紅白を控えたおめでたい時期に、こういうことを書いて良いものかどうか、ずいぶん迷った。書いたところで、誰もが今は紅白、アルバム発売、そしてテレビ番組の開始といった、新しい展開にかかりきりで、こんなところで私ごとき者が発言していることに誰も注目しないだろう。でもやっぱり、そういう今だからこそ、私としては書いておきたい、書いておくべきだと思った。メンバーの所属と劇場公演の問題だ。そろそろ何か対策が必要ではないか。
チーム A、K それぞれの公演から、ひまわり組というシステムになったこと自体は、私としては良い試みだったと思っている。もちろん、いろいろ問題がなかったとは言わないし、これで永続的に行くのが良いとも思わないけれど、しかし、チームをいったん解体するという試み、そしてダブルスタンバイという試みは、それ自体は悪くなかったと思う。ただやはり、そこでの人の手当ての問題が、あまりにも不自然だった。そして、その問題は、ひまわり組-2nd になって、なおのこと混乱を大きくしているような気がする。
まずは、研究生を研究生のまま、ひまわり公演に入れたこと。人数の手当てが必要だったのは分かる。だが、それならそれで、真っ先にやるべきだったのは、チーム B に移した 3 人を戻すことだったのではないかと思うのだ。それでも足りない数人についても、本当ならチーム B から持って来るべきだったと思う。確かに、すでに動いている B 公演から人を抜けば、そちらを補充する人のレッスンも必要だ。それがかなりの負担を伴うことは分かる。二度手間になるという理屈も分かる。
でも、そういう「大人の理屈」より何より、一番大事なことは「あの劇場で頑張った時間の重さ」ではないかと思うのだ。その時間は決してメンバーだけのものではない。それを共有して来たファンにとってのものでもある。チーム A、チーム K とも、原則としては ( 例外は篠田さんだけ )、劇場で横並びに始まった 20 人なり 17 人なりの中から、それぞれの客が好きな子を見つけ、応援していくというやり方だったはずだ。そこで何よりも重視されるべきは、その時間の重さではないのだろうか。
オーディション合格から 1 箇月での劇場デビューや、出番の多少やポジションの良し悪しに悩んだことなど、メンバーはいろいろな苦労をして来た。それを応援しているファンも、その時間と感情と物語を共有して来た。ところがここに、はるか後から AKB48 に入って来て、いきなり「1 軍」に相当するひまわり組に、ぽんと入ってしまえる人たちがいる。客はまったくその人 ( たち ) を知らないのに、これまでチームごとに物語を共有して来たメンバーと横並びにされてしまうのだ。これは、篠田さんがカフェにいながら客からの人気が高いということでメンバー入りしたのとは、まるで性質が違う。
もちろんオーディションをしているのだから、ある程度はプロジェクトをリードしている人たちの意向とか好みといったものを前提にメンバーが選ばれていることは間違いない。しかし、チームごとに 10 数人から 20 人程度の人数をずらっと並べた後、そこからの選択は客に委ねる、というのが「あの劇場のやり方」だったのではないか。もちろんユニットの配置や出番の多少の差はあるとしても、基本的には誰も特別扱いせず、経験者であろうがズブの素人であろうが、横並びで切磋琢磨しなければならない。しかしそれが単なる競争ではなく、一方では協力し合って一つの公演を成り立たせて行くという協調性をも求められた。だからこそ「チーム」というのが、緊張感ある集団たり得たのではないか。
ところがひまわり組では、研究生の何人かはオーディションに受かってほどなく、かなり良いポジションで劇場デビューする。どう見たって「飛び級」だ。じゃあプロジェクトをリードしている人たちの眼鏡にかなえば、どんな「飛び級」も優遇措置もありということなのか。そうだとすると、客が日々の劇場公演から彼女たちを見出し、選んでいくことの意義は、もうどうでも良いということなのだろうか。
あくまでも「私の」妄想だが、メンバーたちにとっても戸惑いは大きいのではないか。チーム A、K が合同して、これまであまり知らなかった他チームの子とも人の輪(もしくは和)を作っていかなければならない大変さに加えて、よそでは経験があるかどうか知らないが、少なくとも AKB48 劇場では一から始めなければならないはずの研究生と組まされて、一緒にステージを成り立たせなければならない。研究生たちに足を引っ張られないよう、他のメンバーは協力せざるを得ない。他方、仮に研究生のパフォーマンスレベルが低くても、客も「新人だから」と大目に見るだろう。そんな風に研究生は、周囲のあらゆる人たちから「優しく」接してもらいながら、いわば促成栽培されることになる。これは他のメンバーに比べ、不公平なほどに恵まれてしまってはいないだろうか。
もちろん、研究生たちには研究生たちなりの大変さがあることだろう。それはまたエントリを分けて述べるけれども、たとえその点を加味して考えたとしても、すでに出番に恵まれている一部の研究生は、AKB48 の中で一番「近道」を通れたことは間違いない。それもまた本人の持っている運であり、運も実力のうち…という考え方もあるだろう。だが、これを「運」だと言って良いのだろうか。1 人か 2 人が「たまたま」何かのタイミングで幸運を手にした、というのであれば、その言い方も分かる。だが、そうした「近道」は、運用によって構造的に生み出されているものであり、その数も 1 人 2 人ではない。
じゃあどうしたら良いんだ、ということに、私も名案があるわけでもない。逆に、完全に「入った順」優先にするのが良いとも思わない。完全な「入った順」優先は、確かに誰の目にも分かりやすいものではあるが、それが劇場公演を成り立たせて行く上で、あるいはメンバー個々の成長を促していく上で、最適な方法だとも思えない。ただそれでも、今のように無原則に、オーディションで合格したての子を、AKB48 で最も格上であるはずの公演に投入していくというのは、やっぱりおかしい、と思うのだ。実を言えば、まったく腹案がないわけでもないのだが、それは別のエントリで述べる。
