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侍ジャパン、世界一奪還!!

2019年11月17日 22時42分28秒 | Weblog

日本の野球が世界一を奪還した!!

本日行われた「プレミア12」で、決勝戦に進出した日本は、宿敵韓国を下し、世界一を10年ぶりに奪還した!
本当に素晴らしい戦いを歴戦勝ち抜いてきたのである。唯一アメリカに敗退したのみで、1敗のまま、その他の試合全てに勝利し、韓国を破り、世界一に輝いたのである。「素晴らしい!!侍ジャパン!!」

 今年は、サッカーでもW杯に勝ち進んでいるし、日本開催のラグビーW杯ではベスト8と大躍進をした年なので、この野球でも世界一奪還は快挙である。スポーツで世界を震撼させた日本!素晴らしいではないか!!

<記事>

[プレミア12|決勝]日本5-3 韓国/11月17日/東京ドーム
 10年ぶりの歓喜が、興奮が、東京ドームを、日本を包んだ。

 侍ジャパンは17日、“2日連続”で宿敵・韓国と対戦し、5対3で勝利した。2009年の第2回WBCで同じ韓国を下して以来、実に10年ぶりの国際大会での優勝。15年のプレミア12・準決勝で苦杯をなめた相手にリベンジを果たし、同大会で初の頂点に立った。
 プロローグは最悪だった。先発を任された山口俊(巨人)は初回、制球が定まらず先頭打者を四球で出すと、2番のキム・ハソンに技ありの2ラン。さらに5番打者にも一発を浴びてまさかの3失点KOとなった。    気落ちを隠せない東京ドームに詰めかけた満員のファン。しかし、日本には頼りになる男がいる。大会3冠王の4番・鈴木誠也(広島)がレフトフェンス直撃の二塁打を放ち、四球で出塁した坂本勇人(巨人)を生還させて即座に1点を返した。
 さらに2回、2死後に四球と安打でチャンスを作ると、打席には1番・山田哲人(ヤクルト)。カウント2-2から、相手エースのヤン・ヒョンジンの決め球チェンジアップ、スライダーを4球ファウルで粘ると8球目。内角低めの速球を一閃。打った瞬間それと分かる打球は左中間スタンドに突き刺さり、日本は4対3と試合を一気にひっくり返した。    その後、日本は再三チャンスを作るもあと一本が出ない嫌な展開だったが、高橋礼(ソフトバンク)の後を継いだ田口麗斗&中川皓太の巨人のレフティコンビが4~6回をゼロに封じて流れを渡さない。7回には今大会いまだノーヒットの甲斐野央(ソフトバンク)がマウンドへ。最速158kmの剛球を武器に韓国打線をねじ伏せ、大会通算成績を5.0回無安打7奪三振と素晴らしい活躍で終えた。
 甲斐野が作った流れは攻撃陣に波及し、先頭の坂本があわや本塁打という左翼フェンス直撃の二塁打。2死後、5番・浅村栄斗(楽天)が彼らしい逆方向へのタイムリーを放って、待望の追加点をもたらした。8回は山本由伸(オリックス)が8球で三者凡退。145km超のフォークで2三振を奪った。
 9回、『ヤスアキ・ジャンプ』に東京ドームが揺れる。侍ジャパンの絶対的守護神・山﨑康晃(DeNA)がマウンドに上がり、声援をあとに無失点ピッチング。エピローグは静かに、いや最高の熱を帯びて締めくくられた。日本は5対3で勝利し、悲願の大会初優勝。山﨑が最後のアウト取った瞬間、稲葉篤紀監督は緊張から解放されたように涙があふれていた。
 来年の東京五輪に向けて、稲葉ジャパンの視界は良好だ。8か月後、再び金メダルを首から下げる侍ナインの姿が待ち遠しい。

巨人軍~闘魂こめて~

闘魂こめて~読売ジャイアンツ球団歌


映画『パピヨン』、ここに描かれている生きることへの強い思い、自由への渇望!

