松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

SOS・・・メールアドレス復活出来ず・・ご協力をお願いします

2013年09月29日 | 赤道直下と陸路国境148か所
お手数おかけしますがご協力をおねがいします。
ゼロからの出発になりました・・まいったね。

マイクロソフト「提出された情報ではあなたを確認することができませんでした
「最終」との連絡・・・でメール(hotmail)アドレス・・・復活できず・・
うーんまいった・・がっくり。

名簿作りのあたらしいメールアドレスです。
これからは「bikenomatsuo@gmail.com」あてに送ってくださいますよう
みなさんのご協力をどうかよろしくお願いします。

オートバイひとり旅・シベリア横断中央アジア 61 イランからアゼルバイジャン

2013年09月27日 | 赤道直下と陸路国境148か所

お金降ろしに・・イランからカスピ海を右手に見ながらアゼルバイジャンの首都・バクーに向かう

2003年10月6日月曜 20℃ ここはあったかい はれ20℃ 22℃ 22℃
夜中2時20分ごろトイレに起きる。やっぱりお金のことが気になる。もしアゼルバイジャンでダメだったら・・アルメニアのビザを取りに行きアルメニアの銀行でお金を下ろそうと考えていたが国境でダメなことがわかった。アゼルバイジャンとアルメニアの国交はないらしい。したがってこの国ではアルメニアの大使館がないのだ。
アルメニアに入るのにはグルジアに回って入るしかないことがわかった。

また、途中出会ったポーランドのトラック運転手の話を聞くとグルジアまで500キロの道路は悪くて10時間~12時間かかると話していた。そんなに道が悪いのかいったいそこまで走れることが出来るだろうかと不安が増す。ウーン、もしアゼルバイジャンでお金が下ろせなかったらグルジアに入り・・トルコかアルメニアに行くしかない。持っている200$(24000円)でアルメニアビザ代50$・・。


右にカスピ海・・左手には小高い丘が続いている・・・もうすぐ・・首都バクー。

もしアルメニアで下りなかった時はイランビザ50$アルメニアからトルコには入国できないらしいから・・・。グルジアからトルコへ回ることになりそうだ。ガソリン代が日本と同じだったらお金が足りなくなる。ウーンなかなか寝付かれなかった。時計を見ると8時を過ぎている。イランだとまだ6時台だろうに・・・。太陽がカスピ海に上がったばかり光が弱弱しい。海岸の浜辺を仕事なのか何人かの人が歩いている。

8時半にホテルを出る。カスピ海に流れる細い川の橋が国境になっていることを朝になって分かった。ガススタンドで給油。アゼルバイジャンのお金オンりーだと。バザールで両替したらと教えられた。途中マイカーの人に聞いてついて行く。停まった所に両替してくれる人がいた。首都バクーに向かって再スタート。大きなデコボコはなくなり道路は少しずつよくなってきた。

しかしゴトゴトした道は田舎の道路のように狭くてカーブが多い。両側にはポツンポツンと民家が並んで出てくる。時に商店みたいなものもある。14時に首都・アゼルバイジャンに着いた。さて大丈夫か。最初に聞いたセントラル銀行に行く。立派な金色のビルだ。セキュリティの人がここではダメだ。インターナショナルバンクへの道を教えてくれた。「シティバンク」でも「OK」か。「OK」と言う。

ほんとうに大丈夫か?。ここの人間もイヤな人間はどっかに早く追い出したい、そのための「OK」か・・トルクメニスタンのことを思い出す。教えられた「紙」をあっちの人こっちの人に見せる。最後Uターンしてインターナショナルバンクに着いた。思ったより早く着いた。銀行に着いた。「紙を見せ」「ここかい」「そうだ」銀行の中に入る。
「トラベルチェック」「シティバンクカード」「OK」かい。「OK」まだ疑って「OKか」。

お金が下りたーとたん身体がふにゃふにゃに
カウンターの女性何事もないような平然とした顔、小さい声で「OK」。よかった、よかったー。カードでも大丈夫か・・。「OK」。ATMで200$下ろしてみることにした。パシャパシャとお札を数える音がした。あー大丈夫だ。身体がふにゃふにゃになってしまった。眠れない日が続いたので力が抜けてしまったのだ。持っているT/Cトラベルチェックすべて800$現金にする。14時30分。


