あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

ブラザーサン シスタームーン の映画を観て

2020-04-16 12:55:45 | 日記
満開だった桜の花びらが 風に舞うようになりました。
地面にたどりつくまでの旅を楽しむかのように、無数の花びらが風の勢いに乗って目の前を通り過ぎていきます。
ひとつの終わりは、新たな始まりでもあります。
五月になれば、桜は新緑で包まれた葉桜となって、目を楽しませてくれることでしょう。
こうして少しずつ季節は春から夏へと移り変わっていくのでしょう。

最近、思い出す映画音楽があり、その映画を観ました。
「ブラザーサン シスタームーン」という映画で、ご覧になった方もたくさんおられることでしょう。
日本で公開されたのが1973年、私が学生時代に観た映画でした。
聖フランチェスコの生き方を描いた作品です。
宗教的題材でありながら、生きることの意味や幸せの在り方について深く考えさせる作品でもありました。

裕福な家庭に生まれ、十字軍の兵士として戦いに加わり、その悲惨な体験の中で心も体も傷ついて帰還したフランチェスコ。
ある朝、小鳥の声に目を覚まし、その小鳥を追って屋根に出て、新たな世界に気づきます。
小鳥が自由に空を飛び、美しい自然が目の前に広がっている世界のすばらしさに。
その中で、富める者が富に縛られ、貧しき者が病に苦しむ世界があることに。
彼は、自分を縛るすべてを捨て、貧しき者によりそいながら、本当の心のよりどころとなる教会をつくろうと決心します。
幼い頃からの友人も加わり、やがて教会が再建され、貧しい人たちが集うようになります。
しかし、そうやってつくりあげた教会が焼かれ、それを守ろうとした信者が死んでしまいます。
なぜ 人と人とが争わなければならないのか、彼は自らに問い、その答えをローマ教皇に求めようとします。
教皇との謁見を通して、彼は自分の思いを伝え、答えを見出します。
教皇もまた、彼の言葉を通して教皇という権威と飾りに縛られた自分を悟り、傷ついた彼の素足に口づけします。

映画の中で特に印象的だったのが、ドノヴァンのつくった主題歌でした。
訳詩は桑原一郎さんです。

Brother Sun and Sister Moon,             ブラザーサン シスタームーン
I seldom see you, seldom hear your tune        その声はめったに私には届かない
Preoccupied with selfish misery.            自分の悩みだけに心を奪われて

Brother Wind and Sister Air,              兄である風よ 姉である空の精よ
Open my eyes to visions pure and fair.         私の目を開いておくれ 清く正しい心の目を       
That I may see the glory around me.          私を包む栄光が 目にうつるように

I am God`s creature, of him I am a part         神に与えられた命 私にも宿る
I feel his love awaking in my heart           その愛がいま この胸によみがえる

Brother Sun and Sister Moon             ブラザーサン シスタームーン          
I now do see you, I can hear your tune         今こそその姿にふれ その声を耳に
So much in love with all that I survey          そして胸を打つ あふれるこの愛



春の訪れに

2020-04-14 11:06:23 | 日記




カタクリの群落の中に、真っ白な花を見つけました。
一つではなく、二つが仲良くよりそうように咲いている姿に、思わず微笑んでしまいました。
新型コロナウィルスの感染拡大が心配される状況の中にあっても、花はいつものように毅然として美しく
可憐な装いで、春の訪れを告げています。
晴れない思いも、草花と向き合うことで和みます。
空の青さも、変わりなく澄んだままです。
いつもと変わらず いつもと同じように季節を告げる 自然に
閉じられた心を 全開にして開き ゆだねていくことで 少しは楽になれるのかもしれません。

金子みすゞさんの詩 その3

2020-04-12 15:35:25 | 日記
     私と小鳥と鈴と

   私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが、
   飛べる小鳥は私のように、
   地面(じべた)を速くは走れない。

   私がからだをゆすっても、
   きれいな声は出ないけれど、
   あの鳴る鈴は私のように、
   たくさんな唄は知らないよ。

   鈴と、小鳥と、それから私。
   みんなちがって、みんないい。

 この詩は、金子みすずさんの代表作として、多くの人が目にし読んだことのある詩なの
ではないでしょうか。
 末尾の「みんなちがって、みんないい」の言葉の内に、矢崎さんの語る『みすずコスモス』
のあたたかなまなざしを感じます。
 一連では 小鳥と私とのちがい、二連では 鈴と私とのちがいを、それぞれの持っている
長所に目を向けて表現し、三連での「みんなちがって、みんないい」という言葉に集約して
まとめています。
 三連を導き出すための例として、なぜ小鳥と鈴を取り上げたのでしょうか。私は、そこに
『みすずコスモス』のまなざしにふれる手がかりがあるように感じました。
 小鳥は命あるもの、鈴は命を持たない物です。でも、そういった区別には意味はなく、みすゞ
さんには「空を飛ぶ小鳥」や「きれいな音色を出せる鈴」に、自分にはないものを持ったかけが
えのない存在なのだというと受け止めがあったのではないでしょうか。そういった形で、周りの
すべてを受け入れ、それぞれの存在の意味や尊さを包み込むようなまなざしが、みすずコスモス
なのではないかと感じました。
 長所に目を向けることで、あらためてその存在の意味や尊さを見出すことができる。
だからこそ 小鳥は小鳥のままで、鈴は鈴のままで、自分は自分のままで、すべてのものがかけ
がえのない存在として、そこに在り続けているのでは…。そういう世界観がまなざしの内に感じ
られるような気がしています。

