たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

親と子 <30歳の息子の自立望む両親、自宅退去訴訟で勝訴>を読みながら

2018-05-24 | 家族・親子

180524 親と子 <30歳の息子の自立望む両親、自宅退去訴訟で勝訴>を読みながら

 

フェニックスという名前は、アメフトの放映をあまり見ない私でも、昔から記憶に残っています。たぶん日大がとっても強かった時代のイメージが強烈だったのでしょうか。最近起こった日大選手による相手の関学QBに対する悪質危険行為をめぐる騒動でわかったのですが、長い冬の時代が続いていたのですね。

 

ここ最近のこの問題に対する報道についてはとくにコメントするつもりはありません。日大の対応にあきれるばかりなので、その危機管理能力のなさ、関係者の言動の粗雑さ、誠意のなさにコメントする気にもなれません。むろん一方的非難をするだけの材料をもっているわけではありませんが、動画放映と記者会見等を見る限りの話です。

 

ただ、ちょっと脱線するかもしれませんが、この騒動を見ていて、親子、監督と選手といったものについて少し考えさせられました。被害者の父親が記者会見して、強く日大側の責任を追及していました。被害選手はまだ未成年なのでしょうかね。加害選手は3年生ということですから、成年であることは確かでしょう。原稿があり、弁護士も関与していたとはいえ、一人で堂々と記者会見し、記者の質問にも答えていましたね。

 

日本では学生といえば、成人してもたいてい大目に見るというか、親が子を代弁することが自然に受け止められる傾向があるように思えます。社会人になるまで、経済的に親がかりという従来の社会構造だと、なんとなく理解できなくもないですが、いまは相当様相が変わってきて、親の経済的支援が受けられず、奨学金で大学に通う人の割合も相当高くなっているのではと思うのです。

 

それでも全体的には学生は社会的には未熟と理解されていないか、そんなことを日大問題で感じました。大学スポーツの監督、コーチ、選手のあり方においても、あくまで選手は擁護され、教育を受ける立場として捉えていますが、それでよいのか気になりました。

 

むろん日大のような、一方的指導で、選手とのコミュニケーションがほとんどないといったあり方自体、時代錯誤のやり方というか、古い時代であっても決して望まれる合理的なものではなかったと思います。

 

その意味では、青学の駅伝チームを率いる原監督のようなスタイル(これも中身をよくわかっているわけでないですが)に近い形、つまり選手の自主性・自律性の発揮をコミュニケーションを通じて養うことこそ肝要ではないかと思うのです。

 

それは家庭内の親子であっても同じではないかと考えます。私が一時学生を教えていた頃、その学生の意見(講義はディベート方式を基本としていました)について、厳しい指摘をしたところ、そのような批判を浴びた経験がなかったのか、色をなして憤慨しました。私は、法律はもちろん社会に起こるさまざまな出来事は意見の対立が当然のように生じ、その相手の違いを認めつつ、相互に意見交換することが大事だと思うのですが、それまでそういったことを親からも教師からも言われたことがなかったようでした。

 

大学の役目の一つとして、そういう異なる意見に対して、それを尊重しながらも自らの意見を醸成し、意見を述べ、相互に違いを理解し合い、あるいは意見の修正・変更を図ることも大切な場ではないかと思うのです。そのようなことも一つ自律する重要な要素になるのではと思っています。

 

その意味で、加害選手は、アメフト選手としては素晴らしい才能を持っているのでしょうけど、あの加害行為をしたときまでは、自立できないまま、成長してきたのではないかと懸念します。しかし、この事件を通じて、飛躍的に成長したのではないかと感じます。他方で、被害選手はどうでしょうか。たしかに父親の態度は正論でもあり、的確な言動が多かったとおもいます(会見の一部しか見ていないので正確ではないですが)。しかし、被害選手もまた自分の意見をいえるようになって欲しいと思うのは偏見でしょうかね。

 

