Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ダマスクローズ 87

2020年07月20日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

      

ティムール朝( تیموریان‎、 Temuriylar、現在のウズベキスタン中央部に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつ。)中央アジアからイランにかけて支配したイスラム王朝1370―1507で出されたアヴィセンナの『医学典範』(Kitāb al-Qānūn fī al-ṭibb)の初版本の巻頭。

                                                   

13世紀後半のクレモナのジェラルド(ゲラルド Gerard of Cremona, Gherardo ca. 1114 - 1187, イタリアの学者)が翻訳した医学論文集 ( Recueil des traités de médecine )

Recueil des traités de médecine de Al-Razi traducido por Gerardo de Cremona, segunda mitad del siglo XIII 

           

クレモナのジェラルド※の著書 医学専門書(Recueil des traites de medicine.1250-1260)の中に描かれたイラン人医師アル ラーズィー
                          

http://www.medarus.org/Medecins/MedecinsImages/MedecinsArabes/この23巻の医学教科書には、婦人科、産科、眼科手術の基礎が含まれています。徳のある人生(al-Hawiالحاوي)

 

この大規模な医学百科事典は9巻で構成されており、ヨーロッパでは「大規模包括的または大陸リーバー(جامعالكبير)」としても知られています。ギリシャの哲学者アリストテレスとプラトンに対する考察と批評が含まれ、多くの主題について革新的な見解を示しています。この本だけでも、多くの学者はアル ラーズィーを中世の最高の医者だと考えています。

 

※ クレモナのジェラルド(ゲラルド Gerard of Cremona, ゲラルドゥス クレモネンシス (Gerardus Cremonensis), ca. 1114 - 1187イタリアの学者)。 12世紀に多くのアラビア語の学術書をラテン語に翻訳しました。エウクレイデスの注釈書を書いたアル ファーラービーの著書をもとに De scientiis (科学について)を著し、さらにエウクレイデスの幾何学の書『原論』をはじめ、アル ファルガーニー (al-Farghānī) の天文学書をラテン語に訳しました。他にテオドシウスの『球面学』、アルキメデスの論文など幾何学・代数学・工学の分野の翻訳や、ガレノスやヒポクラテスなどの医学書があります。弟子たちが作った目録で知られているだけでもアラビア語による著作の翻訳は71種があり、中世初期を通じて「最も熱心で多作」な翻訳家です。

 

古典の文化がイスラム、ビザンツを経由してヨーロッパに伝えられ、大きな刺激を与えました。また哲学、美術、文学など様々な分野で新しい動きがみられました。

翻訳活動の中心地シチリア王国の首都パレルモのフリードリII 世の宮廷ではイスラム(アラビア語)やビザンツ(ギリシャ語)の文献がラテン語に翻訳されました。

 

カスティーリャ王国(スペイン)の都市トレドでは、レコンキスタの進展により1085年にカスティーリャ国王アルフォンソ6世がイスラム勢力から奪還。トレド大司教ライモンド(スペイン語)の支援によりトレド翻訳学派(スペイン語、英語)(Escuela de Traductores de Toledo)と呼ばれるグループが形成され翻訳に従事しました。

 

ユナニ医学の薬物学は、ギリシャ、ローマの薬物学を受け継いで発展し、インド医学の薬物も多く取り入れています。アラビアの薬物書、イヴン アルバイタール※(1188-1248)の本草書には、2,324の生薬が記載されています。ユナニ医学で使われる生薬の80%は植物由来で、その他に動物性・鉱物由来の生薬も含まれます。     

 

コルドバのカリフ(アラビア語:خلافةقرطبة; trans。KhilāfatQurṭuba)は、ウマイヤ朝によって統治された北アフリカの一部とともにイスラムイベリアの州でした。 コルドバは10世紀にアブド アッラフマーンⅢ世とハカムⅡ世の治世下で繁栄をとげ、大図書館が建てられて多くの学者が活躍しました。トレドと並んで西方イスラム文化の中心地として発展し、10世紀には世界最大の人口を持つ都市となります。この地域は、コルドバのウマイヤド首長国(756–929)によって支配され、貿易と文化の拡大によってアンダルス建築の傑作を見ることが出来ます。

          

                   イヴン バイタールの像

※ イヴン バイタール(Abu Muhammad Abdallah Ibn Ahmad Ibn al-Baitar Dhiya al-Din al-Malaqi also Ibn al-Baytar 1188 - 1248、アラブの科学者、植物学者、薬剤師、医師。)アンダルス地方(スペイン アンダルシア地方を中心とするイスラム統治下のイベリヤ半島一帯)の最も偉大な科学者であり、イスラム世界の黄金時代、農業改革における最も偉大な植物学者、薬剤師。スペインのマラガに生まれ、アブー アッバース アルナバティーから検証に基づく植物学を学びました。