 矢崎さんは、この詩のタイトルは「私とあなた(小鳥や鈴)」ですが、そこから始まって、それ
ぞれの素晴らしさに気付いて、最後にまなざしがひっくり返ると語っています。
 三連で、タイトルの言葉の順序が変わり、「鈴と、小鳥と、それから私」、「私とあなた」が
転じて「あなたと私」の順となっていることにふれ、私のことよりもあなたのことを大切に考えるとこ
ろに、みすずさんのまなざしがあると指摘しています。だからこそ「みんなちがって、みんないい」を
自然な形で受け止めることができるのだと。
 さらに矢崎さんは、
 この詩にはできないことと知らないことしか書かれていなくて、それでも「みんなちがって、みんな
いい」とうたうのです。今の社会は「できること」「知っていること」が求められますが、できないこ
とがあってもいい、知らないことがあってもいいのです。なぜなら、あなたには「あなたにしかできな
いこと」があるからです。
と、語っています。

 矢崎さんの指摘のように、私のことを後回しに表現する中に、みすゞさんのまなざしを感じ取ることが
できます。また、自分にできないことや知らないことを否定的にとらえるのではなく、自分にしかできな
いことに目を向けていくことの大切さについても、強い共感を覚えます。
 表現された言葉の順序性や社会的な視点からの指摘に、みすゞさんの世界を誰よりも広く理解し、その
まなざしを深く受け止めている 矢崎さんの熱いまなざしを感じます。 

 みすゞさんの詩を通してみすゞさんのまなざしを感じるのと同じように、詩の向こうには詩人の数だけ
たくさんのまなざしがあり、またそれ以上にたくさんの読者のまなざしがあるのだと思います。そのまな
ざしを通して見えてくる世界に、限りはないのだと思います。できることなら、そのまなざしにふれるこ
とで、少しでも自分の心のコスモス(宇宙)を広げていくことができたらいいなあと感じています。
 
 

金子みすゞさんの詩 その2

2020-04-10 18:07:12 | 日記
      大漁
          金子 みすゞ

  朝焼小焼(あさやけこやけ)だ
  大漁だ
  大羽鰮(おおばいわし)の
  大漁だ。

  浜はまつりの
  ようだけど
  海のなかでは
  何万の
  鰮(いわし)のとむらい
  するだろう。

 金子みすゞ記念館館長の矢崎節夫さん(童謡詩人)は、「この一編で『みすゞコスモス』が
分かります」と語ります。
 矢崎さんは、この詩を通して受けた衝撃(感動)を二点指摘しています。
 一つは、鰮は自分に食べられて当たり前と思っていたが、それが完全に「鰯と私」のまなざし
にひっくり返され、鰮の命は、自分が生きるための命に変わってくれたと、心から感謝できたの
だということ。
 二つ目は、生と死、光と影、喜びと悲しみ、目に見えるものと目に見えないものというように、
この世の中は全て『二つで一つ』ということ。
 これらの点を踏まえ、これまでの「自分中心」「人間中心」のまなざしを変えていく上でも、
みすゞさんの詩を通して、みすゞさんのさしだすまなざしに込められたあたたかさや心の宇宙に
ふれることの大切さを語りかけているように感じました。
 この詩を読んで私が感じたことは、鰮を捕り、大漁を祝う人間の暮らしの営みがあると同様に
鰮にも海の中の鰯の暮らしがあり、生きていく世界があるのだということでした。この地球上で
命あるものとして共に生きているのだということ、だからこそその命をいただいて生きていく人
間としての悼む心と感謝を忘れてはいけないのだということを改めて感じることができました。
 宮沢賢治の童話「なめとこやまの熊」の中では、最後の場面の 亡くなった猟師の死を悼む熊
の姿が印象的でした。命を捕るものと捕られるものとの関係でありながら、その関係を超えてお
互いの命に対する敬虔な思いが共有されていたからなのかもしれないと強く感じました。
 この世の中では全て『二つで一つ』ということ。この矢崎さんの受け止め方は、先に紹介しまし
た谷川俊太郎さんの詩「一心」にも通じるもののように感じました。
 しかし、みすずさんのまなざしは、それには収まり切れないものまで、見つめているようにも感
じられます。「つもった雪」というみすゞさんの詩を読んだときに感じた思いです。

     つもった雪

  上の雪
  さむかろな。
  つめたい月がさしていて。
  
  下の雪
  重かろな。
  何百人ものせていて。

  中の雪
  さみしかろな。
  空も地面も見えないで。

 上の雪の寒さと下の雪の重さまで感じ取りながら、さらに中の雪のさみしさまで感じ取ることの
できるまなざし。みすゞコスモスには、すべてのものを包み込むような広さと深さがあるようにも
感じます。

 次回は、矢崎さんが取り上げた三つ目の詩「私と小鳥と鈴と」を紹介したいと思います。