松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅45 ウズベキスタン・タシケント

2013年02月28日 | 赤道直下と陸路国境148か所



2003年9月11日木曜
ホテル「ハドラ」から南へオートバで10分ぐらいの場所にある「タラTara」ホテルに変わった。一泊2,3$=250円と安いホテル。まぁまぁこのぐらいの部屋でしょう。ハエがいないだけハドラよりいいか。なんと言ってもハドラ1200円なのでここのホテルは5日分泊まれるので助かる。サマルカンドのホテルでいっしょだった神戸の女性がいたが今日発つらしい日本へ。

夕方食堂で会った日本人男性三人は同じホテルに泊まっているとか。意外と日本人旅行者が多い。その食堂はビールを置いてないので宿でビールを飲んで再びうまそうな「うどん」(ラグマン)を喰いたかったので食堂に戻ったがすでに閉店していて喰えなかった。トルクメニスタンの「ビザ」がいつになることやら気になる、あすには大体のメドがわかりそう。

トルクメニスタンビザについてどうなっているのか14時、ヤスナミツアー社に聞きに行く。あー永原夫婦が来ている。二人の話はこうである・・弘行さんは4日朝5時に眠れないままみどりさんを探しに北の国立公園まで行って探した。いないのでサマルカンドまで走った。そこで「うちに泊まれ」と言ってくれた人がいた。そこの家に泊まることにした。30分もしないうちにみどりさんがやってきたと。

みどりさんは北には行かずそのままサマルカンドに走り「こんなバイク」「見なかったか」とサマルカンドの街で聞いた。「いたいた」「見た見た」と地元の人、その地元の人は「こっちこっち」と案内してくれたので30分後に弘行さんと会えることが出来たと。「アフリカ」まで会えないかと思ったと弘行さん。会えてよかった、よかった。でもお互いにそんなに心配するんだったら最初からいっしょに走った方がいいと思うよ。

二人はサマルカンドからタシケントに戻ってから「ホームスティ」(10$)していると。どうりでハドラホテルには戻らないわけだ。もっともハドラホテルは洗面所、風呂場に上の階からポトポト水漏れしていたのでホテルを替えたいとも話していたので戻らなかったのだと思う。

あぶない目に会うまえに・・「旅の危機管理」 主催ワッツ(WTN-J)

2013年02月26日 | 赤道直下と陸路国境148か所
佐藤繁さんが「危機管理」の提起・・ワッツの講演会(お話会)

2月24日・日。品川第一集会所で開かれました。
佐藤繁さん松尾、西岡さん、藤原さんの順で
50人を越える出席者を前にそれぞれの旅の経験を話しました。
「有意義な講演会だった」とわたしは思いました。

終わったとは近くの居酒屋で懇親会・・・30人ぐらいだったと思う
出席者のみなさんご苦労さんでした


トップは佐藤繁さん


会場はいっぱいになった

司会の間部(まなべ)さん

藤原ひろこさん

西岡ちきさん

藤原寛一さん・ひろこさん夫婦

最後は全員で質問にこたえる

楽しい旅も・・・・注意が必要・・・あぶない目に会う前に・あわないために

2013年02月23日 | 赤道直下と陸路国境148か所
急ですが講演会のおしらせ・・です。

旅はたのしいもの・・しかし注意も必要・・あぶない目に会う前に

日本からついたその日の朝ビスケットをもらって食べた・・・気づいたら病院で寝ていた。
マリファナ入りビスケットだった。3分ぐらいで分からなくなっていた。財布の中の
1万5千円とられていた。パスポート・銀行カードは無事だった。次の日「松尾さんそれなに?」
と言われて気付いた・・心電図かなにかくっ付けられて病院から出てきたときのもの。


アラスカもうすぐアンカレッジに着く・・キャンピングカーと平行して走っていた急に左折した
キャンピングカーのボディに衝突・・ヘリコプターで入院。頭10針、ろっ骨10本、さこつ骨折、
折れたろっ骨が「肺」に刺さっていたので脇腹切って血を抜いた。「いてて・・」痛いのはどこに
いても同じと・・10日で退院。入院費640万円うへー・・海外旅行傷害保険に入っててよかった~。

「旅における危機管理」をテーマにお話会を行いますので是非お越しください。
バイク旅行に限らず、海外旅行に関心のある方でしたら今後の参考になります!