アゼルバイジャンの首都バクーの銀行についた・・・さてお金をおろせるか。パシャパシャパシャお札を数えるATMの
機械の「音」よし大丈夫だ。身体がフニャフニャになった。

あーこれでもうお金の心配しなくてすむぞ。トルクメニスタンに入った9月25日からこれまでいったいどうなるのか、今日10月6日まで12日間づーっとあすはどうするか不安で眠れない夜が続いていた。まぁこれでしばらくは大丈夫だろう。今度は下ろせる所で早めに用意するようにしとこう。ホテルに向かう。ここもウズベキスタンで会った女性ひとり旅のカドテラさんがメモしてくれたオテルに泊まることにした。

ホテル(OtelAraz)メモをタクシーに見せてうしろに着いて行く。一泊8$=960円=40000マナト。夕食ビール大1、チキン、トマト、キュウリ、ワイン1本、パン6$=720円ガソリン1リッター=16000マネット=50円(アゼルバイジャン通貨10000Manat=2$=240円)

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅 60 イランからアゼルバイジャン

2013年09月22日 | 赤道直下と陸路国境148か所

イラン・テヘランを出発・・途中の山には「イラン」のマークか・・・。

お金下ろしにとなりの国アゼルバイジャンまで走る

2003年10月5日日曜 18℃ 寒いぐらい涼しい 20℃ 走っていると肌寒い20℃
ホテル前、部品店に入れさせてもらっていたオートバイを出してアゼルバイジャン・首都バクーに向かう。約500kmぐらいとか地図はなし。クニモトさんから借りた「地球の歩き方」からノートに書き写す。さらに行き先の途中の町何カ所か「名前」は大きく「英語」で書いた。走っていく途中地元の人に見せながら走るが・・ためだ・・わからない。

しかしよく考えてみると「イラン」の人は英語はわからないわけだ。何人かの人に見せたがチンプンカンプン?いつもとは違うようだ。テヘラン市内を出るのに苦労したがそれでもアゼルバイジャンの首都「バクーバクー」繰り返して走る。右手に灰色の岩山を見ながらどうにか国境・アスタラに着いた。16時。最後は地元の人が国境事務所をくわしく教えてくれたので助かった。しかし係官が不在。

一人いたおじさんはすぐに戻ってくると言ったが30分待っても戻ってこない。催促して17時ようやく戻ってきた。「ハリーハリ―」イラン側出国手続き終わり17時30分。
アゼルバイジャン側に入る。手続きを終えたと思ったら右に入った広場の小屋みたいな所に誘導された。「どうした」音沙汰ない。だいぶ待たされたあげく「パスポートNO」と言いだし始める。若い係官は英語が出来る人だった。

「上官」「マネーマネー」「OK」と「言ってる」と若い係官が話す。そうか「ワイロ」要求なのか「フザケルナ」。若い係官に「ノーマネー」で通すと話す。バクーに行かないと「ノーマネー」。若い係官「それでいい」「それでOKOK」シーと口に人差し指を充てる。もう暗くなってしまった。上官のいる事務所に入れられた。「なんでダメなのか」「パスポート」「9月25日~10月25日」になっている。

「どこがダメなのか」日本語でどなり声を上げる。「おさえて、おさえて」若い係官のしぐさ。結局そのままワイロ渡さずに済み手続きを終えることが出来た。ここら辺もまだまだワイロの悪習が残っているんだなー。真っ暗のなかアゼルバイジャンに入国。しかしまったくわからない。家の明かりをたよりにそろそろ走る。道がデコボコだ。さっき見えていたのは明かりは商店だった。ホテルは若い係官に聴いていた。

1キロも走らないうちに「焼き肉屋」がありそこの家主に「ホテル・ホテル」と聞いたら「そこだ、そこだ」と指さす。トラックもノロノロ走っていてほこりが舞い上がりなお見えない。そこの「ホテル」までの道がどうなっているのか判断も出来ない暗さ。とうとう店の人に車を出してもらい「あとに着いて来い」しかし焼き肉(シャクリク)を食べにくるんだぞみたいなことを言ってるようだ。

