170107 自然農について 川口由一氏の世界
今日は久しぶりに柿畑で、一枚の一部の草刈と以前伐倒したヒノキやシュロの木を燃やしました。正月にいとこから聞いた話だと、お寺の鐘をつく、あの棒はシュロの木だとか。酒を飲んでの話なので、正確な記憶ではないのですが、シュロ自体が燃えやすいし、シュロ縄やさまざまな用途に使われてきたと思いつつ、シュロの皮を剥いだ後の幹はどうなるのかは考えたことがありませんでした。わが家にも何本あるか数えたことがありませんが、あちこちにたくさんあるものの、どんどん大きくなり、今回切ったのも5m以上の高さになっています。それがお寺の鐘突き棒に適しているとは、昔の人は山里に生育する物はすべて有効利用していたのだなと改めて感じてしまいました。
シュロの木はなかなか燃えないので、次の柿畑に移り、草刈と野焼きを始めました。ちょうどこのころになると日が差してきて、枯れた草が凍っていたのが溶け出して、割合火のつきがよくなります。といっても辺り一面、草ぼうぼうでも、野焼きしても、凍結しているので、いわゆる焼畑のように燃え広がることはありません。できればどこかで焼畑をやってみたいと思いつつ、経験と周囲の理解がないと、とてもできないですね。ひょっとした気分で、四半世紀前に見たボルネオの焼畑が思い出され、あの壮観さ、怖さ、そしてやけ終わったあとの静寂さ、どれも「生きている」という感覚を心の中に刻まれたように思えます。
3時間近く草刈と野焼きをして、少々疲れたので、昼休みにしました。その後行きつけの飲み屋さんではなく、農芸品店を訪れ、大鎌の刃がこぼれてボロボロなので、研ぎを依頼してきました。以前は、よく柄の部分をポッキリ折ってしまうことが多く、そのときに研ぎと柄の交換を依頼していたのですが、たしか昨年か一昨年買った大鎌は、かなりしっかりしていて、柄はなかなか折れず、ただ、刃はやはり石や固い幹部分に当ててしまい、刃こぼれがひどい状態になります。とても錦織風のテニススイングとか、松山流のゴルフスイングとはいきません。とはいえ、ほとんど見えない状態の草ボウボウの中で、遮二無二にバックハンドとかフォアハンド、ゴルフスイングなどと勝手に振り回すのですから、刃もたまったものではないのです。
草刈の話はこの程度にして、自然農について、少し触れてみたいと思います。以前にも若干、言及したことがあったように思うのですが、私の体験談を若干、述べてみたいと思います。私自身、農業はやったことがなく、当地にやってきて、田んぼが2反弱、畑は3反程度(登記簿上の地目は田)あったのと、スギ・ヒノキの山林もあり、体調が悪いため仕事もできず、体の回復をかねて農業でも(失礼)やってみようかと思い、まずは農業のことを勉強するため、農協主催の農業塾に参加しました。それ自体は結構面白く、いただいた苗で、育てた枝豆とかシシトウとかいろいろ意外と育って、おいしく頂いたわけです。ただ、農薬・肥料や殺虫剤の種類の多さとかを勉強するうち、これは私が行いたいことと違う気がしてきたのです。その他いろいろ剪定の細やかなやり方はそれ自体、見事というべきですが、あまりに自然でなく、これまた私があえて行わないといけないことかと感じてしまいました。
そういう悩みを持ちながら、いろいろ調べていると、自然農というタイトルが見つかりました。わが家から一番近いのが川口由一氏が主催している三重県名張でした。ちょっと遠いけど、面白半分にのぞいてみることにしました。これが7年前でしたか。
初めて行く場所で、見つかるかなと思いきや、近くまで行くと、あちこちからそれらしい車(普通の乗用車ですが、ま、その田舎にあわない都会人風)がどんどんと田んぼの中の農道を走り山道を駆け上がって行っているので、後を追いました。空き地を一時的に借りて、駐車するといった具合で、川口塾(名前があったかどうか、仮にそう呼んでおきます)のメンバーらしい人たちが駐車場所の案内をしていました。
そこから数分、みんなの後をついて登ると、谷間の斜面に、おおよそ3町くらいの広さでしょうか、細かく段々に切り開かれた、田んぼのような区画がありました。いわゆる谷戸です。そこに全国からやってきた老若男女、外国人もちらほら、むろん赤ん坊連れ、子ども連れも。いろいろです。好き勝手なように、動いていました。そして川口さんがやってきたかと思うと、その周りにみんなが集まるのです。一段の広さは1反もなく、5畝かせいぜい7畝くらいでしょうか。さらに区画された数畝程度の平坦なところで、川口さんが立ち、囲む形であぜ道に数十人から100人未満の多数が彼の言葉を聞き漏らさないように、注意深く視線を投げかけていました。
川口さん(彼は先生と呼ばれるのが好きでないようで、誰もからそう呼ばれています)は、穏やかでふんわりした口調で、自然農という抽象的な話より、自然農による苗床づくりを自ら金鍬をとり、その底で土を叩いてならして、その上に種籾を一粒、一粒、一定の間隔でおいていくのです。
川口さんは、土を耕さない、肥料や農薬を使わない、草や虫とともに生きる、自然農という道を、慣行農業の農薬まみれで健康を害した後に選択し、失敗を重ねながら、現在に到っているとのことです。
土を耕さない、なんて農家が聞くと当然、とんでもないということになりそうです。草を刈らなくてもいいというのは楽ちんですが、ほんとにそんなことで作物が育つのと不安になります。肥料なしでどうやって作物の栄養を得るのという不安も当然です。
