アラカン新米ママの東京ぐうたら日記

45歳でできちゃった婚、46歳でいきなりシドニー移住&出産、東京に戻り、右往左往のままはや娘は10歳を過ぎ・・・。

2泊が5泊になってしまったワルシャワ。

2016-08-13 16:52:23 | 日記

ワルシャワの美容室で髪を切りました

ワルシャワ蜂起博物館とかポーランドユダヤ人歴史博物館など、重厚で見ごたえのありすぎる博物館を見学したら、なんだかぐったりしてしまった
私たち、気分転換にワルシャワ最大ショッピングモール「アルカディア」に行ってみました(笑)。


アルカディア・ショッピングモール

ショッピングモールの中は、日本とかシンガポールとかシドニーとかにもありそうな感じで、どこの国にいるかわからない(笑)。

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ショッピングモールの中

でもね、正直言って、それが救いでした。
観光スポットでは、どこを歩いても受難の歴史を感じざるをえなかったので、歴史も文化も感じさせない、寒さや暑さ、雨から守られている清潔で便利な空間で、東京にいる時の様にチェーン店のコーヒーショップで大きなサイズのソイラテを飲んだら、ホッとした自分がいました。あちこち凝り固まったので、マッサージも受けて、やっと歩ける様になった感じ。はい、心身ともにヤワでございまする(笑)。


またおかっぱに戻りました〜

ショッピングモールで夫が「髪を切る」と言ったら、娘も「私も」と言い出しました。それまで「東京に戻ってから切る」と言っていたのですが、東京にもありそうな雰囲気で安心したのか?? 
入ったのは、一見おしゃれな美容室でしたが、見ていると洗髪も(洗髪後は紙タオルで拭くのです!)カットも結構荒っぽくて、私は遠慮することにしました(笑)ちなみにお値段は、夫は1300円、娘は2000円くらいでした。



ついでに映画館で「アイスエイジ」のポーランド語版を見ました。家族向け映画は吹き替えになっているんです。大人向け映画は字幕付き。日本と同じですね。
ポーランド語吹き替えでも楽しめた「アイスエイジ」はすごいなあ、と改めて感心しましたですよ、はい(笑)。
家族料金だったので、三人で見ても合計1300円くらい!


バロック様式の美しい聖アンナ教会でパイプオルガンのバロックコンサート

雨の日の午前中、バロックな教会でパイプオルガンのバロック音楽演奏を聴いて、なんだかあまりにもはまっていて、うっとりとした時間を過ごしたりも
しました。


雨の中、タクシーから外を見る。

でもね、晴天の日の後の雨の日、15度近く温度が下がって、寒々しい空の下、


ポーランドユダヤ人歴史博物館

ヨーロッパでベスト博物館に選ばれたポーランドユダヤ人歴史博物館を見て、その見事な展示に感心しつつ、


マルチメディアな展示


インタラクティブで子供も楽しめます

娘も最初は喜んで遊んでいたのですが、


強制収容所のエリア

だんだんと内容も辛く悲しいものになっていき、情報量もものすごいので、展示空間を歩くだけでもグッタリしてしまいました・・・。


ワルシャワ蜂起博物館

それでもめげずに次の日かな、ワルシャワ蜂起博物館に行きました。


中は暗い。

ほとんど黒一色、たまに共産主義の赤がある屋内に、武器や軍服や爆撃後の街並みの展示が続くので、娘は怖がって
途中で帰りたがりました。


向かって右の壁に夫の叔父の名前がありました。

それでも、この博物館、見たかったのです。
夫の叔父が、ワルシャワ蜂起に参加して戦死(というのでしょうか?)したので、名前がこの博物館にあると聞いていたから。
暗い中、老眼の夫と私は目をショボショボさせながら叔父の名前を探しましたが、なかなか見つからない。
結局、博物館の中でなく、外の壁に名前が彫ってあるとわかり、無事に確認できて満足でした。


ゲイシャ・スシにて

ワルシャワにはお寿司やさんが結構あり、お刺身3種類が重なっている握り寿司とか、バナナが巻かれてチョコレートソースがかかったキッズ寿司など、
不思議なものがあります。ポーランド料理にも飽きてきたので、試してみることにしました。


手前の黄色いのはマンゴーがのってるシャケの天ぷら巻き(!)

