AKB48をめぐる妄想

AKB48にハマった私「カギ」が、好き勝手なことを述べるブログです。

きくぢ生誕と2000回公演記念サプライズ

2010-07-29 07:06:53 | Weblog
 2010年7月28日のチームK公演、アンコール2曲目の後にきくぢ生誕祭発動。渡り廊下に入った途端にオリコン1位とか、「遅れ1箇月以内」ルールのぎりぎりで生誕祭やると2000回記念公演とか、やっぱりきくぢは何か特別な運を持っているなぁと思う。きくぢは「脱・テキトーズ」といった感じのコメントをしたんだけれど、しかしやっぱりきくぢらしい能天気な雰囲気で、ちっともしんみりしない、明るい生誕祭。

 しかし、米ちゃんが「(お互いに)チームBの初期メンだったじゃん…でもいろいろあって、つらい時もあって。一緒にステージに立てなかった時が…。でも今こうやって、一緒のステージに立てているってことが、すごくうれしい」といった趣旨の発言をした時は、さすがにぐっと来た。2年前の夏、チームBの一番長かった日。米ちゃんたちが頑張り通した3公演を、同じ思いで見つめていた。

 2000回公演記念のサプライズとして、全員で「桜の花びらたち」を歌唱。フリまねしてる人は2割もいないくらい。うーん…もうそういう時代になったのか。

 さらに2000回公演記念Tシャツに、希望のメンバーがサインして手渡し。私としては、記念すべき公演を見られなかった何人かの友人の顔が思い浮かび、かなり悩んだ。彼らの名前で、彼らの推しメンからサインしてもらったらどうだろう、と。初日から来ていた友人もいれば、私(現在、約550回)より多く公演を見ている友人もいる。だが、そのうち一人に絞れなかったし、その場にいなかったのに物だけもらっても、彼らだって困るだろう。…いや、良い人ぶるのはやめよう。やっぱり私は、一ファンとしてメンバーと共に過ごして来た4年8箇月を分かち合い、その証を私自身の手元に残したかった。

 …というところでうっかり眠ってしまった。サインしてもらったときの会話とかは、またいずれ機会があればということで。みぃちゃんかわいいよみぃちゃん。

ただ一つ惜しかった点

2010-07-27 23:18:25 | Weblog
 EC3「パイオニア」泣く。サビは一発で憶えた。チームA、というより1期生の物語。

 ただ、とてもとても感動的で泣けるのに、「♪7人だけが見守ってくれた」そのうち(私が知る限り)3人はまだ現役のAKB48ファンなのに、その誰も初日にいないってのだけは、どうにもやり切れなかった。

 初日がすべてじゃないし、その3人の今の推しは新チームAじゃないような気はするけれど、それでも、歌詞にまで歌い込むなら、せめて初日とかの節目で大切にしてあげても良い気はした。明日の2000回とかも、今からでも何とかなりませんかね?

A-6th「目撃者」公演の第一印象・その1

2010-07-27 23:08:24 | Weblog
 ※注 : 曲名は聞き取った限りなので間違えているかも知れないし、字も違う可能性があるので念のため。

 個人的には「神公演以上」だった。すげえ。アイドル歌謡らしい、あるいはアイドルのステージらしい「分かりやすさ」の多くを捨て去り、メンバーをより高みに引き上げると共に、アイドルの楽曲やステージングというものの概念そのものを拡張していく試みであるように思えた。それと同時にM12「摩天楼の距離」やEC3「パイオニア」は、旧チームA、と言うより初期メンバー(「辛うじて」篠田さんを含む)の物語を濃厚に歌い込んでいて、私としては大いに泣けた。悲しい涙じゃない、しかし、メンバーたちがたどって来た道のりを思い起こさせて感無量になり、涙があふれずにはいられなかった。

 それは、時代の最先端を走る存在になって初めて可能になることだ。かつて松田聖子さんが呉田軽穂(松任谷由美)さんの楽曲などでアイドル歌謡の枠を拡げてみせたように。あるいは中森明菜さんが「難破船」などで単なる「アイドル」から「表現者」への高みへと昇って行ったように。そういえばM05「腕を組みたい」は、その中森明菜さんも歌った「駅」(竹内まりやさんの楽曲)に似た印象のメロディーだ。

 話を戻そう。A-6thの楽曲の多くは、アイドル歌謡にありがちな「お約束」を、あえて外して来たように思える。何曲かを除けば、いわゆるMIXを打てない、もしくは非常に打ちにくい仕上がりになっている。リズムも難しい、ただ、ひまわり2ndの何曲かのような、あまりに実験的な曲とも違って、楽曲そのものには入りやすく、なじみやすい。一方「アイドルらしい」曲が好きな人たちも、安心して良い。節目節目の何曲かは、超王道の「いわゆるアイドル曲」がある。何曲か続くうちにたまったストレスを一気に放出するかのように、わかりやすくMIXの打てる場所がある。しかもそういう曲のうち1、2曲は、今のAKB48でシングルカットすらできそうなクオリティの高さだ。

 歌詞の世界観も、不倫を思わせるような秘密の恋あり、出口のない若さの苛立ちありと表現の幅が広い。ダンスはこれでもかというほど運動量が多いのに、細部の難度が非常に高い。しかも、その細部について行けなければステージが台無しになり、ついて行こうとして端折ると非常にみっともなくなる構成。これ、研究生でアンダーに入れる人は2、3人しかいない気がする。その数人ですら、ダンスは大丈夫だとしても、その他の表現力が追いつくかどうか。大丈夫なんだろうか(^_^;)。

 ただし、「私にとっては」神公演以上でも、誰にとってもそうであるか、と言えば、それはおそらくNoだろうと思う。それこそいつぞやのコンサートタイトルではないが「賛否両論」になるだろう。特に、今のファン層の中で最大のボリュームゾーンである層には、かなり受けが悪いんじゃないかと想像する。また、前田敦・高橋・小嶋・篠田の4人以外のメンバーを推している人にとっては、いろいろ思うところの多い内容かも知れない。実際に私の知人で、その4人以外押しの人は、複雑な表情をしていた。