車のうしろに着いて行く。500mもしないうちにホテルに着いた。すみませんでした。カスピ海のほとりに建っているホテルだった。半月に光で波がかすかに光っていた。いいところに宿があってよかった。2$=240円+食事代・・久しぶりにビールもある。しかし2本分しかお金がない。ウォッカーをサービスしてくれとせがんで一杯半ごちそうになる。
ホテルには飲みに来る人もいて夜遅くまで月の明かりの下で飲んで騒いでいた人もいた。海岸砂場にはテントみたいなものも立っていた。飛び込みでなんとも素晴らしい環境のホテルに泊まることが出来た。いい思い出の宿になった。(時差イラン18時30分アゼルバイジャン19時55分だった)

「幸福の木」に花が咲いた・・。

2013年09月20日 | 赤道直下と陸路国境148か所


宮崎の高橋さんとゆう方から「幸福の木」に去年も今年も
花をつけたと写真を送ってもらいました。

花をつけるのはめずらしいとのこと・・それも2年続けて
わたしも始めてみる花です・・・皆さん見たことありますか。

素晴らしい、いいことがきっとあることでしょう・・。

この方は水島さんライダーと昔一緒の職場だった・・でわたし
のブログを見て電話をいただいたものです。遠いところから
それも知らない人から連絡をもらうのは本当にうれしいもので
す・・ありがとうございました。


横向きじゃなくてちゃんととりこんだんだけど・・すみません。

現場からの報告・・福島原発

2013年09月18日 | 赤道直下と陸路国境148か所
現場・・・FBから転載


都内の小さな部屋でおこなわれた、福島原発で保全部に勤務されていた元東電社員、吉川彰浩さんの講話会に行ってきた。福島第一原発(略=1F)で10年間働き、転勤した第二原発(2F)で被災し、その後1年半収束業務にたずさわれていたご経験からお話をうかがった。

震災時に1Fだけでなく、実は2Fもメルトダウン寸前だったという状況に驚いた。冷却水がなくなり、原発の作業員自身がタンクローリーを運転し、周辺の湖から9時間かけて水を運び危機を乗り越えた。それはメルトダウンまで、わずか30秒前だったらしい。2Fも地獄のようなありさまだったのだ。

事故当時、吉川さんは通常の100倍以上の被ばくをしたが、1Fで被爆と怪我をした作業員が2Fに運ばれて来たとき、あまりに放射能が強すぎて近づけず、かつての同僚に食料の差し出しもできなかった。

現場の労働条件は、今でも劣悪をきわめている。危険手当のピンハネ、そして通勤時間のつらさを訴える。作業員は毎朝、現場から20km離れたJヴィレッジに集まり、そこからバスで現場に向かう。宿舎は十分ではなく、吉川さんはいわき市の南部から、片道2時間の通勤だった。しかも毎朝、極度に精神状態は追いつめられ、しまいに家にあるモノを殴りつけ、ようやく出かけることができたという。

今も現場では、問題解決の具体的な案がほしいのだ、と吉川さん語る。「私たちは、原発を安全に動かすためのプロだ。しかし、これほど破壊されたものは別なもので、自分たちは全員素人に過ぎない」と。

しかし、一方で京大の小出先生や、立命館の山田先生などが提唱するいろいろな案には否定的だ。現場のことが分かっていない、と。確かに、はるか離れたところでいろいろ語るより、現場を知れというお気持ちに、胸が痛くなる。「液体金属など、どうやって原子炉に送り込むのですか」とおっしゃられたとき、それは液体ではないです、とは言えなかった。僕は現場のつらさに思いを馳せることで、いっぱいいっぱいだった。

吉川さんは脱原発ではない。ただただ、一刻も早く収束を願い、労働条件改善を訴え、このままでは熟練作業員が消えると警鐘をならす。福島の問題は、福島に生活されている方、避難されている方、そして現場で闘っている方々を差し置いて、理論だけ先行することはあってはならない。国も工事ばかりでなく、”人”に目を向けなければならない。方法論以前なのだ。