娘はエビの天ぷら、私と夫は巻物セットにお味噌汁を注文しました。
カリフォルニアロールみたいなものや、エビとか鮭の天ぷらを巻いたものにマンゴーがのってるもの、と、まあ、それほど冒険ではなかったかも(笑)。
お味は、日本のスーパーで売ってるお寿司くらいな感じ。お値段は全部で3000円くらいだったかな?


クラシンキ公園

夫の知り合いの娘さんで、シドニーに生まれ育ったポーランド系オーストラリア移民2世で、ポーランド人男性と結婚し、ポーランドに移り住んで10年という女性に会いました。
7歳と4歳の男の子とご主人も一緒に、公園で遊びながら、ポーランドに住んでどうか、オーストラリアと比べてどうか、最初に住んだクラコフと今のワルシャワではどう違うか、さらに不動産事情などのいろんなおしゃべりを英語でできたので、ちょっとワルシャワに詳しくなった気分(笑)。


子供たち、一緒に飛ぶ!

「住んでみたら、クラコフよりワルシャワの方がずっとよかったわ。観光にはクラコフの方がいいと思うけど、ワルシャワは人々が断然オープンなのよ。6年クラコフに住んでも全然友達ができなかったのに、ワルシャワに住んだらすぐにたくさんの友達ができたの。最初からワルシャワに住めばよかったわ。緑もずっと多いし、仕事もいろいろ選べるし」とその女性。


文化科学宮殿の展望台から見たワルシャワ

歴史地区も素敵だけれど、新しく開発されたエリアは便利そうだし、共産主義時代の名残の建物も、ポーランド人からすると嫌な思い出なんでしょうが、
東京から来た私にしてみればよくある普通のビルに見えて、あまり気にならない(笑)。


展望台から見たワルシャワ

2本だけどメトロもあるし、バスやトラムも結構あって、動きやすそう。


プラガ地区のアート

まだ売れないアーチスト達が住み着いている、まだ開発されていない地区があって面白い、とどこかで読んだので探してみました。
川向こうにあるプラガ地区 (プラハ地区)でした。


川向こうのプラガ地区

行ってみると、まだまだ古いままのビルがあり、合間にレストランやカフェやバーが点在しています。
強面のお兄さん達もいたりして、あれれ、なんだか懐かしいぞ・・・と思ったら、そう、前世紀(!)に住んだニューヨークのローワーイーストサイドとかアルファベット地区みたいな感じなのです。


プラガ地区のカフェにて

「いや、でも川を渡った向こうってことだと、ニューヨークでもマンハッタンでなくて、ブルックリンのウィリアムズバーグみたいな感じかしら?」
などと思いながら歩いていると、ガイドブックを持った観光客がちらほら。すでにガイドブックに載ってるんでしょうね(笑)。


プラガ地区のお菓子屋さん、蜂も喜ぶクッキーを売ってます(笑)

新しくメトロの駅もできたようで、駅前にショッピングモールができていてスターバックス・コーヒーが入っていました。
ここも10年くらいするときれいに開発されてしまうんだろうね、などとボヘミアンなカフェで、一服しながら夫とおしゃべり。


プラガ地区の青空市、ウエディングドレスも売ってます!

