテルまで引っ張ってもらった。自分では3,4$のつもりだったが7$と高い。その前聞いたホテルは30$のホテルだけなのでここに泊まることにする。ありがとう。

夜、首都テヘランに着いて暗くなってからホテルを探すのは面倒だから早めに宿に泊まり朝早く出発して昼間にテヘランに入りホテルを探すのが気は楽だと思った。スプリングを直したお陰で道のガタガタしたところでもショックがなく走りやすくなって快適だった。イランに入ってトイレットペーパーはいらない・・なぜって・・ホースから水を流して洗うか汲み置きの水を手桶でお尻を洗うのだ。紙を使うことがないのである。

トイレに紙がない・・・これまでも中央アジアに入ってからトイレに紙がない。あっても拭いた紙は目の前の用意されたバケツや容器の中に入れる決まり(習慣)になっている。最初べっとりついたうんこの紙を捨てるのは自分のウンコでも勇気がいる。拭いた紙は捨てるしかないのでどうしても目にしてしまう。2回目3回目になるとやや捨てやすくなる。なれるとなんともないが慣れるまではきつい、しかし何回やっても気分のいいものではない。

イランではトイレの中にある水道水をホースでお尻を洗うことになるが慣れないと足に引っ掛かってしまう。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅 57 イラン 

2013年08月19日 | 赤道直下と陸路国境148か所

さー・・銀行で降ろせると聴いたマシュハドに向かう

イランについてこれでカードで現金をおろせる、しかしどの銀行に行ってもまったくカードが使えない・・もう駄目だ
持っているんものを手放して現金を手にするしかない。「ビデオを売って」店から出てきたらオートバイの周りに
集まっていた地元の人たち

<イランについてホッとする・・が>

2003年9月30日火曜 12℃はれ
一刻も早くお金を下ろしたい!130キロ離れたマシュハドに向かって8時45分出発。10時半頃マシュハドの街につく。マシュハドに着くあたりからオートバイの兄ちゃんが並行してついてくる。街に入った所で兄ちゃんにきのう銀行で書いてもらったアドレスの紙を見せる。「OK]と兄ちゃんは銀行までジグザグに走っていく。銀行に着いた。さー下ろせるか・・銀行の中に入っていく。

T/Cトラベルチェックもカードも「NOー」ダメだった。となりの銀行に行った、ここでもダメだった。ここで5km先のセントラル銀行のアドレスを書いてもらう。オートバイの兄ちゃんがずーっとつき合ってくれている。銀行の前に止めていたオートバをパトカーがとり囲んでいる。パスポートを見せると・・何事もなく離れた。もしかすると見張ってもらっていたのかもしれない。セントラル銀行に行こう。兄ちゃんがひっぱてくれる。

セントラル銀行に着いた、ここで大丈夫だろう。銀行の中に入った。イランは「カード」「オール」「イラン」「ノー]イランではすべてのカード使えません。トホホ。ノーマネーノーマネー、セントラル銀行で「プライベート」両替所を書いたアドレスを渡される。300mはなれたプライベート両替所の入っている商店街のビルに入った。モンテネグロと同じく電話で確認しているようだ、もしかしたら「OK」かも・・・しかしやっぱりダメだった。

<あーお手上げ・・もうだめだ・・ビデオカメラを手放す・・>

あーもう次は物を売るしかない。その前にプライベート両替所から日本大使館に電話を入れてもらった。大使館は「身ぐるみはがされた」「パスポートもない」人にだけ大使館員の個人のお金を貸し出しているとのこと。しかたないフロリダ・キーウェストでデジタルを盗まれて仕方なくアメリカ・フロリダで買ったJVCビデオだ。使いづらくてほとんど使ってない。金になる「カネ目の物」「ビデオカメラ」を売るしかないな。

