松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

北朝鮮の旅・わたしの感想(写真の説明が途中から出来なくなったごめん)

2011年09月26日 | 北朝鮮「朝鮮民主主義人民共和国」の旅

北京市内にある朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)大使館でビザをとる。上・朝鮮ビザ  中・大使館入口 下・大使館内であったドイツの聴覚障害者とつき添いの人。朝鮮大使館内

 

2011年8月22日から27日まで朝鮮の旅。国交のない「朝鮮民主主義人民共和国」(以下朝鮮)には中国・北京経由で入ることになる。中国北京市内にある朝鮮大使館でビザをとる。大使館には聴覚障害者のドイツの青年と付き添いと思われる中国の青年も。わたしたちの他に日本人やベルギー、モンゴルの人も来ていた。ここでの写真撮影はOKだった。次の日(23日)北京空港へ。朝鮮・ピョンヤン(平穣)行きカウンターでチケットを受け取る。ここには台湾のツアー旅行者20人ぐらいが並んでいる。朝鮮の税関で携帯電話は一時預かりになった。

 

北京空港でピョンヨン(平壌)行きのカウンター。台湾のツアーの人も並んでいた。

 

満席の飛行機は外人ばかり(当り前か)ピョンヤン空港についた。さー着いたぞ少しどきどきする。この国で112カ国目の訪問になる。空港リムジンバスに乗るまでに空港で記念撮影。入国・通関手続きしていると、どこに行って帰って来たのか女生徒のグループがいた。ダメだと断られるだろうなと思いながらも国境係官に「カメラOK」と聞くと意外や意外「うん、うん」とうなづきながら片手で「どうぞ」のしぐさで許可してくれた。へー国境でカメラ撮影は出来ない国が多い中でよく許可してもらったなー。 

 

すぐに小、中学生ぐらいの女生徒グループに「写真撮るよー」と日本語でしゃべると「はーい」と手をあげて応えてくれた。お―ラ―ッキーな記念写真がとれた。税関で一人だけカメラがダメらしい、理由はGPS?のついたカメラは一時預かりになった。本人はそんな物などついていることなど知る由もない。空港の外に出ると女生徒の家族が出迎えにきていて混雑している。車の少ない道をバスで走る。いつもこんな感じの道路なのだろうか。9階建てホテルについた、なんだか立派なホテルだ。それでも20数年前に建てたホテルらしい。 

 

何回も朝鮮に来ている人は前回はもっと高い超高層ホテルに泊まったと話す。ホテルの部屋のテレビ・チャンネルを回すと「えーNHKじゃないか」毎日出かける前と帰ってから見ていた。どこに行くにも見学はツアーバスで移動する。日本ではバスガイドさんが座る、そのバスの一番前の補助席に座って朝鮮の写真を一枚でも多く撮ろうと張り切る。軍事施設と兵隊さんがいる検問所だけはとってはダメとガイドの人の話、そこに近づくと教えてくれる。他はすべてOKだった。写真撮影はかなり規制されると思っていたが意外とゆるやかだな。

飛行機は外人が続々と乗ってきた。「カメラOK」か「NO]かとことわって撮った。

 

そうは言っても「38度線・軍事境界線」いわゆる板門店の写真はダメだろう。と思っていたが38度線にある建物やさらには板門店の中も撮影OKだった。板門店の部屋からわたしたちが出たあと今度は韓国側から観光客が入っていくようであったが部屋の中でお互いにぶつからないようになっているらしい。まったく規制なしじゃねーの。日本のマスコミになんだかだまされているような気がするなー。 そして展望台からは38度線・板門店を動画で撮ることが出来た。平穣市内の地下鉄はエレベーターで降りてゆく、かなり地下に降りてゆく、なかなかホームにつかないおそらく3,4分はかかったろう。日本に比べるとうす暗いホーム。地下鉄の古い電車に乗った時、子供連れや地元の人たちに席を譲られてしまった。日本の田舎に行ったときのようだった。何か申し訳ない気持ち、ありがとう、すみませんでした。エレベーターで外に出る。レストランでは朝鮮名物「冷麺」をはじめて食べる。

 