 それについても私の感想を言うなら「頑張れば1期生(篠田さんまで含む)4人を食える」構成になっていると感じた。この4人が、ポジションの良さを抜きにしてもかなり高い表現力を示しているので、「食う」のは容易ではないが、しかし不可能ではない。実際、倉持さんや片山さんなどの表情やダンスで表現力の高さ、存在感はすばらしく、その4人と並ぶものになっていた。はるごんは歳の割に幼さは残るが、まずまず良い表情と動きができていたし、高城さんは全曲で安定して良い出来。特にユニット曲での輝きはすばらしい。動きの激しい曲では松原さんや岩佐さんの存在感に目を引かれた。仲谷さんはユニットでピアノ弾き語りというおいしいポジションを得ているし、MCでは指原さんや大家さんが健闘。ちぃちゃん、前田亜美さんは楽曲によってすごく引き立つ場面がある。らぶたんは楽曲の世界観に比べるとどうしても若過ぎる印象があるけれど、全体によく出来ているので、ステージを重ねるうちに消化して来るだろう。

 以上、取り急ぎ第一印象として、モバイルからuploadしたら、家路に就くことにする。帰宅後にもう一つエントリーを上げ…たいけれど、ちと無理かも。

新しいチームA を目撃しに行く

2010-07-27 18:10:01 | Weblog
既に秋葉原に着いて、先ほどチケットも買った。今は遅めのアフタヌーンティー。

目撃者、という公演タイトルを聞いて最初に浮かんだのは、もうファンは「目撃」するのがやっとなのかなぁという、ちょっと後ろ向きな思いだった。

だが、今日の公演に入れないグランドオープン以来の古参である友人から「しっかり見て来い」とメールをもらって、そうだよな、こうなった今こそ、劇場で目撃者になれることが、かつてなく重要なんだよな、と身が引き締まる思いがした。

ということで、そろそろ劇場に向かおう。

旧チームAとは何だったのか・その2

2010-07-27 01:44:47 | Weblog
 旧チームAをめぐる総括的妄想の続き。前のエントリでお断りしたように、あくまでも「私の」個人的妄想に基づくストーリーに過ぎないのでご承知おき願いたい。

 ようやく「チーム」らしさを持ち始めたチームAに大きな打撃を与えたのは、全エントリの最後で述べたように「ばら組・ゆり組」への改組の発表であり、浦野さん・平嶋さん・増山さん(後に撤回)・渡邊さんのチームB移籍発表だった。そして、さらに決定打となる出来事が起きる。それこそは、チームAにとって「みんなのお姉さん」であった「あゆ姉」こと折井あゆみさんの卒業である。チームAメンバーは全員、多かれ少なかれ、気持ちのどこかであゆ姉に頼り、あるいは支えられていた。そんな風にあゆ姉がチームAメンバーの心の拠り所であったということは、すなわち「チームAらしさ」の拠り所であったということにほかならない。そのあゆ姉が、とうとうAKB48を卒業するということで、チームAは精神的支柱を失うことになったのだ。

 あゆ姉の卒業により、増山さんだけチームBへの移籍が撤回され、16人になったチームAは、4thステージのスタートを切ることになる。しかし、MCの中で言われた「新生チームA」という言葉に、いささか空々しい印象を持ったのは、おそらく私だけではなかったと思う。「チーム」としての軸を失って、やや落ち着かないように見えていた。メンバーたちがどう感じていたか本当のところが分かるはずもないが、少なくとも一ファンである私の眼から見る限り、「年少メンバーのお姉さん」的な雰囲気を保っていたのは星野さんくらいで(個人のキャラとして今一つ頼り切れない印象はあったが)、相対的に年長だった大島麻衣さんや篠田さんは、あまりそういう役を引き受けなかったように見えた。

 それは(あゆ姉自身が去って行った理由でもあるのだろうけれど)、この頃にはいわゆる「CD選抜」の固定化がはっきりしていたし、その中でもさらに、ポジションの良し悪しがはっきりと目に見えるようなっていたことが大きい。前にも述べたように、もともとチームAというのは、お互いがライバルだと言われて始まっていたのであり、チームとしての団結といった言葉は、少なくともこの時期までのチームAにとっては、後付けの理屈でしかなかった。いったん結ばれかけたチームの団結が幾重にも引き裂かれた後では、「みんなでいっしょに頑張ろう」とか「年下の子をかばってあげよう」なんていうキレイゴトは、もはやメンバー自身が信じられなくなっていたからだろう、という気がする。

 そんな状態で始まったチームAの4th公演は、ごく短い期間で幕を閉じ、「ひまわり組」の期間が始まる。チームKとの混成、同じポジションを担当するメンバー同士での露骨な「表」「裏」の関係、研究生の公演参加などなど、それまでの「チーム」とはまったく別の物語が導入された。そこで培われた「チーム」としての紐帯は、実は「裏」を担ったメンバー同士での団結によるものだった。これは結果的に見て、後にAKB48というグループが全体としてまとまっていく上で、大きな効果を持つことになった。ただしあくまでも「結果的に」そうなったのであり、メンバーたちの真剣な、不断の努力によって、「仕掛ける」側の大人たちの意図を遥かに超えて生み出された、結晶のようなものだったのである。

 ひまわり組が、それはそれとして一部に良い調和を生み出しながらも、やはり露骨な「表」「裏」の関係性の中では、やや後ろ向きなものという印象から逃れられなかった。ようやく戻って来たチーム別公演では、チームKはもちろんのことながら、ある意味でそれ以上に「チーム」への復帰を喜んでいたのが、実はチームAファンだったように思う。というのも、かつてチームA vs.チームKの構図をエスカレートさせていた一部のチームKファンの中には、ひまわり組公演と共にAKB48から離れたり、あるいはチームBに流れたりしている人が多かったからだ。もちろん良心的で穏健なチームKファンで、チーム別公演への復帰を喜んだ人は多かったのだが、相対的に比較すると、ひまわり組にもことさら抵抗を示していなかったはずなのにチームAに戻って喜ぶ、というチームAファンが目立つことになったように思う。

 しかし、4th ステージ「ただいま恋愛中」リバイバル公演のチームAは、さらに性格の異なるものになっていた。ひまわり組の前に星野さんが去り、ひまわり1stの最後で加弥乃ちゃんが去って行った。体調不良でひまわり2ndの期間を長期療養していた大江さん・中西里菜さんのプレゼンスも下がっていた。ひまわり組の時期に頑張った研究生のメンバー昇格が始まっていたけれど、まだ少数派であり、1期生たちの間で小さくなっているように見えた。そして数箇月後、ついにチームAにとって最大の事件であり転機ともなった「5人同時卒業」がやって来ることになる。

