昨日、8月12日という、あの悍ましい「日本航空123便墜落事件」が発生した日がまたやってきた。この墜落事件発生から31年が経過してしまうのに、一向に真相が開示されることがない。国家機密に絡む重大事件だからなのであろう。当時の自衛隊の存続、日本政府の存立が、大きく左右されるほどの大事件だったのである。
私のブログでも、当時、この123便にはOSシステム研究者や歌手の坂本九も搭乗していた事実をお伝えした。今になっての話ではあるが、あのお笑いの大御所・明石家さんまもこの飛行機に乗って大阪に行く予定だったようであるが、番組の収録が早く終了し、1便早い飛行機に変更したということを明言している。これがなければ、あの明石家さんまも今の世界にはいなかったことになるのである。なんとも、人の人生とは分からないものなのである。
日航機墜落事件については、次のような記述があるので、それを引用したいと思う。事の真相は、マスコミの全精力を使ってでも明らかにされねばならないと感じるのである。
<記述引用>
1.御巣鷹山飛行機事故の真相
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池田昌昭著
『JAL123便は自衛隊が撃墜した』/文芸社刊
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思わずギョッとするようなタイトルです。タイトルを見る限りキワもののように見えます。しかし、実はこの本は2冊目であり私がEJに取り上げる直前にさらに3冊目が出版されているのです。そして、2001年7月に4冊目が出ています。内容はキワものではなく、事実に基づいて記述されています。
関連書籍については、あとでまとめてお知らせしますので、まずはEJのレポートを読んでいただきたいと思います。読み進めるにしたがって、池田氏の2冊目の本のタイトル『JAL123便は自衛隊が撃墜した』という結論に近づくのかどうかです。
1985年8月12日、羽田発大坂行きJAL123便は、乗客509人、乗員15人、合計524人を乗せて、午後6時12分に羽田を離陸したのですが、午後6時56分30秒、群馬県側の山岳地帯である御巣鷹山に墜落――乗客のうち重傷4名は8月13日に救出されたものの、505人の乗客と15人の乗員は還らぬ人となったのです。
問題は事故の原因です。当時の運輸省航空事故調査委員会は結論として、次のように述べています。
報告書はもっと詳細なものですが、重要な部分のみ書きます。
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機体後部の圧力隔壁の破壊による機内与圧空気の急激な噴流により、垂直尾翼を噴き飛ばし、JAL123便は操縦不能となり、御巣鷹山に墜落したものである
――運輸省航空事故調査委員会の報告書より
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大きな疑問点は、次の3つがあります。
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1.圧力隔壁は何によって破壊されたか
2.機内急減圧が本当に起きているのか
3.墜落場所がなぜ御巣鷹山になったか
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事故調査委員会は、機体後部の圧力隔壁が破壊された原因について、「疲労亀裂の進展で残留強度が著しく低下したため」としています。JAL123便は、垂直尾翼が3分の2も損傷しているのです。航空機の垂直尾翼は非常に頑丈なものであり、簡単に破損するものではないのです。機内与圧空気の急激な噴流などで壊れるものかどうかは疑問です。
事故調査委員会は、機内与圧空気の急激な噴流が尾翼破壊の原因という説を正当化するために、圧力隔壁の破壊を後からつけたのではないでしょうか。
もし、与圧空気の噴流が頑丈な垂直尾翼を吹き飛ばすほど強いものであったなら、機内にはその空気抜けによる急減圧が起きているはずなのです。何しろ高度24000フィート(7200メートル)で起こったことなのですから、機内の人たちは大変なことになっていたはずです。
