Movieな空間

映画大好き人間の気ままな空間です!!

楽しいドラマ『ごくせん』

2007年12月31日 11時00分56秒 | Weblog
 年末にかけて放映されている『ごくせん』は、本当に面白くて、ついつい観てしまいますね。放映当時も良く観ていたが、今回のこのようなシリーズ一挙放映で、ストーリーも非常に分かりやすく、展開も理解出来ることが良いですね。こんな生徒のことを信じきれる先生がいたら、教育現場も変わっていたことでしょうが!!私も、かなり前に、教育実習にて母校で2週間教えていた経験があるのですが、その時の先生たちは、物凄く熱かったですね。今のようなサラリーマン的な先生はむしろ稀少だったと感じられましたが、今は全く逆の状況のようで・・・。人を心底信じることの素晴らしさを、このドラマは訴えかけていますね。「熱中時代」「夕陽ヶ丘の総理大臣」「3年B組金八先生」等教師を主人公にしたドラマは多く作られてきましたが、「ごくせん」はちょっと毛色が違いますね。
 『ごくせん』は、森本梢子作の漫画、及び同作を原作としたテレビドラマ。男子高の学級担任となった女性新任教師が奮闘するコメディだが、主人公の家の家業が「黒田一家」(ドラマ版では「大江戸一家」)と呼ばれるヤクザという設定。集英社刊の漫画雑誌YOU」で2007年2月まで連載されていた。連載終了後も何度か番外編が「YOU」や「別冊YOU」などに掲載されている。日本テレビ製作でテレビドラマ化されている。なおごくせんは「道育ちの生物語」の略であり、また作者曰く「極道の妻たち」の略称「極妻(ごくつま)」を「かるくパクった」らしい。唯心論か、あるいは唯物論かという主題をも含んでおり、一概に単なるエンターテイメントとは言い難い。集英社「YOU」で連載していた(2007年2月完結)のコミック。女性誌に掲載されていたが絵柄及び内容的には少年誌向きで、しばしば少年誌に掲載されていたと間違われる。極道の跡取り娘である主人公が型破りな高校教師として活躍する物語であるが、学園色よりも極道色が濃いのが特徴。主にギャグでまとめられた短編が多い。また、恋愛要素も取り入れられている点も熱心なファンが多くいる理由の一つ。仲間由紀恵主演で二度ドラマ化(ただし第二弾はドラマオリジナル)され、いずれも人気を博した。08年4月期には第三弾が予定されている。

映像はコチラ>>http://jp.youtube.com/watch?v=1zI4JSs-Dao&feature=related

ハートフルな『間宮兄弟』

2007年12月30日 23時34分14秒 | Weblog
 年末の喧騒の中、やはり楽しい映画が観れる事は、最高の喜びですね。この時期は、映画専門チャンネルでは、良い映画や最新の映画を多く放映してくれるので、TVに噛り付きになってしまいますね。昼間は、掃除や片付け、夜は映画観賞と、応えられない時間を過ごせるのです。大きなスクリーンで観れないのは残念ですが、TVでもどうして、中々面白いものですね。
 『間宮兄弟』(まみやきょうだい)は、江國香織小説を映画化したもの。2006年の邦画なのです。「家族ゲーム」「阿修羅のごとく」の森田芳光監督が映画化したほのぼの人情コメディ。いい歳して仲良く一緒に暮らしている兄弟の平凡だけどささやかな幸せに満ちた日常が温かな眼差しで淡々と綴られてゆく。主演はTVドラマ「離婚弁護士」の佐々木蔵之介とお笑いコンビ“ドランクドラゴン”の塚地武雅。
 東京の下町のとあるマンション。30代の現在も仲良く同居を続ける間宮兄弟。兄・明信はビール会社の商品開発研究員。弟・徹信は小学校の校務員。そんな2人は、大好きなベイスターズの試合をスコアをつけながら熱心にテレビ観戦したり、山盛りのポップコーン片手にビデオ鑑賞したり、あるいは紙飛行機を飛ばしたりと、しょっちゅう一緒に行動しては楽しく何不自由ない毎日を送っていた。それでもやはり恋人は欲しいもの。そこで2人はカレーパーティを企画、弟は同じ小学校の葛原依子先生を、兄は行きつけのビデオ店でバイトする女子大生・本間直美をそれぞれ招待することに成功するのだが…。

 この兄弟の、お互いに本当に優しい気持ちがたまらなく、ハートウォームな気持ちにさせてくれる映画です。お笑いのドランクドラゴンで活躍する塚地の演技も非常にいいものですね。兄も、弟も結局、好きな女性に振られてしまい、クリスマスには、どこかに旅行しようと企画します。これまでの「カレーパーティ」「浴衣パーティ」「おでんパーティ」とあの手この手で、女性たちとの親睦企画をするのですが、水の泡となってしまいます。しかし、お互いの優しさは、そのまま永遠に続いていくのでしょうね。母・順子(中島みゆき)が言う「男はもてなきゃだめよ」の一言に、固まってしまう良き兄弟なのです。こんなに、お互いを信頼し、大事に思う兄弟は、中々お目にかかれません。清々しい気分になりますね。辛い事、悲しい事も、二人でなら乗り越えていける事でしょうね。心の底から応援したくなる兄弟ですね。

