以下はハーバードビジネススクールについての記事。著者の入山氏はMBAのあり方として論じている。またHBSがアメリカの中で特異な存在であることも指摘している。
ただ私としては、優れた実績を生みだす教育機関のあり方として紹介したい。
「 この連載コラムでは、筆者が先月上梓した『世界の経営学者はいま何を考えているのか(以下、『世界の~』と記載)』では書ききれなかった、「経営学のフロンティアの知」の興味深いトピックをいくつか紹介していきます。
ただし前回と今回だけは、米国のビジネススクール事情をお話ししながら、「ビジネススクールはどうあるべきか」という少し大それたテーマについて、私見を交えて議論していこうかと思います。
まずは前回のおさらいです。
― 米国の大学はおおまかにいって、少数の「研究大学」と多くの「教育大学」に分かれる。日本でも名の知られているような大学は、規模の大きい研究大学であることが多い。
― ビジネススクールの教授にも「研究中心の教授」と「教育中心の教授」がいる。上位のビジネススクール(=多くは研究大学のビジネススクール)では、研究中心の教授がマジョリティーを占める。
― 研究中心の教授は、経営学研究の世界で「知の競争」をしている。米国での知の競争とは、論文を優れた学術誌に載せることに他ならない。
― しかし、上位のビジネススクールでも少なくとも例外が2校ある。1つは「起業論の総本山」のバブソン・カレッジであり、そしてもう1つハーバード大学である。
というわけで、今回はハーバード大学の話から入りましょう。
ハーバードにいる「第三の教授」
言わずと知れた世界最高峰の「研究大学」であるハーバード大学ですが、この大学のビジネススクール(ハーバード経営大学院;以下、HBS)は、他の研究大学のビジネススクールと比べると特異な存在といえるのではないか、と私は考えています。
まず、HBSの教授陣をみると、その中には「教育中心の教授」が少なからずいらっしゃいます(もちろん他の研究大学にも教育中心の教授はいるのですが、HBSはその比率がやや高いようにみえます)。
もちろんこういった教授も、経営学教育の分野では一流の素晴らしい方々です。デイビッド・ヨッフィー教授などはその代表かもしれません。ヨッフィー教授は、企業分析の有名なケースをいくつも書いており、それは世界中のビジネススクールで教材として使われています。
そしてそれに加えて、実はHBSには「第三のタイプの教授」がいるのです。
それは、「『査読論文の数』という意味での研究業績はそれほど顕著ではないが、世界的に大きな影響を及ぼしている経営学者」としての教授です。
他の学術分野―たとえば物理学や経済学―に知見のある方なら、このことには驚かれるかもしれません。なぜなら、(少なくとも米国では)一般に学術的な業績とは、学術誌に「査読論文」を掲載することに他ならないからです。
「査読」とは審査のことです。学者が論文を学術誌に投稿すると、匿名の査読者(通常は同じ分野の研究者)が審査をします。その審査に通った論文だけが学術誌に掲載されるのです。このプロセスは、自然科学・社会科学のどの学術分野でもほぼ同じのはずです。そして、その分野に重要な貢献をもたらした査読論文を多く発表した学者が、「影響力のある学者」となるのが普通だと思います。
経営学でも基本はこれと同様です。前回も述べたように、米国の上位の研究大学のビジネススクールにいる経営学者の重要な仕事は、厳しい審査プロセスを経て査読論文を国際的な学術誌に載せることです。
にもかかわらず、その頂点にいるはずのHBSには「査読論文の業績はそれほど顕著ではないけれど、世界的にはとても有名な経営学者」がいるのです。
そして、その典型がマイケル・ポーター教授なのです。
経営学界で頂点を極めたポーター教授の実績
今年10月にフォーチュン誌に掲載されたマイケル・ポーター教授の現在を紹介する記事は、興味深いものでした。
この記事では「地球上のどの経営学者よりも、世界中のエグゼクティブに与えた人物(筆者訳)」としてポーター教授をとりあげ、同教授のこれまでの功績、そして今も精力的に活躍されている姿を紹介しています。
他方でこの記事では、「経営学界で頂点を極めた人物としては大きなパラドクス」として、ポーター教授がその39年間のキャリアで7本の査読論文しか学術誌に掲載していない事実も紹介しています。