ここの青空市でゲットした5ズロチ(140円くらい)の黄色いTシャツを着てポーズをとる娘。ここは髪飾りや下着、洋服が
沢山並んでいました。


またもや目抜通り、クラクフ郊外通りにて、何かの展示をやってました

川を渡って、目抜通りを歩いていたら、小腹が空いたので、ブリストルホテルで軽く食事をしました。


ブリストルホテルにて

格式のある建物の5つ星ホテルですが、お値段はワルシャワなので、アフタヌーンティー・セットが1700円くらい。残念ながらアフタヌーンティーは
終わっていましたが、サンドイッチやビールを頼んでも、同じようなお値段で気軽です(笑)。


アウトサイダー・アート展

たまたま街で見かけたポスターが気になっていた展覧会、art brutと言う文字が見えたので、アウトサイダーアートの展覧会だと理解していた
ものですが、民俗博物館で開催されていました。









なかなか見応えがあり、あんまり絵に興味のない夫も「面白かった!」と喜んでいました。


ザヘタ国立美術館

民俗博物館の隣にあるザヘタ国立美術館は、建物は立派でしたが、展示は個人的にはちょっと薄い感じがしました。


難民の靴を使ってボートを作ったもの


旅行者、というテーマなのでスーツケースってことか


美術館のカフェのパスタ、なかなか美味しかったです

現代美術センターにも行ってみたかったのですが、時間がありませんでした。


ロフトスペースがあったシンプル&モダンな60平米のアパート。

ワルシャワについてから、2泊を3泊、結局5泊と延ばしたので、同じところに延泊できずに結局3箇所のアパートメントを渡り歩きました。
移動が大変だったけれど、どのアパートも旧市街にありつつ、雰囲気がそれぞれ違うので、楽しかったです。


美術館のショップで

川べりにレストランやカフェがあって、お天気がいい日には夜遅くまで子供連れの人達も沢山いて賑わっているそうです。
行ってみたかったけれどお天気が良くなかったりして、チャンスがありませんでした。

素敵なレストランも色々ありそうですが、あちこち見て歩いていたら時間がなくなり、適当にその場にあるお店に入っていましたが、
雰囲気もありお味もまあまあのお店が夜遅くまで開いているので、食事には困りません。入ってみたかったおしゃれなカフェがまだまだあります。


映画監督キエシュロフスキーのお墓

そう、ワルシャワは西欧的な発展を遂げつつ、東欧的なエッジとアジア的な活気がある都会で、まだまだこれから発展しそうな勢いを感じます。
それに日本からすると割安感があるのが嬉しい(笑)。

ぜひまたワルシャワに来たい!と思いながら、次の街、カリシュに向けて出発しました。

ワルシャワ、期待していたよりずっと素敵!ミロンガも行きました。

2016-08-10 06:32:24 | 日記

ワジェンキ公園でゴーフル(ベルギーワッフル)を食べる

「ワルシャワは、第2次世界大戦でかなり爆撃を受けたから、ほとんどが新しい建物で面白くない」と、
いろんな人から聞かされていました。


ワジェンキ公園。

でもね、ワルシャワ初日、まず訪れたワジェンキ公園、広々としてとてもきれいじゃあないですか!


ワジェンキ公園。

実はワルシャワをほとんど知らない夫が「ワルシャワで観光というと、まずワジェンキ公園ってみんな言う」というので
行ってみたのです。


ワジェンキ公園。

お天気の良さも手伝って、気持ちのいいことこの上ない。歩いていると、かなり日差しが強くて、ジリジリしてきます。


ワジェンキ公園。リスが餌をもらいに子供に近づいてる。

リスもあちこちチョロチョロしていて、ちょっとニューヨークのセントラルパークみたい?
「ワルシャワ、思ったより、いいね〜!」と、ポーランド出身の夫。初ポーランドの私と同じレベルのお上りさんです(笑)。


ヴィラヌフ宮殿

17世紀にイタリア人建築家によって建てられ、18世紀に拡大されたという、バロック様式の夏の離宮ヴィラヌフ宮殿。
ちょっとヴェルサイユ宮殿を思わせる庭園もあり、これまた歩いて楽しい。


ヴィラヌフ宮殿。


ヴィラヌフ宮殿。


ヴィラヌフ宮殿

屋内は写真禁止だと思ったら、フラッシュ禁止だけだったので、慌てて撮った、天井絵。天使の足が一本だけ飛び出しています!