主 催:WTN-J
話し手:佐藤繁さん、松尾清晴さん、お二方とも世界一周ライダーです
時 間:13時15分開場、13時30分開演(通常より30分早い開演です)
会 場:品川区荏原(えばら)第三地域センター第一集会室
交 通:都営浅草線戸越駅から徒歩3分、東急池上線戸越銀座駅から徒歩5分(両線と
も五反田が乗換駅です)
参加費:500円
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&tab=ll

以上ワッツの原稿

よかったら来てください。松尾でした。

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅44 ウズベキスタン・サマルカンド

2013年02月20日 | 赤道直下と陸路国境148か所

青い空に碧(あおい)タイル・・ウズベキスタン・サマルカンド・レギスタン広場。この広場の前に旧い家屋の食堂がある。孫悟空のモデル三蔵法師もきっと来ていたに違いないと想像しながら・・・いつもここにきて飲んで食っていた。(あー食堂の写真がない・・)

2003年9月6日土曜 あつい あつい 夕立雲だったが雨降らず
昨晩スイカを喰ったあとスイカの皮をもらって塩漬けにして置いた。皮の部分をそぎ落として白いところを塩漬けにする。幼いころからおんぼしゃん(ばぁちゃん)にいつも夏になると漬けてもらって食べていたのでなによりもうまいのだ。青梅の塩漬け、ショウガのしそ梅酢漬け、スイカの皮塩漬けこれがわたしの「なににも勝る」三大好物なのだ。フランス、イタリア料理など目じゃない(くったことがない)・・小さいころくった喰い物が一番うまいのだ。そのスイカの皮をつまみにビールを飲もーさいこう。これで食事代わり。



大きな修理工場で配線を外にむき出している「ちょっとまってくれ」・・理屈はノベルが結局修理できない修理工場

B&Bには入れ替わり立ち替わりはいってきては出ていく・・・この日は日本人とフランス人といっしょに食事

9時過ぎにオートバイのウィンカーがついてないので気になっていた。街に出ていつもの「手」を使った。若い人のところに停めて「ソーリー」「オートバイのウィンカー」を「直す」所を「教えてください」「すみません」と故障しているウィンカーを指さしながら頼んだ。うしろに乗ってもらって修理場を案内してもらった。一軒目ダメ、二軒目主人が外から帰ってくるのを30分ぐらい待っていたが「出来ない」と。

仕方ない若い人の家に戻った。再び街に出て聞く。最初「地図を書いて」くれていたが同じ仲間の人が「おれのマイカー」について来いと修理屋まで引っ張ってくれた。ありがたい。そこの修理工場で修理をはじめているがなんか頼りなく素人っぽい。ウィンカーの線を外にむき出しで引っ張っている。やっぱりダメだ。ここは大きな工場で専門別になっているが修理できない修理工場。

その中に一人「おれが知っている」「メカ」に連れて行くとオートバイの後ろに乗って案内すてくれた・・。500mぐらいの近さにあった。ここは個人の修理場、頼りになる顔つきだ。すぐにとりかかってくれる。オートバイに乗ってきてくれた人は歩いて帰った。すみませんでした。電気回路を示す器具を使って調べている・・ふたりがかりでもかなり手こずっているようす。しかし確実に進んでいる。


ウインカーの修理に大きな工場に行ったが修理できないで個人の修理工で直してもらった

12時頃から17時までかかった30000ソン=3600円ウーン、高けーなーと思ったがしょうがないこんなに時間かけたんだから。帰りにネット屋に寄ってホテルに18時頃着いた。「あれー」ウィンカーがおかしい。うしろのウィンカーがつかなくなっている、どうしてだー。月曜日に直しに行くしかないな。朝ちょっとだけ食べていたのでよかったが腹へっている。きのうから喰いたかった焼き肉・焼鳥屋に足早にいく。