震災当時は、多くの人から支援物資や激励が届いたが、それもやがて途絶えた。そんな日々に届いた、一枚の子どもが描いた”仮面ライダー”の絵が、心を枯らしていた作業員たちの目に涙をもたらした、と吉川さんはつぶやいた。その絵の貼ってあるJヴィレッジには、郵便局だけが配達をするという。

立場を超えて、問題解決にあたることが、明日への希望だ。
勝者はいないのだから。




2001年9月11日・・・前日・当日・翌日・・ブッシュさん相変わらず平然と生きてるんですか・・・

2013年09月10日 | 赤道直下と陸路国境148か所

現地で買った雑誌から


ケネディ国際空港・・飛行機から降ろされてロビーに戻りテレビで事件を知った



すでに年月がたった・・「同時ビル爆破」の事件。本当の犯人は「アメリカ」の自作自演ではないか・・いまでも消えない・・うたがわれても仕方ない・・2001年までの国防費がだんだん減ってきて2002年から増えてくる・・・うーんだまされ続けてきた世界はもうだまされないでしょう・・最近の「シリア」のこと・・なんのことはない。作りすぎた「商品」を消化しなくちゃならねー・でシリアに落として当面の消費を終わらせるだけ・・。背後の脅かしFBI・CIA・チャチャチャ・・その後ろに控える国防軍事のみなさんたちにおびえる「オバマ」さん・・ノーベル賞は返したほうがいいのではないでしょうか。

それにしてもブッシュ元大統領よく平然として生きられますな・・小泉さんも・・「大量兵器、アルカイダとの関係もなかった」
イラクで10万人、アメリカ兵士も4千人なくなった・・責任は誰もとらない。うそのシナリオばかり、もうだまされません
ホワイトハウス、FBI、CIAのみなさん孤立するのはあなたたちだけです。



*写真の日付はヨーロッパの日付のためずれています。

9月10日月曜 くもり 午後夕立の大雨
午前中本屋に行ってオートバイの到着する港を地図で確かめに行く。意外にも泊まっているホテルから近い港であることが分かりホッとする。昼飯は朝鮮漬けでビールを飲んでベッドで昼寝しているとすごい夕立の雨になっていた。20時頃雨も上がったので日本の青年たち4人で晩飯はメキシコ料理へ。丸い「焼きもち」みたいなものに「やさい」「ライス」「大豆」などをくるんで食べる。初めてだったが意外とうまかった。

人が代われば値段も違うビール
ここらあたりは食堂でもビール、アルコールは出していない店がほとんどなので「持ち込んで」「いいかどうか」お店の人に聞いて「OK」をえてからビールを飲んでいる。ビールを買いに行くと「きのう」と「今日」の値段が違う。午前中と午後売店の「人がかわる」と値段が違った。きのうは○○$だった「どうして」きょうは「高いのか」とかけあっても知らん顔。人が代われば値段も変わる「ふーん」おかしなことだなー。

納得できないがしょうがない。食事が安いのは持ち帰り弁当だ。ユースの近くには持ち帰り弁当屋や食堂があっちこっち商売している。ホテルに持って帰る時もあればお店で食べることもある。あした日本に帰るため朝早いので起きられるかどうか心配だ。オレゴン州に戻ると言う日本人女性はあした朝4時に出るのでそれまでテレビ室で寝ないで朝まで過ごすと話していた。

9月11日火曜 はれ はれ 快晴
借りた目ざまし時計が鳴る5時ちょっと前に起きた。国際ケネディ空港9時15分発である。きょうの宿泊地サンフランシスコ経由ハワイ・までの予定である。日本までは一気には長すぎ疲れる・・ハワイで一週間休んで帰国する。6時前地下鉄Aラインに乗った、同じ電車には日本人スチュワデスも乗っていて「ロンドンまで」乗務すると話す。「ここですよ」「あーそうですか」ありがとう。ケネディ空港「下車駅」をスチュウワデスさんに教えてもらい降りる。

駅前から循環バスに「乗る」。だだっ広い駐車場をぐるぐるまわって空港に7時20分。搭乗カウンターでいつものように一番うしろの窓際の座席を確保。上空からアメリカの景色と道路を見るのが楽しみだ。8時40分ごろ機内に乗り込み一番うしろの自分の座席でウトウト、夕べはほとんど寝てないので眠い。9時15分発車時刻はとっくに過ぎた9時40分ごろ機内放送があった。

