たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

親子と血のつながり <特別養子縁組 年齢引き上げ>を読みながら

2018-05-26 | 地球科学 人 

180526 親子と血のつながり <特別養子縁組 年齢引き上げ>を読みながら

 

今日も朝から頭がぼっとしていて、寝たり起きたりの状態です。ま、今日はウィークエンドですので、のんびりするにはいいですね。ただ頭の方はさっぱり働く気配がありません。

 

友人が朝、電話をかけてきて、あれこれ言うのに対しては答えられるのですが、そのときは少しは頭が働いたような気がします。でも電話が終わるとぐったりとしてしまいます。田中陽希のグレートトラバースの中でも、どんな長距離でも、高い頂きでも踏破していく枯渇を知らないエネルギー源をもっているかのような陽希さんでも、ときには疲れるし、お休みも必要なわけですから、私のような普通人で高齢の身ですので、このような状態は当然ですね。

 

こういった前置きは、今日も別のテーマを読書から取り上げようと思っていたのですが、どうも古い文献を読むだけの気力もなく、といって新聞を見ても連日のニュースで、どうも気分が乗らないのです。ま、元気を出すためにバンタム級王座戦を1ラウンドで英国選手(たしか10年間無敗?とか)マットに沈めた井上尚弥選手のすごさを取り上げると元気になるかもしれないですね。偶然、映った画像では英国選手が悲しそうな顔、井上選手はまだ戦っていないかのような顔、不思議な光景でした。再放送を見たら、英国選手はスピードもなく、井上選手のフックやボディですぐふらふらでした。彼のパンチがすごいのか、あるいはたしか減量がうまくいかずに遅刻したということですから、体調づくりに問題があったのかもしれません。いや、そんなことをいわずに、井上選手のまれに見る豪腕パンチを褒めるべきでしょうか。

 

余談はこの程にして、今朝の毎日記事<特別養子縁組年齢引き上げ 実親の同意撤回、制限も 法制審諮問へ>を取り上げようかと思います。

 

特別養子縁組制度といっても、ほとんどの人はご存じないのではないかと思います。

 

<厚労省によると、国内で社会的な養護を受けている子どもは約4万5000人(16年度)おり、うち6割超は児童養護施設や乳児院で暮らす。特別養子縁組の成立件数は増加傾向にあるものの、616件(17年)にとどまる。>大半が施設で集団生活を強いられ、特別養子縁組となるのはごくわずかですね。

 

では特別養子縁組とはなにか、毎日記事を引用します。

<1988年に導入された。対象は原則として6歳未満だが、それまでに里親制度などを利用して養育が始まっていれば、例外として8歳未満まで縁組が認められる。普通養子縁組とは異なり、実の両親との親子関係は消滅し、戸籍上も養親の実子と同じ扱いになる。養親となる人による半年以上の試験養育期間を経て、家庭裁判所が可否を判断する。>

 

生みの親との親子関係を切り、育ての親と実親子関係となるのです。通常の養子縁組だと実の親子関係と併存して養親子関係となりますから、養親としても養子と家庭的な親子関係をつくりにくいともいわれているかと思います。また、普通の養子縁組はどちらかというと相続対応や介護対応として利用されて、どちらかというと親の目線でしょうか。

 

施設に入って集団生活をするより、家庭的な環境で育ててくれる養親と暮らす方がいいのではないかと思うのですが、特別養子制度は徐々に増えているようですが、まだまだ少ないですね。

 

法務省としては、制度を少し利用しやすくしようと改正の動きにでたようです。

<虐待や経済的事情などにより実親と暮らせない子どもを戸籍上、養父母の実子とする特別養子縁組について、上川陽子法相は25日の閣議後記者会見で対象年齢(原則6歳未満)の引き上げを検討すると明らかにした。来月4日の法制審議会(法相の諮問機関)に諮問する。【和田武士】>

 

6歳未満という要件だと、6歳以上で虐待にあったり、6歳を過ぎて精神的にも安定してきたとしても、この制度が利用できないことが一つの問題でしょうか。

 

もう一つは縁組みには実親の同意が必要ですが、家裁の判断確定前なら、同意権を撤回できるので、せっかく手続が進んでいても、実親の心変わりで覆る脆弱性があるわけですね。

 

