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アポロ11号、40年目の真実

2009年09月28日 21時26分26秒 | Weblog
              
 アポロ11号は、人類を初めて月面に到達させた偉大な功績を称えられている。当時の宇宙飛行士に対し、現アメリカ大統領バラク・オバマも賞賛し、食事会を開いて最高のもてなしをした通り、アメリカ国民にとって、偉大な英雄なのである。今日、目覚しく発展してきた宇宙開発競争において、アメリカを最上の位置に押し上げた輝かしい功績を持っているのだ。しかし、1969年当時の宇宙技術は、今からすると、かなり稚拙なものだった。当時の宇宙センターのコンピューターは、現代のノートパソコンと同程度の解析力しかなく、本当に貧弱な技術で、人類を月に送り込んだことになる。この貧弱な技術を補ったのは、当時の宇宙飛行士たちの頭脳・判断力・技術力だったのである。これらの驚愕な真実が、本日の日本TV「世界まる見え!で放映された。
 人類初の月面着陸から40年。当初の不安を乗り越えて初の月面有人探査を成功させ、無事帰還を果たしたアポロ11号の歴史的な旅を振り返る。1969年7月16日、世界中が期待のまなざしで見つめる中、3人の男を乗せたロケットが月に向かって打ち上げられた。その9年前、大統領ジョン・F・ケネディは、1960年代の終わりまでに人間を月面に運び、無事に地球に帰還させる計画を打ち出していた。アポロ11号が打ち上げられたのは、この約束の期限までわずか数カ月のことだった。そして7月20日、アポロ11号の搭乗員が月面に降り立った。それは後にも先にも例がない、月探査時代の到来を告げる出来事だった。
 ケネディの野心的な計画は、宇宙開発競争が先鋭化する中で全世界に向けて発表された。この競争は、アメリカとソビエト連邦(当時)による冷戦時代の一側面でもあった。先制したのはソ連だ。1957年10月に打ち上げられた83.5キログラムのスプートニク1号を皮切りに、人工衛星を次々と地球の周回軌道に乗せた。やがてソ連とアメリカは有人飛行の地球周回数を競い始めたのだが、ケネディが掲げた月面着陸計画はアメリカが大きく方向転換したことを示すものだった。
 月面着陸計画は当初、NASAの内部で大きな波紋を呼んでいたようだ。特に宇宙飛行士の候補者たちは眉をひそめていた。アポロ13号の宇宙飛行士ジム・ラベルは2007年のドキュメンタリー『ザ・ムーン』の中で、「当時、打ち上げロケットのアトラスは、ケープ・カナベラル(フロリダ州)で毎日のように爆発を起こしていた」と振り返っている。
 しかし、アポロ11号の宇宙飛行士エドウィン・ユージン・“バズ”・オルドリン氏はナショナルジオグラフィック ニュースに対し、「ケネディの構想は決して絵空事ではなかった」と話している。「空軍を筆頭に皆が未来に目を向け、さまざまな可能性を検討していた。例えば、月に貨物を送ることだ」。もっともその時点では、人間を月に送り込むためにはまだまだ多くの課題が残されていた。月面着陸の計画にはアポロというポジティブな名前が付けられた。ギリシャ神話のゼウスの息子にちなんだ名前で、光と太陽の神として知られる。
 しかし最初のミッションは、月面着陸に向けた米国の努力が水泡に帰す結果となる。1967年1月27日、アポロ1号司令船が打ち上げのシミュレーション中に突如炎上したのだ。この火災で、搭乗予定の宇宙飛行士3人が焼死した。NASAはこの事故を徹底的に調査し、4月に1つの報告書を発表した。それはアポロのハードウェアから打ち上げの手順、品質管理に至るまで、大幅な見直しを求める内容だった。
 その後、計画は再び軌道に乗った。1969年の前半には、アポロ10号の宇宙飛行士トーマス・スタフォードとユージン・サーナンが月面から15.6キロメートルまで接近し、着陸したい気持ちを抑えて戻ってきた。後にアポロ11号の着陸地点に選ばれた“静かの海”が調査されたのもこのときだった。それから数カ月後、アポロ11号の宇宙飛行士ニール・アームストロング、バズ・オルドリン、マイケル・コリンズが月を目指して出発することになる。
 アメリカ東部標準時、午前9時32分、フロリダ州のケネディ宇宙センターからアポロ11号がサターンVロケットによって打ち上げられた。アポロ11号は司令船コロンビアと着陸船イーグルで構成されている。イーグルの名は、アポロ11号ミッションの徽章に描かれた国鳥ハクトウワシから採られた。3日半の後、アポロ11号は月の周回軌道に乗る。月の影を通過し月面に接近。オルドリンとアームストロングは、クモにも似た月着陸船に乗り込み降下を開始する。
「ヒューストン、こちら“静かの基地”。イーグルは着陸した」(アームストロング)。
世界中の5億人がテレビで見守る中、宇宙飛行士たちはついに月面に降り立ち、2時間にわたる人類初の月面での探査を開始した。
月のなめらかな砂地に足を下ろしたアームストロングの有名な第一声。
 「これは1人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だ」。思わず出た言葉だと後に報道された。二人は、アメリカの国旗を立て、倒れた仲間たちの遺品を置いた。7月24日、三人の乗った指令船コロンビアは太平洋に着水した。着陸船イーグルの上昇モジュールは月の周回軌道に残され、やがて月面に墜落した。コロンビアは現在、ワシントンD.C.の航空宇宙博物館に展示されている。
 それから40年。月面に降り立った日にオルドリンが抱いた印象は今も色あせていない。「私を魅了したのは、生命が存在しない静寂に包まれた月の姿だ」とオルドリン氏は振り返る。「幾世代も育まれた人智の不変さをかえって強く感じた」。
 オルドリンはまた、アポロ11号のミッションが世界にもたらした意味、そしてそれが現代の我々にも与える影響について深く考え続けている。彼は現在、アメリカが40年前よりさらに高い目標を掲げ、「われわれが成し遂げた偉業を誰もが追えるように、アメリカが先んじて前進する」ことを提言している。「現代のさまざまな問題に必要以上に非観的になる必要はない。われわれには明るい未来を思い描く自由があり、問題を克服する素晴らしいチャンスがある」。