私のような駆け出しがいうのは僭越極まりないのですが、39年間で査読論文の数が7本というのは、米国の研究大学にいる学者としては極めて少ないといえます。(もちろん1本1本の影響力が大きいということかもしれませんが、それでも数として少ないことは間違いありません。)
実はポーター教授だけではなく、『イノベーションのジレンマ』で有名な、同じHBSのクレイトン・クリステンセン教授も、アカデミックな意味で上位の学術誌への査読論文の掲載数は、私が知る限りそれほど多くありません。
では、ポーター教授やクリステンセン教授は、学術誌への査読論文の掲載数が少ないにも関わらず、なぜこれほど「経営(学)に影響を与えた学者」とされるのでしょうか。
これは私の認識ですが、ポーター教授やクリステンセン教授の大きな功績は、「黎明期の経営学に新しい考えを打ち出し、その時代を切り開いた」ということに加えて、何よりも「その研究成果を“一般の書籍”として発表して、ビジネスマンも含めた幅広い人々に影響を与えた」ことではないでしょうか。
このフォーチュンの記事でも強調されているように、ポーター教授ほど近代経営学に影響を与えた偉大な学者はいません。そしてその影響は、学術論文以外の手段によるところが大きいのです。その著書である『競争の戦略』の引用数はとてつもない数になっていますし、MBAの授業で使われる経営戦略論の教科書は、今でも同教授が生み出したコンセプトや分析ツールから始まっているものがほとんどです。
クリステンセン教授も同様です。実は『世界の~』でも書いたように、『イノベーションのジレンマ』は米国の経営学研究の世界ではそれほどには重視されていないのですが、それでもイノベーションを生み出すことに悩む世の実務家にこれほど影響を与えた本はないでしょう。
求められているのは、ポーターか、コグートか
ここまでの話を整理しましょう。外部からみると同じように見えるかもしれない米国のビジネススクールの教授は、実はおおまかにいって3つのタイプに分けられるのです。
タイプ1:査読論文を学術誌に掲載することを主戦場とする経営学者(=上位のビジネススクールでは大半を占める)
タイプ2:教育中心の教授(=ヨッフィー教授や、バブソン・カレッジの教授などに代表される)
タイプ3:査読論文を学術誌に掲載するのではなく、一般書籍など別の形で経営学や実務家に幅広く影響を及ぼす経営学者(=ポーター教授や、クリステンセン教授など)
そして「タイプ1」の教授に加えて、「タイプ2」の教授の割合も高く、さらには研究大学としては異例なことに「タイプ3」の教授までもが中心的存在として活躍しているのが、HBSなのです。その意味で私は、「HBS(だけ)をみてアメリカのビジネススクールと思うなかれ」と申し上げたのです。
そして、私が『世界の~』を執筆しようと思った動機の1つもここにあります。
たとえば、私の本の中で何度か登場するコロンビア大学のブルース・コグート教授は、世界中の「タイプ1」の経営学者がリスペクトする大研究者です。彼が国際学会で発表するといえば、それだけで会場は多くの学者たちで埋め尽くされます。
しかしながら、このコラムを読んでいるみなさんの中で、コグート教授の名前をご存じだった方は果たして何人いるでしょうか。
もちろん、たとえば最近では、『リバース・イノベーション(ダイヤモンド社)』を執筆したダートマス大学のヴィジェイ・ゴヴィンダラジャン教授のように、「タイプ1」の研究者として査読論文でも素晴らしい実績をおさめつつ、一般書籍を書かれている方もいらっしゃいます。しかし、やはり日本のビジネスマンのあいだでの知名度は、ポーター教授やクリステンセン教授にはかなわないのではないでしょうか。
「タイプ3」の教授たちの素晴らしさはすでに世界中で知られています。しかし、ここまでお話ししたように、実はそういった方々は(それが良いことか悪いことかは別にして)米国の研究大学の中では少数派といえるのです。
他方で『世界の~』で私が紹介しているのは、米国の上位のビジネススクールで大半を占めながら、日本のみなさんにはほとんど知られていない「タイプ1」の教授たちが、知の競争(=査読論文の競争)の世界で発表している研究の数々なのです。
3種類の教授のバランスがビジネススクールの命運を握る
誤解のないようにしていただきたいのですが、私はどのタイプがいいとか悪いとか言っているのではありません。おそらくこの3タイプのいずれもがビジネススクールの発展に欠かせないのだと思います。