しかし、生存者の証言を調べても、そのような急減圧は起きているフシはないのです。事故調査委員会も急減圧の起きていないことは一応認めており、これを解明できない未解決事項としているのです。
垂直尾翼が破壊された原因を常識的に考えると、何らかの飛行物体が尾翼にぶつかったのではないかということになります。疲労亀裂で圧力隔壁に穴が開き、内部の空気の墳流によって尾翼を飛ばしたという説明はかなり苦しいのではないでしょうか。
そして、3つ目の疑問は、なぜ航路から大きく外れた御巣鷹山に墜落したのでしょうか。途中で操縦不能になり、ダッチロールによって御巣鷹山まで行ってしまったという説を信じている人は多いのですが、御巣鷹山に行く必然性がないのです。
このように、事故から17年を経過しても、なお不明なことがあまりにも多いのです。これら多くの疑問点にひとつずつメスを入れていくことにします。
2.後部圧力隔壁破損は起こっていない
JAL123便は、疲労亀裂の進行によって後部圧力隔壁に穴が開き、機内与圧空気の噴流によって垂直尾翼の3分の2を損傷して操縦不能に陥ったとされています。高度2万4000フィート(7200メートル)の上空でこれは起こったのです。
しかし、この場合、機内は気圧が急速に下がって、もの凄い風が機内を吹き抜けるはずです。ところがJAL123便の場合、そういう急減圧は起こっていないのです。
実は、御巣鷹山事故後の1986年10月26日、タイ航空のエアバスA300型機が土佐湾上空を通過中、ある乗客が手榴弾をトイレで爆発させるという事件が起こったのです。
このときは後部圧力隔壁が破壊されて、急減圧が発生したのです。操縦士はすぐに急減圧の発生を認識し緊急降下しています。
機内与圧空気は、機内を強い風となって通り抜け、最後部にある洗面所の化粧台を倒壊して、圧力隔壁後方へと抜けたのです。
これによって搭乗者247名中89名(36%)が航空性中耳炎になり、「ツーン」とする耳の痛みを訴えています。乗客が写した機内写真によると、落下した酸素マスクと、床に散乱した無数の荷物が写っています。
これは、明らかに減圧現象を示しているのです。乗客の証言によると、「風が前から後ろに向かって、『ブァー』と入ってきた。そして飛行機が『バァー』と下に降りた」といっています。
しかし、JAL123便では、急激な機内空気の後方への流れも、飛行機の急降下も起きていないのです。
しかし、事故調査委員会の報告書では、JAL123便では、客室後方への風速は1秒間にほぼ10メートルだったと計算しています。
事故調査委員会のいうように、1秒間に10メートルの風が本当に客室後方に噴き抜けたとすると、JAL123便の機内は相当ひどい状態になるはずなのです。元日本航空のパイロットである藤田日出男氏らの計算によると、JAL123便の場合は、荷物が飛んだタイ航空エアバス機の3倍以上になるというのです。
その風の勢いは、荷物どころか乗客まで後方に噴き飛ばしてしまうはずなのです。しかも、後部圧力隔壁が破損し、垂直尾翼の3分の2が噴き飛んだとすれば、乗客や荷物は機外に吸い出されてもおかしくはないのです。
しかし、実際のJAL123便の機内では、たまたま乗客として搭乗していて助かったスチュワーデス落合由美さんの証言によれば、機内の乗客・乗員はいたって沈着・冷静であり、一瞬白い霧状のものが発生したが、それもすぐに収まったというのです。
つまり、事故調査委員会の報告書にある機内の空気の流れなどはなかったのです。また、酸素マスクは降りてきたが、機内の急減圧現象はなく、機内は落ち着いており、操縦クルーも機の急降下操作を行っていないのです。
落合由美さんは次のようにいっています。
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そろそろ水平飛行に移るかなというとき「バーン」という、かなり大きい音がしました。テレビドラマなどで、ピストルを撃ったときに響くような音です。『バーン』ではなくて、高めの『パーン』です。急減圧がなくても、耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異状はまったく何も感じませんでした。(一部省略)