 ここでまた一区切り。新チームAが始まる前に書き上げられなかったが、まぁここから後の経緯は、先日のチームA-5thの千秋楽でメンバーたち(特に、日頃は器用に気の利いたコメントをする割に、最後の最後で本心を吐露してしまう正直者のみぃちゃんとか)が語った言葉を参照すれば、「その後のチームA」が、どのように新しく「チーム」たろうとし、団結を作り上げて来たか、ということがうかがえるだろう。実際、大運動会のいくつかの競技で見せた団結は、往時のチームAからすると驚くような一体感だった。

 ということで、明日の初日に備えて早めに(って時間でもないが、日ごろの私に比べればまだ早い方なので)寝ることにする。おやすみなさい。

旧チームAとは何だったのか・その1

2010-07-25 15:50:28 | Weblog
 チームAとは何だったのか、ということを、改めて語っておきたい。

 その前に、念のためにいつもの断り書きをしておくが、これはあくまでも一ファンである私「カギ」の個人的な観察に基づく述懐に過ぎない。私にはこのように見え、このように思えたということを述べているに過ぎず、これが事実だ、真実だなどと主張するつもりは毛頭ない。いやむしろ、おそらく現実とはかけ離れたストーリーであり、すなわちブログタイトルにもある通り「妄想」である。したがって「お前の妄想ストーリーはつまんねーよ」というご批判は甘んじて受けるが、「事実と違う」とか「お前の見方は正しくない」といった主張は的外れなので取り合わないことをお断りしておく。

 と前置きをしたところで本題。チームAはその出発点において、もともと「チーム」ではなかった。メンバーは20人(ほどなく麻里子が昇格して21人)いたが、彼女たちはAKB48という、そこはかとなく怪しい感じの(笑)船に、たまたま乗り合わせてしまった同士でしかなかった。それどころか、いずれ導入されるはずの1・2軍制に向けて、あるいは将来のメジャーデビューに向けて、お互いがライバル同士だとさえ言われていたのだ。

 それが、2期生を入れることになり、当初想定されていた1・2軍制でなくKチーム(当初の呼び方。後のチームK)ができたことで、それと区別するためにAチーム(後にチームA)と呼ばれたに過ぎない。つまりAKB48にとっての「最初のチーム」は、実は旧チームKだったと言っても過言ではない。劇場の最初期から思いを共有して来たファンの間でも、そしておそらくはメンバーの間でも「今さらチームって言われても、ねぇ」みたいな気まずさがあった。

 しかもそう呼ばれ始め、「団結」を求められるようになった時期、劇場で演じていたA-2nd「会いたかった」公演は、メンバー間で出番の多少にあまりにも大きな格差がつけられていた。この時期のメンバーたちは、それまで辛うじて共有していた「先行きの不安な船に乗り合わせてしまった同士」としての連帯感すらズタズタに引き裂くような残酷な状況に追い込まれながら、団結力がないと言われ、チームとしてのまとまりを持て、という要求を突きつけられていたのだ。

 それでもA-3rd「誰かのために」公演の前半は、やっとチームらしさが育まれ得た時期だった。出番の多少やポジションの良し悪しは、いくらか緩和されていたし、メジャーデビューや1stコンサートという慶事もあった。CD選抜という篩い分けに対する悲喜こもごもはあったにせよ、すでにインディーズ2ndシングルCD「スカート、ひらり」において、いわゆる「スカひら7」とほか14人との格差を体験していたチームAにとっては、ある程度予想できたことでもあっただろう。そして何より、まだ「私も次こそは」と思える時期だった。例えば、極めて特別な事情によるものであったにせよ、3rd公演のユニット曲「ライダー」での志穂ちゃん・ひぃちゃんの2トップというのも、良い材料であったと思う。

 しかしその終盤、まとまりかけたかに見えたチームは、再び無残に引き裂かれていくことになる。まずは慶事であったはずの1stコンサートの最後に発表された「ばら組・ゆり組」への改組発表。これは後に明らかにされているように、彼女たち(もちろんチームKも含めて)自身にはまったく責任がなく、ただファンの側が「チームA vs. チームK」という対立構図を煽り過ぎたためだったのであり、彼女たちには非常に気の毒なことであった。さらにチームAだけにふりかかったのが、浦野一美さん、平嶋夏海さん、増山加弥乃さん(後に撤回)、渡邊志穂さんという4人のチームBへの異動発表だった。

 長くなったので、とりあえず一区切り。できるだけ、新チームAが始まる前までに書き上げてしまいたいと思っている。

とりあえず書きたいネタの箇条書き・その2

2010-07-23 02:31:13 | Weblog
 あいにく今夜はエントリ一つを書く間もないので、書きたいネタの続きだけ。

・2005年12月がどうして特別だったか
・全員が満足することはあり得ない
・じゃんけん抽選の峯岸みなみの涙:前に進むには誰かと潰しあわなければならない残酷
・方法論はあらかた出尽くしている、このブログでさえも。ただタイミングが重要

最後の項目については、以下のエントリのコメント部分を、時期に注目しながら読んでもらえると良いと思う。
AKB48のこれからをファンとして考える


 というところで、今日はおやすみなさい。


とりあえず書きたいネタの箇条書き

2010-07-22 02:49:42 | Weblog
 書きたいことは山ほどあるが、今は時間をやり繰りして1日1エントリが限界。そこで、とりあえず「これだけネタはあるぞ」っていうのを箇条書きで書き出しておく。頑張って書きたいと思ってはいるけれど、書けなかったらごめんなさいということで。

・「平等」論を振り回す人は我田引水を理論的に正当化しているだけのことも
・結局みんな自分の推しがかわいいだけ、それ以上に自分自身がかわいい
・長い目で夢を見よう:研究生ユニット問題。先に出たから良いとも限らない
・「チームA、K、Bに所属しないメンバー」に昇格させて遊撃隊を称してはどうか
・選抜を2組作るなら、それこそ「ゆり組・ばら組」と呼べば良いじゃないか
・「歴史」を語る試みのいくつかについて思うこと:ファンが物語から外された
・AKB48について何かを「語る」人でありたいなら、最低限「48現象」は読もう