B級グルメ道⑭信州長野の「おやき」

2009年09月27日 11時26分14秒 | Weblog

   魅力満載の2日間!!長野県の代表選手がまるごと東京ドームシティに大集結!
 最近では、現地に行かなくても、本場の名品が手に入る時代になった。東京都内でも、各都道府県の名品を扱うアンテナショップが多数出来ており、ここでは、現地にしかない逸品も多い。
 しかし、このようなアンテナショップで逸品を購入することも良いのであるが、やはり、現地の人たちが自分たちの作った逸品を持ち寄る産地直送の展示即売会が興奮する。昨日は、東京ドームシティの中のプリズムホールで開催された「ふるさと大信州市ー信州の技と味と自然の彩典ー」に出かけた。わざわざ出かけたというよりは、ついでに寄ったと言う感じなのだったが、これが中々良いものが多かった。信州産のおいしいりんご、長野善光寺参道でも有名な信州そば、駒ヶ根ソースカツ丼、信州プレミアム牛肉、信州味噌、信州特産ぶどう・ワイン、信州のおいしい水でははぐくまれた日本酒、信州サーモン、チーズケーキ、木曽漆器、飯田水引細工、南木曽ろくろ細工、長野県産材・木工家具、ハイブリッドカーの精密部品等、多岐にわたる出店品が並んでいた。試食や見学していく中で、感心することしきりだった。信州と言うと、観光でしか頭に思い浮かぶものが無かったが、これ程地方が活気付いていることに、なんか安堵の気持ちと、それぞれの逸品を熱心に紹介している現地の人たちに感動と、安心感を覚えた。「地方が活気を持ってくれれば、素晴らしい日本になるんだな!」と感じたのである。
          
 そんな中、大行列の出来ていたブースがあった。ご存知、信州名物「おやき」である。ここでの出店は、信州西山名物・おやき村の「縄文おやき」と表示されていた。説明書に、「おやきは素朴な食べものです。野菜や山菜を油で炒め味噌や醤油で味付けし、小麦粉を練ったもので包んでコンガリと焼き、家族は囲炉裏を囲み夕食のひとときを過ごしていました。近代になって、多くは蒸すようになりました。それは食べ物の原点と言えるものです。そのルーツを明確に辿ことはできませんが、私たち小川村の笩が原にある縄文時代の遺跡に因んで「縄文おやき」と名付けました。この遺跡からは素朴で力強い石器がたくさん発掘されています。笩が原に住んだ縄文人達はこの土器を使って、木の実・草の実や原始的な農耕による穀類で粉を作り食糧としていたと思われます。おやきの元祖は、こうした古い時代の知恵から生まれたものであり、信州の西山食文化の一大傑作です。」と記されていた。饅頭のような皮の中に、名産の野沢菜等の山菜が入っているというだけの食べ物では無く、古くは縄文時代に遡る歴史のある食文化の産物なんだと感心した。中に入っている具材は、あずき・野沢菜・かぼちゃ・ふき味噌等の種類。これまた、素朴でしっかりした具材の味の上に、しっとりと香ばしい弾力ある皮で包まれて、誠に美味!!信州の食文化に触れて、おいしい歴史ある伝統食「おやき」をほおばったのであります。(もちろん、家族にもお土産として持ち帰ったことは言うまでもありません)
 