知性と人間性の可逆性

2007年12月30日 20時28分30秒 | Weblog

 年末になると、知識を競うクイズ番組が非常に多くなります。「平成教育委員会」「平成予備校」「おとなの学力検定SP」等色んな番組で、知識を試されるのですが、感心したり、意外だったりして、結構楽しいものですね。こんなこと習ったのかなあ?とか、これはこんな意味があったんだとか、個人的にも悩んだり、感心したりと、時間の経過も分からずに、楽しんでしまうのですが、しかし、知識が多い事と知性とは違うのだろうし、知識が多い事が人間性にとって重要なファクターとも思いません。「トリビアの泉」でもナレーションされますが、「要らない余計な知識を得る事が、人間の楽しみなのだ」と言う事は、十分あるのでしょうが、この知識は知性に、そして英知に結びつく事が必要ですし、その事が、より人間性を高める事になるのだと、勝手に思っています。この人間性を高める事の出来ない知識はは、必要というよりも、むしろ害悪となる知識なのではないのでしょうか?
 今日のサンデーモーニングと言う番組(関口宏司会)で、「ダーウィンの悪夢」という映画を取り上げていました。ナイルパーチという淡水魚がビクトリア湖で繁殖し、この魚が、従来からビクトリア湖に住んでいる在来魚を餌とするため、この種が絶滅していっている代わりに、ナイルパーチが大量に捕獲できるようになったのです。この魚は、食用にでき、非常に淡白な白身で美味しい魚であるため、西洋資本が大量にこの地域に投入され、従来、この地域に住んでいた人たちの生活環境や貧富の格差を大きく変貌させているのです。私もこの映画を観た時には、絶句してしまいました。生活が出来ない人たちは、工場で加工された魚の残飯を競って奪い合い、生活の糧にせざるを得ないのです。こんな格差は、本来、英知や人間性によれば、解決出来ないはずはないのです。ここでも、無駄な知識が、人間性を駆逐していますよね。これは、資本主義の典型であり、最先端的事象なのでしょう。
 知性を得たために、人間性を喪失させてしまうという映画があります。ダニエル・キイス原作の『アルジャーノンに花束を』(1968年カナダ制作)と言う映画です。主人公チャーリィ(マシュー・モディーン)はパン屋で働く知的障がい者。
明るく元気な青年なのですが、周りの従業員からいつもからかわれ、イジメられてしまう。そんなある日、彼が通うスクールの美人先生アリス(ケリー・ウィリアムズ)からある実験の話を聞かされます。曰く、脳を手術して天才にする実験をするのでやってみないかと。既に動物実験では成功しているし、成功して賢くなれば有名にもなれる・・・。それに対してチャーリィはこう答えます。

   『有名になるより天才に』

   なぜ?

   『みんなに好かれればママが喜ぶ』

チャーリィは、体は大人でも知能は子ども。
パン屋でイジメに遭っても、皆が喜ぶのなら・・・と考えてしまうお人好しタイプ。
そんな純真無垢な青年がついに脳の手術を受けることになります。そして手術は成功し、常人を超えた驚異の知能を手に入れるのですが、幸せとは程遠い結果となっていってしまいます。タイトルにもなっている『アルジャーノン』は、チャーリィよりも先に実験で天才になったネズミのことです。しかし、その知性は長くは続かず、しまいには死んでしまいます。それを知った『天才』チャーリィが取った行動とは。果たして『幸せ』を手に入れることは出来るのでしょうか・・・。

 この映画は、原作者であるダニエル・キイスが精神分析的な小説を多く発表していることでも分かるとおり、非常に精神的な問題に焦点を当てた大作であると思います。小説も読んでみて、非常な感銘を受けました。広末涼子が、絶賛したコメントを書いていたのを覚えています。キイスは「24人のビリー・ミリガン」という小説も書いているのですが、多重人格にも憧憬が深いのです。この映画でも分かるとおり、知識よりも人間性が、人類にとっては重要であること激しく主張しています。この意味は、「アイアム・サム」と言う映画でも、伝承されていますね。

【解説】
アルジャーノンに花束を』(アルジャーノンにはなたばを、Flowers for Algernon)は、アメリカ合衆国作家ダニエル・キイスによるSF小説。1959年に中篇小説として発表し、1966年に長篇小説として改作された。本作を原作として映画、同名のテレビドラマ、舞台作品などが制作されている。

主人公である「彼(チャーリィ・ゴードン)」自身の視点による一人称で書かれており、主に「経過報告」として綴られている。最初の頃は簡単な言葉や単純な視点でのみ、彼の周囲が描かれる。

精神遅滞の青年チャーリィは子供の頃、知能的には正常であった妹に性的な乱暴を働いたと家族に誤解され、母親に捨てられた。別れ際に彼女が発した「いい子にしていれば迎えに来る」という言葉を大人になっても信じている。知的障害の為、幼児並の知力しか持っておらず、そのことでパン屋の従業員にからかわれたり、騙されいじめられていることや、母親に捨てられたという事実は理解できない。彼は自身がスピナーと名づけたガラクタを眺めるのが趣味であった。誰にでも親切であろうとする、大きな体に小さな子供の心を持った、おとなしい性格の青年だったのだ。

ある日、彼はパン屋の仕事のかたわら通う精神遅滞者専門の学習クラスで、監督者である大学教授から、開発されたばかりの脳手術を受けるよう勧められる。先んじて動物実験で対象となったハツカネズミの「アルジャーノン」は、驚くべき記憶・思考力を発揮し、チャーリーの目の前で難関の迷路実験で彼に勝ってしまう。この手術の人間に対する臨床試験の被験者第1号として、彼が選ばれたのだ。

手術は成功し、チャーリーのIQは68から徐々に上昇。ついには185に達し、彼は超知能を持つ天才となった。チャーリーは大学で学生に混じって勉強することを許され、知識を得る喜び・難しい問題を考える楽しみを満たしていく。だが一方で、頭が良くなるに連れ、これまで友達だと信じていた仕事仲間に騙されいじめられていた事、母親に捨てられた事など、知りたくも無い事実の意味を理解するようになる。

そんなチャーリィの豹変によって誰もが笑いを失った。不正を追及したことでかつての仕事仲間は彼を恨むようになり、遂には手術を行った教授の間違いを手酷く指摘して仲違いをしてしまう。周囲の人間が遠ざかっていく中で、チャーリーは手術前には抱いたことも無い孤独感を感じるのだった。また、彼の未発達な幼児の感情と、突然に急成長を果たした天才的な知能のバランスが取れないことに加え、未整理な記憶の奔流がチャーリーを苦悩の日々へと追い込んでいく。