2019年11月12日 22時00分42秒 | Weblog

 私の中で、最高評価をしている映画がある。それは、スティーブ・マックイーン、ダスティン・ホフマン主演の生きることへの強い思い、自由への渇望を囚人という位置から描いた『パピヨン』という映画である。
 これまで多くの映画作品を観てきたが、これほど自分自身が衝撃を受けた映画はなかった。映像美やヒューマンドラマとしての完成度の高い映画作品は色々あったが、ここまで人間の生き様や自由への思いを映像の中から、凄まじく衝撃を与える作品はなかった。今後は分からないが、数百本の映画を見てきた現在、私の中で、この『パピヨン』以上に衝撃や強い思いを受けた作品はなかったということなのである。
 人間は、人それぞれ感性があるので、なんでの作品がと思う人もいるかも知れない。でも、私自身にとって、この映画作品は、至高の作品であり、他の物に代替できない貴重な映画作品なのである。

 『パピヨン』(Papillon)は、1973年のアメリカ合衆国の伝記犯罪映画。フランクリン・J・シャフナー監督。 胸に蝶の刺青をしていることで「パピヨン」と呼ばれた男が、1931年に無実を叫びながら終身刑となったものの、脱獄に成功し、後にベネズエラ市民権を取得したというアンリ・シャリエールの同名自伝小説を映画化したもの。当時の公開コピーによると、小説は世界1,000万部のベストセラーを記録。製作のロベール・ドルフマンと製作総指揮のテッド・リッチモンドは、『レッド・サン』で、大スターの顔合わせを実現して話題となっており、つづいて本作でもマックイーンとホフマンの2大スター共演を実現させた。ジェリー・ゴールドスミスの音楽は、1973年度のアカデミー作曲賞にノミネートされ、しばしば映画音楽の名曲の一つとしてコンサートなどで取り上げられてきた。

 ケチな金庫破りで捕まった男。その男は胸に蝶の刺青を入れていることから「パピヨン(蝶)」とあだ名されていた。パピヨンは仲間の裏切りに遭い、幾つもの罪を着せられた末に終身刑の判決を受けてしまう。この刑を受けた人間は、祖国フランスを追放される上に南米ギアナのデビルズ島で過酷な強制労働が科せられるのだった。パピヨンは脱獄を決意。しかし、それには看守を買収した上、ボートや食料を入手するための多額の資金が必要だった。そこでパピヨンは同じ服役囚のドガという男に目を付ける。ドガは国債偽造で逮捕された男で、今もその腕が噂される偽札作りの天才だった。当初パピヨンはドガと取引することで逃亡費用を稼ごうとするが、やがて二人は奇妙な絆で結ばれてゆく。

パピヨン Papillon 1973


「バットマン」とは?

2019年11月05日 22時25分07秒 | Weblog

 前回は、映画『ジョーカー』から、悪党となっていくジョーカーの生業をご紹介したが、今回はジョーカーに対峙する正義の味方である「バットマン」に触れてみたいと思う。
 バットマン(Batman)は、DCコミックスから刊行されているアメリカン・コミック作品、および主人公の名称である。スーパーマンと並ぶアメコミ有名ヒーローなのである。 ゴッサム・シティを舞台に、ブルース・ウェイン青年がマスクを被りバットマンに変身して悪と戦うというのが基本的なストーリー。原作者はアーティストのボブ・ケインと作家のビル・フィンガー。1939年にアメコミ誌上に初登場して以来、アニメ、実写映画、ゲーム、パチスロやパズドラとのコラボなど様々なメディアミックスが行われている。
DCコミックスのもう1人のスーパーヒーローであるスーパーマンらとはたびたび共演しているが、バットマン自身は他のヒーローのような超人ではなく、努力と知恵を駆使して戦い、心身共に弱さを持つ「ただの人間」である。
 コウモリを模した高性能スーツを身に纏い、特殊車両バットモービルや小型戦闘機バットウィングを駆って夜のゴッサム・シティを守っており、その活躍ぶりから『ゴッサムのダークナイト』『世界最高の探偵』『ケープを纏った救世主』など多くの二つ名を持つ。ジャスティスリーグの創立メンバー(Original Seven)の1人。
表向きの顔はゴッサム随一の大金持ち、著名な慈善家、ウェイン・エンタープライズ社の筆頭株主。幼少期に目の前で両親が殺害されたトラウマから犯罪を憎悪するようになり、犯罪者と戦うクライムファイターとして生きることを決意する。
基本的には何よりも正義と公平を重んじる誠実でストイックな性格だが、同時に厳格で自分にも他者にも厳しい所があり、ことに犯罪者には情け容赦がない。気難しく頑固なところもあり、家庭の愛情を知らないためか、人に素直な愛情を見せることが苦手。自虐的かつ自罰的で、やや悲観的な現実主義者、人間的には脆いところがあるが、根本は人間の善性を信じる男。
正体を伏せるため、ブルースである時は敢えて軽薄な人物を装ってプレイボーイとして名をはせているが、常にバットマンとしての自分を優先させてしまう為に、女性との関係は長続きしない。 バットマンとして畏怖の象徴となる一方、ブルース・ウェインとしては亡くなった両親同様に熱心な慈善活動家であり、犯罪の遠因となる貧困等と戦っている。一方で慈善活動は軽薄さの口実と社交界では揶揄されている。
相手が悪人であっても絶対に殺人はしないこと』と『銃は使わないこと』を信条として掲げており、これらはいずれも彼のトラウマが根源的な原因となっている。

