夢とか努力とかについての個人的な見解の続き。例によって既に夢破れて枯れ果てたジジイのタワゴトなので、適当に読み流していただきたく。今回は夢に賭けることのできる「若さ」について、私自身のセルフヒストリーを踏まえて書いておく。
AKB48とまっっったく関係ない話で恐縮だが、今から30年くらい前に、フリオ・イグレシアスという歌手が、日本でものすごく売れまくっていたことがある。ファン層の中心は中高年の女性だったと思われるのだが、そういう意味では少し前のペ・ヨンジュンみたいな感じというか、それ以上かも知れないくらいの大人気。流行りモノが嫌いな私の母もこの人の歌は好きだったようで、私はしばしば、レコード(CDがなかった頃の音源ね)からカセットテープ(って存在くらいは若い人でも知ってるよね?)にダビングしてやったものだった。そんな中で聴いた曲の一つに「33歳」という曲があり、強く心に残ったのを覚えている。
33歳という曲の歌詞はノスタルジックでセンチメンタルな恋歌のようなもので、本当はそんなに深読みするようなものではないのだろう。今調べたら、なかにし礼が訳詞をつけて西城秀樹が歌っているそうで、この日本語の訳詞はもうはっきりと後半生に向けた恋歌に仕立ててあった。私としては、いやそこまではっきり言っちゃうのもどうよ、という気がするのだけれども、たぶんそれが「普通の読み方」なんだろう。
ただ私がこの歌詞に惹かれたのは、若さという恩寵が自分から去って行った後の強烈な寂寥感だった。一部を引用する。
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ときどき うしろを振り返ると
あるものはただノスタルジー
勝つためにゲームをすることができた
あの年頃を想い起こして
きょう わたしが賭けてみれば
もう失う側になってしまった
愛にも年齢がある
あなたがそう思いたくなくても
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確か、この曲を初めて聴いた時の私は、歌詞の中で「16歳になったころ/あのころのわたしたちは/もっと大人になりたいと思っていた」と述懐される16歳か、そのちょっと前くらいだったと思う。愛にはまったく賭けなかったけれど(笑)、夢や希望に対して「勝つためにゲームをすることができた」年頃だった。しかしこの曲は、そういう「勝ち続けられる時間」が長く続くことはないのだ、ということを、私に強く刷り込んだのだと思う。
この曲を聴いた頃から数年後まで、10代の私は、時間が足りなくて仕方がなかった。やりたいことは山ほどあったし、あれもこれもあきらめたくなかった。そのどれも、真剣に取り組めば不可能なんてないと思っていたし、負けることなんか考えもしなかった。いや正確には、一時的に壁に当たって足踏みを強いられることはあっても、それは必ず取り返せるのだと思っていた。そして実際、たいていのものは手が届いたり、または少なくとも、時間さえあればいつか手が届くと思えていた。
その後も20代前半までは、頑張れば頑張るほど未来は広がるように思えていた。共に進む仲間や、私を引き立ててくれる人とたくさん出会い、物事は必ずうまくいった。たまに失敗などしてピンチに陥った時でさえ、不思議な偶然が私を救ってくれた。一つだけでも人生の運を使い切るんじゃないかと思うくらいの幸運が立て続けにいくつも起きて、手を差し伸べてくれる人が現れて、私はいつも窮地を脱することができた。
でもそういう歯車が、いつしか噛み合わなくなった。自分の思い入れだけで突っ込んで行っても、もう勝てない。素敵な幸運はもう私の周りに起きなくなっていた。物事はそうそう自分に都合の良いようにばかり動かない。どんなに頑張っても自分の力では足りないということを認めざるを得ない場面に直面する。そして自分の時間が有限で、自分の能力が思っていたほどでもないことを知る。さらには自分が実は怠惰で考えの甘い人間だったことを、今さらのように思い知る。
それでも20代の後半は、それまでの成果を食い潰しながら、何とか踏ん張れた。だが30歳を少し過ぎた頃にはそうした蓄積も底を突き、ちょうどこの曲が示した33歳の前後で、すっかり「賭けてみれば/もう失う側になってしまった」ことに気づいたのだった。そうなってなお、あきらめの悪い私は、なお数年をジタバタとあがき続けた。結局、30代が終わる時にやっと負けを認めた時には、私の精神も生活も人生もぼろぼろになっていた。幸い身体は健康そのものだったし、復活を信じて手を差し伸べ続けてくれた人たちがいたおかげで、どうにか生き延びることができたけれども。
こういう経験を踏まえた上で、私としては、若いうちは負けることなんか考えずに突き進めば良いと思っている。若いうちは「勝つためにゲームをすることができ」るのだ。自分の夢に対して真剣に取り組んでいれば、その努力がよほど見当違いでない限り、ほぼ必ず素晴らしい偶然があなたを引き立ててくれるだろう。なぜそんなことが起きるかと言えば「人間の社会というのはそういうものだから」だ。実を言えば、頑張る若い人を伸ばそうとしてくれる人たちがたくさんいるということなのだ。
だが、夢のために頑張り続ける気力と体力が尽きてしまう時が、いつかやってくるかも知れない。というよりも、ごく一握りの人を除いて、ほとんどの人にそれはやって来ると言って良い。その時にどうするか、ということは、それはそれでとても重要なことなのだけれど、それは今ここで語ることでもないだろう。ただ一つ言えることとしては、それまでの自分の道のりに後悔を残していると、いつまでもあきらめがつかない、ということだ。いつか自分の夢に区切りをつけなければいけなくなる時、「やるだけのことはやった」ときっぱり言い切れるように、夢に向かっている間は全力で努力するのが良いよ、って結論は前回と一緒なんだけどね。