 あと、書きかけの「旧チームAとはナンだったのか」総括もあるんだよな…。しかしそれでも、今夜はひとまず、寝ます。おやすみさない。

ファンであることの苦しさを越えて行くために

2010-07-22 02:22:44 | Weblog
 今日も酔っ払っているわけじゃないですが、などと言い訳をするのはもうやめた。どうせもともと妄想しか書いてないブログなんだから、酔っ払いのくだ巻きだろうとそうじゃなかろうとどっちでも別に構わんじゃないか。考えてみるといつの間にか、私もこのブログを書く時にずいぶん身構えてしまっていたようだ。きちんとまとまりのある内容を書こうとか、反論を想定してちゃんと断り書きを入れておこうとか。

 でも、そんな風に変に理論武装して正論を吐こうとすると、自分だけがメンバーや研究生の真の味方であるような気分になって自縄自縛に陥ったあげく、ついには「古参ファンが悪い」「新規ファンも悪い」「劇場スタッフが悪い」「いや現場に出ないレベルの運営が悪い」「それを言ったらtgskだろ」「各事務所だってもっと口を出すべき」「やっぱりプロデューサーの責任」「大体メディアも良くない」「広告代理店の陰謀が」「スポンサーが金の力に任せてなんちゃら」「拝金主義の世間が悪い」「政治の問題だ」「戦後日本の教育が悪い」「平成という時代のおかしさがどうのこうの」「冷戦後の国際社会が丸ごと悪い」「いやそもそも人間は根源的に悪なのだ」などなど、ありとあらゆる存在に悪態をつかずにはいられなくなってしまう。

 もっと単純で良いんだよな、と、改めて思う。自分がAKB48をまだ好きか、もう嫌いになっちゃったか。このブログでは何度も書いているように、世の中は決して平等になんかできていないし、AKB48だってキレイゴトだけで出来ている理想郷なんかじゃない。ただそれでも、魑魅魍魎の跋扈するオソロシイ芸能界の中にあっては、AKB48は今でも「かなりマシな場所」なんじゃないだろうか。ちょっとやり方が下手だったり先見性が足りなかったりするところもあるけれど、それでも青臭く「メンバーたちの夢をかなえてあげたい」なんてことを言い続けてくれるスタッフがいるし、ファンは時々げんなりしたりうんざりしたりしつつも、それでも全体としては楽しく、わくわくしながら、その「夢」に参加していられるじゃないか。少なくとも「私は」まだそう思えているから、AKB48と共にあり続け、見つめ続け、そして語り続けていたい。

 だからもちろん、もうイヤだ、自分にはもうついて行けない、と思ってしまう人がいても、それは当然のことだと思う。あるいはまた「まだ好きだけど、でもそれ以上にツラいことが増えてしまった」というのもあるだろう。それは個々人の感じ方であって、誰もそれを間違っているとは言わない。ちょっと残念だとは思うけれど、去って行く人を引き止める術はない。ただ、それでも一言だけ言わせてもらうなら、少しAKB48から距離を置いて、頭を冷やしてみることを勧めたい。それによって、AKB48を好きだった気持ちまで一緒に冷えてしまうのだったら、それはそれできれいにフェードアウトできるだろう。

 一方、距離を置いて頭を冷やしてもなお、AKB48に託した思いの熱さがどうしても消えないならば、今一度、己の心に問い直してみると良い。現実は残酷だ。AKB48もおとぎ話に出てくるお菓子の家のように甘いわけではない。メンバーや研究生は悩んだり、苦しんだりすることも多いだろうし、それを見ているファンは、何もしてやれないもどかしさに身を焦がすことになるだろう。それでもまだ、AKB48が好きでいられるか。彼女たちの夢を、一緒に見続ける者でありたいか。彼女たちと共に歩んで行きたいか。

 Yes、と心の中で静かに決意できれば、ファンとしての覚悟が地に足の着いたものになるはずだ。

選抜常連の固定化問題対策の妄想

2010-07-21 02:30:09 | Weblog
 今日は酔っ払ってませんが昨日みたいな酔っ払い話の続きを書きます。なので相変わらず読む価値はありません、はい。

 いやまぁぶっちゃけ「じゃんけん選抜」ってのは予想外だったわけだが、「そろそろ選抜常連メンバーばっかり引っ張りだこってヤバいんじゃないの?」的な感覚は、多分それなりにアイドルなんてものを長年見続けて来た皆さんには大体お分かりのことだったんじゃないかと思う。しかしまた、じゃあどうすんのよ、っていうのがたぶん、誰にも想像のつきにくかったところで、もちろん常識的にはいろいろなユニットでの魅力創出なんていう手段もあるわけなんだが、それは実のところ、AKB48そのものにおける選抜常連の固定性とはまったく関係のないところで成り立つ話だったりする。

 そんな中で、チームPBとチームYJは、全体としてはおもしろい試みだったと思うのだけれど、あれはそもそも「選抜には入るけれどメディア選抜はぎりぎり」くらいのメンツを集めているところがおもしろかったはずで、私としては「なんでそこに柏木入れて来るのよ」という点でどうも最初からノリ切れなかった。

 PBの表紙がどれくらい格が高いのか、私のような素人には計り知れないが、それにしたって柏木さんはあの企画をやっている間にそれなりにメジャーな青年コミック誌だの写真誌だので単独で表紙を飾っていたのだから、どう考えても半年かけてチームで合同の表紙を競うのは不自然だった。もっと言えばあの企画の始まる時点で既に「もうすぐPBでも単独で表紙になれる」くらいの存在だったのであり、むしろうっかりチームPBに入れてしまったばかりに、PB誌にとってすら足かせになっていたのではないかという気すらする。

 そういう意味では、もしチームPBとチームYJみたいな試みを再度やるんだったら、今度は「総選挙何位以下」みたいな限定をつけた上で、チームを組むところから、プロ野球のドラフト会議みたいな選び方をショー化してしまえばいいのである。んで、もちろん選択指名メンバー(というかその所属事務所)とチームが契約できるかどうかは、指名した後の交渉が重要。ユニットのポジションは指名順通り。だから「うちの子は3位指名じゃ出せません」ていう事務所があっても、それはそれで良い。その場合は補欠指名から繰り上げ。さらに言えば、今度はそれこそ雑誌社をまたいだガチでやったら良いと思う。「あっちの雑誌さんに指名されれば出しても良かったんだけど」的な思惑が渦巻く。この際、他のメディアや、各事務所の方々にもプレーヤーになってもらいましょう、的な。