たとえばビジネススクールは「専門職大学院」ですから、「タイプ2」のような教育に注力する教授の存在は、他の学部・大学院よりも重要でしょう。しかし、そこで語られることが学術的な根拠に基づかない経験則や逸話だけでは、果たしてそれが「経営の真理に近い」といえるのかわかりません。その意味でも、「タイプ1」の経営学者が社会科学的な方法で発展させている経営理論や事実法則を教育に還元して行くことは重要なはずです(少なくとも米国ではそう考えられています)。
さらに経営学の「実学」としての役割を重視するなら、このような知見を広く世のビジネスマンに活用してもらう「実社会への啓蒙・貢献」も、ビジネススクールの役割の1つのはずです。その意味で「タイプ3」の教授の役割は他の学術分野以上に重要なのかもしれません。
逆に言えば、この3タイプの教授の「バランス」をどうとるかは、ビジネススクールの位置づけや方向性を大きく左右するともいえます。ビジネススクールの第1の資産は、やはりそこにいる教授であると思うからです。
たとえば、世界のビジネススクールを牽引しているのは今でもHBSである、ということに異論を唱える人は(少なくとも米国では)少ないでしょう。HBSの授業法は他のビジネススクールの多くの教員が参考にしていますし、世界中のビジネススクールでHBSが作成した企業分析のケースが授業に使われています。同校の教授陣が多数寄稿している『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌が世界中の多くの実務家に愛読されていることは言うまでもありません。
あくまで私見ですが、HBSがなぜ今も「研究」「教育」「実業界への啓蒙」のいずれにおいても重要な存在であり得ているかというと、もちろんその伝統やネームバリューもありますが、それに加えて、「タイプ1」だけはなく、優秀な「タイプ2」や「タイプ3」の教授たちを豊富に揃えている、ということも大きいのではないか、と私は考えています。
しかし、他のビジネススクールがおいそれとその真似をできるかというと、それはなかなか難しいのかもしれません。3つのタイプの教授をバランスよく揃えるにはやはり潤沢な資金が必要ですし、ある程度の組織の変革も必要になってくるからです。
さらに前回申し上げたように、そもそも米国の研究大学は大学間で熾烈な「知の競争」をしています。特にAAUに所属している大学はそのステータスを守らなければならないのですから、(ハーバードのようにどうやってもAAUから落ちそうにない大学を別とすれば)やはりビジネススクールとしても査読論文の業績が期待できる「タイプ1」の教授を重用するのは自然のなりゆきとえいます。(注:AAUについては前回記事を参照してください。)
日本のビジネススクールはどうあるべきか
さて、最近は日本でも社会人教育の一環としてビジネススクールが定着しつつあるようですが、ここでもその実態は多様であるように私にはみえます。
たとえば国立大学のビジネススクールは優れた「経営学者」を教授陣に並べているところが多いようにみえますし、他方で私立大学や民間のビジネススクールの中には実務家出身の教授を揃えたところもあります。そしてこういった多様性を背景として、日本のビジネススクールのあるべき姿も議論されているようです。
他方で、「これこそがビジネススクールである」として正解を断言するのは、実はなかなか難しいのではないでしょうか。なぜならこれまで見てきたように、ビジネススクールの本場といわれている米国でさえ、その実態は多様なのですから。
このコラムをお読みいただいたみなさんには、「米国でもビジネススクールのありようは混沌としている」という実態を分かっていただいた上で、日本のビジネススクールのあり方をいま一度考えてみられるのも有用かもしれません。
さて、これでビジネススクールの話は終わりです。次回(私が無事に締め切りを守れば1月15日)からは、米国を中心とした海外の「タイプ1」の経営学者たちが推し進めている興味深い研究トピックを紹介していきます。今のところ、次回は「『経営ビジョン』って、本当に意味があるのか」という話題を紹介しようかと思っています。
みなさん、どうぞよい年をお迎えください。」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20121214/240999/?P=1