能力

先述の通りバットマンは身体的にはただの人間である。だが、極限まで鍛え上げた肉体と格闘術、不屈の精神力、卓越した知能と探偵術、豊富な科学知識で開発した数々の秘密兵器を武器にゴッサムシティの悪漢と互角以上に渡り合っている。 彼のヒーローとしての活躍を支えているのは、ひとえに彼の努力と知性、そしてその豊富な資金力である。
また、様々な犯罪者を相手に長年戦ってきたことから、犯罪者に関する膨大な知識と豊富な戦闘経験を蓄えており、殊に白兵戦闘技能についてはDCヒーローの中でも最高クラスを誇る。 加えて極めて高い洞察力と非常に鋭い勘の良さ(というか殆ど千里眼レベル)を持ち、頭脳戦や策謀戦にも長けていることから、身体能力的にはバットマンを遥かに凌ぐような敵に対してもその裏を掻くことで勝利をもぎ取ってしまう。 さらに自身が何の特殊能力も持たないが故に、もしもの場合に備えて他のヒーロー達のスペックや弱点まで周到に研究・熟知しており、たとえスーパーパワーを持つヒーローでもバットマンを相手に勝つことは容易なことではない。しかしそれが時に仇となって、後述の様に敵の手に渡ってしまった事もある。
その峻烈な制裁と威圧的な漆黒のコウモリの姿ゆえに、バットマンはゴッサムの犯罪者達にとって『恐怖』の体現者として恐れられている。

オリジン

コウモリのスーツを纏う理由は、その異形の姿で犯罪者達が二度と犯罪に走らないように恐怖を植え付けるためであり、ブルースにとってコウモリこそ最も嫌う動物であり最大の恐怖の象徴でもあるため。 何故コウモリがブルースにとって恐怖の対象になったのかについては時期や作品によって微妙にまちまちだが、基本的には以下の通り。

幼少期の彼は普通の子供としてコウモリを怖がっていた。そんなある夜、ブルースが両親と共に観覧した演劇に登場したコウモリが怖くて両親にせがんで途中退場した直後、強盗に襲われて両親は目の前で射殺されるという悲劇が起こる。 この時の経験から「自分があと少しだけ恐怖に耐えてさえいれば両親は死ななかった」という悔恨の念と共に、コウモリが死を象徴する強烈なトラウマとしてブルースの精神に刻みこまれた。
犯罪と戦うことを決意したブルースは10代半ばにして複数の大学で犯罪心理学・法医学・化学・犯罪捜査術を究めた後、世界各地を無一文で放浪する旅に出て様々な武術や格闘術、忍術といった戦闘技術と追跡術等の探偵術を習得する。
修行の旅から帰ってきたブルースはさっそく犯罪者との戦いを開始するが、当初は顔を隠す程度の変装で失敗してしまう。この失敗から、ただ制裁するだけではなくより強烈な手段で犯罪者達に『恐怖』を植え付ける必要があると考えたブルースが注目したのが、自らの悔恨と恐怖の象徴であるコウモリだった。 ブルースは自分自身がコウモリとなってトラウマを克服して恐怖に打ち勝つという誓いと共に、それだけ自らが畏れる者の姿をとることで今度は自身が犯罪者達の畏れる恐怖の象徴となるべく、コウモリの姿を象ったスーツを纏い、バットマンとなる。 やがて犯罪者と戦うバットマンにとって『恐怖』は攻撃にも防御にもなる有効な手段となっていく。その異形の姿で暗闇から現れることで敵は混乱し、恐怖心によって誇張された噂や都市伝説はそのまま犯罪者達への警告になるからであった。
なお、映画版等で現在よく知られている以上のオリジンは1987年のコミック『バットマン:イヤーワン』に準拠しているが、それ以前の旧設定では「犯罪者は臆病で迷信深いから何か怖い格好するといいかもしれない…あ!コウモリとか不吉でいいかも!」とかなり軽いノリで決めてたりする。

