松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

10月23日 ブルンジで行き詰った

2007年10月24日 | ブルンジ
2007年10月23日火曜 くもり はれ
今、朝の7時だ、今日船が出る「出発時刻」を8時過ぎに
確認することになっている。果たして果たしてどうなる
か。パソコンに下書きをしていたら8時を過ぎた。船会社
に向う、近くになるにしたがってドキドキ。階段を上がる
会社は二階にある。

今日はオープンしている。いつもの男がいた握手したあ
と「きょうダメだ」エ^-、じゃ「いつ船は出る」24,
25,2627、「ネイビー」いつ出るかわかないと。
ホテルに引き上げる前に別の船会社を探してみよう。
隣の1万7千円もする高級ホテルに寄ってみる。

ここのレセプションは英語ができるスタッフがいる。地図
を見せながら説明する。船のチケットはこの場所にと別
の紙に書いてくれる。お抱えタクシーを呼んでその場所
に行くが、ここではオートバイを運ぶ船のチケットはない
オートバイを運ぶのは別の所だ。

「別の場所」は一番最初船を捜した税関事務所の近くだ
った。その船会社は前回「荷物が集まる」まで二ヶ月ぐら
いかかった、内容は良く分らないがそんな話に聞こえた。
「実は」と今日ダメだった船会社のレシートを見せるとそ
こえ電話を入れてくれる。タクシーはホテルに戻るのか
と思ったら再び今日ダメだった船会社についた。

タクシー運転手とも言葉が通じない。二階に上がるとオ
ーナーらしき人がいた。「25日木曜」に船は出ると話す。
ま、当てにならないが信用しよう。食料は自分で用意す
るようにと促される。しばらく様子を見て10月いっぱい
に船が出なかったらオートバイでタンザニアに向おう。

最悪の場合は陸路で悪路を走ってで行くか、どうしても走れな
かったらトラックをチャーターしてザンビアに向うしかな
いなー。とりあえず「25日木曜」まで待ってみよう。



10月20・21・22日 不安のブルンジから脱出?

2007年10月23日 | ブルンジ
2007年10月20日土曜 朝から一日中雨
きのうとりあえずザンビアへの船の手配は出来たが
本当に「23日出航」できるのか不安は残っている。そ
の日を待たなければの話ではあるが、、気晴らしに夕
方ネットカフェにいく。日本からの便りが一番元気が
出る。気が晴れないのでビールの味もいまいちだ。

2007年10月21日日曜 朝まだ雨 午後はれ35度
気持ちは晴れない、一冊持ってきた本、旅行人ノート
「アフリカ」のこれまで走ってきた国これからの国な
ど雨の音を聞きながらじっくり読む。そういえばアフ
リカに来てじっくりと読んだことがなかったなー。

「この国はそうだったのか」と今さらながらアフリカ
への知識のなさを本を読みながら反省させられる、
事前に少しは勉強しておくべきだった、でも、もう遅
い!。午後気晴らしにネットカフェに行くがネット不
具合でHPを開いて見るだけ「返事」の送信が出来な
くなった。

気持ちが滅入っているときは、日本からの便りだけ
で元気が出る。帰り際送信も出来ないで「金とる」
のか、この「く○ったれめ」とうさばらしを飛ばし
て早々とネット屋を去る。ザンビアでの走りの備え
てオートバイのガソリンを満タンにした。

早く23日になって出航出来ますように祈るだけだ。

2007年10月22日月曜 くもり
タンガニカ湖は東にタンザニア、西にコンゴに挟まれ
た細長い湖その北端にブルンジ南端にザンビアと四
つの国に囲まれている。きのう読んだ地図には7番め
に大きい湖になっている。ブルンジからザンビア間80
0km東京から下関ぐらいの、イヤもっと距離はあるか
もしれない。

どうも落ち着かない、船の出発時刻は「23日朝9時ご
ろ」までに分ると聞いている。食事のことなどいまい
ち分らなかったので「ようすみ」かたがた船会社に向
う。エー閉まってる。どうしてだ、今日は月曜じゃない
か。今9時だからまたあとで来よう。