そんなある日、自分より先に脳手術を受け、彼が世話をしていたアルジャーノンに異変が起こる。チャーリーは自身でアルジャーノンの異変について調査を始め、手術に大きな欠陥があった事を突き止めてしまう。手術は一時的に知能を発達させるものの、性格の発達がそれに追いつかず社会性が損なわれること、そしてピークに達した知能は、やがて失われる性質の物であることが明らかとなり、彼は失われ行く知能の中で、退行を引き止める手段を模索する。

彼は経過報告日誌の最後に、正気を失ったまま寿命が尽きてしまったアルジャーノンの死を悼み、これを読むであろう大学教授に向けたメッセージとして、「アルジャーノンのお墓にお花をあげてください」と締め括る。

「本当の幸せとは何なのか?」そして「天才になる事は本当に幸せに繋がるのか?」というメッセージを孕んだ、多くの人が涙した作品である。



 


終焉・・・、終わり。そして新たな出発!!

2007年12月29日 17時14分12秒 | Weblog
 いよいよ、今年も今日を含めて「あと3日」となりましたね。今年も、
本当に終わりなんですね。終局、終焉、終わり・・・、色んな場面で
このような状況はあるのですが、終わりが意味するところは、その
状況により大きなものや小さなものが入り混じって存在していますね。
もう2度と復活できないものもあれば、次のものへの昇華として現状
を一端終わらせるということもあります。この終わりの仕方は、千差
万別なのでしょうが、ここには大きく、その人が係わる意識や感情が
関与しますね。その関与の仕方によって、自分自身のこれからに
大きく影響を与えます。再起できない程の衝撃となるのか、そのことで
もっと大きな自分に成長させ得ることになるのか?出来れば、後者の
拘わりがいいですね。その時点で、「サドン・デス」は避けたいと思い
ますものね。
 韓国映画で、素晴らしく泣ける4つの終焉をオムニバス形式で物語
展開する『サッド・ムービー』(2006年韓国制作)。

消防署員ジヌ(チョン・ウソン)と手話通訳者スジョン(イム・スジョン)。
二人の愛は、ジヌがスジョンの妹スウン(シン・ミナ)を火災現場から
助け出したことから始まる。しかしスジョンは、ジヌが火災の鎮圧作業で
大きな事故に遭わないだろうかと、常に気をもみながら生きていかねば
ならない境遇だ。一方ジヌは、愛するスジョンと一生を共にするために
指輪を準備しているが、なかなか渡せない。

白手男(プータロー)ハソク(チャ・テヒョン)と大型スーパーのパート店員
スッキョン(ソン・テヨン)。ハソクはボクシング選手のスパーリング相手に
なってデート費用を調達するが、スッキョンは、この貧しい恋人との関係を
終わらせようとする。スッキョンと別れたくないハソクは苦闘し、恋人と
別れようとする人のメッセージを相手方に代わりに伝達する<離別代行
業>を始める。

遊園地で白雪姫の着ぐるみを着るスウン(シン・ミナ)と同じ遊園地のアル
バイト肖像画家サンギュ(イ・ギウ)。聴覚障害者である上に、火災事故で
顔に火傷を負ったスウンは、どこか未熟で可愛い男サンギュに好感を感
じる。スウンは白雪姫の姿でサンギュにちょっかいを出すが、素顔では
自信がない。スウンは顔の傷を隠したまま、サンギュの後ろ姿を追い
ながら初恋を夢見る。

仕事熱心のキャリアウーマン・ジュヨン(ヨム・ジョンファ)とその息子
フィチャン(ヨ・ジング)。母ジュヨンは、どんどん元気がなくなっていく
フィチャンが恨めしい。フィチャンも、毎晩遅くまで働き、そして酒に
酔って帰ってくる母に対する不満が大きい。交通事故を起こした
ジュヨンは入院することになり、フィチャンは、そんな母が遅くまで
仕事もせず、酒も飲まず、自分が会いたい時に会えて嬉しい。

彼らは、別れがとても近くにあるという事実を少しも感じられずにいる。
この秋、人生で最もきらびやかな離別と向き合うようになる、あなたに
似た8人。世の中で一番大切な人に送る彼らの美しい告白が始まる。

この8人のそれぞれの別れは、4つのシーンで構成されている。消防士は、
人を救出に行くが、炎に囲まれ万事休す。ビデオカメラに向かって、自分の
思いを話しかける。これが、遺書となってしまうのである。現場検証をした
同僚の消防士から渡されたビデオテープの中に、最愛の彼が苦しい炎の中
懸命に話しかけるのであった。涙が止め処なく流れるスジョンであった。
 プータローではいけないと、自分で「別れ屋」を始めたハソクは、最後には
最愛の彼女を失ってしまう事に・・・。自分の代理人として、「別れ屋」に依頼
し、スーパーで働く彼女に窓越しで、自分の思いを代弁させるのである。涙が
止め処もなく溢れながら・・・。
 スウンは、彼が留学で、遠いところに旅立つ事を知るがどうしようもない。
なんともやるせない気持ちで、自分の恋愛に終止符を打つのである。
 キャリア・ウーマンである母と話す事も出来ないほど時間がない中、母は
がんで倒れてしまう。しかし、母ジュヨンと一緒に入れる時間を持つことの
出来るようになった息子は、毎日が楽しい。病院にお見舞いにいけば、常に
母親はそこにいるのだ。話す時間さえも無かったこれまでと、180度違う幸せ
な境地。しかし、母の命はそれ程長くは持ってくれなかった。近づいてく終焉
に、「別れ屋」に自分の思いを託す息子であった。