たしかにこのような問題は、特別養子制度を普及するにあたって、支障となることはわかります。ただ、それだけでしょうか。わが国で普及しない理由として、それ以上の問題がないのでしょうか。

 

アメリカの養子縁組・里親制度 ~日本との違い>は 村上綾野氏が報告しているものですが、参考になります。

 

<アメリカでは年間12万組の養子縁組が行われています。要保護児童の実に77%が里親や養子縁組などの制度により新たな「家庭」を得ているのです。>ものすごい割合であり、数ですね。実際、映画でも頻繁に養子ということが話題になっています。

 

この背景について、村上氏は<最大の要因は「親権剥奪」のしくみがあることかもしれません。アメリカでは児童虐待が疑われる場合、まずは警察により子どもが保護され、その後1ヶ月にわたり徹底的な調査が行われます。その後18カ月にわたり、家族機能を正常化するための援助プログラムが適用され、半年ごとにそのプログラムの効果が確認されます。18カ月たっても状況が改善しない場合は、親の意図に関わらず、子どもは親の手を離れ、里親や養子縁組などのパーマネンシーケアが適用されることになるのです。>

 

制度的にはどうなっているのかわかりませんが、民間団体を窓口にして、生まれた段階で(経済的な能力のない未成年者など)、実親が親権を放棄し、養親が親権を取得するシステムが映画などで紹介されていますが、こういった仕組みも普及の一因でしょうか。

 

あるいは血のつながりに対する意識の違いでしょうか。白人の両親が黒人の養子縁組みをしてもなんらおかしくないでしょう。血のつながりは相対的にとらえてもよいのかなと思うのです。

 

私は赤ん坊を育てる意識・能力がない親が子に対し虐待するような状況は減っているとは思えないのです。中絶も選択肢でしょうけど、それを選ばなかったり、気づくのが遅かったりした場合、社会的な対応としてはアメリカの仕組みは参考になると思うのです。

 

そうではなく、最近、学習指導要領を逸脱したということで問題になった公立中学校の教師の例がありましたが、性教育は基本的な事柄であり、重要な問題ですから、少なくとも中学生、あるいは小学高学年から、その地域の実情や生徒の状況に合わせて、積極的に、しかし工夫して行うことを検討する必要があると思うのです。とりわけ地域の実情によっては相談体制は必須でしょう。

 

どうも本題から離れたようですし、一時間経過しましたので、今日はこのへんでおしまい。また明日。


養殖業大改革? <漁業権 漁協優先廃止 水産庁改革案、企業に養殖開放も>を読みながら

2018-05-25 | 海・魚介類・漁業

180525 養殖業大改革? <漁業権 漁協優先廃止 水産庁改革案、企業に養殖開放も>を読みながら

 

今日は体調がすぐれず、仕事がはかどらないので、少し早めに帰宅しようかと思います。こんなとき、いいニュースがあれば気分も変わるのですが、なかなか無いものです。日大アメフト問題はまだ明るい光が差してくる気配を感じることができません。日大前監督のいくつかの会話を聞いていると、俺のやり方、あるいは日大のやり方なんで、仕方がないといった、その言動・指導を顧みることを避け、ある種自分が描いてきた伝統?みたいなものを自負している感があるように思えます。時代の風をしっかり受け止めるというか、本来、昔だって、一人一人の個人を尊重する指導者がいたと思いますし、それこそが期待されるリーダーではないでしょうか。

 

そんなことを思いながら、毎日記事<漁業権漁協優先廃止 水産庁改革案、企業に養殖開放も>を驚きながら読みました。日本では縄文時代以来、漁業を生活の糧とする、あるいは交易の手段として船や漁獲物などを利用してきたと思うのです。とりわけ沿岸は漁民・漁村が先占権があるといった慣習的利用の対象となってきたのではないでしょうか。

 

漁業法による免許・許可制になっても、地元漁民、漁協は彼らで構成されていますので、実質的には漁協が養殖業など区画漁業権について優先権を有してきました。

 

漁業法17条はまさに明記していますね。

(区画漁業の免許の優先順位)