うん、はぐらされたか?、100$ぐらいで持ち逃げはな
いだろう。また悪い方へと頭はめぐる。10時に再び船
会社へ、やっぱり「閉まって」いる。どうしたんだろうと
隣の家の人に聞いていたら男の人が通りかかった。
今日は「ホリデイ」あした「朝8時」に「開く」と自信に
あふれた話し振り。

男の人は船会社の入っているビルの裏側に回った。今
までの不安は男の話し振りで気持ちも落ち着いた。午
後ネット屋に行くついでに銀行で両替しようとしたが
銀行も閉まっている。2時30分の昼休み時間はとっく
に過ぎているのになー

ここらあたりは「月曜休み」なのだろうか。そうすると
船会社の休みも納得できる。ネット屋の隣にヤミ両替
屋があった。狭い通路の奥に暗い部屋。50$「いくら」
「57700」と電卓でたたく。オー銀行より7700も高い、
へー100$だと10$以上得することになる、あと一日
だけなので50$両替した。

ネット屋に入るがすぐに停電した、よく停電するもんだ
なー。すぐにたたんでホテルに戻る。あしたの食料も買
い込んだ。ジン、ワイン、缶詰、パン、そしてコーラはビー
ルの代わりにジンを割って飲むために5本買う。最後の
夜になってほしいもんだ。

あした23日はザンビアに向う船の中で過ごしているよ
うにと願う。はたしてブルンジから脱出できるか。

10月18日19日 不安で眠れぬブルンジの夜

2007年10月20日 | ブルンジ

停まっているホテルは市内の中心、でも静かである。


ホテルに停めているオートバイ


部屋は鉄柵で頑丈にドアーも二重に、
それだけ危ないのだろうかね。

不安で眠れぬ夜
2007年10月18日木曜 はれ
今日も気持ちのいい青空の朝。8時半と早いがネ
ットカフェにきのうの続きを終わらせなきゃ。コー
ヒー3杯つき120円飲みながら終わったのは12時
を過ぎていた。

ルワンダとブルンジの国境で待たされた時税関に
「口添え」してくれた「彼」ブルンジ人。ブルンジに
着いたら電話するようと「電話番号」を書いてくれ
た。今までと違い言葉がほとんど通じないブルンジ
では「これから船のこと」彼に頼るしかない。

昼間彼に電話した。夕方6時にホテルに来てくれる
ことになった。日記のノートが終わりそうなのでマ
ーケットの近くの店まで行くがなかなか見つからず
6時待ち合わせなのであせった。ブルンジ特有のノ
ートをほしかったがどこにでも「ある」ものでがっか
り。

6時にホテルに戻って「彼」を待つが来ない。7時ご
ろ再び電話する。8時ごろに「ホテルに行く」と返事。
8時になっても、9時になっても来ない。夜中に車が
止まる音に彼であってほしいと願う。なにしろ現地
語なので英語の出来る「彼が」頼りなのだ。

ベッドに入っても寝付かれない。「船の港は」「チケッ
トは」もし「船が出ていなかったら」あした金曜だか
らあした中に見つけないと「来週に」なる。もたもた
していたら一ヶ月ビザが切れてしまう。進むことも
戻ることも出来ない袋小路に入った気持ちになる。

最悪の場合は「飛行機」で送るか、でもこの国に飛
行場があるのだろうかと、悪い方、悪い方にと考え
てしまい不安はつのるばかり、「彼は」来なかった。
なかなか寝付くことが出来なかったが自分でやる
しかないと覚悟、開き直りの気持ちになり気持ちが
落ち着く。


ほとんど言葉がわからず手書きの地図で船交渉


ブルンジ船着場税関事務所


ブルンジ 首都ブジュンブラ市内 小都市の町
と言った所でしょうか

2007年10月19日金曜 くもり 風がある
眠れななかった昨夜ウトウトしながら4時半に起きる。
言葉は通じなくても誰にもわかるような地図を描こ
う。「タンガニカ湖」を描いて①ブジュンブラの港②
ザンビアの港③船を浮かべて自分とオートバイが載
っている絵④10/19~10/28間での日付も書いて
「いつ出航」するのかなど。

一枚の紙に描いた。ネット屋に行けば英語の出来る人
がいるだろうと思ったが、ホテルの従業員に見せた。
お金の話はするが「うー、うー」と返事だけで頼りに
ならなのでレセプションの女性は相手にしない。従業
員は「港はオートバイで5分」とおしえてくれた。