バットマンも敵がどんな外道であっても殺しはしない。その鍛え上げられた肉体を駆使して制裁を加える程度であり、相手が死に瀕した時には寧ろ手を差し伸べて助けようとさえすることもある。
しかし、殺さないとは言っても悪人に対してはとにかく容赦が無く、窃盗やカツアゲのような軽犯罪であっても一切見逃すことなく、過剰なほどの暴力的制裁を加えることもある。悪党に対する暴力的尋問にも定評があり、蹴るわ殴るわ折るわ焼くわ切るわ叩きつけるわ吊るすわと非常に苛烈。
悪人には容赦しないが殺人は断じてしない、という姿勢はバットマンをダークヒーロー足らしめる要素になっているのと同時に、ヴィランの大半が心身喪失に当てはまって罪に問えず、情状酌量で精神病院(なお、この病院にもブルース・ウェインとして資金援助を行っており、犯罪者の精神の回復も推進している)に入っても脱走して犯罪を繰り返し、更なる被害が生じるという弊害ももたらしている。 さらに犯罪者達の中には宿敵ジョーカーやスケアクロウ、リドラー、ハッシュの様に、バットマン自身に執着することが自己目的化している輩も多く、結果としてだがバットマンが間接的な原因となって事件を呼び起こしてしまうという構図もまま見られる。 
そして、原則的に言えばバットマン自身が不法で過激な制裁を行う犯罪者でもある。 何よりもバットマンの「犯罪者に家族を殺されたトラウマに囚われ、コウモリのコスプレをしながら法を無視して勝手に命懸けで犯罪者と戦い、だが決して殺さない」というスタイルは常軌を逸しているとも言え、バットマンとヴィランは皮肉にも「過去のトラウマが原因で常軌を逸した行動を起こすに至った似た者同士」でもある。 限りなくヴィランに近い本質から、事情を知らない市民の中には彼をいつ暴走するかわからないアウトローとして危険視する人々が少なからず存在することもまた事実である。
更には高潔で絶対的なヒーローであるスーパーマンや他のDCコミックのヒーロー達はおろか、クロスオーバー的な作品ではマーベル・コミックスのヒーロー達(特にアベンジャーズ)にまで、バットマンはかなり辛辣に批判されており、危険思想の持ち主と見なされてしまう事さえもあり、逆に言えばそのくらいにバットマンは、アメコミのヒーローの中でも極めて異質な存在に見えてしまう様である。 ジャスティスリーグ結成後も、他のヒーロー達が暴走する事を懸念して素性や弱点まで調査していた結果、ラーズ・アル・グールの情報リークによって完全に孤立してしまい、結局は実質上脱退してアウトサイダーズを独自に結成するに至っている(現在は一応元の鞘に収まっている)。
ジョーカーがバットマンと関わった事で誕生してしまったのは、バットマンの存在自体が生み出してしまった最大の弊害であるとされており、バットマンと真逆の思想の持ち主であるジョーカーは、そんな彼のことを「最高のイカレ野郎」と評し、自身の同類である「狂人」と見做している。 この「バットマンもまた狂人かもしれない」というテーマは『キリングジョーク』などの原作コミックにおいてたびたび言及されている他、ティム・バートン版映画及びノーラン版映画『ダークナイト』等においても重要な要素となっている。
もちろん、犯罪を犯すものはマフィアやギャング、警察官を問わず断罪し、法を無視して動けるバットマンの存在が無ければゴッサム・シティが犯罪者やテロリストによって蹂躙され続けるしかなかったのもまた間違いなく事実である。 実際、ゴッサムシティの治安は、ブルースがバットマンになる以前どころか、彼の両親がチンピラに殺害されてしまう以前から、壊滅レベルに等しい状態であり、シティを守るはずの警察でさえ、当時はジェームズ・ゴードンを除く警察官の多くが、マフィアやギャングと癒着している等、汚職塗れな有様であった。 更にはラーズ・アル・グールやベインの様に、ゴッサムシティを腐敗の象徴と見なし壊滅させようとしている凶悪なヴィラン達からも狙われていた為に、バットマンが現れなければ、ゴッサムシティは冗談抜きで世紀末状態になっていたのは、想像に難くない。 実際、1999年のクロスオーバーシリーズ『ノーマンズ・ランド』では、大地震によってゴッサム・シティが地理的に孤立して無政府状態となった結果、本当にそうなってしまっている。
バットマンも自身の戦いに市民を巻き込むつもりは毛頭無い。だが本人の意思に関係無く、バットマンの戦いは時に無辜の市民や彼の大切な人々を渦中に引き込み、常人には到底耐えられない過酷な選択を彼に強い続ける。 そして、バットマンが法でコントロールすることができない存在である以上、彼の行う『正義』は彼自身に託された状態にあるということでもあり、「自分の『正義』を貫くためにどこまでやるべきなのか?」「そのためにヒーローはどこまで自分の人間性を犠牲にするべきなのか?」という問いはバットマンシリーズ、ひいてはバットマンをモデルとして生まれた後続のダークヒーローたち全てに突きつけられた永遠の命題でもある。