出発が遅れることはどこの国でも、いつものことなので気にかけないでいた。男の声で一回目の放送があったが何の事だかわからない。あいだをおいて二回目の放送で「ハイジャック」だけ聞きとれた。でもこの飛行機がハイジャックされたことではないし心配することではないじゃないかと思いながらウトウトし始めた。そのうち機内のあっちこっちで携帯電話で外との交信をしているようだ。


飛行場から追い出されてどこに行くのかわからないバスに乗る

満員の乗客が総立ちになった。あっちでかたまりこっちで固まって身振り手振りで周りの人に話している。神妙な顔つきの話しぶりから普通の事でないことをわたしも読みとれる。すぐに機内から全員下ろされた。ロビーに戻ると2カ所のテレビ前は人だかりになっている。テレビを見て驚いた。ビルに飛行機が突っ込んで行く「シーン」を映している。ビルの上層部からは炎が出ている。

「えーこれだった」のか。これは「戦争になる」と一瞬頭をよぎる。今度は隣のビルに飛行機が突っ込んでいく。そのあともビルに突っ込んで行く映像を繰り返して流している。「BBC!BBC!」どこのTV局なのかわからないが男性が叫んでいた。チャンネルを変えろとゆうことなのだろうか。テレビの一番前に座っていた若い女性はビルが崩れる瞬間「オー」と言いながら頭を抱えて泣きだしてうずくまってしまった。

空港はすべて閉鎖されるらしい。チケットはどうなるんだい、なにか証明するものはないのか。もたもたしているとシーシーと追い出されるように空港から出された。外に出た、目の前にはマンハッタンのビル爆破の黒い煙がながながとなびいているのが見える。外に出されてから、どこに行けばいいのか、どのバスに乗ればいいのかまったくわからない。取り残される前にと思って「とにかく乗ろう」余り混んでないバスに飛び乗った。


歩いて行ったマンハッタンビル爆破現場・・

どこに行くのかわからないバスだ。バスは住宅街を走り、幹線道は走らない。1時間ぐらいでバスターミナルに着いた。ここがどのあたりなのか周りにいた人に聞いても地下鉄地図を見せてもまったくわからない。周りの人に○番に乗って行けと言われてうろうろしていると黒人のおばさん2人に連れられた日本人のおばさんが来た。「ジャパン」かと聞いて来た黒人のおばさんはこの人を「助けやって」くれみたいなことを話す。

日本人おばさんは「あんた日本人ね」「あーよかったー」わたしのふるさと佐賀・嬉野の言葉にそっくりだ、すぐ九州の人とわかる。その人は長崎「佐世保」の人で娘さんといっしょにアメリカに来た。しかし娘さんが気分が悪くなって病院に行ったら「精神病と言われ」「入院しろ」と言われた。「ひどい病院だ」「電話もさせてもらえない」などと話す。タクシーやバスに乗ったらとんでもないところに来てしまったとおばさんは話す。

空港に戻れば娘さんの病院もわかると言う。ところで「今日なにが起きているか知っているんですか」と聞いたら「知らない」と言う。きょうはビル爆破で「空港も電車」も「すべて止まっている」だよと話してもちんぷんかんぷんのようだ。仕方ないのでどこの行くのかわからないバスの運転手さんに「ケネディ・エアーポート」と頼んでおばさんと別れる。運転手さんは「うんうん」とうなずいてくれたがどうなるのだろうか心配でもある。

人のこと心配している場合じゃない。自分がどこにいるのかもわかっていないくせに、それどころじゃない。自分がこれからどうすればいいのかもわかっていない。「しょうがない」再び行く先のわからないバスに乗った。途中から乗ってきた中年男性にこのバスはどこに「行くのか」と地下鉄の地図を見せながら聞いた。「地下鉄の終点」に着くことがわかった。あーホッとした。バスは満員になった。

