湯川博士「目に見えないもの」の最終章の「思想の結晶」で、
彼も昔の自分が書いた文章に対して、こんなことを云っている。
「・・時間の隔たりを感じる、
今の自分の中に生きている思想をもっと忠実に表現したいという強い欲求を感じる、
そしてそれを表現して、外部に現われる頃は
内部の思想はさらに違った方向に進んでしまっているのが常で、
けれど、これは思想の進歩や成長がやまぬ限り、のがれ難い運命・・・
書くことがさらに前進するのに都合よい基地になる。・・・」以上。
・・・こういうことって、表現するということの醍醐味かと思う。
自分の中に在るものを言語化しようとすることによって、
思いもかけないものが出て来ることがある。
言葉にせず、思っているだけではそれがならない。
話すことも表現だ。
話しているうちに自分から出てきた言葉にはっとすることもある。
こんなのが出て来た!って。そしてそれが止まっていない。
変わってくる。
心は実行者である自分のものじゃない・・としか思えない。
書くこと、表現に何故こういう力があるんだろう?
・・・今朝ここまで書いて、用があって出かけ、
さっき帰って来て、パソコンに向かって続きを書いている。
いや、実は出先で待ち時間があったのでそれの続きを考えようと思ったけど、
全然進まない。やっぱり紙とペンがないと考えられないんだ、私は。
考えることって自分との対話だから。
何故表現することで実行者の知らない思考が出てくるのか?
それ以前の持ったことがある思考がバラバラに点在していて、
考えるというのを筋道立ててやっていると、
そのバラバラの中から関連あることが一つに纏まって来る作用なんだろうか・・・
書くというのはそのバラバラの中から選んでいるということだ。
そしてそのバラバラを構成しなおすという作業であるのかもしれない。
過去にわかったことしか、今わかってないと書いたことがある。
そして(わからない)から(わかった)に変わった瞬間を経て、
その(わかった)が私の意識の中に点在していくわけで、
普段はそれが在ることを忘れているけど、
コレはどういうことなんだろう?というような考えるという作業をしていると、
非局所的に在った思考のアレコレがピュッと一つに固まって、
新しい考え(自分にとって)に結晶する。
湯川博士も「思想の結晶」という言葉を使っていたな、と今思った。
・・とまぁ、今日はそんなことを考えた。
彼も昔の自分が書いた文章に対して、こんなことを云っている。
「・・時間の隔たりを感じる、
今の自分の中に生きている思想をもっと忠実に表現したいという強い欲求を感じる、
そしてそれを表現して、外部に現われる頃は
内部の思想はさらに違った方向に進んでしまっているのが常で、
けれど、これは思想の進歩や成長がやまぬ限り、のがれ難い運命・・・
書くことがさらに前進するのに都合よい基地になる。・・・」以上。
・・・こういうことって、表現するということの醍醐味かと思う。
自分の中に在るものを言語化しようとすることによって、
思いもかけないものが出て来ることがある。
言葉にせず、思っているだけではそれがならない。
話すことも表現だ。
話しているうちに自分から出てきた言葉にはっとすることもある。
こんなのが出て来た!って。そしてそれが止まっていない。
変わってくる。
心は実行者である自分のものじゃない・・としか思えない。
書くこと、表現に何故こういう力があるんだろう?
・・・今朝ここまで書いて、用があって出かけ、
さっき帰って来て、パソコンに向かって続きを書いている。
いや、実は出先で待ち時間があったのでそれの続きを考えようと思ったけど、
全然進まない。やっぱり紙とペンがないと考えられないんだ、私は。
考えることって自分との対話だから。
何故表現することで実行者の知らない思考が出てくるのか?
それ以前の持ったことがある思考がバラバラに点在していて、
考えるというのを筋道立ててやっていると、
そのバラバラの中から関連あることが一つに纏まって来る作用なんだろうか・・・
書くというのはそのバラバラの中から選んでいるということだ。
そしてそのバラバラを構成しなおすという作業であるのかもしれない。
過去にわかったことしか、今わかってないと書いたことがある。
そして(わからない)から(わかった)に変わった瞬間を経て、
その(わかった)が私の意識の中に点在していくわけで、
普段はそれが在ることを忘れているけど、
コレはどういうことなんだろう?というような考えるという作業をしていると、
非局所的に在った思考のアレコレがピュッと一つに固まって、
新しい考え(自分にとって)に結晶する。
湯川博士も「思想の結晶」という言葉を使っていたな、と今思った。
・・とまぁ、今日はそんなことを考えた。