<おやき村>
おやき村

ラーメン道⑬コクある豚骨味「恵比寿・九十九ラーメン」

2009年09月26日 05時30分07秒 | Weblog
        
           
 日本橋で飲んでいたが、急においしいラーメンを食べに行こうということで、飲んだくれ友人二人と、タクシーを飛ばし、恵比寿で名高い「九十九(つくも)ラーメン」を食べに行った。ここでは、私は豚骨味の「九十九ラーメン」を、友人たちは醤油ラーメンを注文。さらに、味玉とチャーシュー、餃子をつまみに追加注文。さすがに、三大ラーメン店に数え上げられている通り、味もコクがありしっかりした濃厚豚骨スープと中太麺がしっかり絡み合って、極上の味。豚骨では、上位にランクできるおいしいラーメンでした。友人の醤油味も中々のコクあるスープで、これまた美味。さすが、激戦地である恵比寿で、好評価の店であると感じた。店員の応対も、てきぱきしていて高感度抜群。最近入ったラーメン店では、ピカイチのラーメンであった。事前に調べてから行けば、ここは「山盛りチーズ」が有名らしい。これを頼んでみる価値もあったのだが、残念・・・。
    

   意味深な置物!?
           
           「愛し合う豚」?豚骨が最高の意味かな??

祝!優勝!巨人軍 V3

2009年09月23日 22時34分57秒 | Weblog
               写真 
 マジックを減らし続け、ついに我が巨人軍が、セリーグの覇者になった。今回で、V3達成の快挙。異国の地では、日本人メジャーリーガー・イチローが、9年連続200本安打を達成したこの時期に、栄光の「読売巨人軍」が優勝したのである。昔から言われた、「巨人、大鵬、玉子焼き」は、子供の好きな定番だった。やはり、強いものは強くあって欲しいのである。そこに安定がある。変化が必要な時代でも、変化して欲しくないものはあるのである。この、軟弱なご時勢の中なので、痛切に感じるのである。良い物は、良いのである。
 
【巨人軍 原監督へのインタビュー】
 
 原監督「選手にはおめでとうと、そして感謝の気持ちと。ファンのみなさまには『ありがとうございます』という、その言葉以外は見あたりません」

 --昨年は大逆転での連覇だったが、今年の戦いをどのようにとらえたか

 「昨年と比べると全く違います。これだけの試合を残して優勝をできたということは、ジャイアンツというチームが力をつけ、強いチームになったというふうに思います」

 --今年はワールド・ベースボール・クラシック(WBC)があってのペナントレースになった。今までにないチャレンジの年になったと思うが

 「(今年は)一番不安なシーズンでした。大事な時間を選手とともに使うことができませんでした。そういった点では非常に不安ではありました。しかし、開幕して4、5月と戦う中で、試合を重ねるたびに、心配というものが逆に選手個々の強さというものになった。ベテラン、中堅、若手、すべての選手たちが発揮してくれました。これまでは何人かの選手たちが引っ張り、そこに連なっていくという形だったが、今年は選手1人1人が引っ張ってくれていると感じました」

 --今年は3連覇を目指す上で、あえて「維新」というものを掲げた

 「2月1日の春季キャンプの前夜に、選手には『われわれは2連覇しているが、今年が新たなスタート。このメンバーたちでジャイアンツの新たな歴史を作ろう』と話しました。そのためには守るのではなく、いいものは伸ばしていき、新しいものはどんどん取り入れていくというふうにスタートしました。そういう意味では良いスタートが切れたし、まだまだ余力も残していると思います」

 --優勝への手応えを感じたのはいつか

 「名古屋に乗り込んだ中日との16~18回戦(8月25~27日、ナゴヤドーム。結果は同一カード3連勝)でしょうか。第1戦を延長戦を制し、結果は3連勝という形になりましたが、あのあたりで強さというものを多少感じるようになりました」

 --打線についての評価は

 「チーム打率は・280を超えているというのは、最も素晴らしい打線だと思います。ただ数字だけではなくて、誰かが打てなければ誰かがカバーするという、カバーの試合が多かったと思います。それぞれが足りないものを補い、非常に良い形で、まさに『打線』という形になりました」

 --投手陣も数字を残している

 「投手陣においても(チーム防御率が)2点台。やはり強さがあるし、接戦においてのゲームで投手力を中心とした守りというものは昨年にはなかったもので、強さがありました」



<!-- 「祝!巨人軍V3 闘魂こめて」 -->

双子デュオの歌

2009年09月22日 12時42分58秒 | Weblog
 双子の歌手は、そんなに多くは無いが、全く同じ顔で歌われる歌は、心に残るものである。芸能人や漫才師でも、双子と言うだけで、なんか魅かれてしまうものがある。双子は、よく、自分の考えが相手に以心伝心すると言うが、本当なのだろうか?でも、元々同じ細胞からの遺伝子分岐なので、共有していても不思議ではない。こんな、双子デュオの歌をいくつか披露してみましょう!!

