あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

幸福なひととき

2024-06-22 12:13:00 | 日記
 最近、しばしばウグイスのきれいなさえずりを耳にするようになりました。
ケキョからホーホケキョへと一段と美しく響くさえずりを通して、ウグイスの成長を感じます。
セロ弾きのゴーシュのように、さえずりの練習を積み重ねてきた成果なのかもしれません。
 ときおり、トッキョキョカキョクとさえずるホトトギスの声も耳にします。さえずりを通して、
季節の移り変わりを、小鳥たちは教えてくれているようです。

 先日、家の玄関わきの壁面に、アゲハ蝶のサナギを見つけました。近くに置いてある鉢植えの
柚子や金柑、レモンの葉に住みついた幼虫の一つが、サナギになる時期を見計らって移動したよ
うです。サナギからアゲハ蝶に羽化する瞬間を観察できるかもしれないと期待を込めて見守って
いたのですが…。サナギが緑色から深緑色へと変化する様子に気づいたその翌日には、すでに飛
び立った後でした。残念ではありましたが、庭や鉢植えの植物の周りを優雅に飛ぶアゲハ蝶を見
つけては、あれが巣立って行ったアゲハなのではないかと、勝手に想像しています。
 もしかすると、自分が生まれ育った鉢植えの葉に、卵を産み付けてくれるかもしれません。
 ただ心配なのは、今でもたくさんの幼虫たちが住みついているものの、残された葉が限られて
いる点です。日々、葉の数が少なくなっているのを見ては、幼虫たちが無事育ってくれるかどう
か気がかりでなりません。柑橘類の鉢植えをさらに増やそうかと考えているところです。

(サナギになる前の幼虫)

(サナギになった幼虫)

(羽化を前にしたサナギ)

(抜け殻となったサナギ
)

 畑ではモンシロチョウが、キャベツの上をにぎやかに飛び交っています。幼虫のアオムシが食
欲旺盛なおかげで、実を結ぼうとする葉が次から次へと食べられています。
 丸くなった実はわずかですが、畑を元気に舞うモンシロチョウの姿を見ているとうれしくなっ
てしまいます。虫たちの命をつなぐ役割を、育てた野菜たちが果たしてくれているのですから。
 畑仕事の合間に、さわやかな風が通り抜けていきます。生きていることの心地よさを汗をかい
た肌に感じる一瞬です。モンシロチョウが舞う畑をながめながら、このひとときが何よりの幸福
な時間なのだと感じています。

再会の喜び

2024-06-12 20:36:37 | 日記
 小休止が3カ月の長休止となってしまいましたが、元気にやっておりますのでご安心ください。

 作日は、久しぶりに仙台に出かけ、かっての同志たちに再会し、新たな元気をいただいてきました。
「仙台いのちの電話」の相談員として共に活動していた頃のなつかしい皆さんとの再会でした。
 2011年の震災の時に相談員を志し、私は途中で活動を退いたのですが、皆さんは現在も相談員として13年目の活動
を継続中とのことでした。時を重ねても、相談者の方のさまざまな心の悩みや痛みによりそう真摯な取り組みを続け
ておられることに頭が下がる思いがしました。同時に、変わることなく初期の志を貫いている姿に、新たな元気をい
ただいたような気がします。
 活動の場が異なっていても、今取り組んでいる学びを求める人の支援活動に、より一層力強く取り組んで行こうと
いう励ましを受けた感じがしているところです。

 四月二十七日に旅立たれた星野富弘さんの言葉が、心に浮かんできます。

  支えられているから
  立っていられる
  支えられているから
  崖に身体を乗り出せる 
  支えられているから 見えない明日に
  夢をみられる
  綱渡りのような私の人生
  あなたに支えられて生きている 

支えられているからこそ、今があり 明日の夢がみられる。
その支えられている世界のどこかで 自らも支える一助として関わっていきたい。
支えられていることに感謝しながら 自分のできることで 少しは支える力となっていきたいもの。

再会は喜びと同時に、これからの新たなエネルギー源となったようです。
来年の再会まで、どんな足跡を刻むことができるか、頑張っていこうと思います。



短歌を読んで思うこと

2024-03-09 11:12:14 | 日記
 先日の河北新報に、第28回若山牧水賞に永田紅(こう)さんの歌集「いま二センチ」が選ばれたという記事が
掲載されていました。
 歌集のタイトルにもなった「いま二センチ」の歌は、永田さんが妊娠後のエコー診断で胎児の大きさを告げ
られた際、このくらいの大きさかと指を広げて感じたことを詠んだそうです。

 親指と人差し指のあいだにて『いま二センチ』の空気を挟む

 挟まれたわずか二センチの空気の中に、我が子の命が息づいているような感じがし、その生まれてくる命に
対する作者の愛しい思いが、広げた指先を通してほのぼのと伝わってくるような印象があります。
 授賞式には、その二センチのお子さんが65倍くらいに成長した姿で同伴したとのこと。両親の愛情に包まれて
健やかに成長したお子さんの姿が目に見えるようです。

