Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

ダマスクローズ 85

2020年07月16日 | ダマスクローズをさがして ― Ⅲ

フナインはヒポクラテス、ディオスコリデス、ガレノスといった医学書を、ギリシャ語からアラビア語へと訳しました。特にアッバス朝時代にはガレノスの著作の多くがアラビア語へ訳されました。これらの医学書をバグダードの学者たちは、ラテン語訳し中世ヨーロッパにも影響を与えたのです。その主役となったのが、先に述べたモンテ カッシーノの修道士だったコンスタンティヌス アフリカヌスです。ガレノスは西欧でも医学の正典となり、サレルノ大学やモンペリエ大学、パドヴァ大学といった医学で知られる大学で教えられました。しかし、ガレノスをそっくりそのまま受け入れた為に、瀉血が標準的な医療行為となり解剖学の実践は停滞しましたが、ガレノスの権威は16世紀までの西洋医学を支配することになります。

                        Averroes アヴェロエス※3

アブー アル ワリード ムハンマド イヴン アフマド イヴン・ルシュド(‎ abū al-walīd muḥammad ibn ʾaḥmad ibn rušd,1126/4/14 -1198/12/10、スペインのコルドバ生まれ、イスラム教徒の哲学者、医学者 アヴェロエス (ラテン語: Averroes)

もっとも有名なのは「医学大全」(Colliget)で、1153年から1169年の間に書かれ、凡そ90年後にはヘブライ語とラテン語に翻訳されました。解剖学、生理学、病理学、診断、治療学、衛生学、病気の治療の七巻に分かれています。薬理学と栄養学は広範囲にわたり、300の単純薬と食物について述べられています。ラテン語訳は何世紀に渡って西洋の医学の教科書となりました。またガレノスの作品の要約やイヴン スィーナーの『医学の詩』についての註解を著しました。

1126年、コルドバの代々のカーディー(法官)の家に生まれ、1147年にコルドバに成立したムワッヒド朝の王アブーヤクブの侍医となって仕え(1169年頃)、国家的な事業としてアリストテレスの著作をアラビア語に翻訳する事業に従事しました。アリストテレスの著作のアラビア語訳は10世紀末のイヴンシーナーの事業を受け継ぐものでしたが、12世紀のイヴン ルシュドは「新プラトン主義」の影響を受け、プラトン的な神学理論による解釈を行ったものであった。また当時有力になっていた、ガザーリーによって始められた、理論を排し直感的に神を感じ取るというスーフィズムの思想に反対して、イスラム神学の理論付けを行おうとしたものでした。しかし、北方のキリスト教徒のレコンキスタと戦っていたムワッヒド朝は次第に宗教的に不寛容となり、イヴン ルシュドの学説も受け入れられなくなりました。1197年突然その著作は発禁とされ、地位も追われてコルドバを去り、1198年にモロッコのマラケシュで生涯を閉じました。イヴン ルシュドと同じ頃、コルドバでアリストテレス哲学を研究していたユダヤ人のマイモニデスもモロッコのフェスを経てエジプトに逃れました。

   

ヤコブ(新約聖書に登場するイエスの使徒の一人で、使徒ヨハネの兄弟。)スペインの守護聖人、レコンキスタの象徴※。ムーア(北西アフリカに住むイスラム人)殺しの聖ジェームズ像。馬に乗り、鎧をかぶり、剣を振り回し、馬で倒れたムーア人を飛び越え。サンティアゴカリオン・デ・ロス・コンデス(Carrión de los Condes)博物館蔵。

(聖ヤコブはスペイン語ではサンティアゴ(Santiago)」です)。

 

※レコンキスタ 44 年、アストゥリアス王ラミロⅠ世((Ramiro I de Asturias、ca.790 – 850/2/1)とイスラム教徒との戦いの間に白馬に乗ったヤコブが現れ、イスラム教徒を殺戮し、勝利に導いたところから、「イスラム教徒殺しの聖ヤコブ」と呼ばれるようになりました。スペイン諸王国の守護聖人として祀られ、後に、キリスト教国の兵士たちは「サンチィアゴ!」と叫んでイスラム軍に向かって突撃したという。サンチィアゴ信仰が始まりました。

イヴン ルシュドのアリストテレス翻訳事業は上のような事情でイスラム世界では断絶しましたが、コルドバがレコンキスタの結果、キリスト教徒の手に落ちた1230年代以降に、彼の著作がラテン語訳されることによって、キリスト教世界に継承されることになります。特にパリ大学の神学者が熱心にその著作の研究を行ったのでイヴン ルシュドはラテン名でアヴェロエスとしてヨーロッパで知られるようになり、中世のスコラ哲学に大きな影響を与えました。しかし、アヴェロエスのもたらしたアリストテレス哲学は、その合理的解釈を推し進めれば宗教的真理と理性的真理の二元論に向かっていきました。パリ大学の急進的なアヴェロエス派に特にそのような傾向が強く、ローマ教皇庁はそれを危険視し、トマス アクィナスをパリ大学に派遣しその学説の修正を求めました。ついに1270年に教皇庁はアヴェロエス主義を教授することを禁止したのです。

     

         テオトコス(Thotokos)受肉した神の子の母としての聖母マリア

ネストリウス派は、古代キリスト教の教派の1つでしたが、431年のエフェソス公会議で異端認定されました。ネストリウス派の教義ではキリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考え、イエスの神性は受肉によって人性に統合されたと考えています。このため、イエスを生んだマリアを神の母(テオトコス Θεοτοκος)と呼ぶことを否定し、キリストの母(キリストトコスChristotokos)と呼んだのです。キリスト教教義は、異端とされた説への反駁によって形成されていったと考えることができます。