1.ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」
            
 ザ・ピーナッツ(The Peanuts)は愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)出身、同県名古屋市育ちの双子で、女性歌手(デュオ)、俳優である。略称「ピーナッツ」。1959年2月11日、「第2回 日劇コーラスパレード」で歌手デビュー、4月、「可愛い花」でレコードデビュー。1959年6月17日から1970年3月31日までフジテレビ系の歌謡番組『ザ・ヒットパレード』のレギュラーに抜擢される。その後1961年6月4日から1972年10月1日まで日本テレビ系の人気バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』でメイン司会を務めた。日本国外でも活躍し、『エド・サリヴァン・ショー』(アメリカ)や『カテリーナ・バレンテ・ショー』(当時の西ドイツ。現・ドイツ)、『ダニー・ケイ・ショー』(アメリカ)にも出演したことがある。また、女優活動も少ないながらも行っており、映画などにも数作出演。中でもモスラでの「小美人」役は現在もなお人気が根強くある。和製ポップスを海外公演などによって世界に広めた功績は大きく、特に当時の東西両ドイツやイタリアでは、日本の歌手と言えば即座に「ザ・ピーナッツ」と連想されるほどの活躍振りも多くの芸能関係者に評価された。1975年2月18日に当時東京都千代田区有楽町の三信ビルヂングにあった渡辺プロダクション社屋にて記者会見を開き、現役を引退することを表明(1972年頃より引退を検討していた)した。同年3月31日には番組開始時より数多く出演をした「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)にて引退記念特集「さよならピーナッツ」が組まれ、続く4月5日にはNHKホールにおいて、高橋圭三司会で「さよなら公演」を興行。この時、渡辺プロの主要タレントがほぼ総出で見届けていた。なお、このさよなら公演は3月から4月に掛けて大阪・京都・名古屋でも行われていた。なお同公演を最後に芸能界を引退した。以後は現在に至るまで一切公の場には姿を現していない。

<!-- ザ・ピーナッツ「恋のバカンス他」 -->


2.ザ・リリーズ「好きよキャプテン」
                
 ザ・リリーズは、
1970年代を中心に活動した、双子姉妹の燕奈緒美(つばめ なおみ)、燕真由美(つばめ まゆみ)(両名とも1960年12月7日- 北海道夕張市出身)の女性アイドルデュオ。デビューした昭和50年代が全盛期であるが、2005年に復活し、現在は東京を拠点に、都内周辺と出身地の北海道でライブやショー、歌番組の出演を行っている。当時、とんねるずの「雨の西麻布」と言う歌がヒットしていたが、最後の歌詞で ゛♪~ふたごのリリーーズ゛と歌われたことでも有名になった。

映像はこちら>>http://www.youtube.com/watch?v=XpKQcMNsbA0&feature=related

3.リンリン・ランラン「恋のインディアン人形」
               まぎれもないインディアン?
 
リンリン・ランランは、1959年1月3日生まれの香港出身の双子姉妹によるポップデュオ。所属事務所、レコードレーベルはサンミュージックプロダクション、ビクターエンタテインメント。1972年から「ロッカーシスターズ」として活躍していたのをスカウトされ、1974年のテレビ番組「スター誕生!」からデビュー(アシスタントとして)。インディアンの格好をして歌っているが、実際は白人。代表曲は「恋のインディアン人形」「陽気な恋のキューピッド」「恋のパッコンNO.1」。また、人気絶頂期に東京・芝公園(最寄り駅は御成門駅)にあった中華料理店『留園』のCMに出演したこともあった。

<!-- リンリン・ランラン「恋のインディアン人形」 -->

去りし人への最高の送り出し『おくりびと』

2009年09月22日 00時03分37秒 | Weblog

                 「おくりびと」美学の極致まで達した死の儀式を見せる美しい映画
 
人は「生」を受けてから、必然的に担っているもの、それは「死」である。生きている者は、必ず死ぬという局面に遭遇する。万物の道理なのかもしれない。形あるものは、最後には滅びるのである。未来永劫、永久にその形のまま長らえることは、不可能なのである。「生」きし者が、最後には「死」すところに、貴重な存在を醸し出す。未来永劫、今の形を留めるものがあったなら、それは、貴重な存在ではない。常に、いつもある存在でしかないのだ。この意味で、人間も、「万物の摂理」に従っていることで、貴重な存在なのだ。
 本日、地上波で『おくりびと』が、ノーカット放映された。冠婚葬祭の中で、忌み嫌われる、「人間の死」の部分。人の死である「葬」の部分は、田舎に行くほどタブー視されてしまう。ましてや、この陰の部分を職業とするならば、世間から冷たい仕打ちを受けてしまうのである。しかし、本当に「陰」の部分は、そんなに忌み嫌わねばならないものだろうか?「人間は必ず死ぬ」という原則の中にあって、忌み嫌うことになるのだろうか?必然の中で、いかに綺麗に「最後の場」を作ってあげるかは、本当に重要な事である。私の父が急逝した時にも、この場面に遭遇した。納棺士と言う人たちが、実に丁寧に体を清め、死に装束を着せてくれたかについては、今もって、大きな感動の記憶として残っている。これほどまでに、親族さえも出来ないことを、慎重にして、大事に行なってくれたことに、感謝の念が絶えない。このような人たちに、尊敬の念を抱いた程だ。この時の納棺士は、男女二人で、しかも、若い女性が中心で、こちらが恥ずかしくなるほど、慎重に、大事に行なってくれた。
 この作品の中で、「石文(いしぶみ)」のシーンがある。主人公が幼い頃、慕っていた父と、河原で石を交換した。言葉を持たない太古の人間は、石を自分の気持ちの表現として相手に渡した。石の感触や形、大きさによって、相手に伝える意味があったのである。結局、その父は、主人公を捨てたのだったが、30数年以上たったある日、訃報が届く。最後の再会時、納棺士として対応していた主人公が見たものは、・・。幼少の頃、父と交換した自分の石が、息を引き取った父の手に握られていたのである。はっきりした父の顔も分からない主人公にとって、唯一鮮明に残っていたのは、父と交換した「石文」だったのである。