第十七条 区画漁業(真珠養殖業及び特定区画漁業権の内容たる区画漁業を除く。)の免許の優先順位は、次の順序による。

一 漁業者又は漁業従事者

二 前号に掲げる者以外の者

2 前項の規定により同順位である者相互間の優先順位は、次の順序による。

一 漁民

二 前号に掲げる者以外の者

3 前二項の規定により同順位である者相互間の優先順位は、次の順序による。

一 地元地区内に住所を有する者

二 前号に掲げる者以外の者

4 前三項の規定により同順位である者相互間の優先順位は、次の順序による。

一 その申請に係る漁業と同種の漁業に経験がある者

二 沿岸漁業であつて前号に掲げる漁業以外のものに経験がある者

三 前二号に掲げる者以外の者(以下省略)

 

たしかに漁民が沿岸部の水域を守り、水産物を収穫して生活を送ってきたコモンズ的な権利は保障されてしかるべきでしょう。ただ、養殖業といった区画漁業権について、直ちにそういえるかは気になります。

 

適切な資源管理や水質保全を図っている漁業者であればともかく、場合によっては競争激化で、一時は水質汚濁や過剰な生産もあったかと思います。

 

私が以前、四半世紀以上前に養殖場を見学したとき、そのエサのやり方が半端でないことに驚きました。魚がすべてそれを食べることができるわけでなく、相当程度は海の底に沈み、富栄養化などの問題が起こった可能性があるように思います。最近は、環境保全への配慮が少し行き届くようになり、ひどい例は少ないとは思いますが。

 

少し余分の話が長くなりました。記事に戻ります。

 

<水産庁は24日、養殖業への企業参入を加速し、水産業を成長産業とする改革案を発表した。地元の漁業協同組合に優先的に付与してきた漁業権の優先順位を廃止し、有効活用されていない漁場を洗い出して企業向けに開放する。政府は6月にまとめる「骨太の方針」に盛り込む方針だ。【加藤明子】>

 

農水大臣は斎藤健氏ですね、経産省官僚から、副知事などを経て、国会議員になり、畑違いの自民党農林部会長など農林問題に傾注して、ついに大臣になりましたね。その間、農地法や森林法など、農林問題について、平成の大改革(ま、官僚はよくそういいますが)を行い、今度は漁業法でも大改革を行おうというのですね。

 

これらを一括して表現することはできませんが、ある種、生産の効率化、企業参入を中軸にしている印象です。その前提として、放置されている、あるいは遊んでいる、農地や林地、こんどは沿岸域水面を活用しようというのでしょう。

 

その目的自体は、一定の支持を得られると思うのですが、どうも経産省的な生産性の発想が強すぎないか懸念されます。といっても農林業で大きな前進がいまのところ目立っているとは思えないので、どうも机上の構想が働き過ぎではないかと、失礼ながら思ってしまいます。

 

では養殖業の区画漁業権についてはどうでしょう。

加藤明子記者は、別に水産庁専門ではなさそうで、この記事の取材源が水産庁発表というのですが、ホームページを見た限り、その兆候すら把握できませんでした。

 

ともかく記事では<改革案は漁業権の免許について、地元漁協を最優先すると定める現行の漁業法などの優先順位の規定を廃止する。代わりに「水域を適切かつ有効に活用している場合は、その継続利用を優先する」との基本方針を法改正で明記する。漁場を有効利用していない場合は漁業権の取り消しも行う。漁場の利用状況を理由に漁業権の取り消しを認めるのは、今回が初めてとなる。>と上記の優先順序を定めた大原則を壊そういうわけですね。

 

日本の漁獲量が激減し、世界は増えていて、資源の枯渇、保全の観点からは養殖にシフトしていく可能性が高いかもしれません。そのとき<世界では急速に養殖の生産が拡大しており、20年間で3・4倍に増える一方、日本では94年をピークに減少している。>

 

<養殖には都道府県知事が付与する漁業権が必要だ。小規模漁業者でつくる漁協に最優先で漁業権が割り振られてきたため、技術革新や規模拡大が進まないとの指摘があった。漁協優先の漁業権のあり方が見直されれば、企業が漁業権を取得しやすくなり、長期的な経営計画を立てられるようになる。水産庁は漁場の利用状況について初の実態調査も実施し、企業の参入余地を探る。>結局、目玉は企業参入を容易にするというもののようです。

 