1219年、植物採取のため、トルコのアナトリア地方から、北アフリカの海岸まで旅をし、又、ベジャイア, コンスタンティーヌ, チュニス, トリポリ、バルカ、アダリアをよく訪れた。1224年、植物学者として、フリードリヒⅡ世※とも交友のあったアイユーブ朝のスルターン、アル カーミルに仕えました。1227年、ダマスカスまで支配を広げたアル カーミルに同行したため、植物の研究はサウジアラビアやパレスチナを含む広大な範囲に広がりました。 1248年、ダマスクスで亡くなります。

イヴン バイタールの重要な著書は『薬と栄養全書』(Kitab al-Jami fi al-Adwiya al-Mufrada)で、処方書(医薬品百科事典)は、少なくとも1400の植物や食品、医薬に関し、彼が発見した300項目を含んでいます。古いアラビア語の文献150册、ギリシャ語の文献20册への参照を引用した『薬と栄養全書』は1758年にラテン語に翻訳され、ヨーロッパで19世紀初頭まで使用され続けました。

イヴン バイタールのもう一冊の重要な著書は『生薬全書』(Kitab al-Mlughni fi al-Adwiya al-Mufrada)で、この本には、頭、耳、眼、等の病気と、さまざまな病気の治療のための植物に関する広範囲な彼の知識との関連が記載され、イスラム医学の百科事典となっています。「イスラム世界の黄金時代」「ムスリムの農業改革」における最も偉大な植物学者でもあります。

        

        Copia Recopilación de medicamentos simples de Ibn Al Baytar

                Ibn Al Baytarによる薬草集

            

    From his book De arte venandi cum avibus (The art of hunting with birds). From a manuscript in             Biblioteca Vaticana, Pal. lat 1071), late 13th century

    彼の著書De arte venandi cum avibus(鳥との狩猟術)の2ページ目。 From a manuscript in             Biblioteca Vaticana, Pal. lat 1071), late 13th century から

 

※ フリードリII 世(Friedrich II. 1194/12/26 – 1250/12/13, 又はFederico II, King of Sicily from 1198, King of Germany from 1212, King of Italy and Holy Roman Emperor from 1220 and King of Jerusalem from 1225)学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主。彼が発布した法令の多くは現代にも影響を及ぼしています。その一つに、役に立たない(そして人体に危険な)薬を売りつけようといい加減な診断をする医師に対して、医師が薬剤師を兼ねることを禁止した法令があります。この法令によって医薬分業が生まれ、現在では広く一般的な制度となりました。アラブ人に制定された職業上の規制は、1220年になるとさまざまな宗教共同体にも採用されました。

12世紀ルネサンスの諸相 古典の文化がイスラム・ビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、大きな刺激を与えた。また哲学、美術、文学など様々な分野で新しい動きがみられた。

翻訳活動の中心地シチリア王国の首都パレルモのフェデリーコ2世の宮廷ではイスラム(アラビア語)やビザンツ(ギリシャ語)の文献がラテン語に翻訳されました。

 

カスティーリャ王国(スペイン)の都市トレドでは、レコンキスタの進展により1085年にカスティーリャ国王アルフォンソ6世がイスラム勢力から奪還。トレド大司教ライモンド(スペイン語版)の支援によりトレド翻訳学派(スペイン語版、英語版)(Escuela de Traductores de Toledo)と呼ばれるグループが形成され翻訳に従事しました。

 

アラブ人によって制定された職業上の規制は、1220年にナポリ王国のフリードリII 世によって解かれ、医師とは一線を画した薬局が組織されるようになります。

カリフアリマンズール{The Caliph Alimanzur、 c. 938—died 1002/8/10, Spain、ruler of the Umayyad caliphate of Córdoba for 24 years (978–1002)}がバグダッドに薬局を作り、そこで取り扱った薬のリストが残されていました。その内容から当時の文化の規模や程度を知ることが出来そうです。覗いてみましょう。

アニス、オーネア(Aunea)、ベンゾイン※(Benzoin)、キンマ1※2(Betel)、ボリジ、カチョウ※(Cachou)、スクラップ(Scrap)、コロキント※4(Coloquinte)、シナモン、フューミトリー※5(Fumitory)、ナッツ、サフラン、クローブ、マナ※6(manna)、ナツメグ、ホワイトポピー、除虫菊(Pyrethrum)、ルバーブ、ローズマリー、ローズ、サンダルウッド、シナヨモギ※7(Artemisia cina、 semen-contra)、クスノキ(camphor)が入っていました。”薔薇“があります。乾燥した薔薇の花びら或いは蕾でしょうか。 

(個々のハーブ、スパイスについては後日、機会を設けてご説明しようと思っています)