手元には20ドル・2400円だけしか残っていない。これではテヘランまでも行けない。プライベート銀行の人に「カメラ」を「売りたい」と言うと下の二階のカメラショップ店まで案内してくれた。500ドル6万円ぐらいで売れるだろう。2年前フロリダで買ったビデオは10万円ぐらいだったものだ。あまり使ってないビデオ13$(15万円)の品物だと書いて見せる。店の人は300ドルと言う。わたしは700ドルと書いて半分の350ドルで売ると・・。

店の人は330ドルと上げて来た。時刻は12時を過ぎている。店の人はあっちこっち動き回り電話して価格を聞いているようだ。「SONY」だったらいいが、「これはダメ傷も付いて」いる。また300ドルになった。まぁこれでも36000円・・・心の中で「これでもいいか」。テストしていた若い店員が「のぞき窓」から見えないと指摘、故障を発見。エ―おれも気づいていなかった。ほんとうに「のぞき窓」からなにも見えない。


途中から付いてきた青年にあっちこっちの銀行に連れて行ってもらったが「すべての銀行」で「カード」使えない
ビデオカメラを売ったあと青年の実家に・・・

<ビデオカメラ・・250ドル=3万円で手放す>

映像は画面で撮るから支障はないはず。しかしこれでは買えないと。うーんまいったなー。頼む「ノーマネー」だから。店の人は250ドルと書いて見せる。250ドル・3万円でもいいや・・「OK」。売れればいいや100ドル紙幣2枚とイラン通貨50ドル分を受け取る。これでどうにか息つける。13時になった。店の前に置いたオートバイの前にはすごい人だかり。店の人に食堂を案内してもらう。

食堂から出て来たら、帰ったと思っていたオートバイの兄ちゃんが待っていた。おれは「テヘラン・テヘラン」と言う。「OK・OK」ついて来いと。てっきりハイウェイかテヘランに向かう入り口まで引っ張ってくれるとばかり思ってついて走る。しかし東に走っている変だなー。着いたところは彼の実家だった。鉄の扉を開けてティを飲んで行け?中庭にオートバイを入れる。写真を撮ってテヘランに向かおう。

お父さんお母さんが迎えに出て来た。2階にあがれと。14時を過ぎている。じゅうたんを敷いてある広い大広間20畳以上ありそう。あとで聞いたらじゅうたん3m×4mを4枚を敷いていると聞いた。テレビ、クーラも付いている。しばらく話をしていると日本に働きに行ったときの写真を持ってきた。最初は日本人のライダーがここに来たのかと思っていた。

夜になって日本に行ったときオートバイを借りて日光やあっちこっち行ったときの写真4枚を額にいれてあった、そうだそうだ。ここに泊まれるのかな、お世話になろう。両手を耳に当てて「寝る」しぐさをして泊めてもらおう。厚かましさが出て来た。ティ(茶)を飲みながらちょっと昼寝をさせてもらう。家の人はテレビを消して静かにしてくれた申し訳ない。16時に起きた。

兄ちゃんの名前は「アマド」君と知った。そのアマド君にオイル交換に連れて行ってもらった。ついでにそれにスプリングのオイルなくなったのかカタカタ音がするようになってきたことを話す。オイル60000リア=720円を買って家に戻りご主人ホシンさんとオイル交換をやってもらった。ついでにオイルフィルターも交換しようとオイルの店に再び行き1個30000リア=360円を2個買った。すぐに店の人が直してくれる。


青年の家族の人たち・・結局泊まることになった

次はスプリング直しにオートバイ屋に行く。暗くなりかけてきた。きょうはダメあした18時頃までに直すからと修理屋さんの車でホシンさんの家に戻りいっしょに二階の部屋でお茶を飲んで帰っていった。アマドのお姉さんもいつのまにか帰っていた。男・女の子の双子6才二人を育てているらしい。入れ替わり立ち替わり地元の人が来ては帰っていく。