ラムはなかったが三種類三本頼んで生ビール、「こたえられねー」。生ビール3杯。これでまた元気になれる。この旧い二階建て食堂に座っていると空気が違う気がする・・三蔵法師(孫悟空)もここできっと食事したに違いない・・黒光りの天井の高い屋敷を見わたしながら勝手に想像・・いやきっとここにきたに違いない・・いまでも三蔵法師が奥の方に座っているようなそんな気持ちになる。二階には地元の人たちだろうか家族でにぎやかだ。宿に帰り日本人2人、あとの2人はきょう次の旅にでたらしい。3人で10時頃までしゃべる。わたしはビールとスイカの皮だけ食事はなし。


チンチン電車と大学校だろう若い人たちばかり朝から中に入っていく

9月7日日曜 はれ はれ
午前中久しぶりにオートバイの洗車。そのあといつもの食堂へ昼めし。夕方新しい日本人5,6人来る。ひとり旅の女性もここの宿にやってきた・・何か落ち着かない不安な表情だ。無理もなかろう見知らぬ国にひとりだもの。夕食は宿で10時頃まで雑談。レギスタン広場からちょっと下ったあたりは大学があるのだろうか学生がぞろぞろ歩いていて、ネット屋なども何軒か見つけた。

9月8日月曜 はれ はれ はれ40℃
ウィンカーを直しに向う。おととい行ったところだったが途中からわからなくなってしまった。マイカーの人に思い出したものを紙に書いて見せると、その人はわかったらしく、その場所まで引っ張ってくれた。あーここだ。ありがとうございました。ホッとする。12時頃までかかって再修理、今度は大丈夫だろう。夕食のあと日本人5人とフランス人6人で近くのレストランへ繰り出した。ええ結婚式の宴会会場にまぎれこむ?「だいじょうぶ!」「大丈夫だよ」と、まぁ気が引けたけど厚顔はいつものことだ
11時頃宿に戻った。

9月9日火曜 はれ 走っていると涼しい はれ35℃ はれ40℃
再びタシケントに、7時過ぎ宿B&Bを出てM39に出た。ベンジン・スタンドで給油をと入ろうとしたがここもこれまでのスタンドと同じく閉まっている。ここは今まで93オクタンカを入れることが出来た唯一のスタンドだったのに。しょうがないサマルカンドの街中に戻って開いているスタンドを聞きながら探す。あった、ようやく見つけた。76オクタンカを満タンに入れてタシケントに向けて出発。


4人でタクシーで「がらくた市場(大バザール)」へ・・「こんなものまでか」まさにガラクタばかり・・見るだけでも面白い?・・皮のショルダーバックを買った日本人もいた。タクシーで行く程のことはなかった。

タシケントに向かう39号に出た。さっきまで閉まっていたベンジンスタンドがあいているではないか。76オクタンカを入れ続けて来たのでエンジンをかけるとき「グーグー」とかかりにくくなってきた。これは南米でも85オクタンカを入れ続けて来たのと同じだ。セルはバッテリーが上がらないように時間を置いて何回か回すとガラガラと音を出しながらエンジンはかかるようになる。

ウズベキスタンは厚かましい人もいる。ヘルメットを勝手にかぶったり、信号待ちの時でも、走っている最中でもハンドルに触ってスイッチに触れたりする。最初のうちは許していたが走行中に助手席に乗った若い男にハンドルを触られる。その「軽トラック」もう「許せねー」トラックに寄せて「止まれ」「この野郎」怒鳴りつける。そのまま走り去った。途中検問のおまわりも「権限」をいいことに質問中におれのオートバイにまたがって座っている。ふてぶてしい・・