朝7時半と早いがオートバイで港に走る。ほんとに
5分で着いた。集まってきた地元の人に「チケット」
「チケット」と話しているとブルーの制服を着た男
が近寄って「こっちにこい」と事務所の中に案内し
た。ここは税関事務所で男は税関だった。

私の描いた地図を見せる、彼も同じように「タンガ
ニカ湖」を描いて説明をしてくれる。二人の係官は
目を合わせながら話を進める。ウン?この態度は
「ワイロ」をもくろんでいる、ワイロが高かったら「ど
こで」開き直るかと考えながら説明を聞く。

最後に「チケットはどこで」と聞くと「近くにある」
と太った係官がいっしょについて来てくれる、が
そこではなかった、別の会社へ「タクシー」で行く
と話すが、私のオートバイの後ろに係官を乗せて
市内の船会社に着いた。

泊まっているホテルのすぐ近くだった。船会社の
男と話をしているが男は浮かない顔だ。「ヤバイ」
ぞと気になった。男と税関は10分以上話したあと
10/21から23日の間に出航でいつになるかわから
ないと私に話す。

そこへオーナーらしき人が来て「10月23日火曜」
に船を「出港」させると告げる。誠実そうなオーナ
ーは信頼できそうだ。で「運賃はいくら」だ。一人
50$オートバイ50$トータル100$=1万2千円に
エー「高い」とおどける。

タンガニカ湖は約700Kmと芋みたいな細長い湖。
内心思ったより安かったのでほっとした。へたする
と最悪500$=6万円ぐらいは覚悟していた。
ブルンジ10/23日出航ザンビア10/25日到着を
確認したのでお金はホテルに帰ってから午後払う
ことにした。

お金は用意していたが税関や男たちにサイフを見
られたくなかったのだ。税関を港まで送り、最後ま
で「ワイロ」の要求をしなかったばかりか、わざわざ
船会社まで案内してくれた税関に5000bf=600円
を渡した。疑ってすみませんでした。ありがとうござ
いました。ちなみにホテル一泊1200円。

まだ安心は出来ないが昨夜あれほど眠れないほど
の不安、心配ごとが午前中に解消した。午後ホテル
から歩いて5分もかからない所の船会社に100$=
12000円の支払いを済ませた。どうも貨物船のよう
な気がする。でもいいか。これでほんとに、ホッとし
た。23日に出航することを祈る。

お詫び

2007年10月18日 | ブルンジ
先日いっせいに送った写真つきメールは
他人のアドレスも入ってしまったような
気がします。

今までは一斉の場合は「CC]欄にアドレ
スを入れていたんですが、いつの間にか
「CC」がなくなっていたんです。原因が
わからないのでしばらく打てなくなりそう
です。

とゆうわけでアドレスを勝手に他人に知ら
せる結果になってしまいましたことお詫び
いたします。

言いづらいのか苦言は来ていませんが、気
をつけますのでこれからもよろしくお願い
します。

10月17日 ブルンジの初日

2007年10月18日 | ブルンジ

ブルンジの笑顔の人たち


ブルンジの途中の村、民家だろうか。こんな感じの
山を走ってきた。


ブルンジの途中の村で集まってきた人たち


ブルンジに入ってから写真を気さくに撮らせてもらうようになったので
気が楽になる。ブジュンブラの人たち

2007年10月17日水曜 はれ
ブルンジの初日の朝はカラッと晴れ上がった青
空は気持ちよい。日記の下書き、写真の撮り込み
縮小に午前中いっぱいかかる。午後3時過ぎ昨日
見つけていたネットカフェへ。

夜7時ごろまでかかるがプログの更新までは出
来なかった。あしたまた来ることにしよう。ブジュ
ンブラ市内のどこら辺に泊まっているのかもまだ
つかめていない。

ブログの更新を終えたらこれから進むザンビア
へは「タンザニカ湖」を船で渡ることにしている。
船着場の確認、船のチケット売り場などこれから
探すことになる。ちょっと憂鬱で不安だなー。

ウガンダ、ルワンダは高原の中に街があったが、
ここブジュンブラ市内は東に山は見えるが平坦な
街のようだ。

10月16日 ブルンジにつきました。

2007年10月18日 | ブルンジ

ルワンダからブルンジへの道はカーブの
連続だった。道はよかった。


ルワンダからブルンジへ向う途中村の親子


ルワンダとブルンジの国境


ブルンジに入った直後、地元の人たち

ルワンダからブルンジに向う
2007年10月16日火曜 曇り朝20℃ はれ昼30℃
きのう15日64才の誕生日を迎えて今日はブルンジ
へ向う。朝6時30分スタートしようとしたがエンジン
の音が気になる。うん?どうしたんだろう、プラグ
を替えたのでその影響か?