『パーン』という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。・・・直ちに「ただいま緊急降下中、マスクをつけてください」という録音されているアナウンスが日本語と英語で流れました。
―――落合由美さん
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このとき、乗客はお互いに教えあってマスクをつけたそうですが、パイロットたちはマイクをつけていなかったのです。それは地上と交信するときの彼らの声がくぐもっていなかっとたことからもわかるのです。それは、そのとき機内で急減圧が起きていなかったことの証明であり、事故調査委員会のいう圧力隔壁の破損はなかったことを意味するのです。
もし、高度2万4000フィートで急減圧が起こると、物理的に酸素が不足し、動脈血の酸素飽和度が70%を切るため、直ちに安全高度1万3000フィートまでの降下が義務づけられているのです。しかし、JAL123便は、高度2万2000フィートへの降下を要求したのみで、そのまま約18分間もその高度で飛び続けています。
急減圧が起きた状態では、18分間も酸素マスクなしでジャンボ機を操縦することは不可能なのです。その状態では、人間は意識が朦朧として動作できなくなり、判断力が極度に鈍ってしまうからです。
このような状態から見て、JAL123便の垂直尾翼破損の原因が機内にあるという内部説(事故調の結論)は無理があり、何らかの飛行物体が尾翼に衝突したという外部説が正しいということになります。しかし、事故調査委員会は外部説をとことん否定しているのです。何かおかしくはないでしょうか。
『パーン』と音がしてから32分間、酸素マスクが降りてから18分間――高度を2万2000フィートに下げただけで、パイロットたちは一体何をしていたのでしょうか。
飛行機が垂直尾翼を3分の2も破損されると、飛行はきわめて不安定になり、ダッチロール状態になります。これをパイロットたちは、エンジンの出力調整で何とか克服し、横田基地への着陸姿勢をとりつつあったのです。このことは、もっとあとで明らかにしたいと思います。
以上のことからも明らかであるように、事故調のいう後部圧力隔壁の破損はほとんどなく、機内の急減圧はなかったのです。パイロットたちは、何によって尾翼が破壊されたかがわかららないまま何とか機体を立て直すことに全力を注いだのです。
それにしても、事故調は、なぜ、何かが尾翼にぶつかったという外部原因説をとろうとはしないのでしょうか。どんな矛盾があろうとも、今もって内部原因説を捨てていないのです。
3.事故調が隔壁破損に執着する理由
JAL123便の機内に、「急減圧」があったか、なかったかは、事故のあと、大きなテーマとなって、いろいろなところで実験が行われています。その結論として急減圧はなく、したがって後部圧力隔壁の破損もなかったということがいえるのです。
しかし、事故調査委員会は「後部圧力隔壁破損説」をいささかも譲ろうとはせず、再調査もしないまま、事故後17年が経過しているのです。
急減圧がなかったいう根拠についてまとめておきます。根拠は4つあります。
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1.JAL123便は、規定の急降下をしていない
2.酸素マスクは降りたが、クルーは使っていない
3.墳流で乗客も荷物も噴き飛んでいる様子はない
4.生存者の機内の状況目撃証言でも急減圧はない
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第1の根拠は、JAL123便のクルーは、機を急降下させていないことです。機内に急減圧が発生すれば、直ちに急降下を行うことが義務づけられているのですが、JAL123便は高度を2万2000フィートに下げる許可を求めただけで、急降下させていないのです。それは、急減圧がなかったことを意味していることになります。
第2の根拠は、酸素マスクが降りてきたにもかかわらず、パイロット・クルーはそれを着用していないことです。これは、マスクをつけなくても操縦ができたことを意味しており、これも急減圧がなかったことを意味しています。