ただ私としては、優れた実績を生みだす教育機関のあり方として紹介したい。
「 この連載コラムでは、筆者が先月上梓した『世界の経営学者はいま何を考えているのか(以下、『世界の~』と記載)』では書ききれなかった、「経営学のフロンティアの知」の興味深いトピックをいくつか紹介していきます。
ただし前回と今回だけは、米国のビジネススクール事情をお話ししながら、「ビジネススクールはどうあるべきか」という少し大それたテーマについて、私見を交えて議論していこうかと思います。
まずは前回のおさらいです。
― 米国の大学はおおまかにいって、少数の「研究大学」と多くの「教育大学」に分かれる。日本でも名の知られているような大学は、規模の大きい研究大学であることが多い。
― ビジネススクールの教授にも「研究中心の教授」と「教育中心の教授」がいる。上位のビジネススクール(=多くは研究大学のビジネススクール)では、研究中心の教授がマジョリティーを占める。
― 研究中心の教授は、経営学研究の世界で「知の競争」をしている。米国での知の競争とは、論文を優れた学術誌に載せることに他ならない。
― しかし、上位のビジネススクールでも少なくとも例外が2校ある。1つは「起業論の総本山」のバブソン・カレッジであり、そしてもう1つハーバード大学である。
というわけで、今回はハーバード大学の話から入りましょう。
ハーバードにいる「第三の教授」
言わずと知れた世界最高峰の「研究大学」であるハーバード大学ですが、この大学のビジネススクール(ハーバード経営大学院;以下、HBS)は、他の研究大学のビジネススクールと比べると特異な存在といえるのではないか、と私は考えています。
まず、HBSの教授陣をみると、その中には「教育中心の教授」が少なからずいらっしゃいます(もちろん他の研究大学にも教育中心の教授はいるのですが、HBSはその比率がやや高いようにみえます)。
もちろんこういった教授も、経営学教育の分野では一流の素晴らしい方々です。デイビッド・ヨッフィー教授などはその代表かもしれません。ヨッフィー教授は、企業分析の有名なケースをいくつも書いており、それは世界中のビジネススクールで教材として使われています。
そしてそれに加えて、実はHBSには「第三のタイプの教授」がいるのです。
それは、「『査読論文の数』という意味での研究業績はそれほど顕著ではないが、世界的に大きな影響を及ぼしている経営学者」としての教授です。
他の学術分野―たとえば物理学や経済学―に知見のある方なら、このことには驚かれるかもしれません。なぜなら、(少なくとも米国では)一般に学術的な業績とは、学術誌に「査読論文」を掲載することに他ならないからです。
「査読」とは審査のことです。学者が論文を学術誌に投稿すると、匿名の査読者(通常は同じ分野の研究者)が審査をします。その審査に通った論文だけが学術誌に掲載されるのです。このプロセスは、自然科学・社会科学のどの学術分野でもほぼ同じのはずです。そして、その分野に重要な貢献をもたらした査読論文を多く発表した学者が、「影響力のある学者」となるのが普通だと思います。
経営学でも基本はこれと同様です。前回も述べたように、米国の上位の研究大学のビジネススクールにいる経営学者の重要な仕事は、厳しい審査プロセスを経て査読論文を国際的な学術誌に載せることです。
にもかかわらず、その頂点にいるはずのHBSには「査読論文の業績はそれほど顕著ではないけれど、世界的にはとても有名な経営学者」がいるのです。
そして、その典型がマイケル・ポーター教授なのです。
経営学界で頂点を極めたポーター教授の実績
今年10月にフォーチュン誌に掲載されたマイケル・ポーター教授の現在を紹介する記事は、興味深いものでした。
この記事では「地球上のどの経営学者よりも、世界中のエグゼクティブに与えた人物(筆者訳)」としてポーター教授をとりあげ、同教授のこれまでの功績、そして今も精力的に活躍されている姿を紹介しています。
他方でこの記事では、「経営学界で頂点を極めた人物としては大きなパラドクス」として、ポーター教授がその39年間のキャリアで7本の査読論文しか学術誌に掲載していない事実も紹介しています。