まだメカニックは寝ている時間だ、フッとガソリンコ
ックを見ると「ストップ」になっているではないか。先
日プラグを交換した時、修理屋がプラグを洗うのに
ガソリンを抜こうとコックを閉めたままだったのだ。
新品と交換したのでその必要はなかった。

コックを戻すとエンジン音は通常に戻った。ほっとす
る。ブルンジへの道は片側一車線狭い一本道。キガ
リを出てからも山道のカーブの道が続いた。朝から
畑では農作業に精を出している現地の人々。また
村の人たちはオートバイを見たとたん「ヒエーイ」と
嬌声を上げて手を振る人々たち。

学校を改造した「虐殺展示館」の町ブタレBtareに
ついた。「1994」「メモリアル」「スクール」と集まっ
てきた地元の人に聞いた。オートバイタクシーの
青年が「知って」いるとゆう。その青年のオートバ
イについて行く。

着いたところは兵隊のいる兵舎「ここには1994」
「メモリアル」じゃないと兵隊。オートバイタクシー
も困った顔。しかたないブルンジへ向おう。ブルン
ジの国境に着いた10時10分。

「あなたのビザはシングルでフィニッシュ」とルワ
ンダ係官。エーなぜだ。出国一回だから「いいは
ずだ」なんだかんだと待たされる。ワイロの要求
ではなさそうだ。並んでいたブルンジ人が係官
に何かを告げた。

係官は「コミニケーション」の違いみたいなこと
を言ってパスポートにスタンプを押した。変な係
官だなー。次はブルンジ国境に入る、あらかじめ
「ビザ」はとっていたのでスムーズ、並んでいる
列に割り込んで来る人あり。

「順番順番」と後ろに回す。その中に一人おばあ
さんがいた、周りの人が「おとしより」だから「許
して」あげたらと話す。それはすみません「どう
ぞ、前に来てください」と一番前で手続きをす
ませた。

ブルンジに入っても山の中のカーブの道は続
いた。アンデス山脈を思い起こすようなかなり
高いところを走っている。道は狭いが道はい
い。ルワンダ キガリを出てからづーっと山の
カーブの道が続く。

眼下に町が見える、あれがブルンジの首都、
ブジュンブルなのかも。だんだんと下っていく
と大きなモニューメントはブルンジの地図をあ
しらった首都ブジュンブルの入り口の看板だっ
た。市内に入りガススタンドの隅に停める。14時
5分。

地元の人がどっと寄ってきた。両替屋、タバコ
売りもきた。「ホテル」はと聞くとタバコ売りの
青年が隣のビルを指さす。オートバイをおいて
歩いて青年の後を歩く、一軒目のホテルは一泊
140$=1万7千円と「高い」隣の並んでいるホ
テルに行く。

すぐ隣のホテルは一泊10$=1200円。広い敷
地の中で明るい部屋、トイレ、水シャワーは共同
になっている。ここに泊まろう、オートバイをと
りにガススタンドに戻る。案内してくれた青年に
500ブルンジフラン=120円お礼に渡した。

部屋に荷物を入れる、どこで聞いたのかオート
バイの周りに地元の人たち7,8人。ここら辺は
街の中心になってるようだ。水シャワーを浴び
て下着、靴下を洗濯。ネットカフェを探しにゆく、
近くのレストランの中にあった。

ホテルに戻り朝からドリンクだけで走ってきた
ので腹がへっている。17時とチト早いがホテ
ルのレストランでチキンセット、ビールを注文。
ビール大瓶1800ブルンジフラン=200円
トータル12000BF=1200円

中庭の中にガーデンでも屋根つきでも飲めるな
かなかのレストランだ。ここまで来る間途中の
道には兵隊さんがいたるところでづーと警備し
ていた。(93カ国目)

10月15日 松尾清晴 64才に!

