まるさんかくしかく〇△☐Ⅱ

雑感・雑記・日記

0504 無形の頸木 無形の杖

2021-09-30 12:58:16 | 雑感

リタイアしたら殊に自由で伸び伸びとした時間や空間に生きていたいのだが、まさか自分で制約を築いていたなんて。
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<2013-05-04 0504>
連休は巷の自動車騒音が減り街路樹の緑や風が気持いい。ゆっくり起きた朝はファースト・フードの店やファミレスで遅い朝食を取ることがある。今日はカミさん、ちょっと迷いながら「吉野家!」。付き合い始めのころカミさんは、こうした店には入ったこともなかったというが今では躊躇がない。私は立ち食いの「駅そば」も好きなので、これも私由来かもしれないが、今ではあそこのは美味しい、どこそこの駅のは不味い!と、しっかりランキング。時間節約にもなるので利用しているようだ。私は豚丼、カミさんは焼き鳥丼、息子には、持ち帰りで牛丼。

ひょんなことから「宗教上食べられない肉」の話になった。日本は何でも食べられてしあわせだねと思った。

カミさんが読んだ本の中に、チャネリングした宇宙人の言葉をまとめたのがある。宇宙人は「地球という星は制約が多い(多すぎる)」と言ったそうだ。人間が喜んで制約を作っているらしい。(とくに権力者や権威を維持しようとする人?)

そういえば宗教の創始者は誰もそんな「しち面倒くさい」ことは言っていなくて、後継者とか弟子たちが色々と分派しながら後付けしたものが殆どなのか。つまりは後継者が「自分が偉い」と認めさせたい、そんな単純で薄っぺらな物語?。
宗教は、「折れそうな心」の杖となって支えてくれる存在でもあるだろう。
その杖は種類も色もいっぱいあって、どれもが「杖」で良い筈なのに、自分の杖こそ一番と言い出し言い張り、ややもすれば杖を「振り回す」ものに変えてしまうこともあるようだ。他人を叩くための杖がこれまでの歴史では多すぎたか?

その人にとっては正義の杖だとしても、振られる方・打たれる方にしたら、悪魔の杖でしかない。正義という名の邪悪、それが見えていないことだってある。神でも仏でない誰かが、都合に合わせた解釈をねじ込んでいるだけだ。
心の支えとなりうる本来の杖は、無形であろう。
人の心も「宇宙の法則」に本来「つながっている」らしいのだが「後付の形式」によって自らを「縛って」安心しようとする。それが「制約」というものらしい。よくは分からないが、支えるために使う杖は有難いものの、武器みたいに使うのは、もはや危ない存在。畏れる人間の心の所業ということらしい。

「ご馳走様」と店を出た。外は気持のよい天気。帰宅後カミさんは読書。私は昨日買ったゴーヤー苗の植え付けプラン。
JAの売店のおばちゃんが、水遣りして寝かせてからにした方がいいよ、あたしは夕方植えつけるけどね、と言っていた。
上下より横並びの人には、知らぬ仲でも「お互い様」の温もりがある形より人の気持が支えになることだってある。

「このろくでもない地球という星」に宇宙人ジョーンズが平泳ぎで戻ってきてくれるような「気持の空間」が広がればいいなと思う。

十二周祈という自由/】


++++++++++++++++無形の杖+
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