 本木雅弘演じる主人公の“納棺師”が死に化粧と納棺の儀式を行う。死に装束の着物の衣ずれの音まで耳に心地よく響く。彼の所作ひとつひとつが指先まで神経が行き届いて、(ポーラ伝統文化振興財団の)記録映画でよく見る“匠の仕事”、美学の極致にまで達している。男の前の職業が指先が器用なチョロ奏者だという仕掛けが効いている。  滝田洋二郎監督と脚本家の小山薫堂がつむぎ出す物語は、死の儀式を執り行う主人公の周りからの“けがれの職業”だという意識をむき出しにする。やがてその儀式なしに、故人との別れは成り立たないことを訴える。最初はショックを受ける広末涼子演じる妻さえも、儀式の凄みに刮目せざるをえなくなる。  納棺師の先輩役の山崎努がフグの白子焼きを、伊丹十三映画のように美味そうに食べるシーンがある。食べることも人間の営みのひとつで、生き物の“死”に始末をつける行為であることをグロテスクなまでに見せつけるのが興味深い。人間は生き物の“死”の上にしか“生”を享受できない。なかなか深い。  この納棺師のひたすら美しい死の儀式は、一度でも親しい者を出棺した過去がある御仁なら、涙なくして見られないだろう。藤沢周平文学でおなじみの山形・庄内地方の移り変わる四季の自然が表情豊かで、美しい映画だ。(佐藤睦雄)(eiga.com)


懐かしい、不思議な歌

2009年09月20日 16時02分33秒 | Weblog
 歌と言うのは、本当にその時代を反映し、心に残るものである。中でも、名曲としてではなく、不思議な独特の空間を作りだす歌も、何故か心に残るものなのだ。今でも、大半が口ずさんで出てくる不思議さがある。それだけ、心に鮮明に残っているんだろうと思うのです。今回は、そんな古い、心に残る不思議な空間を作りだす歌を集めてみました。

1.皆川おさむ黒猫のタンゴ
 
 元祖子供歌手である皆川おさむの「黒猫のタンゴ」は大ヒットした。みそっ歯ながら、愛くるしい皆川おさむの、優しい子供の歌声は多くの女性の心を捉えたようだ。どの歌番組を見ていても、必ずこの子役歌手・皆川おさむが出演していたものだ。皆川 おさむ(みながわ おさむ、1963年1月22日 - )は元子役、童謡歌手である。現在は工業デザイナー。ひばり児童合唱団の運営にも携わっている。カーマニアとしても有名。 現在では往年の名作曲家山本直純を思わせる風貌となった。笑顔に幼少時代の面影が残っている。

<!-- 皆川おさむ「黒猫のタンゴ」 -->


2.ザ・ダーツ「ケメ子の歌
               こちらはケメ子の「歌」
 ケメ子の歌(けめこのうた、ケメ子の唄)は、作詞・作曲:馬場祥弘,採譜・補作:浜口庫之助 の楽曲。編曲は、浜口庫之助(ザ・ダーツ盤)/寺岡真三 (ザ・ジャイアンツ盤)。ザ・ダーツ(『ケメ子の』・1968年2月1日発売・CBSコロムビア)と、ザ・ジャイアンツ(『ケメ子の』・1968年1月25日発売・日本ビクター
)との競作でシングル盤が発売され、ザ・ダーツ盤がオリコンチャート2位、ザ・ジャイアンツ盤がオリコンチャート6位を記録した。当初から「本命盤」と表示して売り出したザ・ジャイアンツ盤に対し、ザ・ダーツ盤は後になってジャケットに「オリジナル盤」と表示している。

<!-- ザ・ダーツ「ケメ子の歌」 -->


3.ザ・フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ
   
 
帰って来たヨッパライ(かえってきたよっぱらい)は、ザ・フォーク・クルセダーズのデビューシングルであり、同グループの代表曲である。一般には「帰ってきたヨッパライ」と曲名が表記されることが多いが、初版レコードでは「帰って来たヨッパライ」となっている。キャピトルレコードによる英文曲名表記は “I ONLY LIVE TWICE” 。この英題は映画 “007/You Only Live Twice” のもじりである。

