190221 いじめと自死を考える <大津中2自殺 いじめとの因果関係認定>などを読みながら
弁護士という仕事をしていると、関係する人の話がどこまで本当かいつも意識しながら、なにか客観的な資料はないか、その内容との整合性があるかを模索します。それでもその資料を見つけるのも一苦労です。
たとえば家人から亡くなった人の通帳など見たことがないなんて言われると、とりあえずはそうですかと聞き置くのですね。いろいろ雑談をしているときちょっとぽろっと出たことばを便りに、ある銀行の窓口に行き取引履歴や払戻請求書を確認するのです。亡くなった後誰かが引き出しているのが分かったり、その請求書が個人の筆跡と違うといったこともわかったりすると残念な思いになりますが、そんなものかと思うのです。また年金を受給の有無などを年金事務所に行って問い合わせれば、支給額も支給先口座も分かります。ないはずの銀行口座が次々とでてくることもあります。
むろん人の認識は完全なものではないので、記憶違いがあったり、そもそも誤認している場合もありますので、嘘とはなかなか決めつけられないこともあります。そういった事実の調査はやっかいなことが多いですが、とりわけ取引(これまたゴーン事件のように簡単というわけではないですが)以外のあらゆる行為の有無・内容は事実を把握するのは容易でないことが多いです。表題のいじめの有無と自死への予見可能性となると、事実認識も大変ですが、予見可能性となるより困難となるでしょう。しかもいずれも一定の規範的な評価が含まれるので、やっかいでしょうね。
そのむずかしい問題を昨日は避けて、今日も別の話題にしようかと思ったのですが、少し気になっていましたので、えいやと取り上げることにしました。
昨日の毎日朝刊は大きく取り上げていました。まず<大津中2自殺 いじめとの因果関係認定 元同級生側2人に賠償命じる>では、<大津市で2011年、市立中学2年の男子生徒(当時13歳)が自殺したのはいじめが原因だとして、遺族が当時の同級生3人と保護者に計約3850万円の損害賠償を求めた訴訟で、大津地裁は19日、いじめ行為と自殺との因果関係を認め、元同級生2人に、請求のほぼ全額となる計約3750万円の支払いを命じた。>
しかも興味深いことに<西岡繁靖裁判長は「生徒の自殺の主たる原因は、2人の元同級生の行為にあったと優に認められる」と判断した。>とより積極的な判示となっていることに驚きました。判決をどうこう言う場合最低でも判決文を読んだ上でと思うのですが、それは少し後になりそうですので(昔の雑誌だけの時代に比べて最近はすごく早くなったと思いますがそれでも数ヶ月以上先でしょうか、関係弁護団とコネがあれば即入手可能でしょうけど)、とりあえず記事だけで中途半端な意見を述べておこうかと思います。
記事によれば、主要な争点が3点となっています。第一は、被告の行為として数々の非道な内容が原告から主張されていましたが、まずそれら行為の有無、評価、第二にその行為と自殺との因果関係の有無、第三に自殺の予見可能性の有無です。
私は一般的には、いずれも原告側にとって難しい壁だと思いますが、とりわけ第二、第三は厳しいと思っています。
ところが、本件では第三者委員会の調査報告で第一、第二について詳細な調査の上で積極的な認定があったようです(この報告書を見ていないのでいい加減な表現となります)。
判決文はどうやら<市が設置した第三者調査委員会も2人の行為を「いじめ」と認定し、「重篤ないじめ行為は、自死につながる直接的要因になった」としており、この判断をほぼ踏襲する形となった。>と報道には見られたようです。
ところで、判決が認めたいじめ行為ですが、相当亡くなった少年には自殺を余儀なくするほど深刻なものであったとされています。
<判決は、自殺の約1カ月前から2人の暴力などの行為がエスカレートし、生徒との間に「いじる」側と「いじられる」側という役割の固定化を生じさせたと指摘。連日顔を殴ったり、蜂の死骸を食べさせようとしたりした行為の積み重ねが、生徒に孤立感や無価値感を形成させたと認定した。>
その被害少年の状態について、判決は<この関係が今後も継続するとの無力感、絶望感につながり、死にたいと願う気持ち「希死念慮」を抱かせたと言及。>という特殊な用語を使って説明しています。