 4つの別れは、本当にそれぞれで辛いものがある。それぞれの思いの中に、
この別れと言う極限状況がやってきてしまう。心の底から涙する別れのオムニ
バスである。

映像はコチラ>>http://jp.youtube.com/watch?v=AmWZKWU5moA&feature=related


1年と言う時間

2007年12月28日 21時15分17秒 | Weblog
 「1年」と言う時間、短いのか長いのか、人によって違うのでしょうけど。1年に1歳、確実に人は年齢を重ねる事になります。地球が太陽の周りを1回廻る周期が1年なのですが、この1年と言う時間の意味は、どんなものでしょうか?この「Movieな空間」というブログを始めて、1年が経ちました。この時間は早かったのか遅かったのか、長かったのか短かったのか?・・、あまり良く分かりませんね。でも、感じるところは、「もう、1年か」と言う感じですね。早かった(=短かった)と言えるのかもしれません。「ゾウの時間、ねずみの時間」と言うものがあります。対象となるものが違うと、時間の物差しが変わることで、時間の長さ(実際には感覚)が変わるのかもしれませんね。ゾウやねずみが、人間と同じような感性を持っていたら、どんな感じを抱くのでしょうか?私同様、1年は早いと感じるのでしょうか?
 映画も、1年と言う中では、大変な数の作品が制作され、封切りされます。月間平均40本程度が公開されるとすると、年間の公開作品数は480本と言う事になります。これだけの映画が封切られれば、当然そのうちの大半は観賞(=鑑賞)出来ていないわけですから、年間で相当数の映画を観ない事になります。1ヶ月20本観たとしても、年間で240本で、やっと封切り作品の半分程度を観た事になりますが、同数は残してしまうのです。これが、10年続くと、2,400本もの映画を観ていない事になります。こう考えていくと、映画の僅かな部分に係わっているだけで、映画について語る事が、何か恥ずかしくなってしまう気分ですね。全部を観たからといって、正しい映画の評価が出来るとは限りませんが、しかし、観た事で評価の能力は、格段に違うものではないでしょうか。まあ、こんな感じで、全てに追いついていけないのですから、1作品毎に自分の英知を傾けて、批評をしていきたいと思いますね。そこが重要なのかもしれませんね。凡そ、水準までの事が出来なくても、人間、一生懸命やる事が大事なのかもしれません。
 映画『ナチョ・リブレ -覆面の神様-』(2006年アメリカ制作)。「スクール・オブ・ロック」の主演・脚本コンビ、ジャック・ブラック&マイク・ホワイトが、「バス男」で注目を集めた新鋭ジャレッド・ヘスを監督に迎えて贈る痛快ハートウォーミング・コメディ。実話をヒントに、傾きかけた修道院を救うため、メキシカン・プロレス(ルチャ・リブレ)の覆面レスラーとして奮闘する心優しきダメ男の活躍を描く。
 幼くして両親を亡くし、修道院で孤児として育てられたナチョ。大人となった今はその修道院で料理番として孤児たちの面倒を見る日々。しかし、お金のない修道院では子どもたちに満足な食事を与えることもできない。そんなある日、街でルチャ・リブレのスター、ラムセスの豪華な暮らしぶりを目にしたナチョは、自分もレスラーになってお金を稼ぎ、子どもたちにおいしい食事をあげようと決意する。ところが、ルチャ・リブレは修道院の老僧やナチョが憧れるシスター・エンカルナシオンから忌み嫌われていた。そこで彼は、修道院には内緒で試合への出場を決め、ひょんなことから知り合った謎のヤセ男を相棒に、奇妙なトレーニングを開始するのだが…。

【解説】

修道院を救うため、涙をマスクで隠しリングに挑む。彼は自由の戦士<ナチョ・リブレ>!

イグナシオ/愛称ナチョ(ジャック・ブラック)の両親は2人とも宣教師だ。母親は、スカンジナビア地方から来た宣教師、父親はメキシコ人の助祭士。互いを改宗させようとして恋に落ち、結婚をしてしまった2人はナチョを産んですぐに死んでしまう。二人の死後、ナチョは戒律が厳しくユーモアもない修道院の中で孤児として育てられる。

成長してからは修道院の料理番を担当しているナチョだが、修道院にはお金がないために、まともな食材を使えない。おまけに、寝ている老人を死人と思い込んで祈りの言葉を捧げてしまったり・・・トホホな失敗の連発で、修道士のギレルモ(リカルド・モントーニャ)などからバカにされている。とはいえ、ナチョは修道院の孤児たちからは慕われ、ナチョ自身も子供たちが大好きだ。
ある日、ナチョは、新しい先生として修道院にやってきたシスター・エンカルナシオン(アナ・デ・ラ・レグエラ)にひとめ惚れしたことから、がぜんヤル気を出す。ところが、町に食材を貰いに行くと、すばしっこくて神出鬼没の謎のやせた男に襲われ、チップスを奪われてしまう。落ち込んで歩くナチョだが、憧れのルチャ・リブレのスター、ラムセスの豪華な暮らしぶりを目撃、また、賞金のかかったアマレス大会のポスターも見つける。

「新鮮なサラダが食べたいなぁ・・・」そんな無邪気な少年の言葉がナチョを動かした。ルチャ・リブレでお金を稼ごう、そして子供達に美味しい食事をあげるんだ!ところが、ルチャ・リブレは修道院の老僧たちが忌み嫌い、タブー扱い。試合をTVで観ることすら禁止されている。おまけに、シスター・エンカルシオンからは「ルチャ・リブレは罪であり、偽の英雄だ」と説教され悩むナチョ。しかし、ナチョの子供たちにおいしい食事させたい、という願いは強く、修道院には内緒にして、大会への出場を決める。

ルチャ・リブレに出場するには相棒が必要だ。そこで、謎のやせた男をチップスを罠に捕まえ,タッグ・パートナーになるよう説得。彼の名はスティーヴン(ヘクター・ヒメネス)。蜂の巣を身体にぶつけたり、闘牛の相手をしたり、と奇想天外なトレーニングを経て、お粗末な覆面を被り、正体を隠して試合に出場。しかし、惨敗・・・。ところが、負けっぷりが観客に大受けして、次の週からも試合に出場出来ることになる。
  果たして彼らは一勝を挙げる事が出来のか?ナチョの子供たちへのプレゼントは実現するのか・・・?そして何より、ナチョは両親のように宗教を越えて[愛]を得る事が出来のか・・・?!