旧市街にあるワルシャワ王宮(右のピンクの建物)

実はワルシャワの旧市街は世界遺産に指定されています。
世界中に数多ある世界遺産の中でも極めて例外的な存在だそうで、それは、街自体が持つ歴史的価値ではなく、第二次世界大戦中灰燼に帰した街並を「レンガのひび割れ一つに至るまで」忠実に蘇らせたワルシャワ市民の「不屈の熱意」が評価されて登録が決まったという唯一の史跡群だから・・・。


ワルシャワ王宮内。

ワルシャワ王宮の中を見学していたら、とある親子に話しかけられました。


ワルシャワ王宮内。

日本が大好きで何度も訪れたというオーストラリアに住むポーランド出身のお父さんが「ここの床は私の父が作った(復元した?)んですよ。
今回娘を連れてフィレンツェやヴェルサイユ宮殿を回りました。天井絵や飾ってある絵画や調度品は、あちらの方がここよりずっと優れていますが、
床に関してはワルシャワ王宮が断然素晴らしいと思います」


話しかけてきた人のお父さんが張り直したという床


このお父さんのお話がさらに続きます。
「父は何度もこの床を作り直した、と話してくれました。二条城の鶯張りの床のように、キューキュー音がしてしまったから。結局真ん中あたりを周辺部より10センチ以上高くすることで、音が鳴らなくなったそうです」


新世界通り

こういう人たちの努力、熱意が集まって、戦争で80%以上破壊された街が見事に復元されたんですね・・・。


聖アンナ教会。白くて四角いのが、ヨハネ・パウロ2世の展覧会

ローマ教皇だったヨハネパウロ2世とポーランド、というテーマの路上展覧会(?)があったので、ざっと見てみました。


クラクフ郊外通り

ポーランドがキリスト教になったのが966年、今年で1050年目の記念の一環らしいです。
共産主義から民主化に至る精神的な支えがカトリック教会だったというポーランド、反骨精神、反体制のシンボルでもあったわけですね。


大統領官邸

ヨハネ・パウロ2世がまだ学生(?)だった時に、同級生のイタリア人が「ナチズムや共産主義を他の国でなくてポーランドが経験したのは、
ポーランドがその試練に耐えられる国だったからではないか」と言ったことに、ヨハネ・パウロ2世が深く同感した、というような
ことが書いてありました。カトリック的な精神があったからこそ、ナチズムや共産主義以前の、分割統治で国がなくなってしまう
ほどの受難にも耐えられた、ということでしょうか・・・。


文化科学宮殿。共産主義時代の象徴だそうで、独特の存在感

「ワルシャワは結構アルゼンチンタンゴが盛んだよ。行くなら、ここのミロンガがいい」とグデーニャであったオーストラリア人のタンゴの先生が教えてくれた
ミロンガに親子三人で行ってみました。親子連れはもちろん私たちのみ。ついでに踊れない人は夫だけのようです(笑)。


結構混んでるミロンガ

テーブルについてすぐに英語で話しかけてくれた60代くらいの男性と女性のカップル曰く、「ワルシャワにはアルゼンチンタンゴを踊る人は千人くらいいるけど、
みんな知ってる人とか踊らないんだよね」。確かに私を誘ってくれたのはその男性のみ(笑)。

仕方なく娘と遊んだり、夫とおしゃべりしていたら(!)話しかけてくれる女性たちが結構いました。
「男性が少ないし、若い女の子と踊りたがるの。だから私みたいな年齢の女性(60代くらいか??)はなかなか誘ってもらえないわ。ワルシャワもクラコフも同じ。でも娘が住んでいるイギリスのリバプールに遊びに行って、そこのミロンガに行った時はみんなが誘ってくれて最高に楽しかったわ!」

男性が少ないのは、アルゼンチンタンゴの世界的傾向よね〜、と私とその女性のおしゃべりは続くのでした・・・。

トルンからナシエルスクを経て、ワルシャワへ。

2016-08-09 13:30:42 | 日記

雲が多い青空の下、快適ドライブ

トルンで二泊している間に車を修理に出しましたが、エアコンはなおらず、でも私の体調が良くなったので、ワルシャワ近郊のナシエルスクまで3時間強ドライブしました。道路に出ていた表示によると気温19度、路面温度29度で、エアコンなくても快適!