さらに予見可能性について、<こうした心理に至った人が自殺に及ぶことは「一般に予見可能」とし、2人の加害行為と自殺との間に相当因果関係が認められると結論付けた。>と記事では因果関係と予見可能性を同視するかのような記述になっていますので、それは判決文で丁寧に見ておかないといけないでしょうね。
被告側は、いじめの事実を否定してそこに主力をおいて争ったようで、当然、因果関係についても結果の前提たる行為がないという争い方をしたり、いじめがないから予見可能性もないと言った、第二、第三の争点を一見、軽く見たかのような記事上の争点整理となっています。
ただ、普通は原告主張のいじめが合った場合の予備的な備えもして争うのですが、判決文が指摘するような「希死念慮」といった状態をきちんと議論したのかどうか、気になるところです。
もし十分な議論がされていないとすると、被告側としては第二、第三の争点をより強力に主張して控訴審で争う可能性があるでしょうか。
私自身、事実関係がわかっていないものの(これが問題であることを承知しつつ)、ある程度良好な関係であった少年たちが約1ヶ月の間に、一方が「希死念慮」の状態に陥ることを他方が、しかも大勢が関与しているとき本当にその結果として自殺するに至ることまで予見可能であったかといえば、疑念が残ります。
子どもたちの関係は(大人でもありえますが)、いつ急変し急激に悪化することは一般論としては肯くことができます。しかしそれが自殺に追いやるほどの状態(相当因果関係としても状況によってはあり得ると思うのです)であることを中2の少年が予見可能であったとすることには少し違和感を感じています(それは事実をしっかり見ていないからといわればそれに反対できません)。
ただ、別の記事<大津・中2自殺いじめ損賠訴訟 「暴行、絶望感抱かせた」 裁判長説明、父は涙>で指摘されているように、<「元同級生2人の暴行は孤立感、無価値感、無力感、絶望感を男子生徒に抱かせた」。・・・西岡裁判長は主文の後、生徒の父親に語りかけるかのように5分以上、理由を述べ、父親は閉廷後も涙を抑えきれずにいた。>ということは評価してよいかと思うのです。
この事件が大きく注目されていること、学校を舞台にいじめがあったが争われ、しかも突然、幼い息子が自殺し、一時はだれも責任が問われない状態でその親がさまざまな意見に晒されながらも長い間事実と責任を追及していたことを踏まえて、裁判長が口頭で理由を述べたのはよかったと思います。もっと多くの事件でやって欲しいですが。
他方で、気になったのは、少年2人の予見可能性を認めながら、その保護責任者の監督責任を安易に否定しているように見えて、少年と親とでバランスがどうかも気になりました。
賠償責任を認めたとしても、少年の場合どれだけ賠償能力と意識があるか懸念されます。
親であれば、なんらかのちょっとした異変があれば(このアンテナが大事でしょうけど)、子がいじめられていないか、あるいは子がいじめていないか、両面でしっかり子と対峙し、また担任教師などにもうわべだけの報告を鵜呑みにすることなく調べることが必要ではないでしょうか。それは子の友達や保護者からも情報を得たり、被害者とされる子の情報があれば、その保護者となんらかの形で話し合うことも一つの方法として検討されることではないでしょうか。
こういったいじめや虐待の発覚が増えてきたことなどを踏まえ、弁護士の学校派遣などの制度化を検討しているようですが、それ自体を問題視するつもりはないものの、それで解決するような状況ではないように思うのです。弁護士一人でなにかを対処するというのは一面的な法的解決の話ではすまないのではないでしょうか。いじめの背景をしっかり掘り下げる必要があるでしょう。やんでいるのはいじめを受ける少年少女だけではないでしょう。加害少年やその家族も、また過重労働に追いやられている教師も。福祉関係者、精神的なケア、さまざまな支援体制が必要でしょう。
と最後は中途半端になることを承知しながら、つい書き出してしまいました。
今日はこの辺でおしまい。また明日。
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