それに酸素マスクが降りたのは、急減圧のせいではなく「ドーン」という何かがぶつかった衝撃によって降りてきたのではないかともいわれているのです。
第3の根拠は、墜落前の機内写真によると、酸素マスクは降りているものの、比較的機内は整然としていることです。もし、本当に急減圧が起きていれば、乗客や荷物が後ろに噴き飛んで大混乱になっていたはずなのに、そういう状況は見られないのです。
ボイスレコーダーにも、それをうかがわせるものはいっさい入っていないのです。
第4の根拠は、生存者の落合由美氏の証言でも急減圧は起きていないのです。乗客は降りてきた酸素マスクは当てているが、混乱はなかったと落合氏は証言しています。事故機の機内にいた人自身がそう証言しているのですから、これ以上確かなことはないはずです。
しかるに、事故調査委員会は、それでも後部圧力隔壁の破損の一点張りなのです。それにJAL123便の過去の事故を持ち出して正当化しようとしているのです。
JAL123便は、JA8119機というのですが、墜落事故を起す前に、2つの事故を起しているのです。事故調査委員会はこの事故と後部圧力隔壁破損を結びつけているのです。
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1978年6月2日 ・・・ 大阪空港でのしりもち事故
1982年8月19日 ・・・千歳空港の滑走路での事故
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JA8119機は、1985年8月12日の墜落事故の7年前の6月2日に、大阪空港において「しりもち事故」を起しています。着陸のさいに進入角度を大きく取りすぎ、尾翼付近の機体底部を滑走路に接触させ、その部分が幅約1メートル、長さ約17メートルにわたって破損しています。
このときは、ボーイング社から修理チームが来日し、圧力隔壁の下半分を取り替えているのです。墜落事故後のボーイング社の話によると、圧力隔壁には亀裂が入っていたので後部全体を取り替えており、新品同様であるといっているのです。しかし、事故調査委員会は、このとき隔壁の上部を取り替えていないことが、今回の事故の原因と見ているようなのです。
もうひとつの千歳空港の事故は、墜落事故の3年前に起きています。千歳空港に着陸するさいに、右第4エンジンを滑走路に擦っているのです。それにしても、よく着陸ミスを起す飛行機であるとはいえると思います。しかし、この事故は墜落事故には直接関係ないとされています。
墜落事故の7年前の大阪空港のしりもち事故で後部圧力隔壁を修理したという事実は、操縦不能になった原因をその圧力隔壁破損にあるとするのには格好の根拠として使えることは確かです。
ボーイング社の修理ミスのせいにするためにも、その方がプラスと判断したのでしょうか。
ちなみに「隔壁」とは、強度の強いアルミ合金製であり、円錐構造の機体におわんのように嵌め込まれているのです。したがって、しりもち事故のさい、その衝撃は下方部分だけでなく、上方部分にも及んでいるはずとする主張には一理あるのです。しかしだからといって、それが操縦不能の原因として断定することは、困難であるといえます。状況的には、機内に急減圧は起きておらず、圧力隔壁は破損していないという証拠が、大勢を占めているからです。
このように、JAL123便が操縦不能になった原因については数多くの疑問があるのです。そのため被害者の遺族たちは、1999年1月に事故原因再調査要求を提出したのですが、事故調査委員会はこれを完全に無視し、それどころか、JAL123便墜落事故関係の全書類を1999年11月にすべて廃棄処分にしてしまっているのです。
事故の真の原因を徹底的に究明することなく、大きな矛盾のある事故原因であくまで押し通し、あまつさえその証拠となる書類をすべて廃棄処分にする――考えられないことであり、許されないことであると思います。
さて、圧力隔壁の破損がないとすると、JAL123便は何によって操縦不能となったのでしょうか。次章からは、外部原因説について分析を進めていきたいと考えています。
4.無人標的機『ファイア・ビー』の衝突説
JAL123便が操縦不能になった原因は、飛行機の垂直尾翼が3分の2程度破壊されたことにあります。
