シリアの武装勢力に拘束され、40ヶ月ぶりに解放された戦場ジャーナリスト「安田純平」が帰国した。2015年に渡航情報を無視した上でシリアに密航し、消息を絶った安田純平を、勇敢であるとする一部の者のを除いて、危険な場所に自ら顧みずに行った戦場ジャーナリストであるので、自己責任でやるべきであるとの意見が多く聞かれる。確かに、戦場地での取材は、大きなリスクを背負って行わねばならない。ましてや、状況のはっきりしない戦場においては、十分な実態把握をするためには、相当危険な場所にまで出向き、実態を取材時なければ、真実を報道できないという、とてつもない制約があるのも事実である。
しかし、そのような苛酷で厳しい、時には自分の命を引換にしなければならない環境で、生活の糧を得ている戦場ジャーナリストをどのように評価するかは、大きく意見が分かれるところであろうと思うのである。実態を危険な場所に踏み入れてでも解明したい、取材したいという心境に基づく行動と、ある程度の状況が分かれば、そこまで踏み込まなくても趨勢は理解できるとする行動とは、危険について自ずと線引きされるものなのである。
今回の安田純平はどうだったのだろうか?後者のおおよそのところまでわかれば良いのではという状況をはるかに超え、実態を追求しようとしたことから、反政府武装勢力に拘束され、40ヶ月という長期間の拘束をされる結果となった。確かに、政府軍によって押さえ込まれた反政府武装組織の実態を報道するためには、危険な地帯にまで踏み込まねば、実態把握はできないし、実態の報道はできないということは分かる。政府軍であるアサド勢力が正しく、反勢力が悪だという、単純な図式でないことも十分に分かる。アサド政府軍は、化学物質を使った反政府軍への攻撃で、多くの市民が犠牲になっているのも事実である。殺戮だけを目的に、サリン等の使用不可の化学物質を相手側の攻撃に使用するなど、正義に反するものであることは如実である。こんな政府が、本当に国を統治できるのかも疑わしいのであるが、これにには、近隣諸国や大国が暗躍していることから、大きな戦闘になっている。反政府軍を支援するカタールやトルコ、政府軍を支援するロシア、一部の反政府組織を支援していたアメリアといった構図が、単なる内戦の域を超え、多国間の代理戦争になっているのである。そんな中で、日々命の危険に晒されている国民にとって、何が正義かは本当に混沌としているのである。そのことで、多くの難民を生み出しているのも事実である。
危険な場所に出向き、その取材によって生活の対価を得ている戦場ジャーナリストを、日本政府は救出する必要があるのか?自分で渡航禁止地域に出向いての拘束は、自らの責任で対処すべきであり、禁止した場所に、自分たちの糧のために出向いた人間を、政府は救出する責務があるのだろうか?この点には、意見が分かれるところである。
危険な戦場で実態を取材することは確かに必要である。人道的ではない戦闘行動をつぶさに取材し、世界に知らしめることをするのは、この戦場ジャーナリストしかできないことでもある。それによって、実態が分かり、如何に人道を無視した暴挙が行われているのか、その地域の人達がどれほどの犠牲を強いられているのかも、その取材で分かる。これをしないで、世界に真実の実態を知らしめないジャーナリズムは、存在が問われるということも言える。命懸けで取材されたものを、世界の人が触れることで、本当の真実が把握できるのである。このようなことから考えると、禁止されている危険地帯での取材を、自己責任論で片付けるには、大きな問題があろうと思う。そのジャーナリストによって、実態が分かる、真実が分かることこそ、世界が知るべきことなのであり、必要な情報なのであろうと思うのである。単なる自己責任論で終息されるべきものとは思えないのである。
一人の道 茶木みやこ(元ピンク・ピクルス)