ところで、すでに東日本大震災で特例を認めました。首相官邸の<漁業権の概要>では特区制度として<被災地における漁業権の特例 (制度概要)>を設け、宮城県で<被災地における漁業権の特例 (宮城の事例)>実践しています。

 

この場合は法人と言っても<地元漁民の7割以上を含む法人>といった条件付きでしたが、改正案はどうなるのでしょう。安易な企業参入を認めるようだと、多くの漁民の理解がえられないように思います。

 

また、<改革案は漁協の情報公開も規定した。「漁業権行使料」「協力金」などの名目で組合員から集めている徴収金が、新規参入を目指す企業には高額に設定される可能性があるなど「不透明」との批判があったためだ。>漁協における民主制とか公開制は、いくら法律で定めても、実践するのは容易でないと思います。公認会計士の監査といった手法も、特殊な漁業会計を理解して適切な監査が実施できるようになるには時間がかかるでしょう。

 

資源保全・管理の面にも規制強化が働くようです。<さまざまな魚種が減少していることから、資源管理を強化する。これまで、ごく一部に限られていた漁獲枠の数量管理の対象魚種を拡大し、漁業者には水揚げ後、速やかな漁獲量の報告を義務づける。罰則や割り当て削減などのペナルティーも導入する。>と。

 

ただ、いつも思うのですが、漁業法は「漁業生産に関する基本的制度を定め、漁業者及び漁業従事者を主体とする漁業調整機構の運用によつて水面を総合的に利用し、もつて漁業生産力を発展させ、あわせて漁業の民主化を図ることを目的」(1条)ということですが、この水面の総合的利用について、現代の多様な利用のあり方に対応できていない問題が置き去りにされていると思うのです。

 

改革に熱心な斉藤農水大臣には、課題が多すぎて、そのような意識までもってもらうというのは難題でしょうかね。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


親と子 <30歳の息子の自立望む両親、自宅退去訴訟で勝訴>を読みながら

2018-05-24 | 家族・親子

180524 親と子 <30歳の息子の自立望む両親、自宅退去訴訟で勝訴>を読みながら

 

フェニックスという名前は、アメフトの放映をあまり見ない私でも、昔から記憶に残っています。たぶん日大がとっても強かった時代のイメージが強烈だったのでしょうか。最近起こった日大選手による相手の関学QBに対する悪質危険行為をめぐる騒動でわかったのですが、長い冬の時代が続いていたのですね。

 

ここ最近のこの問題に対する報道についてはとくにコメントするつもりはありません。日大の対応にあきれるばかりなので、その危機管理能力のなさ、関係者の言動の粗雑さ、誠意のなさにコメントする気にもなれません。むろん一方的非難をするだけの材料をもっているわけではありませんが、動画放映と記者会見等を見る限りの話です。

 

ただ、ちょっと脱線するかもしれませんが、この騒動を見ていて、親子、監督と選手といったものについて少し考えさせられました。被害者の父親が記者会見して、強く日大側の責任を追及していました。被害選手はまだ未成年なのでしょうかね。加害選手は3年生ということですから、成年であることは確かでしょう。原稿があり、弁護士も関与していたとはいえ、一人で堂々と記者会見し、記者の質問にも答えていましたね。

 

日本では学生といえば、成人してもたいてい大目に見るというか、親が子を代弁することが自然に受け止められる傾向があるように思えます。社会人になるまで、経済的に親がかりという従来の社会構造だと、なんとなく理解できなくもないですが、いまは相当様相が変わってきて、親の経済的支援が受けられず、奨学金で大学に通う人の割合も相当高くなっているのではと思うのです。

 

それでも全体的には学生は社会的には未熟と理解されていないか、そんなことを日大問題で感じました。大学スポーツの監督、コーチ、選手のあり方においても、あくまで選手は擁護され、教育を受ける立場として捉えていますが、それでよいのか気になりました。

 

むろん日大のような、一方的指導で、選手とのコミュニケーションがほとんどないといったあり方自体、時代錯誤のやり方というか、古い時代であっても決して望まれる合理的なものではなかったと思います。

 

その意味では、青学の駅伝チームを率いる原監督のようなスタイル(これも中身をよくわかっているわけでないですが)に近い形、つまり選手の自主性・自律性の発揮をコミュニケーションを通じて養うことこそ肝要ではないかと思うのです。

 