<!-- ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」 -->


4.ソルティー・シュガー「走れ!コウタロー
 
          ソルティー・シュガー/ソルティー・シュガー茶歌集~走れコウタロー

 走れコウタロー(はしれこうたろー)とはバンド・ソルティー・シュガーの代表曲である。1970年7月5日にシングル盤が発売された。作詞・池田謙吉、作曲は池田と前田伸夫の共作である。レコード売り上げが100万枚近い大ヒットとなり、同年の第12回日本レコード大賞の新人賞を受賞した作品。日本を代表するコミックソングの1つであり、現在でも運動会の徒競走のBGMでよく流れている。

<!-- ソルティーシュガー「走れコウタロー」 -->


5.平田隆夫とセルスターズ「ハチのムサシは死んだのさ
                  ハチのムサシは死んだのさ/悪魔がにくい / 平田隆夫とセルスターズ 
 
1971年(昭和46年)、平田が25歳になるころ、「平田隆夫とセルスターズ」は、ミノルフォンレコード(現徳間ジャパンコミュニケーションズ)と契約、同社の新レーベル「DANレコード」の設立第1弾シングルとして、『悪魔がにくい』(作詞・作曲平田隆夫)をリリース、オリコン週間シングルチャート第1位を記録するヒットとなる。翌1972年(昭和47年)、作詞に俳優の内田良平を迎えた『ハチのムサシは死んだのさ』のヒットで、同曲の編曲者土持城夫が「第14回日本レコード大賞」で編曲賞を受賞、平田はセルスターズとともに、第23回NHK紅白歌合戦に「紅組」として出場した。

<!-- 平田隆夫とセルスターズ「ハチのムサシは死んだのさ」 -->


6.殿さまキングス「なみだの操
             
 
殿さまキングス(とのさま -、1967年 - 1990年 )は、歌謡曲・コミックソングなどを手がけたバンド。殿様…という表記も見られるが、正しくは殿さまキングスである。愛称は、「殿キン」(とのきん)。大ヒット曲「なみだの操」の影響で、歌謡曲が主流になったが、元々はコミックバンドとしてお笑い番組に多数出演していた。ちなみに「殿さま」という名前は「キング」を日本風に言い換えようとして思いついたという。1967年に結成。『大正テレビ寄席』などバラエティ番組に多数出演していた。元々歌唱力には定評があったこともあって、その後、歌謡曲を歌うバンドに転身、1973年にリリースした「なみだの操」は300万枚近い爆発的なヒットとなり、現在でも人気の高い歌謡曲の一つ。1975年にリリースした「夫婦鏡」もミリオンセラーになった。演歌系の楽曲に限らず、「恋は紅いバラ」「けい子のマンボ」などのリズムもの、「ハワイ音頭」「ブラジル音頭」などのワールドものにも意欲的に取り組んだ。その後もバンド活動などしていたが、昭和天皇の病状悪化を受けた“自粛ムード”によって、いわゆる「営業」の数が激減したこともあり、1990年に解散。メンバーは現在ソロで活躍しているが、懐メロ番組などで不定期に再結成している。

<!-- 殿さまキングス「なみだの操」 -->



スリリングな展開『007黄金銃を持つ男』

2009年09月20日 09時48分36秒 | Weblog
               
 007シリーズ第9作目、2代目ジェームズ・ボンド役であるロジャー・ムーア第2作目が、『007黄金銃を持つ男』(1974年イギリス制作)である。この作品は、1973年「007死ぬのは奴らだ」に続くヒットを飛ばそうと、製作元であるユナイテッド・アーティスツ社が、速やかに次作をと、プロデューサーに働きかけ制作を急がせた作品でもある。この作品では、なんと言っても、トレイドマークである組立式黄金銃を持つ男・スカラマンガ役に、「吸血鬼ドラキュラ」で名声を得ていたクリストファー・リーをボンドの好敵者に配置して、物語展開しているところが面白い。クリストファー・リーは、さすがに独特の雰囲気を持った役柄で、このスカラマンガを演じている。サーカスで鍛えた正確な銃の使い手として、好演をしている。また、スカラマンガの補佐役として、これまた得体の知れない小人役ニック・ナック役にフランス人俳優エルヴェ・ヴィルシューズを配し、奇妙な殺人鬼スカラマンガを引き立てている。このような小人俳優を使うことは、「チャーリーとチョコレート工場」のウンパ・ルンパや「ロード・オブ・ザ・リング」のホビットのように、独特の雰囲気の場を作りだす効果があるのだ。日本で言えば、「てなもんや三度笠」に出演していた珍念こと、白木みのるが該当する。
 これまでのボンド映画と比べると、007シリーズの売りとも言うべき巨大セットのインパクトも薄く、ボンドにもユーモアさが欠け、若干地味な印象を受ける。唯一のカーアクションの見せ場、車を360度回転させての川越えのジャンプのスローモーションシーンは、見応えがあった。コンピュータで予め着地地点が計算され、6台のカメラを使って撮影された。スタントは、一発で成功したそうです。空手道場のシーンでは、ボンドは、柔道着を着せられ、格闘家達と対決させられるが、当時流行ったブルース・リーの映画の影響でも受けたのだろうか。道場の門下生達よりも女学生達のほうが強かったのは、意外。小人の殺し屋ニックナックは、色々と見えないところで巧妙な罠を仕掛けたりするのですが、ちょっと漫画チックで面白い。プーケット島で撮影されたクライマックスの孤島でのボンドのワルサーPPKとスカラマンガの黄金銃の対決シーンは、面白かったが、しかし、物足りなさもあった。黄金銃が今見るとやはり、古さを感じさせられ、玩具に見えてしまうのが残念。