2007年10月15日 | ルワンダ

ルワンダで迎えた64才の誕生日

1943年(昭和18年)10月15日生まれ
今日で松尾清晴64歳になった。

走り始めのオランダ、ニューヨーク、イラン
ネパールそしてルワンダで5回目の誕生日を
迎えたことになる。

人生もうあとがない、いつまで走れるんだろう
かね、10年後74才なにをしてるんだろうか
なんか、考えると恐ろしくなってくる。

豪華絢爛の食事をもう用意した。いつもより
トマト、たまねぎを多めにして、ピーナツ、魚
の缶詰もある。宿の部屋でひとり盛大に祝おう。
もちろんメデソン(くすり)ビールで。






10月14日 写真が入らない

2007年10月14日 | ルワンダ
今日14日で三日連続4時間~5時間続けて
ブログの更新を試みたがどうも写真がうま
く入っていかない。この辺でよしとしよう。

ご勘弁を!。

もうじきブルンジに向いますが、1994年
の虐殺記念館はキガリから南の方へ離れた所
にあるようなので寄ってみるつもりです。

うまく入っていかないとパソコンは
「あー疲れますねー」

10月12日 13日 虐殺犠牲者の子供 

2007年10月14日 | ルワンダ
2007年10月12日金曜 はれ
パソコンに日記の下書きと写真の縮小など午前中
いっぱいかかる。午後から、きのう「接続OK]と話し
たネットカフェへはしまっている。ウン?セキュリテ
ィの人に聞くと日曜まで閉まっているとのこと。
オーナーはイスラムなのかなー。

近くの別のネットカフェで13時から17時までかかっ
たがネットが中断して写真の貼り付けまで出来な
かった。あしたにしよう。

2007年10月13日土曜 はれ
ここキガリは朝方冷え込む、長袖を着て寝ている。
泊まっているホテルはトイレ、シャワーつきの部屋
になっているが水さえ出ないのだ。部屋を見たと
き蛇口をひねって確かめればよかった。

ポリタンクで水を運んでくるのである。頭を洗え
ないのでホテルを替わることにする。きのうホテ
ルを予約していたOKAPIホテルに9時にいく。部屋
が空くのは10時過ぎになるとレセプション。

その間「エンジンの音」と「パワー不足」が気にな
っていたのでホテル前のパーツ屋でプラグを見
てもらう。相当痛んでいたので新品と交換した。
6本=30ドル=3600円。これで大丈夫だろう。

最近出来た新しくきれいな5階建てホテルの部
屋が空いたのは12時近くになった。てっきり新し
い部屋に泊まれると思っていたら案内されたの
は別棟の平屋で古い建物だった。トイレ、水シャ
ワー付ではある。水が出るだけでもよしとしよう。

午後3時から7時までかかって、きのうの残り写真
の貼り付けをしたがどうもうまくいかないなー。
今日はこれまで「またあした」やり直してみるか。
帰りにスーパーによって晩飯用に、コンビーフの
缶詰、パントマト、たまねぎを買う。ビールは隣の
小さい食堂で買う。

<ここにも1994年犠牲者の子供>
となりの食堂で昼間ビールを飲んだ。店には男性
と女性がいた。30歳ぐらいの男性は店の人だろ
うか。私の年は「いくつだ」と聞く、「63歳」と答え
る。あなたの年は「いくつ」と女性に聞いた。

「25歳」と男性が教えてくれる。最初女性を見た
とき35歳ぐらいかなーと思った。「ファザー、マザ
ー」はと聞くと「両親亡くなった」と。「1994年か」
「そうだ」年より老けて見えたのは幼い12歳頃か
ら苦労して過ごしてきたからなのだろうと思う。

女性の「両親と兄弟も殺されたのだ」と男性が話
した。ルワンダには親、兄弟を失った人たちが相
当いるのではないか。なにしろ50万人とも100万
人とも言われる虐殺が短期間で行われたのは13
年前「1994年」のつい最近のことだ。

多数派フツ族が少数派ツチ族への虐殺は「ホテル
ルワンダ」の映画が日本でも上映されているとメ
ールで教えてくれた。わたしはほんとうのところ
詳しく知らない。ドイツヒットラーしかり、おろ
かな人間たち。