ということで、とりあえずここまで。続きはまた別エントリで。
チーム A、K それぞれの公演から、ひまわり組というシステムになったこと自体は、私としては良い試みだったと思っている。もちろん、いろいろ問題がなかったとは言わないし、これで永続的に行くのが良いとも思わないけれど、しかし、チームをいったん解体するという試み、そしてダブルスタンバイという試みは、それ自体は悪くなかったと思う。ただやはり、そこでの人の手当ての問題が、あまりにも不自然だった。そして、その問題は、ひまわり組-2nd になって、なおのこと混乱を大きくしているような気がする。
まずは、研究生を研究生のまま、ひまわり公演に入れたこと。人数の手当てが必要だったのは分かる。だが、それならそれで、真っ先にやるべきだったのは、チーム B に移した 3 人を戻すことだったのではないかと思うのだ。それでも足りない数人についても、本当ならチーム B から持って来るべきだったと思う。確かに、すでに動いている B 公演から人を抜けば、そちらを補充する人のレッスンも必要だ。それがかなりの負担を伴うことは分かる。二度手間になるという理屈も分かる。
でも、そういう「大人の理屈」より何より、一番大事なことは「あの劇場で頑張った時間の重さ」ではないかと思うのだ。その時間は決してメンバーだけのものではない。それを共有して来たファンにとってのものでもある。チーム A、チーム K とも、原則としては ( 例外は篠田さんだけ )、劇場で横並びに始まった 20 人なり 17 人なりの中から、それぞれの客が好きな子を見つけ、応援していくというやり方だったはずだ。そこで何よりも重視されるべきは、その時間の重さではないのだろうか。
オーディション合格から 1 箇月での劇場デビューや、出番の多少やポジションの良し悪しに悩んだことなど、メンバーはいろいろな苦労をして来た。それを応援しているファンも、その時間と感情と物語を共有して来た。ところがここに、はるか後から AKB48 に入って来て、いきなり「1 軍」に相当するひまわり組に、ぽんと入ってしまえる人たちがいる。客はまったくその人 ( たち ) を知らないのに、これまでチームごとに物語を共有して来たメンバーと横並びにされてしまうのだ。これは、篠田さんがカフェにいながら客からの人気が高いということでメンバー入りしたのとは、まるで性質が違う。
もちろんオーディションをしているのだから、ある程度はプロジェクトをリードしている人たちの意向とか好みといったものを前提にメンバーが選ばれていることは間違いない。しかし、チームごとに 10 数人から 20 人程度の人数をずらっと並べた後、そこからの選択は客に委ねる、というのが「あの劇場のやり方」だったのではないか。もちろんユニットの配置や出番の多少の差はあるとしても、基本的には誰も特別扱いせず、経験者であろうがズブの素人であろうが、横並びで切磋琢磨しなければならない。しかしそれが単なる競争ではなく、一方では協力し合って一つの公演を成り立たせて行くという協調性をも求められた。だからこそ「チーム」というのが、緊張感ある集団たり得たのではないか。
ところがひまわり組では、研究生の何人かはオーディションに受かってほどなく、かなり良いポジションで劇場デビューする。どう見たって「飛び級」だ。じゃあプロジェクトをリードしている人たちの眼鏡にかなえば、どんな「飛び級」も優遇措置もありということなのか。そうだとすると、客が日々の劇場公演から彼女たちを見出し、選んでいくことの意義は、もうどうでも良いということなのだろうか。
あくまでも「私の」妄想だが、メンバーたちにとっても戸惑いは大きいのではないか。チーム A、K が合同して、これまであまり知らなかった他チームの子とも人の輪(もしくは和)を作っていかなければならない大変さに加えて、よそでは経験があるかどうか知らないが、少なくとも AKB48 劇場では一から始めなければならないはずの研究生と組まされて、一緒にステージを成り立たせなければならない。研究生たちに足を引っ張られないよう、他のメンバーは協力せざるを得ない。他方、仮に研究生のパフォーマンスレベルが低くても、客も「新人だから」と大目に見るだろう。そんな風に研究生は、周囲のあらゆる人たちから「優しく」接してもらいながら、いわば促成栽培されることになる。これは他のメンバーに比べ、不公平なほどに恵まれてしまってはいないだろうか。
もちろん、研究生たちには研究生たちなりの大変さがあることだろう。それはまたエントリを分けて述べるけれども、たとえその点を加味して考えたとしても、すでに出番に恵まれている一部の研究生は、AKB48 の中で一番「近道」を通れたことは間違いない。それもまた本人の持っている運であり、運も実力のうち…という考え方もあるだろう。だが、これを「運」だと言って良いのだろうか。1 人か 2 人が「たまたま」何かのタイミングで幸運を手にした、というのであれば、その言い方も分かる。だが、そうした「近道」は、運用によって構造的に生み出されているものであり、その数も 1 人 2 人ではない。
じゃあどうしたら良いんだ、ということに、私も名案があるわけでもない。逆に、完全に「入った順」優先にするのが良いとも思わない。完全な「入った順」優先は、確かに誰の目にも分かりやすいものではあるが、それが劇場公演を成り立たせて行く上で、あるいはメンバー個々の成長を促していく上で、最適な方法だとも思えない。ただそれでも、今のように無原則に、オーディションで合格したての子を、AKB48 で最も格上であるはずの公演に投入していくというのは、やっぱりおかしい、と思うのだ。実を言えば、まったく腹案がないわけでもないのだが、それは別のエントリで述べる。
ということで、とりあえずここまで。続きはまた別エントリで。