主演は我等がジャック・ブラック!「ジャレッド・ヘスが監督を引受けてくれるならタイツだって裸だって何でもやるよ!」と言う通り、体当たりの演技で、これがルチャ・リブレ初挑戦とは思えないほどの華麗な肉体技を披露。更に自らあみ出した<必笑技>の数々が、ルチャの華やかでエンターティメント性に富んだ世界にハマりにハマっている。 オリジナルな世界にご当地メキシコを始め異才・天才が大集合! 共演は、メキシコ映画界のスター、ヘクター・ヒメネス。ストーリート・ファイトには滅法強いが、リングではからきし弱いというおマヌケ演技と、タッグを組むジャック・ブラックとの強烈な絡みは絶妙。ナチョが一目惚れするシスター役には、清楚な美しさが光り輝くメキシカン美女のアナ・デ・ラ・レグエラ。更にイングマール・ベルイマン作品の常連ピーター・ストーメアや、ラテン・エンターテインメント界の輝ける星リカルド・モントーヤなどが脇を固めている。

メキシコ独特の美しい風景を紡ぎだすのは『美しい人』『夜になる前に』の撮影監督ハビエル・ペレス・クロベット。ナチョの色鮮やかなマントをはじめ色彩溢れる豊かな衣裳は『デスペラード』『マスク・オブ・ゾロ』のグラシエラ・マソン。ルチャ・リブレのエキサイティングな格闘シーンは『グラディエーター』『ラスト・サムライ』のスタント界の巨匠ニック・パウエル。そして、エスニック・サウンドに彩られた心地良い音楽は巨匠ダニー・エルフマン、と世界の才能が集結しているのも話題だ。

誰にだって人生一度は輝く瞬間がある!そんな勇気と優しさを与えてくれる映画、それが『ナチョ・リブレ 覆面の神様』。

かの「タイガー・マスク」の原案とも言われる メキシコの伝説的ルチャドール、フライ・トルメンタ(日本名:暴風神父)の実話を元に涙あり、笑いあり、怒涛のクライマックスまで一気に突っ走る『ナチョ・リブレ 覆面の神様』。登場人物の誰もが、ちょっぴり変わり者で不恰好、でもそれぞれが真剣に本当の自分の居場所を探している本作を見れば、誰もが自分の"オリジナル"を見つめなおす事だろう。

映像はコチラ>>http://jp.youtube.com/watch?v=yraIaeMBbj0&feature=related


人情時代劇『ぶらり信兵衛~道場破り~』

2007年12月25日 23時53分30秒 | Weblog
 懐かしい時代劇を見た。もう30年近く前の時代劇ではなかろうか?それが、『ぶらり信兵衛ー道場破りー』である。あの「桃太郎侍」の主役・高橋英樹が、ここでも主演を演じる。「桃太郎侍」は、悪を成敗する凄腕の剣士であり、ドラマ的にも゛剛゛を表す硬派がベースの時代劇だが、この「ぶらり信兵衛」は、長屋の良き素浪人で、人情に弱く、転身朗らかな剣士を描くので、好対照の時代劇と言えるのだろう。
 長屋に住む松村信兵衛(高橋英樹)は、腰には竹光を差しているような浪人で、近所の居酒屋「丸源」で呑んだくれ、“ぶらり信兵衛”などと呼ばれているが、気のいい性格もあって長屋の連中には好かれている。そんな信兵衛は、実は神道無念流の使い手であり、何か事件があれば、長屋連中の預かり知らぬところで、道場破りをして金をこさえて、一件落着してしまうのだ。信兵衛の長屋暮らしは、今日もつつがなく過ぎて行く。
 山本周五郎の短編『人情裏長屋』を原作とした人情時代劇。高橋英樹といえばなんといっても『桃太郎侍』であるが、それとはまるで正反対のキャラクターを演じている。信兵衛は、啖呵を切ることもなければ、豪快な殺陣もなく、道場破りも恨みを残さないよう、わざとギリギリで負けて上手く金を得たりするなど、人情味溢れる信兵衛からは、高橋の新たな一面が見られ、また柳沢真一、大宮敏充といった喜劇陣を中心とした長屋住人との絡みも楽しいものとなっている。なお第1&2話の脚本を手掛けたのは『北の国から』の倉本聰で、ホームドラマに定評のある倉本の手腕が遺憾なく発揮され、シリーズのフォーマットを確立した。

感動の『手紙』

2007年12月24日 21時16分53秒 | Weblog
 昨日、地上波TVであの感動の名作『手紙』が、放映された。地上波では、初放映であるらしい。この映画は、昨年観賞し、私の「大泣きベスト1」作品となった。これまでに、感動のあまり泣いてしまった映画は多いのだが、中でも飛び切りの号泣であった映画作品だ。感動し極地に達してしまうと、人は感銘の涙の境地に入ってしまうらしい。
 韓国映画でも大泣記した作品は多い。「私の頭の中の消しゴム」「トンマッコルへようこそ」「王の男」「サッド・ムービー」「僕の、世界の中心は、君だ」等どれをとっても感動作品ですね。邦画でも、「地下鉄(メトロ)に乗って」「ALWAYS 三丁目の夕日」「東京タワー ~僕とオカンと、時々オトン~」。洋画も多いですね。「ライフ イズ ビューティフル」「アイアム・サム」「ショーシャンクの空に」「グリーン・マイル」「君に読む物語」「戦場のピアニスト」「タイタニック」「フォレスト・ガンプ ~一期一会~」「黄昏」「海辺の家」「グレン・ミラー物語」「ミリオンダラー・ベイビー」等ですね。例示すればキリがないくらい、多くの作品が対象になります。
 しかし、これらを圧倒して、私の中の号泣第1位が「手紙」なのです。この作品の中で、白石由実子演じる沢尻エリカが言うシーンがある。「手紙ってメチャ大事なんや。命みたいに大事な時、あるねんで」(何故か関西弁)。この言葉、珠玉の言葉ですね。命みたいに大事な時がある゛手紙゛とは・・?ここでは物である手紙を指していない。思いのづっしり染み付いた感情・気持ちを指している。武島直貴演じる山田孝之、武島剛志演じる玉山鉄二たちも非常に良い演技である。弟・直貴が刑務所に漫才コンビとして慰問した時、ステージに向かって手を合わせうつむいたまま涙を流す兄・剛志の気持ちが、激しく伝わってきて、今でも思わず大泣きしてしまったのでした。