 なお、不殺の誓いについて言うと「人々を守る」ことが最優先であるため原作最初期とソロモン・グランディやメタロやニューゴッズやパラデーモンなどの間、映画(特にティム・バートン版)では話は別。 原作最初期では当たり前のように悪人を殺す描写が見られた。アニメ『ジャスティスリーグ』の第45話「Hereafter」でもニューゴッズのカリバックに対してミサイルをぶっ放している。 ティム・バートン版に至っては人を殺せる点に加えてバートンの作風の都合上、下手したら精神病院行きが確定しかねないレベルの精神破綻者としての面も付け加えられている。
クリストファー・ノーラン版三部作(ダークナイト・トリロジー)では、ダークヒーローとしての性格や人間的な脆さがより強調されており、特に一作目『バットマンビギンズ』においてはラストでの敵キャラクターとの一騎打ちの後、そのキャラクターが放っておけば確実に死亡するであろう状況に陥った際には助けようとせず、直接手を下してはいないものの殺害する。
DCエクステンディッド・ユニバースシリーズでは、『ダークナイト・トリロジー』での人間的な脆さを悪い意味で乗り越えた設定になっており、「間」の対象がエイリアンであるスーパーマン、ドゥームズデイにも適用されている。パラデーモンについては言わずもがな。


以上が、バットマンについての概要である。人間社会でのブルース・ウェインとしての顔とバットマンスーツに身を包んだ顔の2面性を持つ、悪を憎む人間なのである。

Batman TV Opening


凄まじい迫力、映画『ジョーカー』!

2019年11月04日 13時17分40秒 | Weblog

 凄まじい迫力ある映画を久々に観た。バットマンの宿敵である悪党ジョーカーの成り立ちを克明に描いた映画『ジョーカー』(2019年アメリカ制作)である。アメコミのバットマンの最も強力な敵対悪党ジョーカーが、どのようにしてあのような人間的な情愛もない冷徹な悪党に成っていったのかが、この「ジョーカー」には克明に描かれている。この評価については、以下の評論を参考にしたい。

<評論>
 世界的な大ヒットとなった映画『ジョーカー』。劇中には1970年代と80年代のニューヨークを思わせる細かな描写だけでなく、実際に起きた事件や過去の映画のオマージュもそこかしこに隠されている。さまざまなディテールの上に構築されている作品だが、最も本質的な歴史的要素についてはあからさまに歪曲し、見て見ぬ振りをしている──。映画批評家のリチャード・ブロディによるレヴュー。

1970年代と80年代のニューヨークを舞台にした2本の映画『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』。それらの名作へのオマージュであるという以前に、映画『ジョーカー』はゴッサム・シティという架空の都市に設定を依拠している。そしてコミックが原作であるストーリーを口実として、非常に狭量で否定的な側面から現実世界の犯罪を想起させてくるのだ。

それは意図的にではなく、どちらかといえば結果としてそうなった、ということなのだろう。こうして生まれたのが、あまりに漠然と広がるシニシズムの世界である。それが軽薄さを感じさせる美的センス以上に、鑑賞体験をより空虚なものにしている。

実際に起きた事件を暗示させるシーン

『ジョーカー』の舞台は、薄汚れていて不穏な空気が漂うニューヨ──でなくゴッサム・シティだ。時代設定は、おそらく(小道具や衣装などから推察するに)1980年ころと思われる。ピエロに扮したアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、“ミッドタウン”の雑踏で音楽ショップの人間広告塔として働いている。