それは家庭内の親子であっても同じではないかと考えます。私が一時学生を教えていた頃、その学生の意見(講義はディベート方式を基本としていました)について、厳しい指摘をしたところ、そのような批判を浴びた経験がなかったのか、色をなして憤慨しました。私は、法律はもちろん社会に起こるさまざまな出来事は意見の対立が当然のように生じ、その相手の違いを認めつつ、相互に意見交換することが大事だと思うのですが、それまでそういったことを親からも教師からも言われたことがなかったようでした。

 

大学の役目の一つとして、そういう異なる意見に対して、それを尊重しながらも自らの意見を醸成し、意見を述べ、相互に違いを理解し合い、あるいは意見の修正・変更を図ることも大切な場ではないかと思うのです。そのようなことも一つ自律する重要な要素になるのではと思っています。

 

その意味で、加害選手は、アメフト選手としては素晴らしい才能を持っているのでしょうけど、あの加害行為をしたときまでは、自立できないまま、成長してきたのではないかと懸念します。しかし、この事件を通じて、飛躍的に成長したのではないかと感じます。他方で、被害選手はどうでしょうか。たしかに父親の態度は正論でもあり、的確な言動が多かったとおもいます(会見の一部しか見ていないので正確ではないですが)。しかし、被害選手もまた自分の意見をいえるようになって欲しいと思うのは偏見でしょうかね。

 

たしかに大学スポーツであり、大学アメフトという組織同士の問題ともいえるので、組織間でこの問題に対処するというのはわかりますが、これほどルールを逸脱した行為が行われた場合、当事者の意思も尊重されて良いと思うのです。それはかれらの今後の成長にも重要な問題だと感じるからです。

 

これは飛躍かもしれませんが、このような大学、家庭の学生、子に対する対応が、社会的に当然視されている状況が、学生時代を終えて社会に入っても、自立できないままでいる子が相当数いることの要因の一つではないかと考えるのです。むろん、長い経済的不況期間があり、就職難であったともいえますが、発想を転換すれば、たとえば一次産業であればどこでもその時代でも受け皿は十分あったと思います。昔は日本に仕事がなければ、海外に仕事を求めていました。それだけの気力のある、自立心のある人が少なくなかったのでと思うのです。

 

さて取り上げた毎日記事に移ります。<世界の雑記帳 30歳の息子の自立望む両親、自宅退去訴訟で勝訴 米NY州>です。

 

私の北米における学生に対する意識は、自立心を培うような土壌で育っているように感じてきました。ロースクールの学生の場合、わが国の法科大学院だと講義日程が厳しいためか、アルバイトする余裕はないでしょうけど、私の知っているロースクールだと、結構アルバイトしながら講義を受けている人がいたという印象です。両親から経済的支援を受けていないのが普通という感じでした。それは経済的に裕福な両親がいても、そういう支援を受けることをよしとしない風習というのか、考え方があるように感じました。

 

それは大学でも同じように思いました。一旦、就職して一定の資金を貯め、あるいは専門知識を学ぶ意欲が生まれたとき、大学に進学するという人が少なくないからではないかと思うのです。これも州によって、大学によって傾向が違うのかもしれませんが。

 

それで、多くの親子の関係は、高校時代くらいまでは親が経済的支援をするけれども、それ以降は子が自立する生き方をするように思えるのです。ですから、大学を出て就職したがドロップアウトして、就職口がないとか、引きこもりで自活できないとかで、親の収入で暮らしている人は極めて少ないのではないかと思っています(移民とかは別かと思います)。

 

ところが、上記の記事は懸念する自体が裁判沙汰として現れています。

 

<米ニューヨーク州の夫妻が、家計にお金を入れず家事も手伝わない息子に自宅からの退去を求めて起こした裁判で、州裁判所が訴えを支持した。夫妻は、息子に仕事を見つけてほしいとしている。>

 

裁判に至る経緯については<裁判所の記録によると、夫妻は2月2日から5回にわたってロトンドさんに文書で退去通告を送付するなど、数カ月にわたって退去させようと試みた。

 一通には「話し合った結果、あなたは即刻この家から退去しなければならないと決定した。14日の猶予期間を与える。帰宅は許さない」と記述。別の通告には、求職や部屋探しのため1100ドル(約12万円)を与えると提案している。さらに、「あなたのような貧弱な職歴の人にも仕事はある。就職しなさい。あなたは働かなければならない」と記したものもあった。>とのこと。