頭に女性がかぶっているチャドルをお姉さんは部屋では脱いでいる。聴いては見なかったがチャドルを脱ぐと気持ちがさっぱりするかのように感じられる。それに海水浴ではイスラムの女性も水着になっていると聞いたことがある。考えただけで開放感を味わっているのではないかと想像した。お母さんは脱いでいる姿は見なかった。エジプトのスエズ運河の出口?入り口?。地中海海岸で出会った地元の女学生は申し訳ない程度のスカーフだけだったことを思い出す。

昼からウォッカ・ウォッカと話していた。ここイラン(ホメニイ)ではアルコールはダメだときのうから聴いている。見つかると100回の鞭(むち)打ちの刑罰。わたしはアルコールがないと食事が「のど」を通らない。どうしても「ほしい」「タノム」「タノム」と頼んでみた。夕食はスパゲティでいいかと聞かれていたので「OK」と応えていた。少し残っていたウォッをコーラーに混ぜて飲む。アル中はしょうがないなー。

地元の老人がきていたその老人は9時頃になって50000リア=600円でウォっカを買ってくると出て行った。最初は青年アマド兄ちゃんが買いに行ったがダメだった。ベテランの出番か。1時間ぐらいかけて戻ってきた。ポケットから一合とっくりビンぐらいの緑色の瓶を取り出した。女性の姿が印刷されているビンだった。見た目には日本酒だ。サンキュウわたしはそのビンからペットボトルに移し替える。

でもここにもアルコールがあるんだ。どこかで隠れて飲む人がいるんだろうな。ほんとうかどうかわからないが大事なイスラム・コーランを「忘れる」からアルコールを禁止しているのだと聞いた。移したその酒ビンは老人の息子さんが帰りに割って帰るからと内ポケットになおした。ウォッカーみたいな、焼酎みたいな、めずらしい味がした。味などどうでもいいんだ手に入れば。

11時過ぎまで家族と日本のこと、イランのこと、いとこのこと、英語の絵本などを見ながら過ごす。眠くなった・・温水シャワーがジャージャー出る浴室でさっぱりさせてもらった。床に着くがお茶(ティ)の飲み過ぎかなかなか寝付けない。さてあしたスプリングは直っているかどうか・・。スプリングの「ピン」を外すのにウズベキスタンでお世話になったミグ戦闘機を修理していたルスタンさんと同じ工具を使っていたなー。

大丈夫かな。お金のことばかり気になって写真を撮る気持ちの余裕など出てこなかった。部屋の中は長袖でないと肌寒い。


さーて・・とりあえず首都テヘランまで行って・・・どうなるか

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅 56 トルクメニスタンからイランへ  

2013年08月12日 | 赤道直下と陸路国境148か所

国境はどこの国でもにぎやかなところにはない・・あるはずがない・・。どこの国でもへんぴな山とか・・川を境に・・ある。
トルクメニスタンとイラン国境は山の峠にあった写真上・・そういえばマケドニアとアルバニアの国境も山頂の峠だった。
国境を越えてイラン側に入ったところ。

トルクメニスタンからイランに入る

2003年9月29日月曜 はれ20℃ はれ22℃
10時にオープンと主人と長男、10時前の早目に銀行についた。エエーここはきのうおととい来てダメだったところだ。一応カードを持って銀行に入った。これマスターカード大丈夫・・。ノ―visaカードだけです。うーんそれにしてもご主人の友人がこの銀行にいると電話で確認してくれていたはずだったのに、どうなってんだろうか。もうここまできたらしょうがないイランに行こう。

ご主人も申し訳ないような顔になった。お金が降りたらユースープさん宅に20$おいて行こうと考えていたが40$しか残ってない。お金は渡せない・・「ほんとすみませんでした」「お世話になりました」「ありがとうございました」深々と頭を下げて合唱ポーズであいさつして別れる。