私たちは殺されるため、殺すために生まれてき
たのではないのだ。

10月11日 ルワンダの首都キガリにつきました。

2007年10月12日 | ルワンダ

ルワンダに入った直後地元の人たち


こんなに立派な角になりました。ルワンダ

2007年10月11日木曜 朝くもり 昼はれ
ルワンダの始めての朝。今日やらなければならない
①銀行でお金を下ろす②ブルンジの大使館を確かめ
る、二つである。

ホテル前に出て地元の人にバンクは「何時に」開くの
と聞くと「8時」とのこと。それじゃもう「開いて」るね。
ホテルの人が時計を見せて「ルワンダ時刻」は一時間
遅くなってるのだった。

散歩がてら銀行に歩いて行く、二件の大きな銀行のう
ち一軒目はカードを使えない。二軒目もATMカードを使
う器械はないが窓口で下ろせる。しかしシティバンクカ
ードではダメだった。「マスター」か「ビザ」カードで下ろ
すことになった。

米ドルが少なくなったので600$米ドルを下ろした。その
内の100ドルを「町の両替屋」で交換した方がいいとそこ
の銀行員は教えてくれる。とりあえず米ドルを確保した
ので少し安心できる。

ブルンジ大使館をオートバイタクシーに聞くと市内から
5kぐらい離れた所にあるらしい。宿に帰りオートバイタ
クシーの後ろについて行く。キガリは丘陵地帯にある
ので上り下りの連続である。周りの丘陵地帯にも住宅
が建っている。

丘陵を登りくだり住宅地の中にあるルワンダ大使館に
ついた。ここは車はそんなには多くなく静かな中堅都
市と言った所だろうか。いつものようビザ申請書には
名前、パスポートナンバー以外ひらがなで記入する。

なんてかいてあるのでしょう、わかりません、こまりま
した、ここもわかりません、どうかよろしく、おねがいし
ますなどと全部ひらがなで記入した。「フランス語」
かと係官、イヤわたしは「ジャパーニーズ」しか「書け
ないんです」すみません。

イヤーな顔で受け取ってもらった。パスポートの発給
受け取りは午後3時」「いやすぐにほしい」その時笑顔
の責任者みたいな人が来た「すみません」いったん帰る
とここまで「戻って来れない」ので今スタンプを「お願
いします」必死に合唱ポーズ。

どうなるのか心配しながら現地の人5,6人と一緒にロ
ビーで待つ。20分ぐらいしてビザのシールを貼ったパ
スポートを返してくれた、ありがたい。

責任者の部屋まで行き胸をなでおろすポーズで「あり
がとうがざいました」とゼスチャーでお礼をした。
受付の人にも同じポーズをして宿に戻る。

パスポート一ヶ月ビザ代=40$=5000円現地通貨
はダメである。オートバイタクシー700ルワンダフラ
ン=175円。ついでにビール750リットル800
RF=200円、晩飯セット1600RF=400円ぐらいかな。

ルワンダ 首都キガリ市内

キガリ市内

夕方昼間見つけていたネットカフェに自分のパソコ
ンをつなげて貰えるかどうかを聞きに行く。「大丈夫」
とのことなので明日12日に来ますので「よろしくと」
頼んでかえる。

帰る途中「彼のことが」気になった。11日キガリに着
いた、その日の夕方レストランを案内してくれた青年
のことを。二軒のレストランを案内してくれた帰りに
「ファザー、マザー」はキガリに住んでいるのと聞い
た「二人ともなくなった」「1994」このとき二人とも
亡くなるなんておかしいなー

若くして両親はなくなったんだー、彼はまだ25歳ぐ
らいだから幼い頃なくなったんだーぐらにしか、そ
の時は思わなかった。部族の争いで100万人と言
われる大虐殺があったのは1994年。13年前で
あったことは知っていた。阪神大震災の3年前のこ
とである。最近のことなどである。

歩きながらフッと「アーそうだったんのか」彼が
「1994」と言ったのは大虐殺のあった年なのだ。
どのようにして連れ去られたのか、自宅で殺され
たのかはわからないが彼の幼い心に大きな傷を
残していることは間違いない。彼とはそれっきり
会っていない。