 【ストーリー】
 ある日、ロンドンのMのオフィスに、ジェームズ・ボンドの命を奪うと書かれたメモと共に一個の黄金の弾丸が届けられた。送り主は、百万ドルで仕事を引き受ける"黄金銃を持つ男"スカラマンガという男だった。ボンドはスカラマンガを追って香港へ飛ぶ。そこでボンドはメアリー・グッドナイトという魅力的な女情報部員と会った。彼女から情報を得たボンドは、スカラマンガの愛人アンドレアを見出し、スカラマンガが行方不明の科学者ギブソンを追い、彼の発明した太陽エネルギー装置「ソレックス・アジテイター」を狙っていることを知る。実はあの銃弾は、スカラマンガの情婦アンドレアが、ボンドに彼を殺させようして仕組んだトリックだった・・・。

<!-- 「007黄金銃を持つ男」 -->

『忍風カムイ外伝』とは?

2009年09月19日 17時12分42秒 | Weblog
 
「忍風カムイ外伝」DVD第2巻パッケージイラスト

 映像化が不可能と言われていた『忍風カムイ外伝』の映画がヒットしている。原作はご存知白土三平であり、忍者に関する漫画を多く手がけている。もともと、漫画を元にしたアニメが大ヒットしたもので、今回の映画製作に繋がったのである。もっとも、題の示すとおり、これは「カムイ伝」という本伝では表現できない内容を、外伝という形でまとめた、言わば本編の番外編とも言うべき作品なのである。これは、カムイ伝を執筆していた白土三平氏が、本編ではまだまだ先の話だけど、描いてる最中に思いついてしまい、「あんまり時間が経つと先に使われるかもしれない」というアイディアのものを、「外伝」として先に発表しようとしたものであり、そんな意味で作られた別カテゴリの作品なのである。
   
        カムイ外伝
ー今回の主人公・カムイの生い立ちについて語ると-

慶安年間(1648~1651)、東北の貧しい村、夙谷村に住む貧しい夫婦に一人の男の子が生まれた。我が子の誕生を喜んでいると、突然、山から巨大な片目の山丈が現れ、その子を抱きかかえると「カムイ」と呼んだ。カムイ、とは、アイヌ語で「神」の意味。以降その子の名はカムイとなった。
 貧しい村で極貧にあえいでいたカムイは、「強くなって、大きなモノに立ち向かえる力が欲しい」と、剣の修業に励むようになる。達人・露木鉄山を師と仰いだカムイは、夙流・変移抜刀霞斬りの基礎を磨いた。次第にその才能を開花させていくカムイを、伊賀忍者の小頭(アニメでは大頭)が目を付け、カムイは伊賀の里へと誘われる。伊賀の赤目に忍びの英才教育を仕込まれたカムイは、瞬く間に伊賀の里の有数の実力を身につけていく。
 ある日、カムイは忍びの者の仕事として、ある母子を暗殺するよう命令を受ける。が、カムイにはそれが出来なかった。カムイの代わりに母子を殺したのは誰あろう師の赤目だった。赤目はカムイをかばったのだ。
「命令にそむくことは死。今度は必ず命令を実行せよ。」
しかし、次の命令は、なんと師の赤目を殺すことだった。理由は抜け忍になったためであったが、カムイはあまりにも非情な忍びの世界に嫌気がさし、 自らも抜け忍になって、逃亡を始める。
「抜け忍カムイを忍びの掟において抹殺せよ。」小頭の命令によって逃げるカムイを追って無数の刺客が放たれた。抜け忍の烙印をおされたカムイは、自由を求めて、いつ果てるとも無い旅を続ける。