たしかに大学スポーツであり、大学アメフトという組織同士の問題ともいえるので、組織間でこの問題に対処するというのはわかりますが、これほどルールを逸脱した行為が行われた場合、当事者の意思も尊重されて良いと思うのです。それはかれらの今後の成長にも重要な問題だと感じるからです。

 

これは飛躍かもしれませんが、このような大学、家庭の学生、子に対する対応が、社会的に当然視されている状況が、学生時代を終えて社会に入っても、自立できないままでいる子が相当数いることの要因の一つではないかと考えるのです。むろん、長い経済的不況期間があり、就職難であったともいえますが、発想を転換すれば、たとえば一次産業であればどこでもその時代でも受け皿は十分あったと思います。昔は日本に仕事がなければ、海外に仕事を求めていました。それだけの気力のある、自立心のある人が少なくなかったのでと思うのです。

 

さて取り上げた毎日記事に移ります。<世界の雑記帳 30歳の息子の自立望む両親、自宅退去訴訟で勝訴 米NY州>です。

 

私の北米における学生に対する意識は、自立心を培うような土壌で育っているように感じてきました。ロースクールの学生の場合、わが国の法科大学院だと講義日程が厳しいためか、アルバイトする余裕はないでしょうけど、私の知っているロースクールだと、結構アルバイトしながら講義を受けている人がいたという印象です。両親から経済的支援を受けていないのが普通という感じでした。それは経済的に裕福な両親がいても、そういう支援を受けることをよしとしない風習というのか、考え方があるように感じました。

 

それは大学でも同じように思いました。一旦、就職して一定の資金を貯め、あるいは専門知識を学ぶ意欲が生まれたとき、大学に進学するという人が少なくないからではないかと思うのです。これも州によって、大学によって傾向が違うのかもしれませんが。

 

それで、多くの親子の関係は、高校時代くらいまでは親が経済的支援をするけれども、それ以降は子が自立する生き方をするように思えるのです。ですから、大学を出て就職したがドロップアウトして、就職口がないとか、引きこもりで自活できないとかで、親の収入で暮らしている人は極めて少ないのではないかと思っています(移民とかは別かと思います)。

 

ところが、上記の記事は懸念する自体が裁判沙汰として現れています。

 

<米ニューヨーク州の夫妻が、家計にお金を入れず家事も手伝わない息子に自宅からの退去を求めて起こした裁判で、州裁判所が訴えを支持した。夫妻は、息子に仕事を見つけてほしいとしている。>

 

裁判に至る経緯については<裁判所の記録によると、夫妻は2月2日から5回にわたってロトンドさんに文書で退去通告を送付するなど、数カ月にわたって退去させようと試みた。

 一通には「話し合った結果、あなたは即刻この家から退去しなければならないと決定した。14日の猶予期間を与える。帰宅は許さない」と記述。別の通告には、求職や部屋探しのため1100ドル(約12万円)を与えると提案している。さらに、「あなたのような貧弱な職歴の人にも仕事はある。就職しなさい。あなたは働かなければならない」と記したものもあった。>とのこと。

 

非常に短期的なやりとりで、裁判もわずか4ヶ月の審理での結論ですね。

 

親が子に退去を求める裁判というのもすごいと思いますが、実際、北米の親子は少なくとも成人になるくらいで、別世帯となり、その後はずっと別々に暮らす方が普通ではないでしょうか。

 

両親も介護や世話を子に頼るといった気持ちをお持ちの人がいるといった話はあまり聞いたことがありません。それぞれ独立して生活をエンジョイする、しかし、クリスマスとか行事の時は家族全員が集まるといった風なクールな関係を作り上げているように思えるのです。

 

それがいいかどうかは別にして、私もそんな意識の持ち主の一人であることは確かです。

 

さてそろそろ一時間になりそうです。30分で終わらすつもりが脱線しすぎて長引きました。これにておしまい。また明日。


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