二日前ときのうも走っているのでイランへの道はわかっている。第一ゲート通過、ツーリングカードの半券はなくてもほんとうに大丈夫だった。よし第二ゲートへ。右のオフィスからちょっと離れたオフィスに行ったりして1時間近くかかった。お金がなくてようやく息苦しいトルクメニスタンをほうほうの体(てい)で出国する。車は通らない静かな白い岩山の道、道そのものはいい。カーブが続く山道を走り峠についた。

イランボーダーについた12時半。トルクメニスタンとイランの緩衝地帯も10km近くと長い。チリとアルゼンチンも14kmと長がかった。わたしの走った中で二番目に長い。峠にあるイラン国境オフィスは3か所に分かれていた。意外にスムーズに手続きは終わった。13時に入国できた。スイス人ライダーと再び会った。ウズベキスタンからトルクメニスタンに入る時会ったスイス人ライダーだ。

トルクメニスタンは「ノーだね」と嘆いていた。ここで彼はなかなか手続きがうまくいかないで手こずっているようだ。手伝うことも出来ないので悪いけど「お先に」と出る。通りかかった人に「マネーチェンジ」とゆうと青年が走って来て「ド―ラ」。最初トルクメニスタンの残った30000を両替、つぎに20ドルを両替した。160000なのに120000しか渡さない。さっきスイス人と1ドル=イラン通貨840と確認していたのだ。(トルクメニスタンの通貨の名前も知らないままイランへ)

両替の仲間5,6人集まっている・・数え方がおかしい・・少ない枚数だ。ヘルメットを脱いで「ふざけんなー」「この野郎」日本語で叫ぶと若い青年に代わってまとめ役みたいな男が来て正規な電算機どうりの「お札」を渡した、がいっせに逃げた所を見るとそれでも少しごまかされたのかもしれない。トルクメニスタンの国境でベンジンはイランに入って5キロのところにあると係官が話た。しかしイラン国境係官は25km先までないと話す。

手続きを終わり山をくだり始めた。カーブの道が続く、すこぶるいい道路だ。ヤギの子どもが一匹山の中カーブのところにいた。通りかかった小型トラックの二人連れはヤギを捕まえてトラックに乗せていた。きのうアシガバードで10リッターいれていま100kmなのにブスブスと「あれーっ」もう無くなったのかリザーブに切り替える。まだ100キロぐらいは走れると思っていたのになー。まぁ25キロ走ればスタンドがあるはずだ。


本線から外れた村のガソリン・雑貨屋に向かい・・再び本線に戻ったところ

しばらく走っているとオートバイに乗った中年の男の人がバックミラーに写った。停まって「ベンジン・ベンジン」とゆうと「うしろ」に「ついて来い」。あとについて走った。本線から外れてわき道に入った、うん?ハテ・・そう言えば「マガジン(雑貨屋)」とか言ってたそこに行くのだろう。本線から村の細い道に入る。村の雑貨屋の前に止まった。こんなところにあるのかいな。おばさんと何か話している。「ない!」男はまァ待て。おばさんはポリタンクを下げて来た。

3,4リッターのポリタンクだ。これ「ベンジン??」「ベンジンだ」フタをとり少しこぼしながら入れる。4リッターらしい。初めて使うイランのお金。男の人が交渉してくれてイラン・・・円。いくらだかわからない、少しやりとりして、又足して渡した。おつりはコインで戻ってきた。リザーブの残りを計算してもこれで60~70kmぐらいは走れることが出来る。

村の道からビックリするほど立派な幹線道路に出ると男の人は「先に行ってよい」と手で合図する・・ありがとうございました。80キロから100キロで走れる道路だ。最初の街についた。街の名前はわからないがそれなりに大きな街に感じられる。街の入り口でマイカーの人に銀行とベンジンスタンドを聞いていたらさっき村まで案内してくれたオートバイの男の人が追いついてきた。