…と、これがあらすじ。もっとも、アニメは第一話ではこういうあらすじは一切語られておらず、いきなり、追手の刺客忍者とカムイの戦い、欺き合いから入っている。だから、アニメしか見て無い人は、なぜカムイが追われてるのか解らないかも。説明らしい説明もしない。いちいちアニメで細かい話しなくても、有名な原作なんだから、って事かも。
 しかし、この『忍風カムイ外伝』のアニメは、映像と言い、カムイの孤独な生き様といい、多くのインパクトを残した。また、テーマ曲も水原弘という大物演歌歌手が歌ったことでも有名になった。
 1969年にカラー放送のテレビアニメとして作られた。主題歌は白土氏の奥さんの作詞。視聴者年齢をやや高めに設定したためか、視聴率はあまり良くなかったらしい。白土作品のアニメ化は「サスケ」(放映時期:1968.9~1969.3)に続いて2作目。当初のアニメ化計画では「忍者武芸張」が予定されていたのですが、結局この「カムイ外伝」となった。次回のアニメ化計画として「ワタリ」が予定されていたが、これは実現されなかった。
初期製作資料によると放映第1話の前に幻の第1話「抜け忍(伊賀赤目の滝)」があった。あらすじは赤目の師匠がカムイの代わりに小頭命令である母子殺害を引き受けるという、カムイが抜けた理由をみせるものだった(小学館文庫「カムイ伝」第4巻第3章)。

「忍風カムイ外伝」(全26話)
フジテレビ
放映日:1969.4.6~1969.9.28
     毎週日曜日18:30~19:00
(カラー放送)
 
第1話
雀落し
第2話
飯綱落し
第3話
月影
第4話
むささび
第5話
常風
第6話
九の一
第7話
五つ
第8話
木くらげ
第9話
暗鬼
第10話
空蝉
第11話
下人
第12話
狂馬
第13話
天人
第14話
移し身
第15話
老忍
第16話
抜忍
第17話
黒鍬
第18話
追跡
第19話
りんどう
第20話
憑き移し
第21話
女左衛門
第22話
一白
第23話
双忍
第24話
鮫殺人
第25話
月日貝
第26話
十文字霞くづし
 

 <!-- 「忍風カムイ外伝」 -->

祝!大記録ICHIROの9年連続200本安打

2009年09月14日 22時06分39秒 | Weblog
         
 
                  レンジャーズ戦の第2試合の2回、大リーグ史上初の9年連続200安打となる遊撃への適時内野安打を放つマリナーズのイチロー=13日、レンジャーズ・ボールパーク(ロイター)

 イチロー(ICHIRO)
が、またまた大記録を達成した。連続9年200本安打達成と言う快挙。あの大打者、大リーガーのピート・ローズでさえ、連続ではなく隔年の10年200本安打なのだ。「継続は力なり」という日本の格言通りのことを、イチローは、何のプレッシャー?も無いように達成した。日本の野球界では、王貞治の世界一のホームラン記録がさんぜんと輝くが、コツコツ貯めたヒットの積み重ねでの快挙は、ホームランの記録とは違う格別のものである。しかも、9年連続と言う年月での達成なのだ。

<記事内容>
 野球の米大リーグ、マリナーズのイチロー外野手(35)=本名・鈴木一朗=が14日(米国時間13日)、大リーグ史上初となる9シーズン連続200安打の偉業を達成した。前日の試合で新記録まであと2本に迫っていたイチローは、テキサス州アーリントンで行われたレンジャーズとのダブルヘッダー第1試合で左翼線へ適時二塁打を放ち、王手をかけた。続く第2試合も「1番・右翼」で先発出場。二回二死三塁で迎えた第2打席で、左腕のホランド投手から適時打となる遊撃内野安打を放ち、108年ぶりに大リーグ記録を塗り替えた。
 今季のイチローは、日本が連覇した3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)後、胃潰瘍のため故障者リスト(DL)に入り、開幕から8試合の欠場を余儀なくされたが、復帰後からヒットを量産。8月24日から左ふくらはぎ痛により8試合連続で欠場するアクシデントに見舞われたものの、メジャー1年目から続けてきた200安打を、9年目のシーズンでも成し遂げた。
 ウィリー・キーラー(オリオールズなど)が、1894年から1901年にかけて8年連続200安打した当時は、ファウルがストライクにカウントされない時期もあり、打者に有利なルールが多い時代だった。近代野球とされる1900年以降での新記録は、まさに金字塔といえる。
 イチローは2001年に新人シーズン最多安打(242本)、04年にシーズン最多安打(262本)の新記録を樹立しており、100年を超える大リーグの歴史に、再び足跡を残した。通算9度目のシーズン200安打は、タイ・カッブ(タイガース)と並ぶ歴代2位。来季は史上最多の10度をマークしたピート・ローズ(レッズ)の大記録に挑む。

■大リーグで5年連続200安打以上した選手

年 選 手 名     (主な所属) 期  間

9 イチロー     (マリナーズ) 2001~09

8 W・キーラー  (オリオールズ) 1894~1901

7 W・ボッグス (レッドソックス) 1983~89

5 C・クライン   (フィリーズ) 1929~33

5 A・シモンズ (アスレチックス) 1929~33

5 C・ゲーリンジャー(タイガース) 1933~37

5 M・ヤング   (レンジャーズ) 2003~07