事故調査委員会は内部原因説を結論としていますが、ごく素直に考えれば、何らかの飛行物体がJAL123便の尾翼に衝突したのではないかということを疑うのが自然であると思います。
しかし、高度高度24000フィート(7200メートル)の上空で飛行機の垂直尾翼にぶつかるものといったら、何があるでしょうか。それは、飛行機かミサイルのようなもの以外は考えられないのです。
飛行機は考えられないので、ミサイルのような謎の飛行物体ということになるのですが、場所は相模湾上空であり、もっとも飛行機の往来の多いところなのです。なぜ、そのような物騒なものが飛んでくるのでしょうか。普通では考えられないことです。
しかし、ひとつだけ気になることがあります。それは、JAL123便の墜落事故が起こった1985年8月12日に、相模湾で当時の新型護衛艦「まつゆき」が試運航中であったことです。
護衛艦は、昔のことばでいえば戦艦です。戦艦の試運航というのは、単に海上を航行するだけではなく、兵装運用実験を行うことが大切な目的なのです。
当時「まつゆき」といえば、最新の高度ミサイル防空システムを備えたシステム艦であり、実験項目もかなりあったと考えられます。「まつゆき」の任務は、来襲するミサイルや戦闘機という標的を正確に攻撃して防空することにあり、当時のこの軍事技術が後のイージス艦の開発につながっていくことになります。
この「まつゆき」の実験の一環で、たまたま相模湾上空にさしかかったJAL123便のところに何かが飛んできたのではないか――こういう推定も成り立つのです。
ここで、1985年当時の日本の防衛に関する状況を振り返っておく必要があります。1985年といえば、時の総理大臣中曽根康弘氏が米国で「日本列島は不沈空母」と発言して、大騒ぎになっていたときです。
米国がレーガン政権のときの話です。
当時の中曽根内閣は、国防政策の中身として、武器輸出三原則や軍事費のGNP1%枠を撤廃し、世界最先端軍事技術を米国の監視のもとで自主開発する国防政策を推進したのです。その具体的な目玉は、国産巡航ミサイルの開発だったのです。そして日本は、独自に光学ミサイル管制技術を開発したのです。
米国はこの日本の技術を自国の巡航ミサイルの中心部分に組み込み、あの「トマホークミサイル」を完成させたのです。レーガン政権は、日本に対し、石油資源のルート確保を担わせるため、シーレーン防衛の名のもとで、日本の自衛隊を強化しようとしていたのです。そして、とくに日本に求めた技術開発は、ミサイル誘導装置の開発なのです。
このミサイル誘導システムの精度をチェックするために使われるものに「無人標的機」というものがあります。航空評論家の関川栄一郎氏は、JAL123便の垂直尾翼にぶつかったのは、この無人標的機ではないかといっているのです。
「無人標的機」には、次の3種類があります。
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1.高速無人標的機「ファイア・ビー」
2.高速無人標的機「チャカ(CHUKAR Ⅱ)」
3.対空無人標的機「ターゲット・ドロン」
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第1の「ファイア・ビー」は、長さ7m、幅3.93m、高さ2.25m、重さ686.3キロで、最大速度0.96マッハで実用上昇限度1万7000m、航続時間は約60分です。事故発生時の高度7200mにゆうゆう届くのです。操縦方式は、無線コマンド・コントロールです。
第2の「チャカⅡ」は「ファイア・ビー」を小型化した対ミサイル用標的機です。長さ3.87m、幅1.76m、高さ0.71m、時速350~900キロ、高度150~9000m、重さ182キロ、航続時間約80分です。これもJAL123便に届くのです。訓練支援艦「あずま」の管制システム「艦上追尾管制装置」によって飛行をコントロールするのです。
第3の「ターゲット・ドロン」は、長さ3.8m、幅4.03m、高さ0.79m、重量162キロ、航続時間約90分、母艦艇からジャトーにより発射され、UHF、FM方式の電波でリモコンされて飛行するプロペラ機なのです。
垂直尾翼を壊したのがこれらの標的機であるとした場合、3つの標的機のうち、どれがJAL123便の垂直尾翼に衝突したのでしょうか。