もちろんその前にビール、中国のビールは少し酸っぱい感じでいまいちだったがここのビールはこくがありうまかった。ちなみに大瓶ビール80円ぐらい。朝鮮名物冷麺が出てきた。はじめての「黒い麺」は固まっている。原料はジャガイモ?らしい。常連の人から「酢を足して麺はかき混ぜてから食べる」と教わる。うんうんなんとも味がいい、最後の汁まで一滴ものこさずのんだ。いやーうまかった。ピョンヤン市内の人民学習塔は専門的な勉強が出来る。歴史、科学、化学、自然科学などあらゆる部門別に部屋が無数にありそれぞれ専門の先生がいた。次に訪れた中学校は夏休みで生徒は少なかった。学校は9階建てエレベーター付、プール、イス付講堂、科学室では周波数をひもでわかるようになっていた。部活ではなくて音楽の好きな者同士が練習していた。夜12時頃までやっていると遊園地では日本と同じくどこの乗り場も並んでいた。思えば白バイって世界共通なのだろうかどこの国でも白いオートバイ、白の制服だな。そういえば他の色見たことなかった。

 

一人で研究している部屋、ヘッドホンつけて外国人講師の集団での英会話、音楽指導者がその「指導育成」教育、など17歳以上であれば利用できるとのこと。学習堂の屋上に上がる。ピョンヨン市内を一望できる。大同江(だいどうこう)川を挟んで西にはチュチェ思想塔がそびえている。南から北まで高層ビルの街並みをぐるっと見渡した。飢餓に苦しむ朝鮮のイメージだったがちょっと違うんじゃないか、拍子抜けるな。郊外から東へ約一時間ぐらいのリンゴ園に向かった。高台に上がると東西南北に広大なリンゴ園。

 

何十種類かのリンゴを植えてあるらしい。リンゴの病害などに備えてこの農園のほかにも何カ所か別の所にリンゴ園があると説明を受ける。今度は西へ約一時間ぐらいの所についた。ここは世界遺産「江西三墓」(カンソセムトム)と読むらしい。わたしは世界遺産とも知らずについて行った。高くはない緑の土盛りの真ん中に掘ったトンネルを少し入った所に壁画が保存されていた。強化ガラスの中の絵画は三辺に龍とかを書いてあった(あと忘れた)日本に帰ってから壁画にくわしい人から日本の高松塚壁画よりしっかりと保存されていると聞いた。

 

いったいどうなってんだろうか朝鮮。聞こえてくるのは「デボドン」と「拉致」ばかり。大同江(だいどうこう)は川のこと、この川のことを地元ではデボドンと言うらしい。イラン、イラク、シリア、など中近東、ガァテマラ、ニカラグア、エルサルバドルの中米。さらにはアフリカなど日本での報道で「こわい」「暗い」「おそろしい」イメージを持っていた。しかし、これらの国にオートバイの旅で実際に入って見るとみなさんは親切で「人間と人間だなー」と思った。今回の朝鮮の旅も同じ思いだった(今回はオートバイの旅ではありません)。日本のTV、新聞などすべてのマスコミはありのままを報道してほしいと強く思う。

 

北朝鮮に行ってくると言えば「いいところだけ」「見せられるんじゃないの」とよく言われることがある。これなどもマスコミの影響かもしれない。例えば日本の田舎の汲み取り便所とか、路上生活者とか、公園や河川敷でブルーシートで生活しているとか。上から目線自分より下の生活を想像しているのだろうか、そうゆうところを見たいのだろうかなーと思ったりもした。。観光ツアーで日本でもそんなところにはいかないもんですよね。そう言えば日本のようにブルーシートで生活している国はこれまで見たことがなかったな。

 

朝鮮には自殺者が無いと聞いた。信用する、しないは自由ですが。なにせ日本は約3万人の自殺者出ている、それも毎年ですからね(今回の東北地震被災者は2万人)その原因は何だろうか。よくはわからないが豊かな生活だから自殺者が出ているとはとても思えない。貧しさから出ているのが大部分ではないだろうかとわたしは思う。もしかしたらこのようことを知りたいのかどうか、違うとしたらそうゆう人にはどう説明したらいいのかわかりませんね。

 

