180120 記憶に残る生き方 <大石誠之助 処刑107年、名誉市民に・・・国家の非ただすのが地元の矜持>などを読んで
今日は一日忙しく動いて、いま和歌山から事務所に戻ってきました。後40分くらいでこのブログを書き上げればと思ってタイピングを始めました。いつものように頭の中にはなにもない空っぽ状態で。
午前中は法律相談、その後車を飛ばして和歌山へ。ところが開始時間を間違っていて一時間早く到着。どこへいく当てもなく、近くの県立博物館に立ち寄りました。それがよかったのです。紀州の歴史を特集展示していました。
これまでさまざまな和歌山の歴史に関わる本を読んできましたが、歴史的資料を直に目にする機会はあまりありませんでした。わずか一時間弱でしたが、内容の濃いものでした。後は記憶でその一部をおさらいします。
和歌山には3万年前だったと思いますが、旧石器時代の遺跡もあるそうで、縄文遺跡としては1万2000年前でしたか(記憶が曖昧です)。縄文前記の鏃(やじり)とか狩猟用の道具の一端が展示されていました。氷河期の和歌山はどうだったのだろうと空想してみてもまったくわかりません。なにか手がかりをみつけたいですね。
弥生時期になると途端に多くの遺跡が出てきます。これも以前、聴講したことがあるのですが、記憶が曖昧で、1m近い大きな銅鐸を見てその細工の素晴らしさに感動するくらいでしょうか。
古墳時代という日本特有の時代区分の一つでは、岩橋群集古墳群?(名称はいい加減)は以前訪れてその規模に驚きましたが、将軍塚の断面が展示されていて、その群集墓の前に広がる水田の大きさ、それを可能にした紀ノ川からの巨大用水路の開削が、そのけんりょくきばんであったかと思わせるものでした。
興味深いのは律令時代に、紀伊国として現在の和歌山県と同規模の国家が成立したというところまではおおむね知られているところでしたが、名草国府という国の首都ともいうべき場所が紀ノ川北岸で、大谷古墳が立地している近くであったという感じに見えたのは少しびっくりしました。
平安末期から荘園支配が紀ノ川沿いで進展し、有名な美福門院の荒川荘を金剛峯寺(当時は別名でしょうね)に寄付したこととか、桛田荘の領主の変動とか、いろいろ面白い説明がありました。そうそう西行の実家、佐藤氏が支配していた田仲荘についても触れていましたが、荒川荘との対立とか、高野山との対立までは触れていませんでしたね。これが面白いと思うのですが・・・
一遍が高野山を訪れたというのはよく知られた事実ですが、ここでか、熊野であったか、ま、俗に言えば開眼して、全国に広めることになったというのは知りませんでした。
だらだらと展示の内容を大ざっぱに書いていますが、やはり直接見るのが一番ですね。荘園の絵図も模倣品でしょうが、なかなかいいです。というか、曼荼羅図がさまざまなものが展示されていて、さすが真言密教の聖地と思ってしまいます。
で、この展示はたしか3月くらいまでやっているみたいなので、こんどゆっくりみたいなと思った次第で、紹介は中途半端ですが、この程度にします。
その後3時間くらい成年後見制度の研修があり、東京から弁護士がやってきて講演していただきました。内容はおおむね基礎的な情報で、なかに最近の裁判例の紹介もあったり、最近はじまった後見制度支援信託の説明もあり、参考なるものでした。
とはいえ、昼食後の講演を聴くというのはなかなか難しく、やはり半分くらいは眠ってしまいました。ただ、弁護士や親族などが後見人になって、横領事件が重なったこともあって、大手銀行に信託する方向に裁判所が舵を切ったようです。