でも参加者の中には、専業農家を長年やってきた人もいます。実際、当地は休耕田ないし耕作放棄地で、そのときもそういった放棄地の開墾といった感じで、籔を刈り取り、そこで自然農をはじめるといった作業もみせてくれました。
当該地は、そういった耕作放棄地の管理に手を焼いた農家や集落から借りたようです。法的には少々問題があるかもしれません。農地法上、農地とは耕作の目的に供される土地と定義されています。これなら自然農も問題なさそうですね。ところが、農水省の通知行政では、「耕作」を制限的に解釈して、「土地に労費を加え肥培管理を行って作物を栽培すること」と限定しています。この耕作に当たるかをめぐる裁判は多数ありまして、とりわけ農地改革の時は裁決例が膨大な数になっています。それだけ当時は農地でないとして農地改革から免れようとした事例が多かったのかもしれません。
話は横にそれてしまいましたが、農地法では、自然農はどうも農地とはいえないと厳格に解釈すればそうなるように思うのです。この点最高裁は、「肥培管理とは,作物の生育を助けるため,その土地に施される耕うん,整地,播種,灌がい,排水,施肥,農薬散布,除草等の一連の人為的作業であり,ある土地が農地であるかどうかは,その土地に作物の栽培のための肥培管理が施されているかどうかによって決定される」(昭和55年(オ)第1069号同56年9月18日第二小法廷判決・裁判集民事133号463頁)として、より限定的な解釈を行っています。これも農水省解釈を前提にしているのです。
上記判決で指摘する「耕うん」は、農家にとっては必須の作業で、まさに耕作のコアでしょう。耕うんは、その目的が固まった土を砕きながら攪拌し、空気を多く含んだふっくらとした状態にすることとされています。ふっくらとした土は空気を多く含んでいるため、生物の活動も活発で、保温性や排水性が良く、かつ、保水性も良くなります。また、土の攪拌と同時に地表の雑草などを土中に取り込むことで、土中の微生物がこれを分解して堆肥となり、地力の増進に繋げます。ということで、耕うんは年に何度も行うのが慣行農業です。今日も田んぼでは耕耘機が耕していました。草刈の帰り、久しぶりの出会いに手を振って挨拶しましたが、農家はこれをしなくてよいなんて、少なくとも律令制度以降一度も考えたことがないのではないでしょうか。
実際、耕耘機が動いていると、ヒバリ、ケリ、アオサギなどが周りにやってき土の中の虫を漁っています。土が掘り返されて、空気が入り、団粒化して、ふっくらになります。レンゲなどを植えて、これをすき込むことで肥料とすることを今でもやっているところがあります(昔でいえば刈敷でしょうか)。
どんどん脱線していきますが、川口さんは、耕さないのです。土を耕さないことにより、その中に自然に生育する菌のネットワークを育て、微生物などによる生態系が育つのを保全するのです。そこで自然に土自体が固くなるのではなく、一定の柔らかさを確保しながら、空気も取り入れ、栄養を保つ土壌生態系を形成することを経験的に勝ち取ったのです。
でも、耕うん、施肥,農薬散布,除草といった上記最判で指摘する肥培管理には当たりそうもないのですから、形式的に解釈すれば、農地ではなくなるのです。農地の貸借として許可の対象とならないというか、許可されないことにもなりそうです。
しかし、多くの耕作放棄地をかかえる農業委員会の実情からは、このような自然農による田んぼや畑づくりは、問題視する対象とはいえないでしょう。それより耕作放棄地とか遊休農地の管理・監督の徹底を追求?されている立場からすると、それが減少する利用はありがたいことのはずです。
といった脱線的な話ばかりになりましたが、私はここに農業の本質が法的には適正に反映されていないと考えているのです。そもそも農業自体、耕作ということばがあったとしても、耕す=耕うんが必要だったと言うことはなかったと考えています。むろん麦などの畑作では単に種を地上にばらまく方式がメソポタミア文明?以来、延々と続いているかと思います。
わが国において、縄文期には焼畑農業がはじまったという説が有力に主張されていますが、ここで稲でなくても、稗や黍などが焼畑後に撒かれたのだと思います。耕うんはなかったのです。稲作も陸稲と水稲の2種類がありますが、後者が絶対ではなかったのです。ボルネオの焼畑は鍬すらない中で、陸稲を育てています。弥生時代に導入されたといわれる稲も当初から水稲だったかは疑問に思っています。
耕うんは農業にとって、あるいは農地の利用にとって不可欠なものでも必須なものでもないのです。土の下に育っている菌類や微生物、あのミミズも、耕うんによりその生息域を奪われるわけです。草も必要以上に、農薬によって命を失い、虫もそうです。
私はわずか2年間だけ、川口式自然農を実践しただけですが、多様な生き物が田んぼの中に育ち、そして害虫もほとんどいない稲作が実現できました。慣行農業のベテラン農家が時々私の作業を見て、よくできているねと、ま、お世辞もはいっているでしょうけど、褒めてくれました。
現行農地法は、自然農という生態系に優しい、環境破壊を伴いがちな農業とは異なる農法を正当に評価して位置づけていません。有機農法については、耕うん等、上記肥培管理を行うので、これは問題ないわけですが、それ以上に、自然生態系と共生する、その中で育まれる自然農をそろそろ評価してもよいのではないかと思うのです。
川口さんの世界を書いてみようかと思っていたら、だいぶ忘れてしまったので、脱線したままとなりました。いつか勉強し直してからまた書いてみたいと思います。川口さんの自宅がある巻向(あの箸墓古墳からも近い)や合宿での体験は思い出深いものでした。