 

非常に短期的なやりとりで、裁判もわずか4ヶ月の審理での結論ですね。

 

親が子に退去を求める裁判というのもすごいと思いますが、実際、北米の親子は少なくとも成人になるくらいで、別世帯となり、その後はずっと別々に暮らす方が普通ではないでしょうか。

 

両親も介護や世話を子に頼るといった気持ちをお持ちの人がいるといった話はあまり聞いたことがありません。それぞれ独立して生活をエンジョイする、しかし、クリスマスとか行事の時は家族全員が集まるといった風なクールな関係を作り上げているように思えるのです。

 

それがいいかどうかは別にして、私もそんな意識の持ち主の一人であることは確かです。

 

さてそろそろ一時間になりそうです。30分で終わらすつもりが脱線しすぎて長引きました。これにておしまい。また明日。


今森流里山を学ぶ(2) <市民が作った都内の里山>と『今森光彦の心地いい里山暮らし12月』>とを考えてみる

2018-05-23 | 心のやすらぎ・豊かさ

180523 今森流里山を学ぶ(2) <市民が作った都内の里山>と『今森光彦の心地いい里山暮らし12月』>とを考えてみる

 

今朝、懐かしい風景がTVで放映されていた。東京都内にある里山、谷戸(やと)と呼ばれ、ちいさな里山の谷間にあって、その山からの清水を利用して水田耕作が行われているのです。BS3の里山シリーズがついに東京都にやってきたのです。

 

この場所は、私が四半世紀以上前に訪れたときは開発計画に晒されていて、豊かな生態系の生息地がなくなる危機に瀕していました。ここを愛する地元の有志が立ち上がり、単に開発に反対するのではなく、保全する計画を代替案として提示して、多くの市民参加を得て、行政と協議しながら里山保全計画を練り上げ、実行していくのです。

 

場所はあきる野市の一角にある横沢入、担い手は<西多摩自然フォーラム>です。私も最初の頃、何回か活動に参加したものの、その後は場所が遠かったこともあり、仕事も忙しかったこともあり、活動からは遠のき、幽霊会員でいたと思いますが通信は長い間送ってもらっていました。

 

NHKの放映で横沢入と名前が出てきたので、すっかり様子が変わり、整備され、いまでは幼稚園児でしょうか幼子が水田耕作を楽しむまでになっているのかと思うと、感慨無量です。これまで多くの担い手がたいへんな努力を重ねてきて、また今後も、さらに苦楽を重ねて行くのでしょう。ただ、見知らぬさまざまな人がコモンズのような生き物と人の触れ合いの場を作るために協同している姿は、とてもすがすがしく感じます。当時のメンバーはすでに高齢者の域に達して、自分たちの孫の世代と一緒に楽しんでいるのではないかと期待しています。

 

さて、今森氏の里山づくりは、彼個人の着想で、自分流の生き物と人の世界を作り上げているのですから、それも興味深いです。

 

今回もその概略を追ってみたいと思います。

 

今森氏は「土手を見習って」と、彼の庭造りの模範として、土手を取り上げています。都会ではすでに土手を見ることがなくなっていると思います。いや、田舎でもあまり見かけませんね。むろん、土手を河川の堤防敷と捉えれば、それはコンクリート堤防出ない限り、多摩川や荒川など大都会を流れる大河川にもあります(隅田川とかはまさにコンクリート護岸ですね)。実際、荒川の堤防敷は調査結果があり、多様な生物が生息、生育しています。

 

しかし、今森氏がいう土手は、昔の小川のそれでしょう。そこは野草の宝庫ですね。私も小さい頃よく遊びました。それが本来の土手でしょう。この種の野草を識別することに長けた人は、次々と名前を言い当てることができますが、私の場合は右から左、すぐ忘れるので覚えないことにしています。

 

小川は灌漑用の水路として利用されてきた長い歴史があると思います。その意味では多くは人工で作られたものが少なくないでしょう。それでも昔の手掘りで作られた土手は、農薬や殺虫剤も散布されず、生き物の天国だったと思います。

 