それにしてもバスの中でも乗客の人たちはおとなしい。きょうの事件のことみんな知っているはずなのになー。これだけの大事件なのに国民性の違いなのだろうか。日本だったら知らない同士でも「大変なことだ」「ひどいことになった」と話になる。それでなくてもヒソヒソ話しはする。しかし、ここのアメリカでは「ひそひそ話」もしないのは冷静と言うか無関心なのかどうかわからない、不思議に思う。

約1時間バスの揺られて着いたところは中華街もある街。腹も減っているトイレも行きたい。食堂に行くがビールを置いてないところばかりである。ガマンしてホテルを探そう。アメリカは飛行機も地下鉄も全面ストップしているので早めにホテルをおさえておかないと泊まれないと考えた。4時になっている。地元の人に教えてもらった立派なホテルに行く、ちょっと高そう「聞くだけ聞いてみよう」フロントに行くと「満杯」とことわられる。

料金は聞かなかったが2万円ぐらいはする高級ホテルだと思う。そのホテルに「デスカウントホテルは」500mぐらい先にあると聞く。そこも満室でダメ。あーぁと思っていると「夕方6時に来い」と言う。キャンセル待ちのことだろうか「荷物は預けて」いいとも言う。地下鉄は動き出しているようだ。荷物を預けて地下鉄に乗ってビル爆破現場まで行くことにする。ここは地下鉄7号線の終点であることがわかった。

ホームに上がると爆破されたビルの黒い煙が見える。マンハッタンにはどこで降りればいいのか電車の中の若い人に聞く。電車は途中まで行って折り返しになっているようだ。マンハッタンの中心までは行かないらしい。降りた駅からバスに乗った、降りる時バス代は隣の人がカードで払ってくれた「ありがとうございます」。そこから歩きで現場を目ざした。ぞろぞろと現場に向かって歩いている人のうしろについていく。

途中の店や喫茶店は開店休業、誰もお客はいない、なんとも静かである。2か所あった教会の前には水の入ったコップを長テーブルにならべてある、ボランテァなのだろう。一時間以上歩いて現場に着いた。真っ黒い煙がもくもくと上がっている現場付近は夕日に照らされているビルの中を救急車、パトカー、消防車がランプを付けて動きまわっている。テレビ局が中継している。報道の人たちも動きまわる。



現場は降りて逃げたと思われる自動車の上にもプラスチックを削ったような「白い」ホコリが積っていた。


プラスチックを削ったようなふわふわした白いワタみたいなものがあたり一面道路や置き去りにして逃げたと思われるマイカーの車の上にも20cmぐらい積もっている。ロープを張ってありこれ以上現場には近づけない。シャベルカーが列を作って動き出している。目の前に消防車が停まった。消防の2,3人はガスボンベをしょって地下鉄階段を下りて行った。現場まで地下鉄を歩いて向かうのだろうか。

水道栓から水を出して放水している消防隊の人もいる。現場から帰ってきたのかこれから行くのだろうか消防隊員もいた、疲れた顔なので現場から帰って来たのだろう。ビル爆破はどうして起こったのか原因は何だろうかまだわからない。ビル爆破現場から予約しているホテルに戻る。ここの人は韓国出身らしい。「エー」料金を聞いてビックリ120$=1万4千円だって!でもしょうがない、カードで支払う。

電話は部屋にある。日本に電話してみたいが海外はだめみたいだ。崩壊したビルの黒い煙が立ちのぼっているのが部屋の窓から見える。外食をがまんしていたホテルの部屋でビールを飲みながら一日を振り返る。長―い一日だった。つかれたなー。

9月12日水曜 はれ はれ はれ
きょうはもしかしたら飛行機が飛ぶかもしれないと思い6時頃ホテルを出ようとした。宿の人が「ノーノー」「オールストップ」だと言う。テレビで「言ってるじゃないか」みたいなことを言われる。起きてからづーっとテレビは見ていたが全面ストップとは知らなかった。しょうがない部屋に戻って横になる。ここのホテルは高すぎるのでユースに戻ってみよう。荷物を預けてマンハッタンのユースに向かう。電車はすべての路線で動いていた。

