「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

アンチ巨人ファンを分析する阪神ファンな人

2004年11月23日 00時46分13秒 | 妄想
 アンチジャイアンツファンは卑怯である。アンチの人は巨人が嫌いであることを自称している。そして巨人が負けることをこの上ない喜びとし、他球団を応援しまくる人のように思える。しかし実際やってることはそのほとんどが巨人に負けた他球団を小馬鹿にすることである。しかもアンチ巨人を称することで、自分への攻撃はいっさい来ない立場を築いている。これを卑怯といわずして何と言えばよいであろうか。つまりアンチ巨人ファンとは自分を安全地帯に置き、強い巨人がたまに負けたら巨人をこき下ろし、他は負けたチームをこき下ろすことに快感を感じるという、ろくでもない連中なのである。アンチ巨人ファンの唯一の弱点は巨人が弱くなることである。巨人の負けが込むと、アンチの連中は「情けなくて言う気もしねえや。」とかいって静かなものである。巨人ファンには申し訳ないが、その意味では去年今年と「ざまーみろ!」なのである。巨人ファンも含めた他球団のファンの諸君。アンチ何とかという手合いは、プロ野球ファンですらないのではないだろうか。チームの勝利を信じ、選手を応援し、共に悔しがり、共に喜び、共に語り合い、共に明日への希望を夢見てこそファンと言えるのではないだろうか。おおいに他球団をこき下ろすこともあっていいだろう。しかし、その愛情のぶんだけ傷つくことも覚悟しているのではないか?阪神ファンは18年間そういった手合いの筆舌に尽くしがたい屈辱に耐えてきた。他球団のファンの攻撃なら耐えもしよう、また、いつか見ていろという希望にもつながろう。勝ち負けが交錯するのがプロ野球である。しかしアンチの連中は巨人に勝つと「今日は褒めて取らす」などとほざく。この屈辱をどこにぶつけたらよいか。もちろん世の中には心から巨人を憎む正統なアンチの方々が存在することを私は知っている。その方々が前述の連中と同じカテゴリーに分類されることに憤りを感じているのも事実であろう。しかし、あえて言わせて頂く、自らが傷つくリスクを負わずに「ファン」の称号を用いるべきではないと。

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