「ピョンヤン市内」「リンゴ園」「途中の風景」「アリラン公演」「世界遺産・江西三墓」など朝鮮のありのままのわたしのコメントを抜きにした写真・動画をブログに載せた。「予想より発展している」「意外ときれい」「朝鮮にいたのでなつかしい」「私も行きたくなった」「北朝鮮も中国同様でけっこうきれいな感じの町」「豊かな感じがした」「初めて38度線の映像をみた」「板門店の貴重な写真ありがとう」「思っていたイメージと違った」「何をするかわからない国だと思っていた」「わたしも行ってみたい」てっきり「飢餓の状態」だと「思っていたが」女子サッカーなど「すごいじゃない」次「日本は負けるんじゃねーの」などと30人ぐらいの人が感想をよせてくれた。

 

朝鮮の旅でわたしが出会った外国人は、イギリス、ポーランド、カナダアメリカ、デンマーク、ベルギー、モンゴル、中国など14カ国。帰りの飛行機で隣りに座ったドイツ人のグループはこの他に8カ国の人達とのツアーだったと話してくれた。外人観光客は多いと話には聞いていたがこれほど多いのにはおどろいた。またサービスエリアで会った聴覚障害者バスツアーには日本人4,5人北京の大使館出会ったドイツの青年のほか世界7、8カ国の人達がいっしょに旅していた。朝鮮のことを知らないのはわたしたち日本人だけかもしれない。

 

拉致の問題、わたしはなぜに「拉致しなければならなかったのか」疑問として残っている。かって800人近く日本に連行されたその仕返しなのかはわからない。拉致はいつでも、どこでも、どこの国でも許されることではない。日本と朝鮮は早い時期に国交を結んで話し合いが出来る場をつくりだしていくように早くなればいいとおもう。「ソ連、ドイツなど社会主義の国が崩壊して今はとても苦難の時期である。社会主義を守れるか、守れないか今問われている。しかし自力で乗り切る自信はある。この先には希望がある」と朝鮮の人の話だった。

 

「10年先20年先日本に展望」はあるのかどうか逆に問われているようだった。やっぱり朝鮮に旅してよかったと思った。自分の目で確かめることの大切さがあらためてわかりました。 わたしのホームページ・よかったらみてください。 朝鮮の板門店、アリラン公演、ピョンヤン市内、リンゴ農園など動画を載せています。トップページ→「動画集」クリック→「アフリカ・ルワンダ穴ぼこ走る」画面 クリックするとbikenomatsuo動画21本出てきます。その中から選んで見てください。http://baikunomatsuo.sakura.ne.jp/

 

わたしのホームページ・よかったらみてください。 朝鮮の板門店、アリラン公演、ピョンヤン市内、リンゴ農園など動画を載せています。 トップページ→「動画集」クリック→「アフリカ・ルワンダ穴ぼこ走る」画面 クリックするとbikenomatsuo動画21本出てきます。その中から選んで見てください。http://baikunomatsuo.sakura.ne.jp/

9・11。そのときマンハッタンにいた

2011年09月11日 | お知らせです

eldiario news Paper ↑

写真の「12日」日付はヨーロッパから来たばかりで気づかずそのままだった。

ヨーロッパ、中東、東欧、北欧など42カ国を走り終えて、オートバイをニューヨークに船で送った。オートバイがつくあいだ日本に一時帰国しよう。とケネディ国際空港でユナイテッド・サンフランシスコ行9:15分に搭乗していた。飛んでいたらどうなっていたか。となりのニューアーク空港から飛び立った同じユナイテッドサンフランシスコ行はハイジャックされていた。全面ストップで7日後に日本に帰国一カ月後に戻ってきた。

そして一カ月後。現場はまだ煙が上がっている。オートバイが到着したので南米に向かって走り出した。

自由の女神と女性・なにを想う

なぜ、アメリカは攻撃を受けたのか、アメリカホワイトハウスとアメリカ人は考えているのだろうが、疑問を持つ。まだ力でねじ伏せようと考えているのではないか。イラク攻撃(戦争)では大量破壊兵器・アルカイダとの関係もなかったと認めた。イラク国民やアメリカ兵の犠牲者に対してどう責任をとるのか。