【ストーリー】
 東野圭吾の小説は「毎日新聞」日曜版に連載され、2003年に毎日新聞社から刊行された。第129回直木賞の候補作にもなった。映画化に合わせて2006年には文春文庫より文庫版が刊行された。この文庫本は1ヶ月で100万部以上を売り上げ、同社最速のミリオンセラーとなった。2007年1月現在は140万部を超えている。
 武島剛志は、高校3年生の弟である直貴が安心して大学へ行けるような金が欲しくて、家宅侵入窃盗を行なうが、家の住人に見つかり、偶発的に殺人を犯してしまう。そのために直貴は「強盗殺人犯の弟」という目で世間に見られ続けて世間の壁を感じ、さらにそれが、何をやるにも足かせとなった。ただ、小さな幸せが欲しいだけなのに、そのつかんだ幸せのカケラを本当の幸せに変えようとするとき、「強盗殺人犯の弟」ということがバレてしまうのだった。その度に彼の想いは揺れる。公表、隠蔽、、絶縁、寂寥、哀憐と…。そんな中で、刑務所に入っている兄ととれる唯一のコミュニケーションが手紙だった。それが疎ましくても懐かしくても。

 この映画作品には、エピソードが多い。
  • 武島直貴は、原作ではバンドを結成するが、映画ではお笑い芸人を目指す設定に変更になっている。
  • 山田孝之は「そのままの演技力を出す」という事で、撮影中は監督から一切指示を受ける事がなかった。
  • 沢尻エリカは、ドラマ「タイヨウのうた」に続いての山田孝之との共演ということになる。
  • 玉山鉄二は殺人犯で刑務所に服役する役のため、人生初の坊主頭になった。
     このように色んなエピソードがあった。しかも、この映画作品を構成するなくてはならぬ主題歌は、高橋瞳の「コ・モ・レ・ビ」、挿入歌は、小田和正の「言葉にできない」である。この素晴らしい歌が、作品の品格を大きく高めている。

     映像はこちら>>http://jp.youtube.com/watch?v=z9x9DcOluYw&feature=related

  • 娯楽の楽しみ

    2007年12月24日 12時13分16秒 | Weblog
     現代社会では、娯楽は色んな種類があって、選択するのも悩んでしまうくらいですね。昔の娯楽は、大衆的な娯楽が圧倒的なもので、共通の意識や価値観の中に根ざしていたものであったと思います。江戸時代の娯楽は、相撲観戦や歌舞伎・浄瑠璃・演芸芝居等の観賞、落語なんかしかなかったのではないでしょうか?まあ、当時として、春本なるものが出回ったり、瓦版が庶民の情報源でありながら、物を知ることの娯楽的要素もあったらしいのです。この時には、色んなランキングが掲載されていて、非常に面白かったようですね。色男・色女のランキング、役者のランキング、金持ちや強欲な評判人間ランキングなんかもあったようです。日本人という種族は、ランキング好きな種族なのでしょうね。現代社会でも、映画、演劇、落語なんかは、娯楽に入っていますが、多くの人の共通の娯楽とは言えなくなってきています。かなり偏った人たちの、言うなれば「一部」のひとの娯楽と言った方がいいのかもしれません。
     昨日の『M-1グランプリ』(漫才コンビのNO.1を決定する番組)は、大変面白かったですし、感動しました。結局は、敗者復活から勝ち上がってきた「サンドウィッチマン」が優勝し、4,000組以上の多くの漫才コンビの頂点に立ちました。(賞金は現金1,000万円+オートバックス商品券100万円分)しかし、掛け合い漫才の技術の高さを見せ付けられました。一方は、アンケート調査員やピザの宅配員のボケを演じ、やくざ風のツッコミをもう一方がやる分担なのですが、このやり取りが絶妙でしたね。やくざ風は、本物ではないかと、疑うぐらい役にはまっていました。過去、敗者復活でのグランプリ優勝はなかったのですが、今回は、その敗者からのグランプリ獲得でした。
     漫才と言えば、「吉本興業」が中心的な組織運営会社で、後は小体雑多なものだけになってしまいますね。一世を風靡した漫才ブームの頃排出した漫才コンビは、今でもどちらかの人が残って活躍しています。「オール阪神・巨人」「今いくよ・くるよ」「B&B」「ツービート」「紳助・竜介」「太平サブロー・シロー」「コント赤信号」「ザ・ぼんち」「のりお・よしお」「春やすこ・けいこ」「星セント・ルイス」「いつもここから」「宮川大助・花子」等有名人が多いですね。この時期の漫才は、最高に面白かったですし、個性的な人物が多く排出しました。