まず、はっきりしていることは、プロペラ機である「ターゲット・ドロン」ではないということです。そうすると、「ファイア・ビー」か「チャカⅡ」ということになりますが、「チャカⅡ」は、JAL123便の垂直尾翼を壊すには、重量的に軽過ぎると考えられます。
この点、「ファイア・ビー」は重量が686.3キロありますので、JAL123便の垂直尾翼を破壊する力は十分あります。したがって、もし、標的機が犯人であるとした場合、「ファイア・ビー」である可能性が高いことになります。
しかし、無人標的機「ファイア・ビー」をリモート・コントロールするには、海上自衛隊の訓練支援艦が必要なのです。事故当時は、訓練支援艦は「あずま」のみが実在していたのですが、当日「あずま」は、呉港に繋留されていたのです。したがって、当日は「ファイア・ビー」を飛ばせることはできなかったのです。
それに「ファイア・ビー」については、航続距離や民間航空路線の関係から相模湾ではできないことになっているのです。つまり、アリバイがあるわけです。
そこで、事故の起こった時刻に、その空域――関東南A空域にどのような航空機がいたのか詳細に調べたところ、気になる航空機が多く存在していたことがわかってきたのです。
5.謎の飛行物体はSSM-1である
JAL123便が事故時刻に飛んでいた空域は、「関東南A空域」と「関東西空域」の2つです。それぞれの空域にその時刻にどのような航空機がいたかを調べた記録があります。
≪関東南A空域≫ ≪関東西空域≫
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1.全日空トライスター 8.全日空ボーイング747
2.全日空YS11 9.全日空トライスター
3.日航ボーイング747 10.日航ボーイング747
4.東亜国内航空DC9 11.ノースウエスト航空
5.ビーチクラフト機 12.大韓航空
6.米軍機C―130 (11と12の機種はいずれもボーイング747)
7.自衛隊機C-1
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このほか、関東西空域に米軍機がもう1機存在していたのですが、位置や高度などは不明です。この中で注目すべきは、自衛隊機C-1です。C-1は、人員や兵器を輸送するずんぐりとした航空機なのですが、外形はこれとそっくりのEC-1という航空機があるのです。
EC-1は、C-1を電子戦用に改良したもので、所属は岐阜の航空実験団です。この航空実験団というのは、航空機および搭載装備品、支援機器、電子機器、兵装などの試験・評価と、これらの基礎的な運用、研究、開発をやっているのです。諸般の情勢から考えて、この空域にいたのは、C-1ではなく、EC-1であると考えられます。
重要なことは、JAL123便事故の1985年8月12日には、このEC-1は納入前のテストをしており、試験飛行をしていていたこと、それに護衛艦「まつゆき」も納入前の試運航をしており、EC-1、「まつゆき」の両方とも厳密には国有財産として未登録であったことです。
国有財産でない場合は、所有権は製造会社側にあるので、これらの航空機や艦艇が実際にやったことの報告義務から法的には免れることになります。実際に何が行われたかを究明するのは非常に困難になるのです。
訓練支援艦「あづま」が8月12日に呉港にいたことによってJAL123便の垂直尾翼に衝突した謎の飛行物体は「ファイア・ビー」でないことは確かです。なぜなら、「ファイア・ビー」は、訓練支援艦がいないと飛行させることができないからです。
そこで、謎の飛行物体として現在考えられているのは、1985年当時鋭意開発が進められていた沿岸防衛用国産巡航ミサイル「SSM-1」のプロトタイプ、すなわち、爆薬を搭載していない演習用ミサイルではないか――と考えられるのです。
2月25日に北朝鮮が発射した「シルクワーム」も、沿岸の艦艇を攻撃する地対艦ミサイルですが、SSM-1はより性能が高く、かなり長い射程でミサイルを発射し、管制できる巡航ミサイルなのです。