そばで質問を受けていたが・・「ふざけんな」「勝手に乗るな」これは「おれのオートバイだ」「おりろ」と腕をつかみながら日本語で思いっきりどやしつける。乗っていたおまわりははケゲンな顔。質問していたおまわりもビックリしたのか質問をやめて「行ってよい」と「OK」をだした。まったく気分が悪い。チェックポイント(検問所)でパスポートの提示ならそれはそれでいいが人のオートバイにまたがることはないだろう・・許せない。

これまでもオートバイを見るために何回も止められてその上オートバイをさわる図々しさには許しがいものがあったので怒鳴りつけたのだ。タシケントに12時ちょっと前に着いた。前回泊まったハドラホテルに停めて・・昼食。そのあとサマルカンドで聞いた安ホテル2,3$=300円を見つけに走った。駐車場がいまいちだけど安いので泊まる。夕方ネット見て夕食。

暑さもうすらいできた
9月10日水曜 はれ 朝涼しい はれ32℃ はれ32℃
9時にホテルを出る。イラン大使館へビザを最初に取りに行った。30分も待ったがコンピューターの具合が悪いとか午後に来てくれと・・しょうがない。11時15分タジキスタンン大使館前の約束。「ジャパン、マツオ」か・・ヤスナミツアーから頼まれた別のツアー会社の女性が30分遅れてやってきた。きょうは申請だけ受け取りは二日後12日15時~17時、45$支払う。


ひとり旅の日本人女性・・宿には日本人女性二人サマルカンドからタシケントに移動してきた

12時40分に再びイラン大使館に向かいパスポートを預ける。15時以降に来てくれと。いったんホテルに戻り昼食ビール3杯焼き鳥を喰ってシャワーを浴びていたらもう3時に近い・ヤスナミ社員と出かける。社員の仕事?どこかのオフィス?に立ち寄ってイラン大使館へ。やっと「ビザ」を受けとれた。3カ月のうち30日。30日以内にイランに入れば3カ月有効とゆうことか。まぁ「ビザ」があればこれでよし。

ホテルに戻り93オクタンカのベンジンを探しに走る。ここらあたりに93オクタンカはないと2軒目も言う。しかしエンジンの「ガラガラ音」をなくすのに「オクタン液」があると進めてくれた。その液は少し入れるとエンジンがかかりやすくなると話す。400ソン=350円買い入れてみる。一本を三回に分けて入れるようにと説明してくれた。日本のオロナミンより一回り大きい瓶である・・透明のペットポトルに入れ替えてくれた。

一回分の分量がわかりやいように気配りをしてくれたのだ。わかりやすくてこりゃーいい。きのうあたりから朝方涼しすぎるぐらい寒くなってきた。夕方もだいぶしのぎやすくなって楽になったし夜も7時になると暗くなる。それにしても9日には戻ってくると言ってたはずなのに10日になっても永原さん夫婦は戻ってない。二人ともお互いにホテルの居場所がわからないのかな。

みどりさんが3日先に出て次の日4日に弘行さんは出て行った。どこに行ったのか。まぁ9日に帰ってくると言ってたからあまり心配はしてなかったけど夜になってもオートバイの姿がない。それとトルクメニスタン「ビザ」も心配になってきたなー。


ウインカーの修理を頼んだ修理工場・・こんなにいっぱい働いていたんだ・・

あのね・・マスコミのみなさん

2013年02月15日 | 赤道直下と陸路国境148か所
核実験をした北朝鮮に対していっせに抗議のニュース・・。
原爆二つもアメリカから落とされた経験からもっともだ。

「うちも核を減らしていくから・・あんたのところも
核をつくらないでほしい」・・これが世界の常識・考え
じゃないのかね。

しかし
「おれは核をもっていいがおまえは核もっちゃいけない」
アメリカの言い方は間違っとる・・・。
そんなこと「ずるい」と小学生でもわかること・・・

マスコミはどうしてだまっているのだろう。
おかしいんじゃないのかね。
マスコミのみなさん・・・

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅43 ウズベキスタン・サマルカンド

2013年02月12日 | 赤道直下と陸路国境148か所

オートバイの後ろのタイヤカバーが割れてしまっていた・・食堂の親父さんに教えてもらい修理屋で直してもらった・・「お金はいらない」と。すみません、ありがとうがざいました。