今森氏は、「生き物たちが快適に暮らせる庭。そんな理想郷をつくるときに、やはり、真っ先に考えるのは、草地のことだろう。」と断言するのです。さすがですね。そしてカラスノエンドウなどの「雑草でさえも、草地がないと生き残れないのである。」と雑草をも当然、仲間にしています。

 

今森氏のいう土手は、田んぼの土手です。圃場整備が行われた田んぼにはない土手です。毎年人の手によってあぜづくりが行われて生まれる土手です。私も自然農を通じて、川口由一氏に教えられ、完全ではないですが、それなりのものを作りました。大変でしたが。

 

もう一つ紹介しておきましょう。今森氏は「動物たちウェルカム」と評して、農家にとって獣害による農作物被害を意識しつつも、「土手は、シカが毎日歩いて小道をつくってくれたい、畑の土は、イノシシの仕事で、耕さなくてもサクサクの状態」と半分苦笑いを込めて、ウェルカムとのたまわっています。

 

私はイノシシやイタチに荒らされたり、サルまでやってきたりする環境にいましたが、動物は基本、好きですので、できれば共存したいと思うのです。といってエサをわざわざあげるつもりはありません。といって欲しいのなら、食べない柿など農作物を少しくらい食べるのは仕方ないことと思っています。

 

里山暮らしというのは、そもそも彼ら動物の生息地だったところが少なくないのですから、彼らが元気でいることも大事でしょう。とはいえ、おいしいタケノコを土の中に隠れている段階(これが美味しい)で鼻のきくイノシシが掘り返して見事に皮だけ残して、しかも大きな穴を開けてしまうのには、参ったと思うこともありますが。

 

それら動物や植物、野鳥などとの出会い、触れ合いこそが里山暮らしを楽しむ余裕であり、秘訣ではないかと思うのです。

 

次はもう少し今森流里山づくりの内容にはいっていければと思います。

 

一時間が経ちましたので、このへんでおしまい。また明日。

 

 

 


フェイスブック考 <記者の目 転機に立つフェイスブック>を読んで

2018-05-22 | AI IT IoT

180522 フェイスブック考 <記者の目 転機に立つフェイスブック>を読んで

 

ここのところなぜか忙しくしています。今日もある事件の訴状を提出したり、別件の打ち合わせ、さらにある交通事故で医師からの電話や、ある建築事業に参加する学生参加に対する安全配慮に関する書類作成とか、裁判事件の和解条項を裁判所や相手方弁護士と交渉とか、次々とこなしていかないといけません。さらに新件が2件ほど入ってきて、対応しないといけず、これも明日以降になりそうです。

 

のんびり読書を楽しんだり、ブログ書きや庭いじり?をしているのがちょうどいいのですが、まだ高齢者としてはひよっこなので、働けという神のお告げかもしれません。とはいえ最近は読書量が減ってしまいました。弁護士を辞めた先輩が奈良を訪ねたとのメールを受け取りましたが、私もそういう身分にはやくなりたいと思いつつ、踏ん切りがつきません。

 

ところで、今日のお題はフェイスブック、これに参加したのは東日本大震災、そして人類が経験した最悪の福島第一原発事故がきっかけでした。当時、情報が錯綜していて、TVで流されるのは政府報道ばかり。そんな中、メールではいろいろな情報が拡散していました。

 

私は田舎にやってきて、日々草刈り三昧をしていた頃でしたので、なかなか情報が得られない。そんなとき友人のHさんからお誘いがあり、FBなるものを知り、参加したのです。やり方がわからず、最初に誤解して、まったく知らない人を数十に一挙に友人にしてしまいました。個人情報もできるだけ開示するものだと誤解して、生年月日も含め記入してしまいました。

 

ただ、FB友達は、大学教員や弁護士、議員、専門職などが中心で、いたってまともな議論が交換されていましたし、さらに私が魅了された日本一周をカヤックでなしとげたカヌーイストや、ある森林組合組合長をして頑張っている人、庭園アーティストのような人(不正確です)、などなど、なかなか得がたい情報交換の場となりました。

 

ただ、私自身は、自分の議論とか考えに、賛同を求めたり、友人を増やしていくことには関心がなかったので、それを誘うような仕組みにはあまり関心しませんでした。

 