朝食はどこのお家でもチーズやハムが並びます

以前、グダンスクで合流した夫の同級生のお家にお邪魔しました。お嬢さんが英語が堪能だったので、いろいろおしゃべりできました。


お庭でクリケット

コペンハーゲンの大学に行き、スウェーデンで仕事をし、去年ポーランドに戻り、ワルシャワで会社勤務をしているお嬢さんは、
旅行好きで、元気な30歳。ポーランド人のボーイフレンドがいて、でもまだ結婚する気がなく、でもポーランドにずっと住んでいる友達は
すでに家庭を持っているし、ボーイフレンドの家族は保守的なので、早く結婚して子供を作れというので、プレッシャーも感じていて・・・。


結構真剣にプレイしてます

「ポーランドの大学の時の同級生で、そのあとイギリスやドイツに出た友達は、まだまだ結婚する気なんてないけど、ポーランドに残った
友達はすでに結婚して子供が生まれているのよ。スウェーデンに2年ちょっと住んで、キリスト教色や家族の絆があんまりないライフスタイルが嫌になったの。
やっぱり私は家族に年中会いたいし、週末に家族で集まるのが好き。でも・・・今結婚して家庭を持って、あちこち旅行できなくなるのは嫌。
スウェーデンやデンマーク、イギリスやフランスの友達は、子供を置いて長い海外旅行に出かけたりするけど、私にはできないわ。
子供ができたら、しばらくはずっとポーランドで面倒みなくちゃいけないって思うし・・・」


クリケットで「優勝」したので表彰される娘

「ポーランドの友達で30歳で初めて妊娠した人が、産婦人科に、なんでこんなに遅くまで待ったのかって言われたのよ。
20台で産まないと遅いって言われるのよ」
あれ、私が20代の頃の日本みたいな・・・??(東京は少し違うけれど、地方出身の友達が言っていたのと似てるような・・・?)


ショパンの生家も見に行きました。

ポーランドは89年に共産主義から民主化し、90年代に様々な変化を遂げ、2000年代、特にEUに参入した2004年以降急成長をし、
最近は少し落ち着いてきたようです。
2000年代は日本でいうと80年代バブルみたいな感じなのかな、つまり日本と20年くらいのズレがあるのかなあ、という印象を受けます。
家族関係もちょっと前の日本みたいな感じもするし。


気に隠れたショパンの生家。

ふと思いつき、出産率を調べたのですが、あれれ、日本より低かった!
ポーランドは2012年で1.30、日本は2012年で1.41。
ポーランドの人口は1999年から緩やかに減って、現在3800万人強。
原因は、出産率の低下よりも、国外への移民の方が大きいようですが。


ショパンについてのオーディオ解説を日本語で聞いている、はず。

人口ピラミッドを見ると、日本は、67、8歳(ベビーブーム世代)と39−42歳(ベビーブーマーの子供世代)が突出していますが、
ポーランドは、50代中盤と30歳前後くらいが突出しています。
この人口ピラミッドを見て、私が「日本より20年くらいずれている」と感じていることと、大雑把な意味で重なるような気がしました。

つまり、夫たちの世代は、日本でいうと戦後から安保世代の人たちみたいな感じがするし、30代の甥っ子や姪っ子などを見ていると、日本でいうと私くらいな(あるいは少し若い?)世代の感覚があるような。


