雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 7月10日(土) 納豆の日です

2010年07月10日 22時09分54秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 7月10日(土) 納豆の日です

 昨日の続きで「7月10日 納豆の日」再論です。

 「納豆って何?」と聞く日本人はいないと思いますが、子どもたちに「これは大豆(だいず)を発酵させてつくる」と言って、信じる子どもたちがどれくらいいるでしょうか。

 大豆は、芽が出たばかりのは「もやし」で、まだ豆が青いうちは「枝豆」で、豆を煎って食べたり、雨宮家では醤油(お酒を少し入れる)に浸しておいて煮て、おいしい「醤油豆」になります。
 臼で引いて粉にすると「きなこ」になり、発酵させて納豆にしたり、加工して味噌・醤油・豆腐にします。

 納豆は中国渡来と信じている日本人もいるかもしれませんが、中尾佐助さんらの研究で、納豆などは東南アジアから中国南部・日本に至る「逍遙樹林帯」に分布して、ジャワでは「テンパ」、ヒマラヤでは「キネマ」といいます。
 納豆だけではなく、こんにゃくやスシも、この「納豆大三角形」にある文化要素です。

 これらは東アジア特有の文化で、西アジアやヨーロッパでは豆を目を出させて食べたり、発酵させたり、加工したりする文化はないようです。
 
 (以上は加藤文三さん著『民謡歳時記 上』青木書店、1980年、p68~70によります)

 京都の立命館大学の平和博物館の館長代理の安斉育郎さん(自称・おだいりさま)は西欧人の平和活動家が京都に来ると、必ず和料理の店へ行ってねばねば「納豆」を食べてもらうんだそうです。
 その人が「うわあ、こりゃ、なんじゃ」という表情をすると
 「NATO(なとー)軍事同盟よりはいいでしょう」と突っ込むんだそうです。

 ぼくも納豆や豆腐は大好きです。
 
 

雨宮日記 7月9日(金) 明日は納豆の日で…

2010年07月10日 05時31分40秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 7月9日(金) 明日は納豆の日で…

 明日は納豆の日なので、というのは誰かが決めたのではなくて、ぼくが勝手に決めているだけです。
 7月10日は「なっとう(7・10)」の日、です。
 同時に、7月10日は長女のTさんの誕生日です。
 
 珍しく、娘の誕生日に何かプレゼントをしようと、N子さんと相談して、珍しく、長女のTさんの携帯にN子さんから電話をしてもらって「何か、プレゼントしたいけど、何がいい?茶碗でもいい?それともカップがいい?1人だけ?それとも彼と2人セットがいい?」と聞いて、Tさん一人のご飯茶碗を買いに、イオンの「織部」に行きました。

 こういう時は、午後10時までやっているので便利です。午後9時頃、イオンにつきました。
 「織部」のお店で、これでもない、あれでもない、これは高い!、これは安いと捜して、「これならTさんに合うかな」という、薄い色調のお花のお茶碗を買いました。
 
 ちょうど『静岡新聞』の7月7日付け(11)面「時評」に、植物遺伝学専攻の佐藤洋一郎さんが「花を描かなかった弥生人 失われた「生命を見る力」」というタイトルで書いているのを読みました。

 手元に切り抜きがあるのを読むと、佐藤さんは、弥生時代の土器などに動物の絵は描かれていても、花の絵がないのは何故かが気になっていたのだそうです。
 土器だけではなく、銅鐸でもそうですね。シカやカメやトンボや巫女は描かれているけど、植物はなさそうです。

 その解答を、佐藤さんは植物による「染織」をしている志村ふくみさん・洋子さん親子との鼎談の場でヒントを得ます。
 
 それは「緑色は染められない」、「クチナシを例外として花では糸を染めることができない」というヒントです。
 佐藤さんは「草木で染めるとはまだ花をつけない枝葉に秘められたいのちをもって染めることなのだ。染めるとは、その未来の色を頂くこと、つまりはそのいのちを頂くことなのだ。」
 「弥生時代の人びとは」「花を描くとは死を描くこと、と彼らに思われたのではなかろうか。あるいは花を描くことが死に直結するという恐れを彼らが持っていたのかもしれない。花の絵は古代中世には現われるようになる。」「しかしそのことは、弥生人たちには見ることができた植物に内在する生命の力を、現代人には見ることができなくなっていることを意味しているようにも思われる。」

 植物による染め織りのことは、もっと学んでいきたいと思います。
 花については、花は「植物の生殖器」という感覚が、古代人にあったのでしょうか。これから考えていきたいと思います。
 もしあったなら、たとえば万葉集の桜や梅は?