2003年9月1日月曜 朝から暑い はれ 暑い はれ
それにしても暑い日が続いている。いつもこんなに暑いのだろうか。きょう祝日になっている。「なんの日」なんだろう?。あさきょうは東に向かって散歩一時間4キロぐらい歩いて戻る。こっちは本通りになっていてにぎやかな雰囲気。午後ネットを見て17時ごろ郵便局の場所を確かめるためオートバイで走ってみた。一本道と聞いていたがきょうは「独立記念日」で通行止めになっている。聞きながら迂回して郵便局はわかった。晩飯は永原さん夫婦といつもとは違う食堂で食べる。10時に寝る。

9月2日火曜 はれ はれ38℃ あつい あつい はれ
9時にイラン大使館にビザ申請。永原夫婦、ヤスミナツアー社のウーミンさんとタクシーで向かう。「女性はスカーフをかぶった写真」がないと「ダメ」と・・。みどりさんはちゃんと用意していたので「よかった」と言っていた、さすがだな。ビザ発給は9月9日か10日になるとゆう。ビザ代50$=6000円を持ってきていなかったので永原さんに借りた。わたしはアフガニスタンビザを取りに行くため二人とは別れる。

アフガニスタン「ビザ」は一時間ぐらいで出来上がるとのこと、お金を取りに一旦ホテルに戻る。再び午後1時にオートバイにユーミンさんを乗せて向う。アフガニスタンビザ3カ月7$=840円を支払う。次はグルジア大使館へ、「ジョージア」とここでは発音している。普通の民家みたいな大使館。庭の狭い通路の木の扉を開けて入る。発給は9月12日。次はアゼルバイジャンへ17時閉まる10分前に着く。

なんと10分ぐらいで即受け取ることが出来た50$6000円。アフガニスタン、グルジア(ジョージア)はパッパッとすませてもらえていいなー。途中中央銀行でT/Cトラベルチェックを両替しようとしたが「何とか書類」をと言われて・・・30分も待っていたのにだめだった。ヤスナミツアーのユーミンさんに50$借りた。ホテルに18時についた。永原さん達は遅くなりそうだ、腹へったので7時半晩飯一人で行く。

9月3日水曜 はれ はれ あつい40℃ あつい40℃
朝9時に「インド」「パキスタン」の「ビザ」を取りに行く。オートバイの後ろにきのうと同じヤスミナツアーユーミンさんを乗せていく。あっちこっち聞いたインド大使館に着いた。ポスタ(郵便局)の前にあった。書類を書き終わって出したら「イラン」でとれと言う。なんで書く前にいわないんだよ。しょうがない次はパキスタン大使館へ。11時受付受け取りが午後16時~17時に取りに来るようにここは親切だったなー。

4時過ぎに再びパキスタン大使館へ「ビザ」代は「ただ」無料だった上にパンフまでくれた。ありがたい。ホテルに戻ってオートバイの後ろのカバーが外れそうになっている。いつも通っている食堂のおやじさんに聞いたら「知っている修理工場」があると話す。「ついて来てくれると言う」ありがとう。右に曲がる時は「右肩」左に曲がる時は「左肩」をたたくように話してその食堂のおやじさんをうしろに乗せて修理工場へ。

溶接と金具でがっちり留めてくれた。一時間ぐらいで終わった。修理代は「いくら」「ツーリスト」だから「いらない」と受け取らなかった。すみません。食堂のおやじさんありがとう。