ショパンの生家近くのレストランで、隣のテーブルの人たちにフラフープを貸してもらいました。

夫たちの世代は、スーパーに物がない、まあ貧困を経験し、そのあと経済の急成長を経験しています。
これはベビーブーマー、あるいはそれより少し上の世代の経験ですよね。


そしてワルシャワへ向かいます。

日本は戦後すぐから経済復興、成長を遂げましたが、ポーランドは共産主義下にあったので、それができないままでいて、89年に
民主化してから、やっと日本でいう戦後の経済成長が始まったような感じなんでしょうね。

ある程度豊かになって、EU参入してさらに豊かになっていく、まあバブルを20代前後に経験したのが、その子供たちの
世代。


ワルシャワの旧市街の夜。にぎわっています。

日本とポーランドの文化の違いはあるけれど、経済成長の影響って大きいんだなあと思いながら、首都ワルシャワに
到着しました。

中世の街、トルンでダウン。

2016-08-06 01:02:50 | 日記

不穏な空の下、トルンの旧市街

整備したはずの車ですが、エアコンが効かないまま、気温26度、路上温度40度(道路に表示があったのでわかった)の道を、ドイツ国境近くのデブノからポーランドの真ん中あたりまで6時間弱かけて、世界遺産の街、トルンに到着しました。


トルンの旧市街の端っこ。

13世紀に栄え、そのあとドイツ人とポーランド人が半々に住んだり、ドイツ領になったりポーランドに戻ったりしたトルンは、珍しく戦火を免れ、旧市街がかなり元のまま残っており、コペルニクスの生まれ故郷でもある、美しい街です。


途中の道のり。暑かった・・・

午後6時過ぎに到着して、旧市街の真ん中にあるアパートメントホテルにチェックインし、シャワーを浴びてから、街をそぞろ歩きました。
市庁舎広場はそれほど広くないのですが、旧市街は広く残っていて、石畳の道に並ぶよく手入れされた古い建物を見て歩くのが楽しい。


コペルニクスの像の前で。

どうも不穏な灰色の空になってきて、テラス席をたたみ始めるお店も出てきました。天気予報では雷雨。ネットで探した、かなりシックな店内の
お店で、ゆっくりとディナーを楽しんでいる間に雨。トルンはヴロツワフより有名な観光地だからか、お店も洗練されたところが多いような印象です。


雨が降る前。

雨が降り終わって、ディナーも終わってから、黄色い街灯が石畳を照らしている旧市街を散策しているとタイムスリップしたような気分です。

本当は2泊する予定でしたが、出発が1日遅れたので1泊になったのが残念だね、と言いながら、夫と娘も気に入った様子。
夫は10代の頃に一度来ただけで、「こんなに綺麗な街だったっけ?」と驚いていました。


屋根裏部屋のアパートホテル。広い寝室が別にあり、合計70平米。

屋根裏部屋のアパートホテルも雰囲気があって、エレベーターなしの4階はやや荷物を運ぶには辛く、またギシギシと階段の音もうるさいのですが、
娘は「もっと泊まりたい!」と大満足。


アパートの窓から旧市街を見下ろす。

もう1泊したかった〜とみんなで何度も言ったからでしょうか、実は今、違うホテルですが、2泊目です(笑)。


クレープにチョコレートソースをかける。

というのも、一泊した次の朝、私がダウンしてしまったからなのです。
おそらく前の日、エアコンなしの車に6時間近く乗っていたので、軽い熱中症にかかったのかもしれません。


トルン名物ピエルニキ(ジンジャーブレッドというか、硬いクッキー)のウィンドウ。

本当は、車で移動して、夫の同級生のお家に泊まりにいく予定でしたが、まずベッドから起き上がれない。
チェックアウトの時間をかなり遅くしてもらっても、どうも体調がすぐれません。
とてもエアコンの効かない車に乗る気持ちになれない(笑)。


硬くて噛めない・・・

残念だけれど、その同級生宅を訪ねるのはキャンセルし(次の日に他の同級生を訪ねる約束があるので!)、
同じアパートメントホテルはもう次のお客さんの予約が入っていたので、他のホテルを探し出して
もう一泊することにしました。
トルンは観光地なので、ホテルがたくさんありますが、どこもいっぱいで結構探すのが大変でした。


