たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

教育と課外活動 <「ブラック部活」にNO 声上げ始めた先生たち>などを読んで

2017-11-05 | 教育 学校 社会

171105 教育と課外活動 <「ブラック部活」にNO 声上げ始めた先生たち>などを読んで

 

初めて全日本大学駅伝対校選手権大会を見ました。熱田神宮から伊勢神宮内宮まで106.8km8区間で、リレーするのですね。全部見たわけではありませんが、なんども見てきた箱根駅伝とは異なり風景が異なり、新鮮なイメージでした。

 

昨年まで3つの大会を連覇した青学がやはり優勝候補だったようですが、最初は東洋大が先行し、出雲大会を制した東海大が途中リードを奪ったものの、最後は神奈川大が20年ぶりでしたか優勝しました。昔有名だった大学は出場できていなかったり、後陣を賑わしていたように思います。群雄割拠の状況でしょうか。それが面白いですね。

 

でも気になったのは大抵の選手は高校駅伝などの有名校出身ばかり。京都駅伝は私もなじみのある町並みを走るので時折見ますが、時代の変遷はあるものの昔の名前がいまなお活躍しているように思えます。それは高校野球やその他のスポーツでもあるように思えます。とりわけ私立高校がスポーツ大会で優秀な成績を得ることで生徒数の増加を図っているような面もあるのでしょうか。

 

で、こういった高校、さらに中学校でも、部活は相当厳しい練習をするのでしょう。それはむろんスポーツに熱心な私立校に限らず、公立校でも、部活は相当の時間をかけているようです。それはスポーツに限らず他の分野でも、そういう傾向があるように思えます。

 

部活動の成績(成果はもちろんのこと、出席日数など日常の行動も含まれるように思えます)が中学校なら、高校受験、高校なら大学受験、大学なら就職に、評価されると理解されているからではないかと思うのですが、実態はどうでしょう。

 

ところで、毎日朝刊の<アクセス「ブラック部活」にNO 声上げ始めた先生たち>は先日取り上げた小国綾子記者が引き続き「ブラック部活」を問題にしています。そこには明らかに異常な事態に陥っているにもかかわらず、表だって議論できない、声を上げられない歴史とかある種の集団的な圧力が影を落としているようにも見えるのです。

 

小国記者は<学校の部活動を見直す動きが本格化している。生徒の貴重な成長の場である一方、教員の過重労働が指摘されているのだ。年内に発足する「日本部活動学会」に現役教師が参加するなど現場も声を上げ始めた。しかし、その多くは匿名や仮名だ。部活動への異論はなぜ職場で口にしづらいのか。>と背景を探ろうとします。

 

部活を担う教師側の蔭の一面は<「若手や非常勤講師など発言力の弱い存在に部活動の負担が集中しがちです。特に講師は『来年も仕事があると思うな』などと暗に言われることもある。自分の時間が持てず、『部活離婚』以前に『部活非婚』もある。結婚し、子供を持てても、忙しすぎて子育てはとても無理」。そう語る「斉藤」さん自身も子を持つのをあきらめた一人だ。>というのです。

 

他方で、生徒にとっての部活動の意義は大きいというのです。<生徒にとって部活動は、異学年ともつき合って授業では得られない社会性を身につけ、成長する場となっている。高額の月謝もなくスポーツや文化活動を楽しめ、家庭の経済事情にもあまり左右されない。でもそれは、教員の大きな負担の上に成り立っている。>

 

上記の生徒にとっての効用や有益性は私も認めますし、教員にかかる負担の大きさも理解します。部活動自体を否定しなくても、関係者の多くが現状を見つめ直して、よりよい関係になるよう、改善する必要性はあるように思うのです。まして部活動を担う教員自身がこの問題に表立って発言できない現状こそ問題でしょう。

 

<部活動に異論を許さぬ職員室の同調圧力は強い。>という仲間・上司からの反発が強いようです。この問題は校則や校内ルールで縛ることが当たり前となっている現在の教育のあり方自体に問題があるように思えるのです。

 

個人の自由な意思の表明や、多様な価値観、態度を許容しない仕組みを改めないと、あるいはそういった閉鎖された環境こそ学校教育に必要だと言った考え方を見直さないと、容易に問題点がクリアになってこないのではと思うのです。

 

部活動をする教員は(それだけではないでしょうけど)、上記の匿名意見が示すように、過労限界ではないでしょうか。

 

部活動への参加の実質的な強制が教員を含む関係者全員の総掛かりで堅固になってきたみたいですね。

 

<部活動学会発起人の一人で「ブラック部活動」を著した内田良名古屋大准教授(教育社会学)は、問題の背景に「全員顧問制度」があると言う。部活動は学習指導要領で「自主的、自発的な参加」をうたい、顧問はかつては希望する教員が務めるのが普通だった。「制度」と言うが慣習に過ぎない。だが、部活動での事故などを踏まえ教師の立ち会いを国から求められた結果、苦労をみなで分かち合うとの発想で全国に広がった。採用校はこの20年で6割から9割に増え、同調圧力は強まる一方だ。>

 

部活動に邁進する教員は評価されるのでしょう。こういう教員は他校に移動することもなく移動してくる校長なども遠慮してものが言えないのかもしれません。

 