ここで最初のドラマティックな場面が訪れる。有色人種のティーンエイジャーの集団がアーサーにちょっかいを出し、彼が持っていた看板を奪ってしまう。アーサーはゴミだらけの路地(街ではゴミ収集業者による最悪なストライキが起きている最中だ)まで彼らを追いかけていくが、少年のひとりが奪った看板で彼を殴り倒す。そして少年たちは集団で彼に殴る蹴るの暴行を加える。薄汚れた路地にひとり残されたアーサーは、あざだらけで血を流しながらすすり泣く。

これは実際に1989年にニューヨークで起きた「セントラルパーク・ジョガー事件」を暗示している。「有色人種の若者グループが孤立した傷つきやすい白人を襲った」という思い込みから、5人の若者たちが有罪判決を受けたが、冤罪だったという事件だ(彼らは「セントラルパーク・ファイヴ」と呼ばれている)。

 

劇中ではこうした史実からは離れ、あの5人は犯人ではなかったかもしれないが、あの惨事を引き起こした集団は別にいたのだと語りかけてくる。彼らは扇動家が生み出した憎悪に満ちた想像の産物ではない──その後に続く凄惨な行為の火種となるのだ。

ホワイトウォッシュされた過去の事件

ほどなく、次の残忍な場面が訪れる。アーサーは自分が所属するピエロ派遣業者のオフィスのロッカールームに戻る。同僚たちがアーサーに対する暴行事件を話のネタにするなか、威圧的な同僚のランドル(グレン・フレシュラー)が彼に銃を手渡してきたのだ。

その後、地下鉄で若い男の3人組(スーツを着た白人)に襲われたアーサーは、銃を取り出して発砲する。そのうちひとりにいたっては、わざわざ駅のプラットフォームまで追いかけて撃ち殺すのだ。このシーンも1984年に実際に起きた事件を想起させる。バーナード・ゲッツという男が地下鉄で4人のティーンエイジャーを銃撃した事件だ。

ゲッツは当時、若者たちが強盗ではないかと思ったと語っていた。彼が銃撃した4人の若者たちは黒人で、ゲッツは逮捕後に人種差別発言を行っている。『ジョーカー』の劇中では、監督のトッド・フィリップス(スコット・シルヴァーとの共同脚本)が、ゲッツの事件をホワイトウォッシュ(白人化)して人種的な動機を取り去ることで、自己防衛に歯止めがかからなくなった末の事件に転化している。

他人とのかかわりの不在

これらのふたつの事件の間に、アーサーが乗客で混み合うバスに乗っている場面がある。自分の前に座っていた子どもが振り返ると、アーサーは楽しそうに顔芸を披露して笑わせようとする。ところが子どもの母親は、息子に構わないでくれと厳しい口調でアーサーに注意する。この親子は黒人だ。

 

その翌日、帰宅するアーサー(彼は病院で子どもたちを相手にピエロの仕事をしている最中にポケットから銃を落としてしまい、クビになっている)は、ソフィー(ザジー・ビーツ)という隣人の女性に出会う。彼女にも小さな子どもがいる。ソフィーとその子どもも黒人だ。

ソフィーと短い会話を交わしたアーサーは彼女に執着心を抱き、彼女とのロマンティックな関係を妄想する。こうした他人とのかかわりの不在が、ほかのさまざまな苦難とともに彼を苦しめることになる。

さらにもうひとつある。アーサーは治安の悪い地区の一角にある寂れたアパートの一室で、母親のペニー(フランセス・コンロイ)と暮らしている。ペニーには障害があり、アーサーは彼女を介護している。母親が寝静まったあと、アーサーは深夜にテレビで古典映画の名作を観ている。流れているのはフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが主演の『踊らん哉』だ。

流れてくる曲は、ジョージとアイラのガーシュウィン姉弟による「スラップ・ザット・ベース」で、遠洋定期船の機関室(かなり様式化されている)で働く黒人男性たちが作業しながら歌い、音楽を奏で始める。そこにはジャズバンドがいて、ひとりの男(ダッドリー・ディッカーソン)が、同僚たちのコーラスのリフに合わせて歌いだす。そこにアステアが加わり、彼らの歌と演奏に合わせて踊り始める──。この場面をアーサーは銃を手に持ったまま観ながら居間で踊りだすが、踊りに夢中になっているうちに不注意で引き金を引いてしまう。