手作りの飴のお店。

新しいホテルにチェックインして、しばらく横になっていたら、また激しい雷雨になりました。
気圧も変だったのかもしれません。雷雨が終わると、かなり涼しくなり、空気も軽くなったような。
やっと外を歩く気分になり、またもや旧市街をぶらぶらしました。


バスキングしている人たち、結構いました。


子供達が乗りたくて並んで待っていた彫刻。


グラフィティーの前で。

博物館などは閉館してしまった時間なのですが、歩くだけでも楽しい街です。


広場でエレクトロニカのコンサート。

明日はワルシャワ近郊のナシエスクという街に住む、今日訪ねるはずだった夫の同級生とは違う同級生のお家を訪ねる予定です。


子供用の塗り絵が用意されてるお店がいっぱいあるので、ありがたいです

無事に移動できますように・・・!

ドイツとの国境に近いデブノで区長さん(?)宅に泊まる。

2016-08-04 07:26:07 | 日記

湖のほとりで。

どうにか車の整備も終わり、1日遅れでプチェムクフ村から車で4時間弱、東北に上がった、ドイツ国境に近い湖の多いエリアにあるデブノに到着しました。
デブノでは、1989年に夫がシドニーについてすぐにお世話になったご夫婦を訪ねました。


ドイツとポーランドの国境になる川

夫は1989年にシドニーにすでに住んでいた自分の姉のところに遊びに行ったのですが、そのまま住みついて移民してしまいました(笑)。
最初は数ヶ月滞在しようと思ってビザを取ったそうですが、お金がないので、ついてすぐにアルバイトしたかった。
姉の知り合いで、当時工務店をやっていたこのご夫婦のご主人が「じゃ、手伝って」とすぐに仕事をくれたそうで、以来シドニーの大学院に
入るまで、約1年半雇ってもらったそうです。


この国境では第2次世界大戦にドイツと激しい戦いがあった、とのこと。

9年ほど前に、シドニーからご主人の生まれ故郷のデブノに戻り、なんと6年前にデブノの隣のグミナ(区みたいなもの?)の自治長であるブイトに立候補し、当選、
2期目の当選を果たし、就任6年目だそうです。ポーランドには16の県があり、その県の下にポヴィアット(郡)が373あり、その郡の下にグミナと
呼ばれる自治体組織が2489あるそうです。日本でいうと県、市、の下にある、区とか町、みたいなものでしょうか?


デブノの湖の「ビーチ」。お天気が良ければ泳げたのに・・・

実は私はこのグミノの長、ブイトをやっているご主人に会うのが楽しみでした。
というのも、いくつかの小さい町を見て、とても綺麗に復元、改築されて観光客の私が歩いても気分のいいところ、まだまだ荒れ果てていて、観光客の私が悲しくなるところ(?)、綺麗に復元されたり改築されているけれど、銀行ばっかりあるところがあり、それぞれ「ああ、あそこのグミナ(「区」だと私が思っている)はいいブイト(「区長」と私が理解している)がいるからね」とか「ああ、あそこのブイトはロクでもないから」と義姉や義兄達が言うのを聞いていたからです。


湖のほとりの公園。

ブイトの影響力が強いと感じたので、現役ブイトのお話を聞いてみたかったのです。
シドニーに住んでいたご夫妻だから、英語でお話が聞ける、つまり夫の通訳を介さないで直接お話ができる、というのも楽しみでした。


隣の町の湖。

ワインやナレフカという果物酒(アルコール度95%のスピリタスに漬け込んである!)を飲みながら、夫と奥さんは昔話に花を咲かせ、私はご主人に「どうしてブイトに立候補したのか」、「何が大変だったのか、今は何をしているのか」などといろんなお話を聞きました。
残念ながら次の日、二日酔いの頭で覚えているのは少ないのですが(笑)、ひとつ「だからか〜!」と納得できることがありました。