私のような駆け出しがいうのは僭越極まりないのですが、39年間で査読論文の数が7本というのは、米国の研究大学にいる学者としては極めて少ないといえます。(もちろん1本1本の影響力が大きいということかもしれませんが、それでも数として少ないことは間違いありません。)
実はポーター教授だけではなく、『イノベーションのジレンマ』で有名な、同じHBSのクレイトン・クリステンセン教授も、アカデミックな意味で上位の学術誌への査読論文の掲載数は、私が知る限りそれほど多くありません。
では、ポーター教授やクリステンセン教授は、学術誌への査読論文の掲載数が少ないにも関わらず、なぜこれほど「経営(学)に影響を与えた学者」とされるのでしょうか。
これは私の認識ですが、ポーター教授やクリステンセン教授の大きな功績は、「黎明期の経営学に新しい考えを打ち出し、その時代を切り開いた」ということに加えて、何よりも「その研究成果を“一般の書籍”として発表して、ビジネスマンも含めた幅広い人々に影響を与えた」ことではないでしょうか。
このフォーチュンの記事でも強調されているように、ポーター教授ほど近代経営学に影響を与えた偉大な学者はいません。そしてその影響は、学術論文以外の手段によるところが大きいのです。その著書である『競争の戦略』の引用数はとてつもない数になっていますし、MBAの授業で使われる経営戦略論の教科書は、今でも同教授が生み出したコンセプトや分析ツールから始まっているものがほとんどです。
クリステンセン教授も同様です。実は『世界の~』でも書いたように、『イノベーションのジレンマ』は米国の経営学研究の世界ではそれほどには重視されていないのですが、それでもイノベーションを生み出すことに悩む世の実務家にこれほど影響を与えた本はないでしょう。
求められているのは、ポーターか、コグートか
ここまでの話を整理しましょう。外部からみると同じように見えるかもしれない米国のビジネススクールの教授は、実はおおまかにいって3つのタイプに分けられるのです。
タイプ1:査読論文を学術誌に掲載することを主戦場とする経営学者(=上位のビジネススクールでは大半を占める)
タイプ2:教育中心の教授(=ヨッフィー教授や、バブソン・カレッジの教授などに代表される)
タイプ3:査読論文を学術誌に掲載するのではなく、一般書籍など別の形で経営学や実務家に幅広く影響を及ぼす経営学者(=ポーター教授や、クリステンセン教授など)
そして「タイプ1」の教授に加えて、「タイプ2」の教授の割合も高く、さらには研究大学としては異例なことに「タイプ3」の教授までもが中心的存在として活躍しているのが、HBSなのです。その意味で私は、「HBS(だけ)をみてアメリカのビジネススクールと思うなかれ」と申し上げたのです。
そして、私が『世界の~』を執筆しようと思った動機の1つもここにあります。
たとえば、私の本の中で何度か登場するコロンビア大学のブルース・コグート教授は、世界中の「タイプ1」の経営学者がリスペクトする大研究者です。彼が国際学会で発表するといえば、それだけで会場は多くの学者たちで埋め尽くされます。
しかしながら、このコラムを読んでいるみなさんの中で、コグート教授の名前をご存じだった方は果たして何人いるでしょうか。
もちろん、たとえば最近では、『リバース・イノベーション(ダイヤモンド社)』を執筆したダートマス大学のヴィジェイ・ゴヴィンダラジャン教授のように、「タイプ1」の研究者として査読論文でも素晴らしい実績をおさめつつ、一般書籍を書かれている方もいらっしゃいます。しかし、やはり日本のビジネスマンのあいだでの知名度は、ポーター教授やクリステンセン教授にはかなわないのではないでしょうか。
「タイプ3」の教授たちの素晴らしさはすでに世界中で知られています。しかし、ここまでお話ししたように、実はそういった方々は(それが良いことか悪いことかは別にして)米国の研究大学の中では少数派といえるのです。
他方で『世界の~』で私が紹介しているのは、米国の上位のビジネススクールで大半を占めながら、日本のみなさんにはほとんど知られていない「タイプ1」の教授たちが、知の競争(=査読論文の競争)の世界で発表している研究の数々なのです。
3種類の教授のバランスがビジネススクールの命運を握る
誤解のないようにしていただきたいのですが、私はどのタイプがいいとか悪いとか言っているのではありません。おそらくこの3タイプのいずれもがビジネススクールの発展に欠かせないのだと思います。