道端・路上いま最盛期の「スイカ」売りがあっちこっち

9月4日木曜 はれ はれ朝10時30℃ はれ35℃ はれ あつい
きのう午後から永原さん夫婦のバイク一台がない。みどりさん一人出かけたらしいことを玄関の見張りの人から聞いた。サマルカンド?そうだサマルカンド。そう言えばきのう夜10時頃これからサマルカンドに行くと永原さんが話していた。もう遅いから「あす早く出るようにしたら」と話したら、そうするようにみどりさんに話してみると弘行さんは言ってたけな・・。

いつもいっしょだからどんなに仲が良くてもケンカになる。わたしもなんでも話せる仲間と山登りに何回か行った。きつくなって疲れが出てくると「相手の欠点」ばかりが目について、最後は話しもしなくなってくることを経験したことがある。たかが3日4日の山登りでだ。隣りの永原さんの部屋にいって「どうしたのみどりさん」と聞けばよかったけど、まぁ二人のことだからそのままにした。夜9時頃部屋をノックしたが永原さんは外出していなかった。(ここまではきのうのこと)。

けさがた9時過ぎみどりさんがノックしてきた。「どうしたの・・」「弘行さんがいない」「どこにいったのか」知りませんか「いつ出ていった」か知りませんかと目に涙。いや―まったくわからなかった。どこに行くのかも夕べ聞いてもなかったから。弘行さんのこと玄関の見張りの人は「朝5時頃出ていった」とわかった。おそらくみどりさんがいなくなった心配で夜も寝ないで出て行ったんじゃないの。

きのうみどりさんは一人でいったん出ていったが、タシケント市内のホテルに泊まったらしく朝早く戻ればいっしょに出かけられると思ってもどってきたと話す「さてどうするかな」とみどりさん。そんな心配するんだったら出ていかなきゃよかったのに・・「わたしはいったん北の湖に行くとは出ていったので」・・「弘行さんきっと北の方へ追っかけていき」・・サマルカンドに行くかもと・・みどりさん9時半頃再び出ていった。わたしは郵便局にハガキを出しにオートバイで出かける。


これはたしか「イラン大使館」にビザを取りに行った時のもの・・地元の子供が興味ありそう顔で集まってきた

「ハガキ」はそのまま裸じゃダメ??「エエーッ」「封筒」に入れなきゃだめらしい。ふーん、どうしてだろう。その場で封筒を買って「あて名書き」せっかく時間かけて書き終わったのにまた47枚分書くのかよ―。あー面倒このうえない。国が変わればハガキもかわる。もう忍耐がいるなー。トータル1000円ぐらい。日本まで郵送料210ソン=25円ぐらいかな。

一時間半かかって封筒に住所を書き終える。あーこれでひと仕事、やらなけれならない面倒なことが終わってホッとする。昼飯はいつものところでビール。そのあとトコヤさん1000ソン=120円だった。夕方方向指示器を補強するために出かける、走りだして修理屋Abotをすぐに見つけた。わたしの考えていた「ゴム」で固定するように頼んだ。「OK」タイヤの切れ端を切ってゴムのりでくっつけて終わり120円。
あしたはサマルカンドに出かけることにする。


サマルカンドに向かう途中チェックポイントが2,3回あった・・。ここはちょこっとカザフスタンをかすめるところの「国境」、ビザなしでOK。チェックポイント

孫悟空のモデル玄奨(げんじょう)三蔵法師も寄ったサマルカンド
9月5日金曜 朝涼しい 28℃ 35℃
朝7時10分ホテル「ハドラHadra」を出る。きょうは一路サマルカンドへ。ホテル前の道をUターンしたら一本道でサマルカンドに向かうと聞いていた。なるほどわかりやすい一本道はづーっと続いていた。「エ―またかよ」と言う程検問所がひんぱんに出てくる。そのうちのひとつ「カザフスタン」を通過する場所があった。パスポートを見せるだけで「O K」通過出来た。道路は普通で心配することはない。