JAL123便墜落事故の3年前の1982年、アルゼンチンとイギリスのフォークランド紛争が勃発したのですが、アルゼンチン空軍の「シュペル・エタンダール」機が放ったフランス製ミサイル「AM39エグゾセ」が、イギリス軍のミサイル駆逐艦、「シェフィールド」(3500トン)を轟沈し、世界の軍事関係者に衝撃を与えたのです。これは、空対艦ミサイルですが、これが刺激となってSSM-1の開発に拍車がかかったのです。
SSM-1は、地上基地、陸上移動発射台、あるいは航空機からでも発射できる巡航ミサイルで、その飛行モニターを空中では電子戦機EC-1、海上では護衛艦「まつゆき」が実施する――これなら、ミサイルの発射実験は可能なのです。
そして、同時にその空域にいた米軍のC-130やもう1機の米軍の正体不明機も、日本の巡航ミサイルの発射実験をモニターしていたと考えられます。米軍は、民間機、軍用機を問わずコックピットと管制塔との交信すべてを傍受するシステムを敷いているからです。その証拠に、所沢市の東京航空交通管制部(東京ACC)のすぐ隣りに米軍の通信傍受施設があるのです。
その国産巡航ミサイルの飛行実験が何らかのアクシデントで、演習用ミサイルをコントロールすることができなくなり、民間航空機の空域に入り込んでしまい、JAL123便の尾翼に衝突したのではないか――と一応考えられるのです。
JAL123便の尾翼が吹き飛んだとみられる地点の南40キロメートルの高度1500フィート付近は、R116という自衛隊の演習区域になっているのです。雫石で全日空機が自衛艇のF86F戦闘機と衝突して墜落したのも、自衛隊機が民間航路へ侵入した結果なのです。けしからん話ですが、自衛隊戦闘機パイロットの中には、民間航空機を敵機とみなして訓練する者もいるということです。
さて、護衛艦「まつゆき」には、艦対空ミサイル「短SAMシースパロー装置」が搭載されています。1985年8月12日に「まつゆき」は相模湾・伊豆沖で試運航中であったのですが、当然、ミサイルの発射実験とその誘導レーダーの操作、命中についてのテスト訓練をやっているはずです。したがって、そういう飛行物体が民間航空路に迷い込む可能性はゼロではないのです。
しかし、爆薬の入っていない巡航ミサイルが「まつゆき」から打ち上げられたのか、内陸部の車両発射台から打ち上げられたのか、もしくは航空機から発射されたのかは、わかっていないのです。巡航ミサイルであれば、自衛隊の東富士演習場から打ち上げられ、富士山を迂回して、相模湾上空でJAL123便に遭遇するということも、十分考えられるのです。
ボイスレコーダーなどの分析記録によると、操縦クルーや乗客の一部がその謎の飛行物体を目撃しているフシがあるのです。事故調査委員会はそういう事実も知ったうえで、あくまで圧力隔壁破損が垂直尾翼破壊の原因であることで通してしまったのですからよほど外部からの飛行物体の存在を隠したかったのでしょう。
13.JAL123便ミサイル撃墜の証拠と証言
それでは、JAL123便に対して、どのようにしてミサイルが撃ち込まれたのでしょうか。そのあたりの状況について説明しましょう。
JAL123便が墜落する前に、次の3機の自衛隊機が周辺を飛行していたのです。
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F-4EJ戦闘機・・・・・2機
F-15J戦闘機 ・・・・・ 1機
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JAL123便を御巣鷹山方面に強引に誘導したのは、2機のF-4EJ戦闘機です。しかし、JAL123便に対してミサイルを撃ち込んだのは、あらかじめ、在空していたとみられるF-15J戦闘機なのです。F-4EJとF-15Jは、ともに米国が開発した要撃戦闘機ですが、F-15JはF-4EJの後継機です。
F-4FJ 戦闘機 F-15J 戦闘機
そのときJAL123便は、何とか山中に不時着しようとしていたと考えられるのです。山への不時着ですから、ほとんどは絶望的ですが、かなり多くの生存者が出ることも考えての機長の判断であると思われます。機長をはじめとする操縦クルーは、何が起こっているのかが一番よくわかっていたと思われます。そのため、1人でも多くの生存者を出したいと考えたのでしょう。
