あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

大人とは・・

2005-12-01 18:04:52 | 教育

 教育関連の投稿の最初で紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」(ロバート・ブライ著/「クイズ番組に見る学力の低下・・」参照)には、現代の状況を読み解くのに示唆的な言葉が多く見られて私自身かなり勉強になったので、その中からまたいくつかの言葉を紹介したいと思う。

 皆さんは、「ジャックと豆の木」の物語を覚えているでしょうか。著者によると、この物語は、「父親に制約されない”怠惰で、軽率で、羽目をはずしがちな”十代の息子を持つ母親の話」であるということで、「巨人とは、書斎で人を刺し殺し、子どもを食らう者だ。」として「子ども部屋のコンピューターやテレビ」「子どもを一人きりで巨人の元へやっている」ことに他ならないとしています。 「二十歳から三十歳までの半大人はこうしたファイル(ポルノ)から子どもを守ろうとはしない」(同書70頁)「ジャックとは、父親のいない、そして最近では母親もいなくなりつつある社会に住むすべての男女をあらわしているのである。」(51頁)と。

 「保護されない子どもージャック」
 
 「子どものいる子ども」

 そして、思春期の少女たちも、「多くは必要な保護を受けていない」として、彼女達が「家庭の中でさえも親に大切にされていないと感じている。」とする少女の研究家の言葉を紹介している。(64頁)

 「思春期の若者たちが運営する社会」「子どもたちを軽視し」「半分大人の状態を評価」する。そこでは、「親は退行してこどものよう」であり、「子どもは見捨てられてしまう、早く大人になることを強いられる」のでこの本の表題である「未熟なオトナと不遜なコドモ」たちが多く見受けられるようになったのであると。
  
 「子どもたちは、あまりにも早く物事を知るようになるので、”大人”になりすぎて年長者を大人とみなすことができない子どもがますます増えている。」という土居健郎の著作「甘えの構造」からの言葉も紹介されている。そして、「大人のような子どもと、子どもっぽい大人の共通要素は甘え」であると。

 女性たちもまた、肉体的にも感情的にも若く、さらには未熟であれと社会に命じられている。

 「教養を身につける苦労を怠る者」は「代わりにナルシシズムに浸り、幻想を上演している多目的劇場への切符を手に入れる」(77頁~79頁)

 「イニシェーションを体験していない女性たちのナルシシズムはきょうだい主義社会を直接あおり、男性の思春期の延長とも共謀している。」(159頁~160頁)

 「充分な心の準備ができる前に性欲を刺激されてしまう」「早すぎる思春期を迎え、永遠に思春期のまま留まる。」(182頁)

 きょうだい主義社会は、父親を家庭から奪い、がらくた文化を無批判に受け入れ、若すぎるうちから薄っぺらな性体験を促し、礼儀を奪い去り、経済的な不安定さをもたらすことで、娘達の魂に重大なインパクトを与えてきた。(164頁)

 その人の癒しは蓄積してきた歴史に基づいたものでなければならないだろう。
 
 思春期の若者は、「同世代のことしか気にしない!自分の欲望が大切だし、それで集団が生き延びられないというなら、そもそも生き延びる価値はないんだ。」(76頁)
と感じている。

 
1965年頃、何世紀にもわたって、有効だった家庭のしつけが突如崩壊した。

 裕福な者も貧しい者も、基本的には同じ家族の解体を経験しているのだ。(64頁)
 
→保護されない子ども ジャック の出現

 エルヴィス―年長者に導く対象として見られたことがない息子のよう(115頁)

 以上、かなりアトランダムに本の言葉を紹介してきましたが、最後に著者の考える大人についての定義の部分を紹介します。

 
大人とは、われわれがエディプスコンプレックス前の願望と呼んできた、快楽と慰めと興奮をすぐに手に入れたいという願望に支配されない人間
 
 世界は主に死者のものであり、われわれはほんのしばらく死者から世界を借りているにすぎないことを理解するのは大人の眼力である。
 
 子どもの扱い方に多大な時間と労力を注ぎ込んでいる。世界を継続させていくのは子どもたちだからだ。

 本当の大人とは、思春期の若者の激しさに対抗するための、自分の世代と創造性にふさわしい激しさを失わずにいられる者だ。こうした激しさを失わないだけでなく、さらに激しさを増す時、大人は長老となると言えるだろう。

 世界へ出ていき「他人のために感情の宝石を集める」者だ。(アンサール)

     
 大人は本当に大人になるとはどういうことかを判断しなければならない。
 若者を大人の世界へ引っ張り入れることを求められている。大人が振り向いてこのラインまで歩いて行き、思春期の若者を引っ張り込まねなければ・・・・。(321頁~322頁)

 今日も、「思春期気分の大人」による「子どもたちへのひどい仕打ち」
と見られる犯罪のニュースが絶えません。でもそれらは、突然変異的に現われたものではなく、私たちが住んでいるこの社会と文化が生み出しているものなのだという意識を忘れてはならないと思います。そのことを考える時、著者が「がらくた文化」の「巨人」と呼ぶテレビやコンピューターあるいはゲームやアニメなどが子どもたちに与えている毒の部分に大人たちが無関心でいることの危険性を私たちがもっと自覚することの重要さを感じます。
 これに関連して、前の投稿(「テレビの中の出来の悪い役割モデル」)でも触れた”さんま”が前にテレビで「”古典”なんか生きていくのに必要ないから勉強する必要がない。」という(高校の古文の先生が聞いたら嘆くだろう)意味のことを発言していたのを覚えています。私もテレビの前で「それは違うよ」と呟いていましたが、皆さんはどう思われますか。どなたかが言っていましたが、「イギリス人はたとえその全文を読んでいなくても、少なくともシェークスピアの戯曲についての知識は持っていて如かるべきであると。」だから日本人にも身に付けるべき必須の教養はあるはずで、さんまの言うように生きていくだけなら、(金もうけをするだけなら)古文の知識など必要ではないかもしれないが、例えば、平家物語の前文の知識があるかどうか、芭蕉の俳句をいくつか知っているかどうかで、それらを全く知らない人とは人生観や哲学において全く違ってきてしまうと思うことを考えると、さんまの言っている事の誤りは簡単にわかることだろうと思う。そして、そういう発言こそは”きょうだい主義社会”の流している毒に無自覚な発言であるし、私たち自身がその中にどっぷり浸って育ってきた存在であるという自覚の元に、この社会を見直していく必要が、子どもたちのために必要だと思う。