ユースホステルでは泊まり客の受け付けは午後3時に来るようにとのこと。泊まれないことも考えていたがどうにかなるだろうと預けた荷物をとりに戻った。再びユースに戻ったのは12時過ぎだった。電車の窓からビル爆破の白い煙がまだ立ちのぼっている。同室だった日本人iさんとSさんと会った。わたしを見つけた瞬間「あー松尾さん生きてる」とイイノさん。

9時頃のサンフランシスコ行きと聞いていたので「心配していた」冗談かと思っていたらビルに突っ込んだ飛行機の一機は隣りの空港ニューワークから飛び発ったユナイテッドサンフランシスコ行きだったらしい。「えーっほんとに」自分でも初めて知った。
3時にユースの受付で泊まり予約が出来たのでひとまず安心だ。きょうは何もしない日。きのうの事件はなんとなくやる気、行動する気をそがれる感じの事件でもある。

普段はガラガラのユースのテレビ室はじーっとテレビを見いる宿泊客でいっぱいである。事件のこと、これからのことが心配のようだ。日本人の女性も日本に帰れるのは16日とか話していた。またビル爆破はなんのため誰がやったのかまだわかっていないようだ。日本人同士6,7人中庭に集まっては事件のことばかり。爆破されたビルの中にゲリラが入っていたとか、ハイジャックされたのは11機だとか話は飛び交う。

途中で落とされた飛行機はアメリカ空軍が落としたとかの話も交錯していた。このとき事件の概要はわかっていなかった。心配で日本人5,5人集まった時「いつもいじめられていた子供がやむにやまれずいじめていた子をナイフで刺したような事件ではないかなー」とわたしは自分の思いを述べた。



空港が再開されたのは一週間後9月17日日本に戻り・・10月15日ニューヨークに戻る・・ビル爆破の煙がまだ立ち上っていた

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅 59 イラン   

2013年09月06日 | 赤道直下と陸路国境148か所
首都テヘランに着いた

イランの首都テヘラン・・ゲストハウスに着いた。ホテルの前「部品販売店」のオーナーが夜は店の中に入れて
よいと言ってくれる。ありがたい。(写真はお金降ろしにアゼルバイジャン~グルジア~トルコと一回りして再び
テヘランに戻ってきたときのもの)

2003年10月3日金曜 20℃はれ くもり くもり
ホテルを8時に出発、カーブの多い山道になった。首都テヘランまで200キロ。10時ごろテヘラン市内に着いた。車もオートバイも多いな。市内に入る手前からオフロードの兄ちゃんが走ってきた。実はホテルの名前と地図はウズベキスタンで一人旅の角寺さんが書いてくれていたものだ・・オートバイを右端に止めて、そのホテルの「アドレスと地図」を見せる「OK」といっしょに走ってくれる。

30分ぐらい走ってテヘランの中央ホメニイ広場に着いた。ありがとう助かりました。オートバイが走っている国ではこれまでたびたび案内してもらっているが今回もすんなりとセントラルにつくことが出来てありがたかった。地図をたよりにこれからホテルを探す。ホテルへの大きな道はなんと一通になっていて入れない。ここは度胸だ、どっと車がバイクが走っている大通りを一台一台右手を上げて止めて強引に突っ込み横切る。

信号が変わるとマイカーの人もバイクの人もわれ先にと走る。その数はどこの首都より川の流れにようにひっきりなしに流れている。それを停めるのだ、しかしイランの人たちも意外と親切だったすぐに停まってくれた。これで近道になったようだ。狭い路地に入って地図のホテルにようやくたどり着く。ほっとする。11時になっている。きょうは金曜日で商店街は閉まっている。ホテルの宿泊手続きを終えた。

一人部屋は2階になる。オートバイは路地裏に止めた。日本人のヤギさんについていき午後ネット屋に行く。途中トイレに行きたくなりホテルに入った。このホテルはヤギさんがきのう会った日本人留学生Sさんが泊まっているホテルだと話す。わたしたちが泊まっているホテルより数段上のホテルだ。ヤギさんはついでにと部屋に行って留学生Sさんを連れて来た。

Sさんはめずらしい「イラン建築」を研究しているとか話す。「へー」いろんな人もいるもんだなーと感心する。ネットは日本語が打てるのでうれしい。2時間ネットをやって3人で食事にいく。宿に戻ったのは8時頃。ロビーには日本人女性と男の人がいた。4人で12時過ぎまでしゃべる。この時までテヘランでお金は下ろせるものだと思っていた。話を聞くとテヘランでもダメなことがわかった。

