年末になると、知識を競うクイズ番組が非常に多くなります。「平成教育委員会」「平成予備校」「おとなの学力検定SP」等色んな番組で、知識を試されるのですが、感心したり、意外だったりして、結構楽しいものですね。こんなこと習ったのかなあ?とか、これはこんな意味があったんだとか、個人的にも悩んだり、感心したりと、時間の経過も分からずに、楽しんでしまうのですが、しかし、知識が多い事と知性とは違うのだろうし、知識が多い事が人間性にとって重要なファクターとも思いません。「トリビアの泉」でもナレーションされますが、「要らない余計な知識を得る事が、人間の楽しみなのだ」と言う事は、十分あるのでしょうが、この知識は知性に、そして英知に結びつく事が必要ですし、その事が、より人間性を高める事になるのだと、勝手に思っています。この人間性を高める事の出来ない知識はは、必要というよりも、むしろ害悪となる知識なのではないのでしょうか?
今日のサンデーモーニングと言う番組(関口宏司会)で、「ダーウィンの悪夢」という映画を取り上げていました。ナイルパーチという淡水魚がビクトリア湖で繁殖し、この魚が、従来からビクトリア湖に住んでいる在来魚を餌とするため、この種が絶滅していっている代わりに、ナイルパーチが大量に捕獲できるようになったのです。この魚は、食用にでき、非常に淡白な白身で美味しい魚であるため、西洋資本が大量にこの地域に投入され、従来、この地域に住んでいた人たちの生活環境や貧富の格差を大きく変貌させているのです。私もこの映画を観た時には、絶句してしまいました。生活が出来ない人たちは、工場で加工された魚の残飯を競って奪い合い、生活の糧にせざるを得ないのです。こんな格差は、本来、英知や人間性によれば、解決出来ないはずはないのです。ここでも、無駄な知識が、人間性を駆逐していますよね。これは、資本主義の典型であり、最先端的事象なのでしょう。
知性を得たために、人間性を喪失させてしまうという映画があります。ダニエル・キイス原作の『アルジャーノンに花束を』(1968年カナダ制作)と言う映画です。主人公チャーリィ(マシュー・モディーン)はパン屋で働く知的障がい者。
明るく元気な青年なのですが、周りの従業員からいつもからかわれ、イジメられてしまう。そんなある日、彼が通うスクールの美人先生アリス(ケリー・ウィリアムズ)からある実験の話を聞かされます。曰く、脳を手術して天才にする実験をするのでやってみないかと。既に動物実験では成功しているし、成功して賢くなれば有名にもなれる・・・。それに対してチャーリィはこう答えます。
『有名になるより天才に』
なぜ?
『みんなに好かれればママが喜ぶ』
チャーリィは、体は大人でも知能は子ども。
パン屋でイジメに遭っても、皆が喜ぶのなら・・・と考えてしまうお人好しタイプ。
そんな純真無垢な青年がついに脳の手術を受けることになります。そして手術は成功し、常人を超えた驚異の知能を手に入れるのですが、幸せとは程遠い結果となっていってしまいます。タイトルにもなっている『アルジャーノン』は、チャーリィよりも先に実験で天才になったネズミのことです。しかし、その知性は長くは続かず、しまいには死んでしまいます。それを知った『天才』チャーリィが取った行動とは。果たして『幸せ』を手に入れることは出来るのでしょうか・・・。
この映画は、原作者であるダニエル・キイスが精神分析的な小説を多く発表していることでも分かるとおり、非常に精神的な問題に焦点を当てた大作であると思います。小説も読んでみて、非常な感銘を受けました。広末涼子が、絶賛したコメントを書いていたのを覚えています。キイスは「24人のビリー・ミリガン」という小説も書いているのですが、多重人格にも憧憬が深いのです。この映画でも分かるとおり、知識よりも人間性が、人類にとっては重要であること激しく主張しています。この意味は、「アイアム・サム」と言う映画でも、伝承されていますね。
【解説】
『アルジャーノンに花束を』(アルジャーノンにはなたばを、Flowers for Algernon)は、アメリカ合衆国の作家ダニエル・キイスによるSF小説。1959年に中篇小説として発表し、1966年に長篇小説として改作された。本作を原作として映画、同名のテレビドラマ、舞台作品などが制作されている。
主人公である「彼(チャーリィ・ゴードン)」自身の視点による一人称で書かれており、主に「経過報告」として綴られている。最初の頃は簡単な言葉や単純な視点でのみ、彼の周囲が描かれる。
精神遅滞の青年チャーリィは子供の頃、知能的には正常であった妹に性的な乱暴を働いたと家族に誤解され、母親に捨てられた。別れ際に彼女が発した「いい子にしていれば迎えに来る」という言葉を大人になっても信じている。知的障害の為、幼児並の知力しか持っておらず、そのことでパン屋の従業員にからかわれたり、騙されいじめられていることや、母親に捨てられたという事実は理解できない。彼は自身がスピナーと名づけたガラクタを眺めるのが趣味であった。誰にでも親切であろうとする、大きな体に小さな子供の心を持った、おとなしい性格の青年だったのだ。
ある日、彼はパン屋の仕事のかたわら通う精神遅滞者専門の学習クラスで、監督者である大学教授から、開発されたばかりの脳手術を受けるよう勧められる。先んじて動物実験で対象となったハツカネズミの「アルジャーノン」は、驚くべき記憶・思考力を発揮し、チャーリーの目の前で難関の迷路実験で彼に勝ってしまう。この手術の人間に対する臨床試験の被験者第1号として、彼が選ばれたのだ。
手術は成功し、チャーリーのIQは68から徐々に上昇。ついには185に達し、彼は超知能を持つ天才となった。チャーリーは大学で学生に混じって勉強することを許され、知識を得る喜び・難しい問題を考える楽しみを満たしていく。だが一方で、頭が良くなるに連れ、これまで友達だと信じていた仕事仲間に騙されいじめられていた事、母親に捨てられた事など、知りたくも無い事実の意味を理解するようになる。
そんなチャーリィの豹変によって誰もが笑いを失った。不正を追及したことでかつての仕事仲間は彼を恨むようになり、遂には手術を行った教授の間違いを手酷く指摘して仲違いをしてしまう。周囲の人間が遠ざかっていく中で、チャーリーは手術前には抱いたことも無い孤独感を感じるのだった。また、彼の未発達な幼児の感情と、突然に急成長を果たした天才的な知能のバランスが取れないことに加え、未整理な記憶の奔流がチャーリーを苦悩の日々へと追い込んでいく。
そんなある日、自分より先に脳手術を受け、彼が世話をしていたアルジャーノンに異変が起こる。チャーリーは自身でアルジャーノンの異変について調査を始め、手術に大きな欠陥があった事を突き止めてしまう。手術は一時的に知能を発達させるものの、性格の発達がそれに追いつかず社会性が損なわれること、そしてピークに達した知能は、やがて失われる性質の物であることが明らかとなり、彼は失われ行く知能の中で、退行を引き止める手段を模索する。
彼は経過報告日誌の最後に、正気を失ったまま寿命が尽きてしまったアルジャーノンの死を悼み、これを読むであろう大学教授に向けたメッセージとして、「アルジャーノンのお墓にお花をあげてください」と締め括る。
「本当の幸せとは何なのか?」そして「天才になる事は本当に幸せに繋がるのか?」というメッセージを孕んだ、多くの人が涙した作品である。