 または(実は私はこれをやるんじゃないかと思っていたのだが)、もしいわゆる「トップ10」を含む形でやるならば、東軍総大将に前田敦子、西軍総大将に大島優子みたいな感じで、AKB48そのものをすっぱり2つに割るような選抜を2組作って、別タイトルのCDを短い時間差でリリースすれば良いのだ。ミリオン狙いでもするのでなければ、今やAKB48のシングル売り上げは、仮に半分になっても問題ない程度の数になっている。「AKB48の関が原」みたいに盛り上げるかどうかは別にしても、2週連続リリースで連続1位とか、1・2位独占とか、そういう「合わせ技」系の数的記録を狙いに行けるし、何よりも効果的なこととして「オリコン1位を取ったAKB48の選抜メンバー」を倍増できるのだ。

 さらに言えば、もうAKB48名義のCDも、毎回、臨時ユニットのようなものにして行ったって良いのだ。何が何でも毎回毎回、前田高橋大島小嶋篠田板野渡辺松井J柏木みたいな並べ方をしなくちゃならんってことはない。これだけだって9人いるのだ。「トップ10」の10番目に誰を入れるか、CD1枚で一人しか試せないというのは、可能性を狭めてしまう。仮に3人ずつ3枚のCDに分散すれば、選抜の4番手の位置にきたりえあきちゃみぃちゃんともーみといった顔ぶれが入って来られるし、選抜の端っこあたりにはもっと意外な人選だってできようというものである。

 と考えて、そういえばチームシャッフルってそもそもそういうことを狙ったものじゃなかったんだっけ、と気がつくわけで、やっぱりそろそろチーム別シングルというのも視野に入って来る頃なんじゃないかなと思ってみたり。もちろん名義はAKB48で良いけれど。

 というところで、昨日はちょっと朝がつらかったので、今夜は少しだけ早めに寝ることにする。おやすみなさい。

個人的に全く始まらない件について

2010-07-20 02:58:12 | Weblog
※このエントリは単なる酔っ払いのくだ巻きで、読む価値はないです。念のため。

 せっかく連休でしたが日曜・月曜ともに研究生公演ですかそうですか。いやもちろん全国握手会とか渡り廊下のイベントとか事情を知らないわけではありませんけれども。しかしそれを踏まえてもなお「チームB推し」の「♪どんなに売れても/ここで歌っています」っていう歌詞に「それって『たまに』とかいう言葉を入れ忘れたんじゃ?」なんてブラックなことを思ってしまう今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。私は研究生も含めて一生懸命努力している子たちが大好きなので、劇場公演を見に行って参りました。

 しかし、個人的にはどーーーにも「始まらない」まま。まあ別に無理に始まらなくても良いんだけれど。そもそも、私個人の持ち味と言えば、とある場所(AKB48とはぜーんぜん関係のない空間)で、女の子から「○○さん(そっちでの呼ばれ方)みたいな人には、特定の誰か推しじゃなくて、みんなのこと応援してて欲しい」とか言われちゃう残念極まりない人なので、永遠のDDの方が良いのかも知れませんけどね。ついでに言うと、8期、9期の中で、私が初見で「この子は良い!」って思って推し候補にしていた子が、いずれもサクッといなくなっちゃった後では、うかつに推し候補とか作れませんとも、ええ。

 ちなみに7期ではすーちゃんが良いなと思ったんだけれど、始まらなかったなぁ。私にとって「始まる」かどうかというのは、その子を見て良いなと思うこと(これは当たり前)、その子の発言などから好感が持てる人柄だと思うこと(あくまでも私個人の印象の話)、そして最大の要件として「これは運命の導きだ」と思えるような「何か」が降って来ること、があるわけだが、この最後はなかなか降って来ない。SDN48ではかなり努力して(というのは、何も降りて来なかったのだ)、一応ちゃきで始まってみたんだけど、今ひとつ高まり切らない状態。

 余談だけれど今「AKB48で誰が推しなんですか」と言われると、やっぱり口ごもってしまう。正直なところ、私がAKB48を通じて見たかった最大の夢は、今や最も悲惨な経過(結末とはあえて言わない)をたどっている真っ最中だ。何とか取り繕って「好きな子はもう卒業していなくなっちゃったんで、今は全員を応援しています」と言うのが精一杯だ。で、一番好きなその人と共に、私が「もしAKB48がうまくいかず、メンバーも去り、客席がガラガラになって、最後の公演を迎える日が来たとしたら、そのステージに立っているのはこの2人に違いない」と妄想していたもう一人が、高橋みなみさんだった。なので、今では「私にとっての」AKB48という物語の中軸には、今は高みなだけが残っていることになる。だから300MVPのときも、高みなのところに行った。隣にいたなっちゃんに「えー、高みななんだ?」みたいな意外そうな顔をされても、300MVPという節目に「私にとってのAKB48という物語」を共有してもらえる人は、高みなしかいなかったのだ。握手会なんかは抽選で外れまくってて全然行けないけどね。

 一方、それはそれとして、なっちゃんとか、めーたんとか、最近の昇格組では大家さんなどには、個人的にはかなり思い入れがある。握手会などで良く行くのはこの3人と、あとCinDy、SDNでは前述のちゃき、ほかに最近はかとまみにもちょこっと、かなぁ。はいはい十分DDですね、ええ。また、小林香菜さんと前田亜美さんの握手会券は、ここ数回、いつも用意だけしているのだけれど、握手の時間帯がたいてい午前中なので寝坊してパス続き。すみません。ほかに選抜常連・準常連組で何人か、握手しに行ってみたい人はいるんだけれど、握手会券がぜーんぜん入手できない人も。みぃちゃんとかきたりえとか。