銀行は閉まっていると男の人は話す。「ホテル・ホテル」と言うとホテルまで引っ張ってくれる。宿は最初80000の計算がつかなかった。エー10$=1200円じゃないか。いったん部屋に入ったがこれは高すぎる、すると60000にすると。いや他を探すと本気でリュックを背負うと、すると50000=(800円)でいいと言う。まぁいいか泊まることにする。駐車場10000=120円別の場所。

マイナス1時間30分イラン時間に直した。16時→17時30分。シャワー室で洗濯して日記を書いているところである。シャワーは水だけ・・で身体を洗って出て来たらホッともあることがわかった、今少し寒い。これからビールショップ探さなければ。ホテルには食堂はついているがビール・アルコールはご法度だから意味さえ通じない。ビール、ビ―ラ、ビーニャなにを言っても通じない。

クッチャン銀行が開いていたので夕方行ってみたがここではカードダメと銀行員、130km離れた街、マシュハドでOKと銀行員がアドレスを書いてくれる。よしあしたこれでお金は大丈夫だ。緊急用自分の常備アルコール・ウィスキーを飲んで一日が終わった。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅 55 トルクメニスタン  

2013年08月05日 | 赤道直下と陸路国境148か所
2003年9月28日日曜 はれ20℃ はれ20℃
8時になったが日曜のためかだれも起きてない。迷惑とは思ったが思い切ってご主人を起して第一ゲートまで行ってもらおう。事情を話して第一ゲートのある場所の地図をくわしく書いた。ご主人はまだチンプンカンプンだったが男の子供一人はわたしのオートバイに乗せて15キロぐらいあった第一ゲートまで走った。きのうの係官はいたが、ツーリストカード半券を預かった係官は今はいないと・・、さて困った。

そばにいた係官に「事情を話した」らあれはなくとも、あと一枚の「これが」あれば大丈夫だと・・。ほんとに大丈夫かよ、「OK,OK」と繰り返す。とりあえずホッとなでおろし不安はなくなった。ご主人は事情がわかったようだ、ようやく表情が明るくなった。市内をぐるぐるまわってUSPさんの家にもどった。お昼すぎにお姉さんが来た。車の輸入をしたいとの話も出た。パキスタンの港から陸路で持ってくるとか・・。


街なかにはとうとう噴水がながれているが・・家庭には一日に2回2時間だけの給水。そのため庭に池を作って水をためている。


大統領の肖像画の下で暮らす地元の人たち・・アシガバード市内

おばぁさんはご主人が殺されたと話す。ある夜7カ所ぐらい刺されて亡くなった。警察も調べたがわからなかったと。「犯人はわかって」いるんでしょうと聴いたら・・「わかっている」。話しを聞くとわたしもなんとなくわかるような感じがする。亡くなったお父さんはアゼルバイジャン出身とも聞いた。アシガバード・セントラルの街中にはボコボコと噴水が吹きだしてあふれている。

その中心にはひまわり大統領の銅像が太陽に合わせて回っている。ところが泊めてもらったU宅は池に水をためていた。1日に朝と夕方の1時間ずつ2時間だけ給水されると聞いた。そのために池を作って水を貯めているのだ。池の中には魚を放されている。もし魚が死ぬようだと「危険信号だ」とわかるためのものだろう。飲み水と炊事に使う水は別に汲み置きしていた。

庭の小屋にあるお風呂にわたしも手伝って池から運んだ水を沸かしたお風呂に入らせてもらった。熱いときに「うめる」水も隣りに汲み置きしてあったが水を極力使わないようにした。この国でもちぐはぐの政治になっているな、どうなってんだろ。さ―あしたは月曜、銀行でお金を下ろせるかどうか、マスターカードで大丈夫と友人に昼間電話して確認してある。夕飯にヤギかヒツジの足先だけの部分を煮てもらったが臭みが強くて喰えなかった。


兄妹ケンカなど日本と同じ・・・この家の子供たち。