責任取るどころかイラク攻撃・大量破壊兵器は「ある男(個人)」からの「情報だった」と言い訳しだした。アメリカは個人情報で動く国防省なのか。ごまかすんじゃない。またパキスタンの国に無断で入り込み「ビンラデン」を殺した。イラクもパキスタンも独立している国である。その国の人たちが決めて行くことが民主主義ではないのか。

民主主義の国と標榜しているアメリはうぬぼれていないか。これがテロを作りだしている原因ではないか。アメリカ人の旅する国はだんだん狭くなっていくことを実感する。カナダの若い女性が「アメリカは王様」と思っているからと話したことを「ほんとに」理解できる。アメリカ・ホワイトハウスの考えは逆算すればシナリオがわかるように最近なってきた。

ブッシュ元大統領・小泉元首相の「罪」のことについてはのちほど述べたいと思う。

 

2001年9月11日のこと

「9・11ビル爆破事件」 

2001年9月11日火曜    はれ    快晴

 ニュヨークマンハッタン・ユースホステルを朝5時半頃ケネディ国際空港に向かった。ヨーロッパ、中東、東欧、北欧など42カ国走ったあとオートバイをオランダからニューヨークに船で送った。オートバイが到着するまでの間約一年ぶりに一時帰国するためである。

 

きのう10日は午後すごい夕立になったがきょうは朝から快晴である。地下鉄Aライン電車に日本人スチュアーデスの人が前の座席に座っている、ロンドンに向かうと話す。夕べはオタワ州に向かうとゆう日本女性は寝過ごすかも知れないので眠らないでテレビ室で朝まで過ごすと話していた。ここのユースホステルは600人ぐらいtoまれるらしい。日本人だけでも30人ぐらいは泊まっていた。

 

ケネディ空港の駅についたことをスチュアーデスさんが教えてくれた。駅前のでかい駐車場をぐるぐるまわって飛行場に7時過ぎについた。カウンターで9時15分発ユナイテッド・サンフランシスコ行き(乗り換え)一番うしろの座席をとった。翼の上に座った時陸・海をなんにも見れなくて到着まで退屈で苦痛を感じた。それからは飛行機からいつも景色を眺められる一番うしろの座席とっているので今回もそうした。

 

よしこれでアメリカの道路や風景を眺められるぞ。8時40分ごろ機内に入る。夕べあまり寝ていないので眠い。9時15分出発時間をとっくに過ぎて9時40分頃なっている。遅れることはままあることなので気にしない。なんか「機内放送」しているがまったくわからない。二回目の機内放送で「ハイジャック」だけ聞きとれた。でもこの飛行機じゃないから関係ないだろうと内心タカをくくっていた。

 

しかし、満員の乗客は携帯電話で機外と連絡しているようであっちこっちで身振り手振りで周りの人と話している。その内機内から全員下ろされてロビーに向かった。ロビーにあるテレビ二台に乗客が群がっている。そのテレビを見て驚いた。高いビルの上層部から煙が出て燃えている。そのビルの隣のビルに突っ込んでいく飛行機が映っている。「あーこれは戦争になる」と一瞬頭をよぎった。

 

ビルに次々突っ込んでいく飛行機の映像が繰り返されていた。乗客の中から「BBC,BBC」とチャンネルを変えるような男の声。信用できるチャンネルなのだろうか。ビルが崩れる瞬間テレビを見ていた女性は頭を抱えて「オオー」と泣き崩れた。空港内にあったネットや電話はすべて満員。空港は「全面閉鎖」になり空港から「シーシー」とゆう感じで追い出された。

 

ちょっと「おれの航空券はどうなるんだ」だれもチケットのことなど聴いている人はいないようだ。仕方なく空港の外に出た。空港の目の前にはビル爆破の黒々した煙が長くなびいているのが見える。バスで避難するのだがどこに行けばいいのわからない。取り残される前に「とにかく乗ろう」あまり混んでいないバスに飛び込んだ。住宅街を走り、幹線道路は走らない。どこに向かうのかまったくわからない。

 

1時間ぐらいして終点についた。さてここはどこだろうバスターミナルのようだがまったく見当がつかない。「地下鉄の地図」を見せてもわからない。○○で番に乗って行けとか教えてくれ、うろうろしていると日本のおばさんが黒人の女性に二人に連れられて「助けてやってくれ」みたいなことを言われる「あんた、日本人ね、あーよかった」すぐに九州の人とわかる。わたしの佐賀弁にそっくりだ。

