4月12日(日)
「ペストって本、あなた、読んだことあって? お友達がね、今ベストセラーになっていてね、本屋ではもう買えないのだそうよ」と家内に聞かれた。「ねーよ」とぶすっと答えた。(会話は脚色しています)
しかしすぐに見当はついた。昨日、これはオモロイと録画予約した番組のアレだ。へーあの小説、やはり評判になっているのだ。と急いで、昨日の録画を見てみた。
うむ・・ 驚いた。
▲ 100分de名著 カミュ「ペスト」 4月11日(土)E テレ 午後3:00~4:36
あらすじは
舞台は、突如ペストの猛威にさらされた北アフリカの港湾都市オラン市。猖獗を極めるペストの蔓延で、次々と罪なき人々が命を失っていく。その一方でオラン市は感染拡大阻止のため外界から完全に遮断。医師リウーは、友人のタルーらとともにこの極限状況に立ち向かっていくが、あらゆる試みは挫折しペストの災禍は拡大の一途をたどる。後手に回り続ける行政の対応、厳しい状況から目をそらし現実逃避を続ける人々、増え続ける死者……。圧倒的な絶望状況の中、それでも人間の尊厳をかけて連帯し、それぞれの決意をもって闘い続ける人々。いったい彼らを支えたものとは何だったのか?
フランスの作家アルベール・カミュ(1913-1960)は、「異邦人」(1942)で有名だ。「不条理」の哲学を打ち出し系譜的には実存主義に連なる。第二次世界大戦中は自らのレジスタン活動を通じて培った思想を通して戦争や全体主義、大災害といった極限状態に、人間はどう向き合い、どう生きていくべきかを戦後に問うた代表作が「ペスト」(1947)だ。疫病ペスト自体は全くのフィクション、むしろ隠喩だ。
「不条理」とは、原義的には、abusurde(英)つじつまが合わずバカバカしいことを指す。カミュは、「意味を持たないこの世界で、それでも意味を探す」人間のありようが「不条理」そのものと考える。
実際、世の中自体が不条理だ。昨年、翌年のオリンピックの饗宴に夢を馳せて、新令和に新たな時代を期待し、さあ令和2年、これから災害復興、いよいよ日本も前に進むだろう胸を膨らませていたら・・それが。それがコロナが突然襲い、知らないうちに今や、日本は地獄絵図になるかどうかの崖っぷちに立ってしまった。いや崖っぷちから落ちてしまった。
個人生活でも、突然の結婚式のキャンセル、学校閉鎖、飲食店閉鎖・・な、なんでこんなSF映画みたいなことになるのだろう。しかもこのボクに、ワタシの上に。不条理な世界が現出しはじめてきたのだ。まだ「ある朝起きてみたら巨大な毒虫になっていた」(カフカ・変身)ほどの不条理ではないが(泣笑)。
不条理なコロナ禍に遭って、自分は何ができるのか、すべきなのか、参考になるのかどうかわからないが。急いで、簡単に要約してみた。
語り手でもある医師リウーは、
▲ まず、現実がペスト(コロナ)であることを直視し、何ができるかを考え、果てしない敗北にも抗っていく姿。これは現在の世界の医療団の基本姿勢だろう。
▲ 背景不明の旅行者タルーは、志願して患者の治療を助ける保険隊を組織する。これは使命感を持って自分の仕事を果たそうとする、看護団、ライフライン維持の方に相当するだろう。
多くのオラン市の市民は、世界から”追放”された(隔離された)状態の中で、初めは絶望するが、その絶望にも”慣れる”と現在を享楽しようとする・・「現在の囚人」
しかし、カミュは極限の禍の中で様々な人間模様を描きながら、人間の「連帯」に光を見ようとする。(英国で夜8時に窓から医療従事者向けに拍手を送るのもカミュの連帯だろう)
不条理への「反抗」をすることで「連帯」が生まれる。そして
我(われ)反抗す。ゆえに我等(われら)有り。の結論に達する。
カミュの「ペスト」は、他のパンデミック物語と違って極めて哲学的な思想を展開しようとしている。しかし、そこに描かれる人間模様は今のコロナ禍ともパラレルなシーンが多い。おそらく、戦争、災害、疫病といった不条理に降りかかる災厄に対して人間がとるところの怖れ・悲嘆・絶望そして望むらくは希望へのパターンには普遍性があるのだろう。そして、かっこよく言えば、多くの人が各自の「生きる意味」をその後に考えることも。
「ペスト」は小説では1年後に終息する。次の文章でしめくくられて。
「ペストは死ぬことも消滅することもしない。恐らくいつの日かまた、人間に不幸と教えをもたらすために、ペストはネズミたちを目ざめさせ、どこか幸福の町に送りこまれるであろう。」
◎ 100分de名著 カミュ「ペスト」 は、まだNHKプラスで見れます。本を読みたくないかたは、急いでどうぞ。