10月4日土曜 くもり 午後カミナリ雨
朝10時までベッドそのあとゆっくり起きてウォカー水割りして昼飯兼用。ホテルにある情報ノートを読む。くわしく書く人がいるひとり旅の女性「ぐれねこ」さんのマップと情報はすごいにつきる。気が気でないお金の工面をどうするか最初トルコに入ることを考えていた。トルコ国境の近くではATM使えないところもあるようだし・・・アルメニアのシティバンクはカード使って「下ろせた」と情報ノートにある・・しかしビザがない。

いろいろ考える・・あと80$9600円ではアルメニアビザ代で消えてしまう。ビザ発給まで7日間待っているその間のホテル代も食事代も・・・いる。アルコールもない。イランにはいたくないし、よしアゼルバイジャンまで行こう。ダメだったらアルメニアへ(実はアゼルバイジャンとアルメニアは仲が悪くて国交がないことをこの時知らなかった)

日本女性クニモトさんが帰ってきた「マツオさんお金どうしました」うーんトルコでもむずかしいようだし・・ここのホテルでお金を借りて・・するとクニモトさんは「200$ぐらい」だったら「貸して」もいいと言ってくれる・・。ほんとですか。その代わり「日本からわたしの口座に振り込んでほしい」と。さっそく200$(24000円)お借りして電話局にすぐに行って日本の自宅に電話を入れた。家族は変わりないようだ。実はお金を振り込んでほしいとカアサンに「クニモト」さんの口座番号を伝えた。

振り込み先をすぐに伝えることが出来てよかった。このころカミナリが鳴って大粒の雨が降ってきた。しばらく店先の軒下に雨宿り。ホテルに戻りクニモトさんにお礼と日本から振り込むことを頼んだことを報告した。それにしてもお金の工面が出来て気持ちの落ち着きが出来た。あーこれで不安は少しなくなった。あした隣の国アゼルバイジャンまでお金下ろしに走ろう。

聴こえない・しゃべれない・袴田さん63歳・・地球走行中

2013年09月02日 | 赤道直下と陸路国境148か所

アフリカ走行中の袴田さん(ナイジェリアから送ってもらった写真)

袴田耕平さん(ろうあ者)63歳。60歳定年後・オートバイで地球走行中です。
シベリア横断~中央アジア~中東~アフリカ~ヨーロッパ~東欧と走ってきました。
走りだして3年目・・・現在77か国です。

ブルガリアの友達にオートバイを預けて一時帰国中です。8月26日横浜まで行って
会ってきました。すこぶる元気・・元気でした。

これからブルガリアに戻りイングランドから南米に送って走り続けるとのこと。
いやースケールがでかい・・すごいことです・・がんばってー袴田さん。
(ルート地図は松尾が書き入れたのもで正確なものではありません、袴田さんごめん)


アフリカ・・走行中


日本・島根県・堺港から出発。韓国をぐるっとまわって~ロシア・ウラジオストック~シベリア横断~モンゴル・・戻って
カザフスタン~キルギス~ウズベキスタン~タジキスタン~トルクメニスタン・・アゼルバイジャン・グルジア
トルコ・・中東へ(以前は富山・伏木港からウラジオストクに船が出ていましたが現在は島根からのみです・・
あとは北海道からサハリン経由ハバロフスク行きの経路があります)


中近東・・(今は中東に呼び名が変わった)~からアフリカに入る最南端・喜望峰~中央アフリカ~西アフリカ
西アフリカでマラリア病にかかり帰国

再びセネガルに戻りサハラ砂漠を北上・・アルジェリアを目指したが・・例の日揮事件で国境封鎖で入れず・・・


ヨーロッパに入りブルガリアへ、ここでオートバイを預けて帰国・・これから戻ってイングランドから南米へ渡り
走る予定・・・


帰国中の袴田さんと横浜で会ってきました。見るからに元気の袴田さん、隣の赤シャツのおじいさんはへなへなの
感じだなーおい・大丈夫かい・・。