私も以前、数億円程度の株式や預金を管理していたことがありますが、3億円の賠償責任保険をかけているとはいえ、個人の責任をひしひしと感じていましたので、それ自体は反対するものではないですね。当時もいまと違って定期預金の金利がわずかながらありましたが、普通預金で巨額に預金していて、これでいいのかと、裁判所に相談しましたが、当時は信託もリスクがあることから、預貯金管理しか認めていなかったように思います。株式も相当変動があり、安くなる可能性がある中、このまま持っていて、管理責任が問われないか気になったこともありますが、株式売却なんて到底考えられない状況でした。1000万円程度ならあまりそういうなにもしない方法もいいでしょうけど、株式も預貯金も億単位になると、適切な管理とはと考えることもありました。それを信託会社が代わってやるというのであれば、餅は餅屋でいいかなと思うのです。
とはいえ、やはり心配の種はつきません。いまは株式が好調です。信託会社も金融工学などさまざまな手法で、信託利益を確保するようにしていますが、絶対的な保障があるわけではありません。ちょっと内容が違うと思いますが、高野山が金融取引をして損害を出したことが問題になったのはそう遠い昔ではありません。他の団体でも時折ありますね。信託会社を選ぶとしても一社に全額任すのがよいか、信託利益を抑えつつ安全第一を考えるとしても巨額の財産だと、配慮が必要なようにおもいます。といったことを頭で考えながら、講師の話は上の空でしたか・・・
さて本題に移ります。と思ったら、もう時間です。簡単にします。
今朝の毎日記事<大石誠之助処刑107年、名誉市民に 大逆事件「反戦」医師 国家の非ただすのが地元の矜持 和歌山・新宮市>では、大逆事件で処刑された大石医師の名誉回復の話しが掲載されていました。
私自身は、大石医師のことはまったく知りませんでしたが、毎日朝刊で連載された辻原 登 著『許されざる者』で、すばらしい生き方をした人物として、長く心に残りました。ま、辻原氏のストーリーテラーとしての能力もあるのでしょう、この方も実のところの小説で始めて知り、その後隠れファンになり、何冊か読んできました。
その内容はいまおぼろげなので、ウェブ情報<e-徒然草>で紹介記事があり、< 辻原登 許されざる者>で概要が書かれていますので、関心のある方はご覧ください。
で、記事は大石について、<新宮市仲之町で医院を開業し、貧しい人から診療代をもらわず、「ドクトル大石」「毒取る先生」と親しまれた。一方、新聞や雑誌に社会問題に関するエッセーや論評を発表して自由、平等、平和を唱え、活発な言論活動を展開。大逆事件で連座し、43歳の若さで刑死した。>と簡潔に表記しています。
だいたい、大逆事件自体が明治政府なりの虚構ともいうべき代物でしょう。とくに大石は濡れ衣以外の何物でもないでしょう。それをこの間放置してきたことが問題ではないかと思うのです。
<今回、議員有志から「国家の非をただすのが地元の矜持(きょうじ)だ」と機運が高まり、名誉市民に推す議案を提案。昨年12月、11対4の賛成多数で可決され、決定権を持つ田岡実千年市長が正式に決めた。田岡市長は「大石の遺志を後世に継承し、功績を広く発信して顕彰したい」とコメントした。>
たしかこれまでもそういう提案がされてきたけど、反対者が多く否決されてきたという報道を見た記憶があります。
そのことを私は危惧しています。たしかに名誉回復が図れたことはよいことです。それを今日まで阻んできたことに、問題があると思うのです。それは新宮という場所の特異性かもしれませんが、そこにメスを入れることも重要ではないかと思っています。
いずれにしても、辻原氏の著作の力も大きな支援になっていると思います。それくらい、この著作で、大石の生き方を見事に描いているように思うのです。ただ、小説ではオレゴン大学に行ったと言うことで終わらせたようですね。
私が記憶している生き方の断片を書こうかと思っていましたが、時間切れです。
オレゴン大学も2度訪ねたことがありますが、とてもいい環境の学校ですね。学んでいないので、その程度しかいえませんが・・・
今日はこれにておしまい。またあした。