<寄せられた声からは、部活動に熱心な教員が校内で発言力を持ち、管理職に出世する傾向がうかがえる。土日の活動や大会参加を増やし、部活動のブラック化に拍車をかける「勝利至上主義」への懸念もある。>さまざまな大会で優秀な成績を収めるような部活をもつ学校がすべてそうだとは思いませんが、その成績が地域レベルでも、都道府県レベルでも、さらに全国レベルでも優秀であれば、どのような部活動でも担当教員は一目を置かれるのはよくわかります。

 

今年9月結成された<教員有志のグループ「現職審議会」>が次の提言を発表しています。

 

<・教員の「サービス残業」の温床である給与特別措置法を改正

・部活動で教員の全員顧問制と生徒の強制入部の是正、土日祝日の活動禁止、小学生の部活動は地域クラブへ移行

・時間割に授業準備や休憩の時間を設定

・生徒の在校時間は勤務時間内に

・違法労働を通報できる専門機関を設置>

 

かなり大胆な提案ですが、ブラック部活は生徒の心を決して健全に育てないと思います。その意味では、十分検討に値すると思うのです。

 

ところで、少し古い内容ですが<運動部活動は日本独特の文化である――諸外国との比較から - 中澤篤史>がありました。これは運動部活動を対象にしていますが、他の文化活動などでも当てはまる面があると思います。

 

青少年スポーツの活動のあり方について諸外国と比較したとき、中澤氏は<日本の運動部活動が、実は日本独特の文化であることを論じたいと思う。>と結論づけています。私も賛同します。

 

むろんこのこと自体はいい面もあれば悪い面もあるので、一挙に、否定する話ではないと思います。ただ、部活動を学校システムとして担っていくことが、昔は経済的にやむを得ない状況であったとしても、現在の日本では様々なスポーツ組織が生まれている中で、どこまでどのように担っていくかは、丁寧な検討が必要ではないかと思います。

 

全国高校野球大会などの歴史は、各校の部活動がしっかり支えてきた歴史と伝統があり、ある種日本文化の一翼を担っている面は否定できないでしょう。しかし、時代に応じて、問題があればそれを直視して是正に積極的に取り組む必要があるでしょう。

 

この問題とは直接関係ありませんが、たまたま毎日記事で<フィンランドの学校快適に、自主的に学ぶ>がありました。

 

フィンランドの教育システムは、学習到達度調査で上位の成績を収めるなど高い評価を得ていることもあって、さまざまな角度から導入を検討されてきて、視察に訪れる教育関係者は多数に上ると言われています。でもあまりに環境・条件が異なるから参考にできないという現場の声も聞こえてきます。

 

岡橋賞子記者が取り上げた中で、興味を引いたのは<2010年から教育の柱の一つとして取り組みが始まったのが、「スクール・オン・ザ・ムーブ」プログラム。子供たちが学校にいる間、2時間以上は座り続けるのを避ける。また、合計1時間は体を動かすことを目指す。先ほどのでこぼこ道も、このための仕掛けなのだ。>

 

運動と学習との間に一定の相関関係が認められる研究成果があるそうです。これは私も体験的に感じています?おそらくは。若い頃10時間以上机に座って本を読んでいたことがありますが、たしかに本の中身は覚えることができますが、自分で考えると言うことはあまりなかったように思います。それに比べ運動した後に机に座ったら集中して考えることができたというように感じています。この点は、私のいい加減な経験よりも、脳の検査も最近の先端技術を活用すれば運動と学習効果はかなり説明できるようになっているのでしょう。

 

運動のやり方も工夫が必要と思いますが、次のように、ここでは教室の机・椅子といった当たり前のような備品も、より自由な発想で見直すことにより、運動機能の強化や集中力の増大になるようです。

 

<ラウッタサーリ小の教室では、全員の机が正面の黒板に向かうのではなく、数人のグループごとに固まる。席を自由な配置にすると子供たちは、より集中するのだそうだ。机や椅子の形はいろいろで、特に目を引いたのは、底がゴム製の緩やかな曲面になっている椅子だった。座らせてもらうと、不安定でバランスボールのような感じだ。良い姿勢を保たなければならず、自然に体幹が鍛えられる。>

 

そしてさらに重要な要素は、学校のスタッフの多様化です。最近日本でもいじめ問題などを受けてカウンセラーなど校外の専門家派遣を導入するところが次第に増えているようですが、フィンランドの次の例を参考にしながら、より本格的に考える必要を感じています。

 

<同校には、53人の教師とは別に看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカーが勤務する。いじめや登校拒否など生徒に何か問題が起これば、教師とこれらのスタッフが共に対応、可能な限り早期に問題の芽を摘み取る体制が取られている。校長は「この制度のお陰で、ドロップアウトは一人もいない」と胸を張る。>

 

学校を閉ざされた空間にして、教員を中心とした一方的指導体制といった仕組みは、そろそろ見直してはどうかと思うのです。さまざまな分野の専門家とタッグを組んで一緒に生徒・保護者と共同して教育・成長をすすめていけるようにしてはと思うのですが、現実の壁は高そうです。

 

そういえば、徳川宗英著『江戸は世界最高の知的社会』では「寺子屋こそ教育の原点」として、その自由闊達な個別授業方式を持ち上げています。

 

維新後に寺子屋は自然消滅したようですが、元々わが国の教育のあり方として世界に誇れるものがあったことを見直してみたいものです。

 

今日はこの辺でおしまい。


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