どれだけ長い歳月が背景にあったとしても、そこで認識されたつもりの情報がいかに曖昧なもので不確実なものかを今ひとつ知った。
それは過去の修論がすべて閲覧できるわけではないということ。
自主退学をする時期を検討していたのだが、なにもすでに半期の授業料を払っているのだから慌てて届けを提出することなく、夏の中間発表をオンラインで見させてもらってからでも、締め切りの8月20日に間に合うではないか・・・
来年3月までにすれば、親しい友人の中間発表も予定されているし、とか。
私のアホな研究計画書を先生が受け取れば相当なご迷惑になるのはわかっているので、もう一度くらいお手数かけさせて困らせるのも一計か。
などと妄想を抱き、先日県立図書館で借りてきた覚鑁上人の本をチラ見していて、そういえばこの人物を題材にしたテーマの友人がどんな修論を書かれたのだろうと気になり、高野山大学の図書館に問い合わせして閲覧(電子送付)が可能かどうか聞いてみた。
昨年夏のスクーリングのときに図書館へ行ったとき、閲覧できた最新のものはアメリカ在住のY氏のもののみだった。
修士論文はすでにご本人よりファイルを頂戴してあり、それを印刷したものを主人が見て、超優秀な論文だとほめちぎっていた。
仏教とはまったく関係のない人が見てもその内容に驚くくらいだからほんとうに立派な論文なのだろう。
そこで私は思う。
例えば、大地震が起きたとき、テレビはぶっつぶれた悲惨な姿の家屋の同じものを繰り返し放映するが、私としてはほぼ同じ地域に健在な建物があるかどうかを知りたい。
築50年の在来工法であっても、無事に形を残している家があるかどうか(うちみたいな)、何割位が命にかかわる危険な構造物であるのか、そういうことを。
要するにテレビ(報道)は取材した人の観点から内容を取捨選択されているのであって、ほかの視点を持つ人々はあまたいるのではないか。
何が必要で何が不要か、それは自分で判断したいので情報提供は幅広いほうがいい。
修論にもどるけれど、図書館の方いわく、図書館で閲覧できるのはその年の優秀な論文が年度に1,2あるだけで、その他の人のはないんだそうです。
公開されたものを貸し出すこともできないし、コピーすることも不可なんだそうで。
そうなると、私の手元にあるS氏の修論はたいへん貴重な資料になるといえる。
もう一度読み返して、どこか参考になる点があるかどうか検討してみたい。
M先生とはこの先もうまく歯車がかみあうとは思えないが、もう一度だけ研究計画書を送って、多大なご迷惑をかけるのもまたありかも。
思いっきり迷惑をかけて、パッと消える・・・これしかない。