無化された事件の本質

『ジョーカー』は強烈に人種問題を意識させるようにつくられた映画であり、人種のお約束にまみれたドラマがそこかしこに散りばめられている。それらは非常に挑発的で、困惑させられるほど精査されていない。

作品が語ろうとしていることには、まったくもって一貫性がない。精神を病んでいるアーサーが有色人種の集団に襲われて暴力性に目覚めたことや、黒人女性には冷淡な態度をとられ、他人から無視されていると信じ込み、陽気な黒人労働者の脇役たちに囲まれる魅力的な白人スターになるというアイデアに歓喜している、といったことを示唆している程度だ。

 

しかし、セントラルパーク・ファイヴについて公に語られていることやバーナード・ゲッツの事件、そしてこの現実世界とは異なり、『ジョーカー』における言説やアーサー・フレックの思考プロセスからは、人種や社会的特異性といった発想が完全に欠落している。

確かに『ジョーカー』は架空の都市を舞台にしたコミックの世界のファンタジーだが、そこで起きる事件やその影響については、現実世界に寄生するかのように実際の出来事から“拝借”している。そこで参照されているさまざまな事件は、人種差別的な言説や態度の原因かつ産物である。そして長きにわたって歴史的とも言えるほどの重みをもった「現実の人種差別」を生み出してきたのだ。

『ジョーカー』の核となる事件(ネタバレを避けるためにはっきりと言及はしない)も、現実世界の事件を示唆するものだが、ここでも監督のフィリップスはその言説や本質を無化している。その結果、共鳴し合う事件や魅力的なディテールを伴ったストーリーを創り上げようという試み以上に、『ジョーカー』にはひとりの映画監督、あるいは映画スタジオの政治的な臆病さが反映されており、この街の現代史や現在の米国政治といった具体性が欠落している。その理由は、映画が政治的文脈で語られることに対して不満を募らせている観客(つまり共和党員)に向けて、単なるエンターテインメントとして提供するためなのだ。

隠された政治的なレトリック

『ジョーカー』では、アーサーが精神を病んでいることはすぐに分かり、彼もそれを自覚している。彼は7種類の薬を服用しており、もっと薬がほしいと思っている(彼が抱える問題の原因は映画の後半で明らかになる)。

 

しかし、ゴッサム・シティは明らかに財政難に陥っている(思い出してほしい。1975年にニューヨークは財政破綻寸前の状況にあった)。社会福祉の予算は削減され、アーサーも薬をもらうことができなくなった。その結果、アーサーの妄想はさらに深刻化していく。すでに暴力的な傾向はあったものの、その暴力性はより計算された標的を絞ったものになっていくのだ。

ここでも本作は、現在の政治のレトリックを提示する。これは主に銃規制に関して共和党員が強調することだが、すべての人を対象にした規制ではなく、精神的に問題を抱えた人のみを規制の対象にすべきだというレトリックだ。

アーサーが連続殺人に目覚めるなか、ひとりの有名人がアーサーのような殺人者たちを「ピエロ」と呼ぶ。その人物はトーマス・ウェイン(ブレット・カレン)。裕福な銀行家であり、数十年前にアーサーの母ペニーも彼の下で働いていた。そしてもちろん、彼の息子の名はブルースという。

この発言をきっかけに、活動家たちによる大規模な運動が突如として起こる。彼らはピエロに扮し、富裕層や権力者たちを標的にする。これはヒラリー・クリントンがドナルド・トランプの支持者の大多数を「哀れな人々」と呼んだ“事件”に類似している。一部の人々は、この「哀れな人々」という言葉を名誉の証として使うようになったからだ。『ジョーカー』において「ピエロ」という形容は、脅威として迫りくる左翼の急進派に向けられている。

コメディアンとしての夢

アーサーはスタンダップコメディアンとしての成功を夢見ており、セラピー目的で日記をつけるためのノートに、彼が言うところのジョークを書きためている。彼は大量の文字を震える手で熱心にノートに書き込んでいる。劇中でもノートの内容を(雑誌のポルノ写真の切り抜きを含めて)垣間見ることができるものの、画面に映る文章は個人的な内容に限られている(「俺の死は俺の人生よりもまともであることを願う」「メンタルヘルスに問題を抱えていて最悪なのは、自分はまともに振る舞っているつもりでも他人はそれを理解してくれないことだ」など)。

