漫画家ジョージ秋山の原作で、忘れられない作品がある。それは、金儲けに貪欲に人生を費やす「銭ゲバ」と、人間を食らう「アシュラ」という作品である。ジョージ秋山の原作では、他に「ザ・ムーン」や「デロリンマン」等も気に入っているのであるが、それらを超えて、上述した2作品は感銘を覚えたのである。
「銭ゲバ」は、『週刊少年サンデー』(小学館)に1970年(昭和45年)13号から1971年(昭和46年)6号まで連載された。極度の貧困から、殺人を繰り返しながら金銭と名誉を掴む1人の青年・蒲郡風太郎(がまごおり ふうたろう)の波瀾万丈ストーリー。『週刊少年サンデー』に当作が連載された際、作品の表現問題から一部の都道府県では有害図書扱いされたこともあった。作中で「金のためなら何でもする奴」と説明されている。ゲバとはドイツ語のゲバルト(暴利行為)という意味の略語で、『銭ゲバ』の原作が発表された昭和40年代当時、流行した左派政治運動に参加した学生の隠語で、国家に対する実力闘争を指す。略して「ゲバ」と言うことが多い。
<ストーリー>蒲郡風太郎は幼少の頃から左目に醜い傷が有った。父親は最低のろくでなし、母親は気だては良いが病弱。それゆえ家庭は極貧で、ときには5円の金も無いほどであった。
貧しいながらも懸命に生きてきた風太郎にとって、心の支えとなっていたのは、母親と風太郎に優しく接する近所の青年であった。しかし、治療費が払えない母は病死、自暴自棄になった風太郎は盗みに走り、それを咎めた青年を手にかけてしまう。
それを機に、風太郎は生まれ故郷を飛び出し、成長して大企業の社長一家に取り入って、陰で金銭の為に殺人を繰り返すことになる。遂には、社長一家を死に追い込み、企業の乗っ取りに成功し、政界進出も果たす。しかし、栄耀栄華を極めた風太郎は、誰もが予期せぬ末路を辿ることになる。
「アシュラ」は、飢餓状態の果てに人肉を食べて生き延びる少年・アシュラの物語です。
人肉を食べるということが道徳的にどうとか、倫理的にこうとか、人間としてああだとか、そんなたわ言を差し挟ませない状況が眼前にありまして、主人公・アシュラは人を殺して人を食べるという行動をします。それは食べられるものが人間しかいないという状況を意味しています。
人肉食の話は死んだ人間の肉を食うことから訪れる死生観や人間観を問う傾向がありますが、この作品には生きるために人間を食うことが冒頭から虚飾なく描かれ、生きる人間より死体の数がたくさん描出されることにより、どうしようもない極限状態を表現しています。それがアシュラの母親にして食べられるものが「我が子」しかいないという場面を経て母親は発狂し、幼いアシュラの「食べる」ということへの執念の物語がはじまります。
このような凄惨でやりばのない苛立ちが沸いてくるような展開もジョージ秋山の柔らかくかわいらしいアシュラの表情によって中和され、話自体もことさら哲学的にならないで、少年漫画らしくわかりやすいし、読後はそれほど悪くない、むしろ爽やか…と私は読んだのですが、やはり理不尽な憤りのようなものを感じられるかもしれません。
それが「生まれてこなければよかった」と劇中で繰り返される、おそらく作者が一等伝えたかったはっきりしない主題が原因と思われます。作品の内容に沿って解説しましょう。
アシュラは強靭な生命力で一人で生き抜きます。とある農家の残飯や食物を盗んで生きる中で、その農家も蓄えた食糧が底を尽き飢えかかります。アシュラを危険視した農夫は彼を殺そうとしますが返り討ちに遭い、片腕を切られてしまいます、アシュラは切った腕を笑顔で食べます。