約300キロ走ってサマルカンドの市内に着いた。約5時間かかって12時前。ラッキー珍しくあいているガススタンドは市内の入り口にあった。満タンに入れる。(タシケントにもどるときはロープを張って閉まっていた)
世界遺産?写真で見たことはあるモスクの入り口で写真を撮っていると進入禁止の「柵をこしらえてある」ある。その中を通っていいとお巡りさんが言う。人だかりになってきた皆さんといっしょに記念写真を撮ったりした。「ホテル・オテル」と聞いていたら赤ら顔の男の人がこの近くに7$=840円で宿があると近寄ってきた。


サマルカンドに着いたばかり・・地元の人たちに囲まれる


宿の人に誘われて・狭い路地を入っていく。右のドアーが宿の入り口.「ホテル」とゆうか「宿屋」と言った方がぴったり・・・のB&B。


最初は警戒した宿のオーナーさん・・時がたてば「神父さん」のようで自分を見すかされているような心の持ち主だった・・顔はミスタービーンさんに似ていたな、となりは奥さん。

最初は酔っているような人でイヤだなーと思ったが安いのでついて行った。早歩きで案内していく・・今度は狭い道に入って土塀の家が続くなか着いたところはB&Bの民宿であった。土塀の家の中はコロニーになっていてわたしの望む雰囲気である、ここに泊まることに決めた。日本人も何人か泊まっていると主人は話す。オートバイを中庭に入れる。10$の部屋を7$と言ったじゃないとしぶしぶOKさせた。

すぐにビールを頼み近くのレストランへ。すぐちかくにレストランはあったがなんとなくわたしの感じでは「まずそう」なレストラン。ちょっと離れたところには旧い木造の二階建歴史を感じるレストランがあった。よしここはいい感じだ。入口には大きな鍋が3,4個かけられている。何を煮込んでいるのか。その隣りは焼き鳥をやっている。心臓、ラムを注文、その隣りは生ビール、350ソン=40円はうまい。

日本の焼き鳥よりづーっとうまいな。こりゃー最高。広い店内はテーブル、二階もある。ここだったら長居したい場所だな。旅の本で読んだサマルカンドは「シルクロードの十字路、歴史の町」「交易の街」だったと。首都タシケントに比べても引きしまったように感じるサマルカンド。いままで使っていた世界地図をどこかの国で失くしたので今回新たに日本で買ってきた冊子「歴史を旅する世界地図」でなんとなく身近に感じるサマルカンド。

この地図は「歴史」「シルクロード」「仏教」「三蔵法師」のことも載っているので興味も出て来た。若い日本人男女4人といっしょにしゃべりながら晩飯は民宿で。


サマルカンド・孫悟空のモデルといわれる三蔵法師もインドに行くとき寄ったとされる。

「金の卵」・・嬉野・吉田中学校・・同級会

2013年02月06日 | 赤道直下と陸路国境148か所

「金の卵」とおだてられ集団就職時代・・関東に出てきた中学校の仲間たち
「金の卵」はなにを生んだのでしょうか・・なやみっぱなし・・

ふるさと嬉野・吉田中学校を卒業して55年たちました。
あっとゆうまに70才・・・いやはやどうしてって言い
たくなる早さです。もうあとがないじゃない・・。

ふるさとに残りふるさとを守ってくれている同級生が
ことし吉田中学校の同級会(同窓会とは言いません)
を3月17日嬉野温泉で開催してくれます。ありがた
いことです・・ほんとうに感謝しています。

①3月の同級会(うれしの)に出席の確認
②10月には東京での同級会を開催するため
計画をたて3月の同級会で知らせる

二つのことを関東に残っている同級生で決めようと
15人のうち7人は新宿に集まりました。

「さくら水産」新宿甲州街道店。
お一人さま2100円呑み放題3時間
これにはたすかりますね・・

吉田同級会に出席できる人いまんとこは5人
東京同級会は副島憲三さんにスケジュールを
つくってもらうようになりました。

吉田の同級生のみなさん待っててくんしゃい。

ひとり2100円3時間これは安くて助かります