しかし、それを隠蔽しようと考える側からすると、少なくとも操縦クルーは生かしてはおけないと考えるはずです。そこで、F-15J戦闘機は、JAL123便が稜線を越えて、人目につきにくい山かげに入るのを見極めて、2発のミサイルを発射したのです。このとき要撃戦闘機とミサイルの航跡を地上から目撃されないように稜線を縫うように実に巧妙にJAL123便の後部にまわり、ミサイルを発射しています。
ミサイルは、赤外線追尾方式であり、1発目はJAL123便のエンジン部分に命中したとみられます。ミサイルの爆破エネルギーは機体の前部と中部を貫通し、その付近の乗客・乗員を機内で粉砕したのです。JAL123便は右旋回しながら、火に包まれながら、真っ逆様に急降下したのです。これを確認して要撃戦闘機は、2発目のミサイルを発射し、とどめをさしています。
しかし、JAL123便の最後の様子は、地上からかなり多くの目撃情報があるのです。墜落事故の翌日、8月13日の埼玉新聞の見出しは「夕やみに“火の玉”」とあります。埼玉県浦和市に住む住民と長野県の川上村住民は次のようにいっています。
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マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。
――浦和市に住む住民の目撃証言
埼玉方面から飛んできた飛行機が赤い炎をあげ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた。
――長野県川上村住民
ゴーンという音をさせながら、航空機が低く飛んでいた。長野、山梨、埼玉県境の甲武信岳方面から飛んできて上空を右に旋回して北東の方に行った。まもなくして、雷が落ちるようなバリバリという大音響がし、二度ほどパッパッと光った。そのうちネズミ色のキノコ雲が上がった。墜落したなと思った。
――長野県川上村住民
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垂直尾翼を破壊されても、エンジンには支障のない飛行機が火を吹くはずはないのです。しかし、「オレンジ色の閃光」「赤い炎」という証言があり、「パッパッと光る」という証言まであるのです。ちょうど事故の日に、上野村の民宿に泊まっていた東京の会社員も「神流川上流の山あいがピカピカと二度光った」と証言しています。
「パッパッと光る」と「ピカピカと二度光った」については、ミサイル弾がJAL123便に命中したときの閃光と考えることができます。ミサイルが空中で爆発するときは、ミサイルに装填されている火薬が一挙に爆発するために、空気中の分子と猛烈に衝突を起こすのです。そのさいに空気と摩擦を起こし、ちょうど稲妻に似た放電現象が起きるのです。それが、ピカッと目撃された閃光と考えられます。けっして、墜落したときの閃光ではないのです。
長野県南相木村中島地区の住人3人の証言に次のようなものがあります。
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飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。
――長野県南相木村中島地区の住人3人
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ここで「流れ星のようなもの」とは、明らかにミサイルの航跡であると考えられます。
機体がミサイルで爆破されたのではないかと思われるもうひとつの証拠と考えられるのは、乗客・乗員の遺体の損傷があまりにもひどかったということです。 520人のうち、本当にきれいな遺体は10体程度といわれています。
とくに機体の前部については、飛行機らしい形をとどめておらず、アルミホイルを千切ってばらまいたようになっているのですから、遺体もただの肉片になってしまっているのです。山に激突したとはいえ、あれほどにはならない――と専門家もいっているのです。それでいて、機体後部の乗客・乗員のそれは粉砕されていないのです。生存者も機体後部から見つかっています。
それに機体前部では、歯や肉片といえども遺体が発見されていないケースも多々あったといわれています。おそらくミサイルの痕跡を示す遺体はすべて自衛隊の特殊部隊によって持ち去られたのではないかと考えられます。