そして、アシュラは初めて人を殺します、ただ、食べるという理由だけで。農家の子を斧で殺し、その肉を焼いて食べるのです。何かを食べる少年に、農夫とその子の兄・太郎丸は色めきたち彼を襲ってその肉を食べてしまい、それが我が子であることを知った農夫は呵責に絶えられず自殺し、太郎丸は半狂乱のまま「」と呼ばれる荒れ果てた土地に迷いつきます。一方のアシュラは法師に出会います。生まれながらに獣と化した少年に僧は人間の心を育てようと、今後もたびたび登場してついにはアシュラに人間の心を取り戻させますが、それは後半の話です。
やがてにアシュラも現れ、この無法地帯(全国的な飢饉のなかにありながら、都の公家達は荘園からの収入により華美な暮らしをしている。物語の舞台は平安時代後半とおもわれる)での権力争いや日々の過酷な労働の中で、太郎丸は当初抱いていたアシュラへの憎悪を徐々に緩和していきます。
また、アシュラはこので若狭という女性と出会い、言葉や礼儀作法を教わり、アシュラにとって母に等しい存在となりますが物語はここから急展開します、アシュラの父の登場、そして母が再登場し、何故自分を生んだのか、こんな時代に何故生んだのか、とアシュラの叫びがコマを埋め尽くします。そして両親を殺そうとするアシュラの前に法師が登場し彼を縛り上げてしまいます。
人間になれ、という法師に対してアシュラは獣の道(食うか食われるかの道)を歩むことを拒みません。
さて、ここからが私にとって大変興味深い展開になります。先ほど言ったように法師とのやりとりによって彼は人間の心を取り戻しますが、アシュラのその後の行動が実に人間らしいのです。疑いようのない人間らしさといえます。
いかにして人間の心を得るのか? 法師は自らの腕を自らの手により切断するのです。
「どうじゃ、アシュラ、これを食え、これを食ってみろ。ほれ、なぜ食わん。食えないのか。おまえは人間なんじゃよ、だから食えないのじゃ。おまえの中にある獣と戦うんじゃ、それが人間の道じゃ。ひとをにくむな。おのれ自身をにくめ。おのれの獣をにくめ」
序盤で農夫の片腕を食べる場面が、この山場と対照的です。作者がどこまで計算してこれを書いたのかわかりませんが、「うまい構成だな」と感じました。
人間の心を取り戻したアシュラはその後人肉を食べませんが、彼は人を殺します。食べるためではありません、ただ殺すだけです。作者が人間の心をどのように定義付けていたのかわかりません。何故アシュラにこのような行動をとらせたのか? 人が人を殺す行為が人間らしい行為?
近隣の人々から殺人鬼として追われる身になったアシュラは、傷つきながら逃げ延びます。そして再びのある村に戻り若狭の前に現れます。若狭は飢えていました。アシュラは人間の肉を彼女に渡しますが、それを彼女は食べるのです。人肉とわかっていながら。彼はすぐにそれがいのししの肉であることを明かすものの衝撃は隠せません、母と慕った彼女も、実母と同じだった! 法師の言葉がよみがえります、「人間のかなしいところじゃ、あわれと思え、あわれと思え」
を去ったアシュラは都を目指します。アシュラとともにで酷使されていた少年達も彼に従います、太郎丸も含めて。
都は村よりも餓死者が溢れているという、それでもアシュラは都に向かって走ります。そして…
劇中のアシュラはよく泣き、笑い、怒り、実に表情豊かです。私は陰惨な内容にもかかわらず楽しんで読めましたが、これもアシュラの笑顔がとても印象深く、結構たくましく生きている姿に共感したためでしょうか。
「もの食う人びと」の「ミンダナオ島の食の悲劇」には、日本兵に家族を食べられた人々が登場します。
…村民たちは泣き叫んではいない。声を荒げてもいない。押し殺した静かな声だった。…私の目の前には、肉親が「食われた」ことを昨日のことのように語る遺族たちがいる。「食った」歴史さえ知らず、あるいはひたすら忘れたがっている日本との、気の遠くなるような距離。私はただ沈黙するしかなかった。…