 

アーサーが何を考えているにせよ、わたしたちは彼について多くを知ることができない。彼が自分の生きている世界について何を考えているにせよ、その内容が明かされることはないのだ。彼のノートは実質や目標を欠いたマニフェストである。

彼の努力の大半は思索的なものであり、唯一実態があるものといえば、コメディクラブで開催されたオープンマイクナイトで披露した悲惨なステージぐらいだ。それでもコメディアンになりたいというアーサーの夢に付随するかたちで、彼はマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)という深夜のトークショーの司会者に執着心を抱く。

ちなみに『キング・オブ・コメディ』で、デ・ニーロはフラストレーションを抱えた売れないコメディアンのルパート・パプキンを演じている。パプキンもまた架空のトークショーの司会者でジェリー・ルイスが演じるジェリー・ラングフォードに執着していた。この司会者の人選もひとつのリファレンスで、ニューヨークのローカルな低予算トークショーの司会者だったジョー・フランクリンがモデルになっている。

歴史的なリファレンスは徹底しているが……

このように、『ジョーカー』はこの時代のさまざまなディテールの上に構築されている。冒頭のラジオニュースレポートを放送しているのは「1080 WGCR」というラジオ局で、アナウンサーの名前はスタン・L・ブルックスである。これは実在する「1010 WINS」と同局のアナウンサーだったスタン・Z・バーンズのパロディとなっている。

劇中の小道具も具体性を帯びている。押しボタン式の電話や電動タイプライター「IBM Selectric」、斜め窓の市バス、グラフィティだらけの地下鉄車両、ネオンサイン、そして70年代や80年代のファッションなどが特徴的だ。そこにはまばゆいばかりのアナクロニズム(ウェス・アンダーソンの映画や『ジョン・ウィック』シリーズなどに見られる)は提示されないが、ある時期のニューヨークを想起させるように焦点が絞られている。

 

しかし、これらの点において『ジョーカー』は歴史的なリファレンスを徹底しているものの、最も本質的な歴史的要素についてはあからさまに歪曲し、見て見ぬ振りをしている。『ジョーカー』はつくり話のために歴史をねじ曲げた、コミック版『グリーンブック』なのである。

“なりたがり”の映画

『ジョーカー』の主題の矛盾は、美的な空虚さと不可分である。躁鬱を繰り返すフェニックスは、下着や派手なコスチュームを身にまとい、派手なダンスを披露したり、怒りに駆られて熱狂したり、恐怖に身をゆだねたり、なまりのある言葉で突飛な行動をとったりする。それは精神的に不安定というよりも、意欲なく、あてどなく漂っている感じだ。

そこでフェニックスが見せるものは、役者としてのトリックの数々というよりもパフォーマンスにすぎない。それらはとても素晴らしいものではあるが、空虚な骨組みであるキャラクターを装飾すると同時に、どう見てもターゲットとなる観客を遠ざけることを恐れるあまりに計画的に空虚にされている。

この映画が『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』の物まねであることは明らかだろう。デザインや時代設定も、これらを模倣している。しかし、『ジョーカー』がパロディであり真似ごととして無神経にも商業利用した極めて重要なものは、『ブラックパンサー』だ。コミックをベースに入念につくられた世界観とともに、緻密に計算された大胆かつ明らかな政治的ヴィジョンをフレームワークに注入した作品である。

『ジョーカー』は、あらゆるものをすべての視聴者に届ける存在になりたいという、“なりたがり”の映画である。実質性をもたせるという観念だけを模倣していて、実際のところは中身が抜け落ちている。『ジョーカー』を観るという行為は、感覚が麻痺するような稀少な“空虚さ”を体験するということでもあるのだ。



 なるほどと感じ入ってしまう。しかし、この映画作品はやはりアメコミの作品であるということが、映画の途中に出てくる映像で分かるのである。そう、将来のバットマンとの出会いである。ゴッサムシティの名士で政界に進出し市議会議員となるが、医療制度の解体を推し進めたことで困窮する貧困層からバッシングを受けているトーマス・ウェインの息子ブルース・ウェインが、将来のバットマンなのである。自身の目の前で無残にも両親を殺されたブルース・ウェインは、悪と対峙することを決意するのであった。

 

映画『ジョーカー』本予告【HD】2019年10月4日(金)公開