 

わたしの田舎佐賀・嬉野の隣佐世保の人だった「どうしたんですか」娘さんと一緒にきたが娘さんが具合が悪くて病院に行ったら「入院せよ」と言われた。(話せば長いので省略)その病院に戻りたいと話す。飛行場に行けばわかると話す。おばさんにきょう何があったのか知ってますか「知らないと言う」。実は今日ビル爆破事件があって地下鉄も飛行機もすべてストップしているんです。

 

バスの運転手さんに「ケネディエアーポート」まで「乗っけていってくれ」と頼んだ。運転手さんは「うんうん」とうなずいてくれたがはたしてうまくいってくれるか、心配だ。人のこと心配している場合じゃない。自分の今いる場所だってまったくわからないのだ。しかたない、またしてもどこに行くのかわからないバスに乗り込んだ。バスの中年の乗客にこのバスはどこに行くのか聞いた。

 

地下鉄の終点に着くとか教えてくれた。まぁいいや。そこまでいってから考えよう。今度も一時間ぐらい乗ってついたところは地下鉄の終点、プロ野球場があるところだった。朝から何も食ってない腹へってトイレにも行きたい中華街みたいの店でホッカホカ弁当みたいものを買って食った。不思議だったのはバスの中で事件のことなど話題にならないようだ。

 

あれだけの事件だったら日本では知らない同士でも「ひそひそ話」を必ずするのにそのような雰囲気がまったく感じなかった。国民性の違いだろうか、とても不思議であった。きょうは全面ストップなので早目に泊まるところを探しておかなければと泊まれないとホテルを探す。もう4時になる。立派なホテルは満杯、値段は聞かなかったが、おそらく2万円はする高層ホテルだった。

 

そこのホテルに安いホテルを聞いてみた、500mぐらい先にあると、そこに行くと「満杯でダメ」「アーアー」と思っていたら夕方6時に来いと話す。荷物を預けてもいいとのことで荷物を預ける。地下鉄が動き出しているようだ。ここは終点の駅のようだ。ホームに上がるとビル爆破の煙が見える。現場まで行ってみよう。電車の中で若い人にビル爆破の現場はどこで降りた方がいいのか聞く。

 

電車は途中の駅でストップ。そこからバスに乗り降りた。バス代は乗客の人にカードで払ってもらった。ありがたい。今度は歩きで現場をめざした。現場まで歩く人はそんなに多くはない。現場から帰る人と行く人はおなじぐらいの人だった。両サイドのお店はガランとしている。教会と思われる入り口にはテーブルの上に紙コップをな並べて給水のボランテァ活動しているところを二か所みた。

 

黒煙をめざして歩く。現場についたロープが張られていてそれ以上進むことが出来ないようになっている。パトカー、救急車、消防車など走りまわっている。肩に載せて映像を撮っているTV報道陣。マイカーから降りて逃げたと思われる車の上や道路には白いプアスチックを削ったようなほこりが10センチぐらい積もっている。夕日に照らされたビルとその陰のあいだに真っ黒に煙をあげているのが見える。

 

消防車がそばに止まった、ガスボンベを背負った消防士は現場に向かうのだろう地下鉄の出入口から入って行く。手話を使っている聴覚障害者の人とは「日本から来た」と少しだけ話した。30分近くいただろうか。どうして起きたのかわからないままホテルに戻った。「エー120$=約1万5千円」もするの!。あーしかたないか。ここは韓国系のホテルのようだ。

 

しょうがない料金は「カード」で支払う。部屋に電話はあるが日本にはかけられない。外に出てガマンしていたビールを飲みながら晩飯とする。朝早くから長―い1日だった。疲れたなー。ホテルの窓からも黒煙が見えている。(この時煙はすぐにおさまり、飛行機もあしたは飛ぶだろうと考えていたが飛行場は16日再開・ビル爆破の煙は1カ月以上立ちのぼっていた)

 

日本には16日帰国。一年ぶり自宅に帰り自慢したい「旅の話」などしたかった。しかしビル爆破ですべて吹っ飛んでしまい打ちひしがれてなんにも話する気にならなかった。10月15日再びニューヨークに戻りオートバイの旅を続ける。