 話を戻して、9期研究生は推し候補がいなくなってしまって、改めて見てみると、私にとっての第2推し候補だった横山さんが良いなぁと思ったり。あと、劇場でのパフォーマンスの良さだったら9期で(私の考える)3トップの残りもう一人だった山内さんも、最初の頃の変なアクが抜けて、最近は地の良さが出て来たように思う。さらに、島田さんは力任せな印象のあったダンスがずいぶんていねいできれいになり、表情がものすごく良くなったので、MCも含めた総合点では、横山さん・山内さんを追い越して、9期の中でもうすぐ頭一つ抜け出そうな気配。中村さんもちょっとガムシャラな印象だったダンスが、ちゃんと大きさと美しさを兼ね備えたものに変わって来ているし、そのほか全員を語りたいけれどきりがないくらい、このところ9期生の実力の伸びは著しい。

 10期生はまだまだだなぁ。ダンスがそこそこ上手な子はいるけれど、人によってまだ細部が粗かったり、まだ「頭で考えながらなぞっている」感じだったり。一方で、何人かはまだステージに出して良い水準じゃないと感じたのも事実。良い方も悪い方も、誰がどう、ということは、今の段階ではまだ言わないでおくけれども。先日、このブログで名前を挙げてしまった市川美織さんについてだけ言及しておくと、個人的にはルックスが私の好みのど真ん中ストライクで、ダンスなどのパフォーマンスも私の好みなんだけど、MCでやや消極的なのでまだ人柄とかが分からないかなあ。物語も降って来ないし、このまま私としては「始まらない」ままかも知れないなぁ。

 とりとめもないままだが、そろそろ寝るのでここで終わり。おやすみなさい。

じゃんけん選抜について思うこと

2010-07-19 06:24:47 | Weblog
 先日発表された「じゃんけん選抜」については、ファンの間で必ずしも評判が良くないようだが、私はおもしろいと思っている。おそらく、ほとんどのファンが一度や二度は「いっそくじ引きで決めろよ」とか「もうじゃんけんとかで良いだろ」みたいな憎まれ口を叩いたことがあるのではないか。私も、このブログには書かなかったような気がするが、友人たちと酒飲み話の中では、くじ引きというのは言ったことがあった。もちろんそんなのはタチの悪い冗談であって、本心でそうなってもらいたいなんて思ってもいなかったわけだが、そういう「まさかそれはねーだろ」っていう馬鹿馬鹿しい話を本当にやっちまったらどうよ、みたいな「仕掛け方」は、もうそれだけで「うわっ、そう来たか。一本取られた(^_^;)」みたいなおもしろさを感じてしまう。

 私の普段の姿勢からすると「選抜入りを目指して真剣に頑張っている子たちの努力はどうなるのか」的な正論をぶつべきところなんだろうが、しかし、本当に「真剣に頑張って」「努力」すれば選抜に入れるのか?っていうところが、もう誰にも信じられなくなっているのが現実ではないのだろうか。ファンの不満のガス抜きになるかに思えた「選抜総選挙」も、1回目こそファンの力で選抜に押し込んだ!みたいな物語が生まれ得たけれども、2回目になったらもう「この票数じゃ個人では無理」というのがはっきりしてしまったし、それにも関わらず中間発表から最終発表までに相当数の票数の伸びを見せた何人かの結果について、後味の悪いものを残した気がする。別にそれが良いとか悪いとかではない。AKB48の「選抜総選挙」はそういう約束事の中で実施されているのであり、「選挙」という言葉を借りてはいても、国会議員を選ぶ選挙なんかとはまったくの別物なのだから。

 だからと言って私は「じゃんけん選抜」が「平等」だから良いなどと言うつもりは毛頭ない。大体、右も左も分からない頃からAKB48に身を投じて5年近く、歯を食いしばって頑張り続けた1期生と、メンバーに昇格したばかりの7期生に同じチャンスを与えるのは本当に「平等」なことだろうか。ましてや予選という形で数回のじゃんけんに勝ったとは言え、研究生になって間もない9期や10期の研究生の数人にまで選抜入りのチャンスを与えるのが「平等」だろうか。メディア選抜の常連で自分の時間がないばかりか寝る時間すら削って数多くの仕事をし続けて来たメンバーの頑張りは、「平等」の旗印の下では評価される必要のないものなのだろうか。選抜が毎回本当に「平等」になったら、むしろその方が「選抜入りを目指して真剣に頑張っている子たちの努力はどうなるのか」と言わざるを得なくなるだろう。もし、順番を待ってさえいれば平等に選抜入りの機会が回って来たり、メディアの仕事が回って来たりするようだったら、少なくとも彼女たちのモチベーションは下がるだろう。だから、こんなのは今回だけ、あるいはどんなに多くても年に1回程度までにして欲しい。

 今回の試みは、メンバーやファンに向けてというよりも、メディアに向けての仕掛けという気がする。メディアに良く出るようになったAKB48だが、例えば雑誌の表紙を飾るのは相変わらず総選挙ベスト10の顔ぶれがほとんどだ(ごく最近は少しだけ風向きが変わりつつある気もするが)。せっかくAKB48に、さまざまな魅力を持った子たちがたくさんいるのに、多くのメディアは手っ取り早く、分かりやすく、メディア選抜常連の数人を目がけて仕事を振って来るだろう。と言うよりも、少なくともかつてのAKB48は、そういうニーズに見合うよう、意図的に前田敦子を一枚看板にして来たのだから、ある程度はやむを得ない。だが、これだけAKB48が売れて、かつ、大所帯にもなった今、いつまでもトップ10だけしか認知されない事態は、かえって弊害が目立つようになる。と言って、AKB48側が別の子をアレンジしようとしても、結局は選抜の誰かとバーターで、みたいな形が限界だろう。しかし、じゃんけんで決めようが何だろうが、紛れもないAKB48の選抜となれば話は別である。しかも、わざと選抜メンバーをいじれば、それはそれでファンにもメンバーにも不満の種になるだろうが、衆人環視の下、じゃんけんで決めたとなれば、文句のつけようがない。

 ところで、今となっては「いくら努力したって、どうせ私には(普通には)選抜なんか回って来ないんだ」と薄々気がついていた子もいるだろうが、それでもなお、わずかな可能性に賭けて頑張っているからこそ、向上の余地があり、物語が生まれる余地がある。私が大昔にこのブログに書いたことを、少し長くなるが引用しておく。