たとえばビジネススクールは「専門職大学院」ですから、「タイプ2」のような教育に注力する教授の存在は、他の学部・大学院よりも重要でしょう。しかし、そこで語られることが学術的な根拠に基づかない経験則や逸話だけでは、果たしてそれが「経営の真理に近い」といえるのかわかりません。その意味でも、「タイプ1」の経営学者が社会科学的な方法で発展させている経営理論や事実法則を教育に還元して行くことは重要なはずです(少なくとも米国ではそう考えられています)。
さらに経営学の「実学」としての役割を重視するなら、このような知見を広く世のビジネスマンに活用してもらう「実社会への啓蒙・貢献」も、ビジネススクールの役割の1つのはずです。その意味で「タイプ3」の教授の役割は他の学術分野以上に重要なのかもしれません。
逆に言えば、この3タイプの教授の「バランス」をどうとるかは、ビジネススクールの位置づけや方向性を大きく左右するともいえます。ビジネススクールの第1の資産は、やはりそこにいる教授であると思うからです。
たとえば、世界のビジネススクールを牽引しているのは今でもHBSである、ということに異論を唱える人は(少なくとも米国では)少ないでしょう。HBSの授業法は他のビジネススクールの多くの教員が参考にしていますし、世界中のビジネススクールでHBSが作成した企業分析のケースが授業に使われています。同校の教授陣が多数寄稿している『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌が世界中の多くの実務家に愛読されていることは言うまでもありません。
あくまで私見ですが、HBSがなぜ今も「研究」「教育」「実業界への啓蒙」のいずれにおいても重要な存在であり得ているかというと、もちろんその伝統やネームバリューもありますが、それに加えて、「タイプ1」だけはなく、優秀な「タイプ2」や「タイプ3」の教授たちを豊富に揃えている、ということも大きいのではないか、と私は考えています。
しかし、他のビジネススクールがおいそれとその真似をできるかというと、それはなかなか難しいのかもしれません。3つのタイプの教授をバランスよく揃えるにはやはり潤沢な資金が必要ですし、ある程度の組織の変革も必要になってくるからです。
さらに前回申し上げたように、そもそも米国の研究大学は大学間で熾烈な「知の競争」をしています。特にAAUに所属している大学はそのステータスを守らなければならないのですから、(ハーバードのようにどうやってもAAUから落ちそうにない大学を別とすれば)やはりビジネススクールとしても査読論文の業績が期待できる「タイプ1」の教授を重用するのは自然のなりゆきとえいます。(注:AAUについては前回記事を参照してください。)
日本のビジネススクールはどうあるべきか
さて、最近は日本でも社会人教育の一環としてビジネススクールが定着しつつあるようですが、ここでもその実態は多様であるように私にはみえます。
たとえば国立大学のビジネススクールは優れた「経営学者」を教授陣に並べているところが多いようにみえますし、他方で私立大学や民間のビジネススクールの中には実務家出身の教授を揃えたところもあります。そしてこういった多様性を背景として、日本のビジネススクールのあるべき姿も議論されているようです。
他方で、「これこそがビジネススクールである」として正解を断言するのは、実はなかなか難しいのではないでしょうか。なぜならこれまで見てきたように、ビジネススクールの本場といわれている米国でさえ、その実態は多様なのですから。
このコラムをお読みいただいたみなさんには、「米国でもビジネススクールのありようは混沌としている」という実態を分かっていただいた上で、日本のビジネススクールのあり方をいま一度考えてみられるのも有用かもしれません。
さて、これでビジネススクールの話は終わりです。次回(私が無事に締め切りを守れば1月15日)からは、米国を中心とした海外の「タイプ1」の経営学者たちが推し進めている興味深い研究トピックを紹介していきます。今のところ、次回は「『経営ビジョン』って、本当に意味があるのか」という話題を紹介しようかと思っています。
みなさん、どうぞよい年をお迎えください。」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20121214/240999/?P=1