    【漫才の歴史】
     漫才まんざい)は、古来からの万歳を元に関西で独自に発達したとされる話芸。観客の前での主に2人組による滑稽な会話を披露し、その内容や掛け合いの妙などで客席に笑いを提供する演芸大正末期に映画の弁士によって始められた漫談にちなみ、昭和8年頃に吉本興業宣伝部によって漫才と名付けられた。漫才を行う者を漫才師と呼ぶ。
     平安時代から始まった芸能に、新年を言祝ぐ(ことほぐ)歌舞である万歳(まんざい)がある。これは二人一組で家々を訪れ、新年を祝う口上を述べた後に、片方が打つ鼓に合わせてもう片方が舞うというもの。江戸時代には、全国各地でその地名を冠した万歳(尾張万歳三河万歳、が源流でその後(大和万歳など)が興り、歌舞のみでなく言葉の掛け合い噺や謎かけ問答を芸に加えて滑稽味を増し発祥として発展していったが、第二次大戦後にはほとんど行われなくなった。今では保存会などが復興させて継承している。
     明治時代から行われた大阪の寄席演芸である万才(まんざい)は、この万歳のうち三曲萬歳をベースにしたとされる。三曲万歳は胡弓・鼓・三味線による賑やかな万歳で、初期の万才もこれに倣って楽器伴奏を伴っていた。初期の万才の芸人には、万才という分野を切り開いたパイオニアである玉子屋円辰(たまごや えんたつ、慶応元年6月5日- 昭和19年6月19日)や、砂川捨丸・中村春代のコンビなどがある。ただし当時の寄席演芸は落語が中心であり、万才は添え物的な立場に置かれていた。大正末期には、吉本興業の芸人である横山エンタツ花菱アチャコのコンビが、会話だけの話芸(しゃべくり漫才)として成立させ、絶大な人気を博した。昭和8年頃には吉本興業によって漫才と呼び名を変え、東京へも進出していった。エンタツ・アチャコ以降、漫才は急速に普及し、他のスター漫才師も生みだしていった。東京ではエンタツ・アチャコと懇意にしていた柳家金語楼が触発されて、一門の梧楼と緑朗に高座で掛け合いを演じさせ、これが今日の東京漫才の祖とされるリーガル千太・万吉に繋がった。
     一方、砂川捨丸・中村春代やかしまし娘、東京では内海桂子・好江松鶴家千代若・千代菊など、お囃子を取り入れた古典的なスタイルを崩さなかった漫才師もいた。
     このように漫才は寄席で行われる演芸として発達したが、その芸はマスメディアとの親和性に優れており、ラジオの普及後はラジオ番組のなかで、テレビの普及後は共にテレビ番組のなかでも、その芸が披露される機会が増えていった。

     映画と同様に漫才にも、大衆娯楽という古くからの歴史がある。この歴史に根ざした娯楽として、じっくりと鑑賞していきたいものだ!!

    謎解き!!

    2007年12月23日 12時12分16秒 | Weblog
     映画『16ブロック』(ブルース・ウィリス主演)の話は、このブログでも取り上げた。非番なのに証人を裁判所まで護送する任務を命令されたニューヨーク市警・ジャック刑事(B.ウィリス)は、渋々この仕事を引き受ける。僅か16ブロック先にある裁判所までの短い護送、証人は黒人・エディ(モス・デフ演じる)ただ一人の簡単な任務であるかのように見えた。しかし、この証人は、ニューヨーク市警の警官たちが多く係わる不正の証人であったことで、このジャック刑事は、証人ともども命を狙われるハメになる。証人を無事裁判所まで届けなければならない、命がけの任務になってしまう。
     車で証人を護送中、エディは、ジャック刑事に問題を出す。「外は大変なハリケーンの中、自分はバスを運転している。バス停には、3人の乗客がいた。一人は歩く事もままならない老婆、もう一人は自分の命を救ってくれたの無二の親友、そして最後は、飛び切りの美女で、我が恋人だ。しかし、バスにはあと一人しか乗せられない。お前ならどうする?」。奇妙な謎賭けだが、実に面白い心理分析のようである。自我に任せた選択をするのか、広い愛でこの難問を解決するのか?この答えで、その人の価値観や行動指針・性格が読み取れるのだろう。ジャック刑事は、答えず、うるさそうに後部座席との窓を閉めて、会話を遮断した。エディは、「お前の答えはこれか!!」と叫ぶ(まともに答えず、エディを無視した選択を取ったのだ)。この時の答えは、こうであったが、映画の最終章では、ジャック刑事は、改めて答えを出す。「あの時のお前の問いに対する俺の答えはこうだ。バスのキーを親友に渡し、老婆をバスの乗せる。俺はバスを降りて、恋人と残る。どうだ、完璧な答えだろ!」。実に卓越した答えであり、納得してしまう。しかし、バス亭に残った二人(ジャック刑事とその恋人)は、その後、どうするのか?大変なハリケーンの最中である。しかし、そんな事後談はどうでもいいのである。この答えにこそ、ジャック刑事が、追われていた刑事たちとの腐れ縁を払拭し、人間として、刑事として、まとまなこれからの道を歩もうと決意した結果なのだから・・・。この謎かけは、実に映画のストーリー展開にマッチしたもので、この問いかけが、映画全体を引き締めたものにしている。さすがに、ブルース・ウィリスならではの映像展開である。ハードなアクションのみならず、こんな緻密な演技が出来る事は、彼の卓越した能力によるところが大であろう。
     映画での謎は多い。「ブラック・ダリア」は、残忍な胴体バラバラ殺人事件(未解決)の当時の事象を多く集め、こんな事件背景があったのでは?という推論をベースに映画構成をしている。解決していない古い事件であり、今となっては、当時の客観的事象を出来るだけ集め、推測するしか方法がない。また、来年の1月公開の映画作品にも、この種のものがある。ティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演のゴールデンコンビが放つ、『スウィーニートッド』。1795年、ロンドン、フリート街。謎の失踪事件が続発。理髪店を経営するスウィーニー・トッドは誠実な人柄で知られる人物だったが、裏の顔は殺人鬼で、常連ではない金持ちの客が来ると、剃刀で喉を切り裂き、金品を奪い、さらにその死体を隣接するミートパイの店を営むラヴェット夫人(ジョアンナ・ラムリー)の店に卸していたのだった。そんななか、金庫の鍵を持ったまま行方不明になった宝石商マンヘイムを探しにやってきたアメリカ人ベンは、調査の末にマンヘイムがトッドの店を最後に消息を絶ったことを知った。だが、証拠が見つからないまま時は過ぎ、その間にトッドの店の見習い少年チャーリーをはじめ、協力者たちは謎の失踪を遂げていく。ベンはやがて、行方不明者がラヴェット夫人の店でミートパイになっているのではないかと推測を立て、パイの分析を依頼したところ、人肉を使用した可能性ありと出た・・・。とても恐いお話ですね。「ハンニバル・ライジング」に匹敵するかも知れない物語の展開が予想されます。しかし、この「スウィーニートッド」で初めてミュージカルに挑戦したジョニー・デップ、果たしてどんな出来栄えなのでしょうか?とても気になりますね。「オペラ座の怪人」と比較したくなってしまいますね。
     映画の謎解き、謎を含んだストーリー展開は実に面白いものですね!!