 誰もが大人になるにつれて、いやというほど思い知ることになるように、能力とかチャンスといったものは、決して生まれつき平等に与えられているものではないし、また社会においても平等に与えられるとは限らない。だが、人がもともと持っているもの、もしくは天から与えられたものの多寡を他人と比べてみたところで、自分が自分であり他人が他人である以上、取り替えることはできない。自分が生まれて育って来た中で、能力やチャンスに潤沢に恵まれて来なかったからと言って、努力することを放棄してしまっては、そこから先へは進めないのだ。平等なものがあるとしたら「可能性」と「運」だけだ。他人を羨んだり、自分の運命を呪ったりしている暇があったら、その分自分が努力して、少しでも自身を向上させるよりほかにない。いつか運が巡って来た時に、自分がそれを活かせるだけの力を持っているかどうかが一番大切なのだ。(引用終わり)

 この意味で、私としてはむしろ、その「運」で選抜入りを掴むことができた時、その人たちが本当にその運を活かせるだけの力を持っているかどうかに注目したいと思っている。きちんと力を蓄えて「その時」を待っていたかどうか、その人の真価が問われることになるのだ。

 もしこの「じゃんけん選抜」によって初めて選抜入りして、ぐんと輝きを増す人が出て来るようだったら、今後、選抜のうちの何人かは「頑張った人枠」にすれば良いと思う。メディア戦略上、選抜常連を大幅に欠くことがまずいのだとしても、何も毎回全員が顔を揃えなくたって良いだろう。それよりも、なっちゃんが「BINGO!」で選抜入りした時のように、頑張れば報われることもある、っていうのを形にしていく方が、誰にとっても幸せだと思うのだが、どうだろうか。

AKB48のファン活動と劇場観覧に復帰

2010-07-13 02:20:29 | Weblog
 例の一件以降、すっかり劇場から足が遠のいていて、実はコンサートが3週間ぶりのAKB48だった。コンサートには行けない見込みだと書いたエントリのコメントに書いておいたのだが、非常にありがたいことに、日曜になって急遽、コンサートに参戦できることになったのだった。捨てる神あれば拾う神あり、という感じで、お気遣いいただいた方々に感謝申し上げます。

 そして実際に行ってみて、やっぱりコンサートは現場で見ることが重要だなぁ、というのが率直な感想だった。こう書くと、見たくても見られなかったたくさんの人がどういう思いをするものかは、百も二百も承知の上だ。なにしろ、日曜の朝までは私自身が正にそういう思いをしていたのだから。それでも書かざるを得ないのだが、やっぱり「何かが起こっている」その時、その空間にライブで立ち会うことは、とてもとても大事なことなのだと思った。

 そのコンサートで、小野さんの卒業発表を聞き、先のエントリで述べたように「ああ、やっぱり」という思いを抱くとともに、総選挙開票イベントでの小野さんのコメントに抱いた違和感を言葉にしておかなかったことを、猛烈に後悔した。確かにその頃、私は仕事が大変だった。睡眠時間を削ってふらふらになりながらの通勤に「こんなことしていたらいつか倒れるな」と思ったことも一度や二度ではない。しかし、それでもなお、私はその場に立ち会って見ることができた一人として、彼女たちの夢と人生の重みをこめた思いを、そこから感じたことを、私なりの言葉にしておくべきだったのだ。

 たかが一ファンにできることは、これくらいしかないけれど、その「これくらい」すらやろうともしないで投げてしまうのは、やめにしよう。彼女たちとともに運命の川を越えていくと決意したはずではないか。私もまた一ファンとして、一生懸命に彼女たちを見つめ続けて行こう。

 というわけで、コンサート明けの劇場公演も見に行って来た。やはり劇場公演を見続けること、そこで日々起きている物語を私なりの言葉で紡いで行くことは、私がやらねばならないことなのだと改めて思った。

 この1箇月近く、いろいろな方にご心配をおかけし、申し訳ありませんでした。もう私は大丈夫です。社会人としての生活(と自分の心身)を壊さない程度に、という制約からは逃れられませんが(笑)、その条件の範囲内で、AKB48を力いっぱい応援し続けて行きたいと思います。

代々木体育館コンサート明けの劇場公演

2010-07-13 01:51:21 | Weblog
 書く順番が入り乱れてごちゃごちゃになるけれど、とりあえず7/12(月)のチームK劇場公演を見て来た、という話を先に。

 AKB48において「大ホールコンサートの次の日の劇場公演」というものが持つ意味を、今もファンのどれだけが知っているのか分からないけれど、古い物語を忘れていない私たちにとって、その公演は今も特別な意味を持つ。かつて、その役割は旧チームAのみに託され、あるいは旧チームAだけに許された劇場公演でもあった。その後、他のチームに任されたり、あるいは劇場事態が休演だったりするようになったけれども、新チームになって初めての「大ホールコンサートの翌日の劇場公演」が、チームKに委ねられた意味は大きい。チームAが始動前という事情を割り引いたとしても、今やチームKは、総選挙1位のメンバーを要するチームであり、新セットリストですでに3箇月余の実績を持っているチームだからだ。

 中塚智美さん生誕祭の日であることに加え、前日の小野恵令奈さん卒業発表の余韻などもあり、全員、気力の漲った、良い公演だったと思う。中塚さんは以前に比べ、外見的にかなりすっきりとして来たように思える。かなり意識的に取り組んでいるのではないか。そしてその結果として、もともとキレの良い動きに、さらに磨きがかかっているように思う。もちろんその分、ボリューム感はいくらか失われているのだけれど、それはむしろ、失われて良いものだと思う。17歳いうお年頃を迎えることでもあり、キレの良い動きの中にも、女性らしさを出していけるようになれば、さらに良くなって行けるだろう。

 小野さんは発表により吹っ切れたのか、これまでの迷いが消えて、腹の据わった良い表情になっていたと思う。表現というのは不思議なもので、心に迷いがあると、どうしても腕が伸び切らず、足の出がわずかに遅れ、客席に向ける視線が弱くなってしまうものなのだ。久々にすっきりと暗雲を吹き飛ばし、強い視線で客席を魅了する「キラキラパワー」を感じたような気がする。そして、コンサートの余韻か、あるいは旧チームKの連帯ゆえか、大島さんや秋元さんたち2期生が、大変に気持ちのこもったステージングを見せてくれた。特に大島さんは、リミッターを外して逸脱すれすれまで演じ切る濃い口の味わい。時にそれは、周囲を置き去りにした独り善がりになりかねないものだが、この日の新チームKメンバーならばこそ、それを受け止めてしっかりステージの力に変えられていたように思う。

