アラカン新米ママの東京ぐうたら日記

45歳でできちゃった婚、46歳でいきなりシドニー移住&出産、東京に戻り、右往左往のままはや娘は10歳を過ぎ・・・。

ドイツとの国境に近いデブノで区長さん(?)宅に泊まる。

2016-08-04 07:26:07 | 日記

湖のほとりで。

どうにか車の整備も終わり、1日遅れでプチェムクフ村から車で4時間弱、東北に上がった、ドイツ国境に近い湖の多いエリアにあるデブノに到着しました。
デブノでは、1989年に夫がシドニーについてすぐにお世話になったご夫婦を訪ねました。


ドイツとポーランドの国境になる川

夫は1989年にシドニーにすでに住んでいた自分の姉のところに遊びに行ったのですが、そのまま住みついて移民してしまいました(笑)。
最初は数ヶ月滞在しようと思ってビザを取ったそうですが、お金がないので、ついてすぐにアルバイトしたかった。
姉の知り合いで、当時工務店をやっていたこのご夫婦のご主人が「じゃ、手伝って」とすぐに仕事をくれたそうで、以来シドニーの大学院に
入るまで、約1年半雇ってもらったそうです。


この国境では第2次世界大戦にドイツと激しい戦いがあった、とのこと。

9年ほど前に、シドニーからご主人の生まれ故郷のデブノに戻り、なんと6年前にデブノの隣のグミナ(区みたいなもの?)の自治長であるブイトに立候補し、当選、
2期目の当選を果たし、就任6年目だそうです。ポーランドには16の県があり、その県の下にポヴィアット(郡)が373あり、その郡の下にグミナと
呼ばれる自治体組織が2489あるそうです。日本でいうと県、市、の下にある、区とか町、みたいなものでしょうか?


デブノの湖の「ビーチ」。お天気が良ければ泳げたのに・・・

実は私はこのグミノの長、ブイトをやっているご主人に会うのが楽しみでした。
というのも、いくつかの小さい町を見て、とても綺麗に復元、改築されて観光客の私が歩いても気分のいいところ、まだまだ荒れ果てていて、観光客の私が悲しくなるところ(?)、綺麗に復元されたり改築されているけれど、銀行ばっかりあるところがあり、それぞれ「ああ、あそこのグミナ(「区」だと私が思っている)はいいブイト(「区長」と私が理解している)がいるからね」とか「ああ、あそこのブイトはロクでもないから」と義姉や義兄達が言うのを聞いていたからです。


湖のほとりの公園。

ブイトの影響力が強いと感じたので、現役ブイトのお話を聞いてみたかったのです。
シドニーに住んでいたご夫妻だから、英語でお話が聞ける、つまり夫の通訳を介さないで直接お話ができる、というのも楽しみでした。


隣の町の湖。

ワインやナレフカという果物酒(アルコール度95%のスピリタスに漬け込んである!)を飲みながら、夫と奥さんは昔話に花を咲かせ、私はご主人に「どうしてブイトに立候補したのか」、「何が大変だったのか、今は何をしているのか」などといろんなお話を聞きました。
残念ながら次の日、二日酔いの頭で覚えているのは少ないのですが(笑)、ひとつ「だからか〜!」と納得できることがありました。


デブノの屋台マーケット、半分以上閉まっちゃっています。

ブイト、まあ、区長さんは、土地の建築許可権を独占しているそうです。つまりその区で何かを建てたいと思ったら、区長さんだけの許可を貰えばいい。
つまりそこで区長さんが賄賂を受け取る人ならば、賄賂をたくさん送れば、好きなものが建てられるわけです。
なのでブイトは、やろうと思えばいくらでも私服を肥やすことができる・・・。


野菜の屋台が空いていました。

第2次世界大戦でかなり破壊され、さらにそのあとの共産主義統治下で伝統的な様式の建築がないがしろにされたポーランド(おそらく東欧の多くの国もそうでしょう)には、まだ復興、復元の余地がたくさんあります。それぞれの町には、教会などを中心にした広場があり、やり方によってはとても素敵な広場になるのです。
少なくとも観光客の私にとって、歩いていて楽しい広場とつまらない、あるいは悲しくなる広場があります(笑)。


ひまわりの種がひまわりの形のまま売られています。

共産主義統治下のポーランドを経験し、それが嫌で政治的難民としてドイツに暮らし、そのあとオーストラリアに移民し、自由経済の下、自分でビジネスを始め、いろんな浮沈を経験した後、生まれ故郷に戻った自分にとって、今、いろんな意味で復興しようとしているポーランドに住むのはとても面白いことだ、と区長さんであるご主人。


湖のほとりの散歩道。

「現状よりももっといいやり方があるのがわかるんだ。オーストラリアを経験したから。多分ずっとポーランドに住んでいた人には見えにくいことだと
思う」
61歳の彼は、朝7時半から夜7時半とか8時まで働くそうです。周りの60歳はほとんどが定年退職しているそうで、「なんでそんなに
働くのか?」と不思議な顔をされるそうですが、「今が一番自分の人生で面白くてやりがいがある」との事。


泳いでいる人がいた湖。

泊まらせていただいたお家は、細長い庭の手前にセミデタッチトの家、というプチェムクフ村の義姉の家と同じような作りの家に住んでいますが、お庭はずっと広くて、全部で15アール、1500平米。
周りの家もにたような作りなので、長いお庭の後ろの方に行くと、公園にいるような感じです。
ボロボロの家を買ってあちこち改築したというお家は、壁が少なくてとても開放的で気持ちがいい。


夫よりやや年上ですが、ほぼ同年代のご夫妻、お孫さんと娘が同年代です(笑)

奥さんは、実はシドニーにずっと残りたかったそうです。長いおつきあいのお友達はみんなシドニーにいるから・・・。

義姉の家のあるプチェムクフ村やグオグフの郊外で、いかに娘がお隣さんたちと気軽に行き来させてもらえているか、という話をしたら、
「ここは違うのよね〜。庭のフェンス越しに年中おしゃべりしたり、庭の野菜をあげたり、もらったりしても、うちに来て、と言ってもほとんど誰もこないのよ。どうやら長年オーストラリアに暮らしていて、ちょっと違う人って思われているみたい。まあ、いいんだけどね」

ご主人は隣の区で区長さんをして、選挙運動の時には、おうち一つ一つを訪問したそうです。80歳以上の人のお誕生日には
そのお家を訪問して、お祝いを述べるらしい。でも「自分が仕事をしている区には住みたくない」そうで(笑)。

久々に夫が連絡したら「絶対泊まりに来て!」と、ワルシャワにいるお孫さんのお誕生日のお祝いに行くのをキャンセルまで
して歓待してくれたご夫婦です。ご主人は、夫の母を「ママ」と呼ぶほどシドニーでは緊密なおつきあいだったからなのかな、と
思いつつ、もしかしたらシドニー時代を共有出来る人に会いたかったのかな、とも思ったりして。

10年近く英語を使っていないから、と時々夫が通訳になりながら、でも率直にいろんなおしゃべりができたのはとても嬉しく、
なんだかありがたいな、と思います。

さて、次は中世の都市、トルンに向かいます。