それに誕生日とかを祝うというのは、あまり知らない人との間ではどうも落ち着きません。この種の遊びも私には興ざめを感じさせるところがありました。

 

それでもいろいろな知らない人の交流は、それなりに面白い機会でした。ただ、国会議員などは、これは仕事上やむをえないのかもしれませんが(わたしはそうは思いませんが)、どこそこにいって講演したとか、誰かと会ったとか、そこで名物を食べたとか、その行動録をアップするのには参りました。いや、見なければいいとか、なにか友人登録から削除すればいいとかある?のでしょうけど、そこまではと思うのです。

 

でもなぜFBから離れてしまったかは、私もよくわかりません。最初はタイピングができなくなり、半年くらい続いては、半年ないし1年休み、また半年くらい続いて指が動かなくなり休みしているうちに、なんとなくなくてもいい感じになったのでしょうかね。

 

その頃に、一度初めて2日坊主で長期間やめていたブログをおそるおそる再開したら、意外と指が動き、痛みもないので、数ヶ月続き、辞めようかと思いつつ、ふと千日回峰行と松岡正剛氏の千夜千冊にあやかり、千日続けてみようかと思ったのです。ま、田中陽希のグレートトラバースほど計画的でも苦行でもないので、今のところ続いています。さて何日でしょう。

 

元気になったので、FBに戻ってもいいはずなのですが、このブログの方が自分に合っている印象です。言いたい放題、誰からもチャチャがはいらず、一人で満足しているからでしょうか。先人と時には対話した気分になりますが、FBのように現在生きている人の生の声は聞けません。でもこれが気分転換にいいのかもしれません。FBSNSなどがどんどん普及している中、私の場合はこういった独白がちょうどいいのかもしれません。

 

とはいえ、子供が時々読んでいるようですが、感想はありません。ま、駄文を繰り返しているので、時間つぶしになればとは思うのです。内心は父親の生き方の一端を示しているのかもしれないとは思っていますが、思いつきで過去のこと、現在のことを書いていますから、生き方といえるほどのものではないでしょうね。

 

さて、前置きがいつも以上に長広舌になってしまいました。

 

毎日朝刊記事<記者の目転機に立つフェイスブック 「無料」継続に知恵を=清水憲司(北米総局・ワシントン)>に入ります。

 

<交流サイト大手の米フェイスブック(FB)が、個人情報の不正流出問題に揺れている。>こと、とくにマーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)の議会証言を問題にしています。

 

彼が<再発防止を約束し、規制強化を支持する考えを表明した>ことについて、記者は<利用者の情報以上に「会社」を守ろうとする姿勢だ。ネットで情報を共有し合うソーシャルメディアが、電気や水道のような公共性を持った今、問題を見過ごしにできないと感じている。>というのです。

 

ザッカーバーグ氏が、謝罪しつつ、<質問が規制の具体論に及ぶと「今後議論したい」と回答を避け続けた。>また<流出発覚後の対策によって「利用者は自分の情報を公開するかどうか制御できる」と言い張った>りして、FBの公共性への配慮を欠いたり、利用者の権利擁護を欠いたりした過去の取り扱いへの反省が見られない点です。

 

この点、<FBは個人情報の取り扱いを変える際、利用者に十分告知してこなかった過去がある。加えて、他にも流出がなかったかどうか、まだ調査中だ。新たな流出が判明しても、既に人手に渡った情報をFBが削除できるとは限らない。こんな状況で「利用者が情報を制御できる」と言い切るのは、あまりにも実態とかけ離れている。>と厳しい。

 

私自身、いまSNSFB自体にさほど魅力を感じていないのですが、利用している人にとってはトップがこのような姿勢だと、どう感じるでしょう。それでもFBから離れることができない人が多いようです。

 

記者はFBの分割案を提示していますが、有効な対策なのでしょうか。根本的な対策とはいえないように思うのです。むろん、独占的地位を利用して自由に個人情報を活用できたのを、分割して競争を促進すればお互いに競い合い、個人情報保護を促進する可能性もありますが、分割によって担保される条件とは言いがたいと思うのです。

 

改めて利用者が自分がどのような情報を発信し、それが不当に利用されていないか、注意を払う、自己責任をもう少し意識することも大切ではないかとおもうのです。

 

さて一時間が過ぎてしまいました。今日はこれでおしまい。また明日。