 子の誕生を誰よりも喜んだはずの親が、我が子の命を奪うという悲しい出来事を目にするたび、言葉にならない
怒りと悲しみを感じます。親が、なぜその命を奪ってしまい、その子がこれから描いていくであろう未来まで奪って
しまったのかと。
 ガザでは、食料や医薬品が不足し度重なる空襲などで、たくさんの乳幼児が亡くなっているとのこと。
こんな理不尽が許されていいのでしょうか。休戦と平和は、戦っている当事者である大人の考え方を変えることで
決断できるはずです。これ以上、大人の勝手な都合で子どもたちの命と未来を奪ってはならないのだと思います。
 今という時間にも、子どもたちの命の灯が消えてしまうことが残念でたまりません。
 即座の休戦と食料や医薬品が速やかにガザに届けられ、子どもたちの尊い命が救われることを心から祈ります。

久し振りの積雪

2024-02-23 10:52:24 | 日記
 昨日は、久し振りの積雪で、季節はまた冬にもどったかのようです。
 前日から朝方まで降り続き、15cmほどの深さの雪です。
 今年最後の名残り雪かもしれないと思い、雪化粧の景色にしばし見とれていました。

 さてと気持ちを切り替え、久し振りの雪かきに取り組みました。
 さらさら雪ではなく水っぽい雪でしたので、シャベルに乗った雪はなかなか重く、作業を終えるまでには
 たっぷりと汗をかきました。
 今冬、三度目の雪かきとなりましたが、これが最後の作業となるのかもしれません。
 三寒四温の言葉通りに、暖かい日と寒い日が交互に続いて、やがては春本番を迎えることになりそうです。
 
 午後に太陽が顔を出し、枝々に積もった雪が輝いていました。
 少しずつ雪解けも始まったようです。
 そのきらめきに誘われ、カメラを持ち出し、庭木の様子を写真に撮りました。

 ロウバイの愛らしい黄色のつぼみ、

 モクレンのふくよかな花芽、

 若々しい梅の花芽、

 おだやかな気品を漂わせて咲く琵琶の花、

 屋内では鉢植えのレモンの花があまい香りをふりまいています。


 カメラのレンズ越しに 命あるものの息吹が感じられ、その生命力が心の中までしみ通ってくるような
 感動を覚えました。

 雪が降っても、やはり春はそこまでやって来ているのですね。

自分を見捨てない のび汰

2024-02-21 11:32:12 | 日記
昨日の『天声人語』には、深い共感を覚えました。
ドラえもんの物語の中では、のび汰は何をやっても失敗を重ね、そばにいるドラえもんがいつも
ハラハラ心配する存在です。
そののび汰を、天声人語では
「でもあんなに何度もつまずきながら、決して人生をあきらめないのが、のび汰のいいところだ。
 年に数回は(今の自分より少しはましになりたい)と一念発起し、宿題をやろうと机に向かって
 ママを驚かす。考えてみれば、芯は強いのかもしれない」
と、認めています。
 決して長続きはしないものの、いざとなったら困難に立ち向かうことのできるのび汰なのかも
しれないと、私も共感を覚えました。
 さらに共感を覚えたのは、くるくる回る床屋の看板を人に例えて語る作者の藤子・F・不二雄
さんの言葉でした。
「上へ上へと夢を追いながら、じつは同じ場所にいる。しまいにはその『上昇の夢』さえ忘れて
 しまう。そうじゃなくて挫折しても明るく夢を見続ける『自分を見捨てない人』に共感してほ
 しい」
 天声人語の筆者は、これはきっとのび汰のことだろうと指摘しています。
 私も同感です。のび汰だったら、同じ場所に留まりながらも決してあきらめることなく夢を見続け、
何度でもそれに向かって挑戦し続けるだろうと…。そして、ドラえもん自身が、夢そのものの象徴な
のではないかと…。
 天声人語では、それに続けて、卒業シーズンを迎えた高校生に目を向け、希望の道へ進む人・涙を
のんだ人、それぞれが新たな人生の一歩を踏み出す時、大事なのは『自分を見捨てない』ことだと語
ります。そして結びにドラえもんの物語にもどり、のび汰が大事に育てたタンポポから飛び立っていく
綿毛の言葉を取り上げています。
 のび汰が『どこへ行くつもり?』とたずねると、綿毛は『わかんないけど…、だけどきっと、どこか
できれいな花をさかせるよ』。と答えます。
 旅立つ若者たちもそうあってほしいという願いを込めて最後には「旅立つ若者たちに幸あれ」のメッ
セージが添えられていました。
 たとえ夢が叶わなくても、のび汰のように夢を見続けるハートだけは持ち続けてほしい。挫折するこ
とがあっても決して『自分を見捨てない人』であってほしい。
 私はもう若者ではありませんが、私自身も何歳になっても、そんなハートの持ち主でありたいものだ
と強く感じました。