 峯岸さんはやっとみぃちゃんらしい良さが出て来た感じ。やはり、旧チームAの尻尾が取れて、ここが自分のチームと思い決めたからこそ、なのだろう。一方、旧チームAが終わる前から新チームKへの高い適性を示していた藤江さんは、さらに力を発揮して来た印象がある。「以前はチーム*だった」という印象を、どのメンバーよりも早く拭い去ることができる人になるのではないか。

 そしてこの日、私が目を見張ったのが、実は松井咲子さんだった。もちろんファンとして、前日のピアノ演奏には大変感銘を受けたし、その印象を予見として持っていたことは否定しないが、しかし、おそらく見る眼のある人だったら誰もが気付いたであろうように、この日の松井さん本人の一皮も二皮もむけたような輝きっぷりがすごかった。おそらく、前日のピアノ演奏によって、松井さんはAKB48の中で「誰かのアンダー」でも、「何人かいる研究生(ちょっと前までの立場)の一人」でもなく、初めて「AKB48の中で他に代わる人のいない松井咲子」その人になり得たのではないか。ご本人も口にしていた通り、その高揚感がまだ残っていたように思うけれども、それ以上に、一度でも「そういう経験をした」ことは、本人を大きく変えるのだ。松井さんにとって、その経験は心の中で結晶して、宝石のような記憶になっていくことだろう。それがあなたを内側から輝かせる自信になっていくのだ。どうかその経験を今後に生かして行って欲しい。

小野恵令奈さんの卒業について思うこと

2010-07-12 02:26:01 | Weblog
 先ほどは軽く酒を飲んだ帰りの電車内からだったので、とりあえず軽いネタを上げておいたのだが、7/11(日)代々木第一体育館コンサート2日目の最大のトピックとしては、やはりえれぴょんこと小野恵令奈さんの卒業発表を語らないわけにはいかないだろう。

 その理由についての本人コメントの内容は、レポート系ブログの方々が上げてくれるだろうから、ざっくり略。私は私の役割として、私が感じたことをそのまま書いておく。

 ああ、やっぱりか、という気がした。答えが分かった後でこういうことを言うのは後出しジャンケンに等しい、と思うだろうが、私がAXライブ2010の3日目の感想や、チームK-6th「RESET」公演の第一印象で小野さんについて述べていることを読んでいただければ、まんざら後出しではないことがお分かりいただけるかと思う。それは総選挙についてもそうだった。私は個人の時間的事情でこのブログに書けなかったのだけれど、総選挙コメントでのえれぴょんコメントは、かつての「ロリでたどたどしくて守ってあげたい永遠の妹キャラ」から脱却しきれず、さりとてそれに代わり得る魅力なり実力なりをつかみ切れていないことを自覚しているもどかしさが如実に現れたものだった。

 AKB48 ファンである私としては、できればえれぴょんには AKB48 に留まったまま、その脱皮を待ち、そして新しい何かを掴んで行って欲しかった。しかし、あくまでも私の妄想では、新チーム K のセットリストにおける自分のポジションと、そして総選挙での順位を踏まえて、えれぴょんは、AKB48 にいては、それはいつまでも得られないか、得られるとしてもあまりにも時間がかかり過ぎてしまうと判断したのではないかと思う。AKB48 ファンの一人としては、非常に残念に思うし、そういうえれぴょんの成長を支え切れなかったことに、大変申し訳なく、悲しい思いもする。

 ただもう一方で、えれぴょんの決断が理解できる気がする面もある(繰り返すが以下はあくまでも私の妄想である)。若い頃からセンターコースを走り続けて来た人にとっては、「自分がセンターコースから外れた」ということを自覚した瞬間は、ものすごい衝撃を受け、そして巨大な喪失感が追いかけて来るものだということだ。ましてや、自分にセンターコースにいたことが、数多くの幸運と、自分が意図して獲得したわけではない能力に支えられていたと気付けばな、おさらのことである。そうなると人はしばしば、他人からは異様にすら見えるほどの執念で、その位置を取り戻そうとするものだし、そのためには、どんな無謀な賭けにも出てしまうものなのだ。

 しかし、それも「自分が意図して獲得したわけではない能力」を、意図して取り戻せるならば、の話である。えれぴょんの人気の源泉であった子どもの無邪気さ、たどたどしいかわいらしさは、この先本人が努力したところで、決して再び取り戻せるものではない。AKB48 というグループの中では、たとえ古参ファンの多くを失っても、それを上回るだけ新しいファンを獲得して行くという生き残り方もあるわけだが、おそらくえれぴょんは「今の小野恵令奈」に、そのための「武器」があまりにも足りないことに気付いてしまったのではないか。一方では、AKB48に居続ける限りは、「過去の小野恵令奈」のイメージに捉われて、その再現を求めて来るファン(と、一知半解でお手軽な仕事をするマスコミの一部)に、ずっと悩まされ続けることになるだろう。

 かくして今回、小野さんに見限られたのはつまり、いつまでも「幼くて守ってあげたい永遠の妹えれぴょん」というイメージを捨て切れなかった私たちファンであるということなのである。私たちがいつまでも同じところにいて「えれぴょん」の幻を見ようとし続けている間に、生身の小野恵令奈さんは大幅に成長し、遥か先に進んでいて、私たちをここに置き去りにしたまま、自身の夢に向けて、もっと先へと大きく羽ばたこうとしているのだ。だから、今回の小野さんの卒業は、ファンとしては悲しくても、笑顔で送り出してあげなければならないのだと思う。

 オーディションを受けたいからと、ランドセルを背負ったまま一人で AKB48 劇場にやって来たという少女は、いつの間にか大人の女性への階段をかなりの高さまで上り、そして慣れ親しんだ AKB48 から出て行くこともまた、自分自身で決心したのだろう。

 今回の小野さんの決断は、非常に立派だと思う。しかし、だからこそ、卒業おめでとうとは、あえて言わない。AKB48 を離れて、いつか彼女が本当に求めるものを得た時にこそ、心からおめでとうの言葉を贈りたいと思う。