デブノの屋台マーケット、半分以上閉まっちゃっています。

ブイト、まあ、区長さんは、土地の建築許可権を独占しているそうです。つまりその区で何かを建てたいと思ったら、区長さんだけの許可を貰えばいい。
つまりそこで区長さんが賄賂を受け取る人ならば、賄賂をたくさん送れば、好きなものが建てられるわけです。
なのでブイトは、やろうと思えばいくらでも私服を肥やすことができる・・・。


野菜の屋台が空いていました。

第2次世界大戦でかなり破壊され、さらにそのあとの共産主義統治下で伝統的な様式の建築がないがしろにされたポーランド(おそらく東欧の多くの国もそうでしょう)には、まだ復興、復元の余地がたくさんあります。それぞれの町には、教会などを中心にした広場があり、やり方によってはとても素敵な広場になるのです。
少なくとも観光客の私にとって、歩いていて楽しい広場とつまらない、あるいは悲しくなる広場があります(笑)。


ひまわりの種がひまわりの形のまま売られています。

共産主義統治下のポーランドを経験し、それが嫌で政治的難民としてドイツに暮らし、そのあとオーストラリアに移民し、自由経済の下、自分でビジネスを始め、いろんな浮沈を経験した後、生まれ故郷に戻った自分にとって、今、いろんな意味で復興しようとしているポーランドに住むのはとても面白いことだ、と区長さんであるご主人。


湖のほとりの散歩道。

「現状よりももっといいやり方があるのがわかるんだ。オーストラリアを経験したから。多分ずっとポーランドに住んでいた人には見えにくいことだと
思う」
61歳の彼は、朝7時半から夜7時半とか8時まで働くそうです。周りの60歳はほとんどが定年退職しているそうで、「なんでそんなに
働くのか?」と不思議な顔をされるそうですが、「今が一番自分の人生で面白くてやりがいがある」との事。


泳いでいる人がいた湖。

泊まらせていただいたお家は、細長い庭の手前にセミデタッチトの家、というプチェムクフ村の義姉の家と同じような作りの家に住んでいますが、お庭はずっと広くて、全部で15アール、1500平米。
周りの家もにたような作りなので、長いお庭の後ろの方に行くと、公園にいるような感じです。
ボロボロの家を買ってあちこち改築したというお家は、壁が少なくてとても開放的で気持ちがいい。


夫よりやや年上ですが、ほぼ同年代のご夫妻、お孫さんと娘が同年代です(笑)

奥さんは、実はシドニーにずっと残りたかったそうです。長いおつきあいのお友達はみんなシドニーにいるから・・・。

義姉の家のあるプチェムクフ村やグオグフの郊外で、いかに娘がお隣さんたちと気軽に行き来させてもらえているか、という話をしたら、
「ここは違うのよね〜。庭のフェンス越しに年中おしゃべりしたり、庭の野菜をあげたり、もらったりしても、うちに来て、と言ってもほとんど誰もこないのよ。どうやら長年オーストラリアに暮らしていて、ちょっと違う人って思われているみたい。まあ、いいんだけどね」

ご主人は隣の区で区長さんをして、選挙運動の時には、おうち一つ一つを訪問したそうです。80歳以上の人のお誕生日には
そのお家を訪問して、お祝いを述べるらしい。でも「自分が仕事をしている区には住みたくない」そうで(笑)。

久々に夫が連絡したら「絶対泊まりに来て!」と、ワルシャワにいるお孫さんのお誕生日のお祝いに行くのをキャンセルまで
して歓待してくれたご夫婦です。ご主人は、夫の母を「ママ」と呼ぶほどシドニーでは緊密なおつきあいだったからなのかな、と
思いつつ、もしかしたらシドニー時代を共有出来る人に会いたかったのかな、とも思ったりして。

10年近く英語を使っていないから、と時々夫が通訳になりながら、でも率直にいろんなおしゃべりができたのはとても嬉しく、
なんだかありがたいな、と思います。

さて、次は中世の都市、トルンに向かいます。