    映像はこちら>>http://wwws.warnerbros.co.jp/sweeneytodd/

    物語・・・・。

    2007年12月22日 15時18分42秒 | Weblog
     物語というのは、面白いものですね。実際に起こったことでも、想像上のものでも、感動する事があります。人間の知性に、大いに刺激するからなのでしょうかね?その場面が、この次、どう展開するのか、一種のサスペンス的なものがあるのかもしれません。だから、推理小説なんかは、一端読み始めると、カルビーの「かっぱえびせん」のように後に引いて、止められなくなるんでしょうね(因みに、カルビー本社は、赤羽にあります。)~♪やめられない、とまらない、カルビーのかっぱえびせん~
     先週、TVを見ていたら、フジテレビで特番「ジャンプ!2時間スペシャル」をやっていた。この中で、ブログの女王という4人の女性(若槻千夏、眞鍋かをり他)が、「執筆・働く女の泣けるラブストーリー」を創作するというコーナーなるものをやっていた。4人が順番に、400字で働く女のラブストーリーを執筆するのだが、これがたまらなく素晴らしくて、最高に感動してしまった。若槻が、導入のストーリーを400字で作成、その内容を次の人が展開し、眞鍋が最終の結末を創作し、締めくくるというもの。起承転結、意外性を含んだ話の展開が、本当に見事だった。花屋で働く女性の店に、ある日、深い悲しみを漂わせた男性が、花を求めてやってきた。この人のことが、妙に気になり、忘れられなくなってしまった花屋の女性の物語。何故、そんなに気になったのか、初めて会った人ではないような、懐かしい感情・・・・。そして、最後の結末は・・・。
     インターネットでの物語も、ありますね。一世を風靡した「電車男」。スレッドたちの、顔は見えない友情に大きな感動がありましたね。そして、映画で注目されているケータイ小説「恋空」。この話も、大きな感動を呼んでいます。このように、創作や想像には、人間の感性に大きく響くものがあります。古くは一杯のかけそば」という物語もありました。ある寒い夜に、蕎麦屋に母子連れが入ってきた。人数分は頼めない貧しい様子であり、一杯だけかけそばを注文し、分けながら食べるつもりだ。不憫に感じた店の主は、一人前より多目のそばを茹で、その家族に出した・・・。

    ストーリー:ある年の大晦日の晩、札幌の「北海亭」という蕎麦屋に子供を二人連れた貧相な女性が現れる。閉店間際だと店主が母子に告げるが、どうしても蕎麦が食べたいと母親が言い、店主は仕方なく母子を店内に入れる。店内に入ると、母親が「かけそば(具の一切ない、他には汁だけの蕎麦)を1杯頂きたい(3人で1杯食べる)」と言ったが、主人は母子を思い、内緒で1.5人前の蕎麦を茹でた。そして母子は出された1杯(1杯半)のかけそばをおいしそうに分けあって食べた。この母子は事故で父親を亡くし、大晦日の日に父親の好きだった北海亭のかけそばを食べに来ることが年に一回だけの贅沢だったのだ。
    翌年の大晦日も1杯、翌々年の大晦日は2杯、母子はかけそばを頼みにきた。北海亭の主人夫婦はいつしか、毎年大晦日にかけそばを注文する母子が来るのが楽しみになった。しかし、ある年から母子は来なくなってしまった。それでも主人夫婦は母子を待ち続け、そして十数年後のある日母とすっかり大きくなった息子二人が再び「北海亭」に現れる。子供達は就職してすっかり立派な大人となり、母子三人でかけそばを3杯頼んだ。

     この物語は、読んでいるだけで、その情景が鮮明に頭の中に映像化され、物凄く感動しますね。本当の話なのかも分からない、想像上での話なのかもしれないのに、何でこんなに感動するのでしょうか?非常に強く心に響いてきますね。物語というものは、本当に人間の感性にダイレクトに訴えかけてきてしまいます。童話や昔話を幼少の頃聞かされた時と、同じような思いが沸き起こります。
     英国でも、「ナルニア国物語」「ハリー・ポッター」「ロード・オブ・リング」をしのぐ映画作品が作られているようです。『ライラの冒険ー黄金の羅針盤ー』(3部作)というものです。

    舞台の始まりはオックスフォード。しかし地名は同じでも、我々の知るオックスフォードとはどこか雰囲気が違う…。その“オックスフォード”の寄宿生である、11歳のお転婆娘・ライラは、何にでも自由に変身できる動物と絶えず行動を共にする。 それは“ダイモン”と呼ばれる一心同体の守護精霊で、この世界でダイモンを持たない人間はいない。そんな不思議な世界で、謎の組織に子供たちが誘拐される事件が多発する。親友が誘拐されたライラは自ら捜索に乗り出すが…。全3作からなる世界的ベストセラーの冒険ファンタジー完全映画化。

    映像はこちら>>http://broadband.biglobe.ne.jp/index_program.html?ch=movie_p&prog=movie&movieid=818510&gclid=CL6F9-2gu5ACFRUmawody2n4Wg