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ちくわブログ

ちくわの夜明け

よど号グループ・若林盛亮さんが語った「革命とロックとアイドル」

2014-09-09 23:40:00 | 映画制作
本日、赤軍ドキュメントのインタビュー撮影に行ってきました。
内容がよど号グループに関わることだったので、昨日は資料を読んだり訪朝時の映像を観直したりしていました。

よど号グループに対するインタビューの中で、改めて観てみると今さらながら面白い内容のものがありました。
皆さんに対して「よど号で平壌に訪れた『赤軍兵士』時代と、今現在とで、思想や考え方に変化はありましたか」と質問した時のことです。

かつて「裸のラリーズ」結成時のメンバーだった若林盛亮さんが、以下のように答えてくれました。



以下、インタビュー書出し

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「ロックは分かる奴が分かればいい、分からん奴は分からんでいい、でやってきた。
ロックはそれでいいかもしれんが、政治はそれではダメだと。やっぱりアイドルがいい、と。国民みんなに愛される。
ロックは別にアングラでも良い。やっぱり政治を目指す以上、革命家を目指す以上、もっと大きな愛の中で生きる、と。言う以上はやっぱりその、やっぱりアイドル?アイドル立派じゃないかと。
あれだけの国民にさ、愛されてて。アキバ(AKB48のこと?)なんか偉いじゃないか、と。政治もああいうふうにできればいいな、と。アキバみたいに。

という。

そういうことが出来る人間と言うか。自己主張、自分の言いたいことだけ言ってるんじゃなくて、皆にとって何がええんかな、と。それが愛を感じるちゅう事かもしれんけど。
いまだにワシは写真写りが悪いと、笑顔が全然ない、と(笑)。アイドルみたいに笑えないな、という(笑)。やっぱ笑わんとあかんな、ちゅう。
いろいろ考えるんスけど。
やっぱこの、アイドルを目指す、というか。国民的に、アイドルの政治?国民がみんな、「いい」と言う政治やね。そうういうことが出来る人間にならなあかんな、と。

それは朝鮮(北朝鮮)に飛んできて、初志貫徹と言った時に。目指したんやから。最後までこの道を極めるっていうのを。
それはバンドの仲間に対する義理でもあるやろし。
抜けたからね、私は。そういうことです」

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以上。

一言で言うと、昔に比べてすごく丸くなったんですが、それでも尖ってる部分は尖ってる。
この内容って「死ぬまで革命家でいる」という表明でもありますから。

なんで公開したかっていうと、この内容を映画に反映させたところでアングラロック?と言うんでしょうか。そういったことに興味を持ってる方々には届かないだろうな、と思ったからです。

おせっかいかもしれませんがそういう趣味の方々の参考になれば。


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パレスチナについて。サブラ・シャティーラキャンプに行った時のこと

2014-08-04 22:13:55 | 映画制作
連日のパレスチナ・ガザ地区に関する報道を目にすると、本当に滅入ってくるというか心が痛いです。
普通、外国のニュースって何か起きても「なんてひどい。けしからん」と他人事みたいに思ってしまうのですが、パレスチナの場合は彼らとの間に少しばかりの恩義、縁があるので。


わたしがパレスチナとの間になんらかの絆ができたのは、「リッダの戦士たち」を知ったことがきっかけでした。


かつて日本人の若者がパレスチナ、そしてアラブの大義を信じて決死作戦を敢行。
結果だけいえば、その作戦は間違い以外の何者でもないし、こういうことは決して繰り返されてはならないと思う。
しかし彼らが命を賭して訴えたかったことってなんなのか。
学生であり日本人の若者が、なぜ遠くアラブの地でいわゆる「銃乱射事件」と呼ばれることを起こしたのか。

制作している赤軍派のドキュメント映画撮影のために、3年前の2011年、レバノンを訪れました。

そのことは取材記としてまとめるつもりだったのですが、ややめんどくさいことが起こったので途中でやめにしてしまいました。

しかし当時書こうと思っていたことのひとつで、今あらためてこれだけは書いておかないと、と思った日のことがあります。

ある日、PFLP(当時日本赤軍が共闘したパレスチナの組織)の幹部がわたし達をサブラ・シャティーラキャンプに連れて行ってくれました。

いわゆる「パレスチナ難民キャンプ」に入るのは初めてだったため驚くことの連続でした。
サブラ・シャティーラキャンプは、有名な虐殺事件が起こった場所です。


サブラー・シャティーラ事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6


ジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』について
http://midan.exblog.jp/15228034



マーケットをぬけ、露店の奥に入ると、そこだけぽっかりと空いたグラウンドが。







そこは、レバノンの民兵組織により虐殺されたパレスチナ人達が埋められた場所でした。








今起きているガザの虐殺とは違い、レバノン民兵によるものですが、もちろん背後にイスラエル軍がいました。
というか、物理的に背後にイスラエルの兵士がいました。


キャンプの中心地に入っていきます。












損壊した箇所はそのまま。上から重ねるようにして住居が建て増しされ、いびつな形になっている。
日差しの強さとは裏腹に、陰っている場所のところどころに湿り気と水溜りが。

パレスチナの人々は、何十年もこうした土地に暮らし、さまざまな権利が剥奪されています。
以下に、ベイルートで出会った日本人、JHさんが纏めて下さった資料を抜粋・転載します。


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パレスチナ人難民がレバノンで持つことができない権利

・国籍(レバノン生まれ、あるいは父親がパレスチナ人難民で母親がレバノン人の場合も国籍を持つことはできません)
・パスポート
・家や土地を買う権利
・遺産を自分の子供に譲る権利
・自由に働く権利
・レバノン国内を自由に移動する権利
・レバノン政府が提供する健康保険や年金サービスを受ける権利
・難民キャンプ(ベイルート市内、マール・エリアス難民キャンプを除く)における、電話、インターネット、電気(部分的)、水道等のレバノン政府が提供する公共サービスを受ける権利
・逮捕される際に、逮捕状及び逮捕の理由を求める権利


パレスチナ人がレバノンで就くことのできない仕事
・医師、看護士、弁護士、薬剤師、エンジニア等。

パレスチナ人がレバノンで働くにあたり、許可が必要な仕事
・銀行員、管理職、両替商、宝石商、会計士、秘書、電気技師、塗装業、メカニック、美容師、ドアマン、用務員、小中学校・高校の教師、等。
・服飾・靴製品の製造業、クリーニング業、印刷業、家具製造業、貿易業、建設業、車修理業、鋳造業、等のオーナー。


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やや歩くと、広場の奥にあるパレスチニアン・ユースセンターという建物に案内されました。






ここでスタッフの方がパネルを出してきました。
サブラ・シャティーラ大虐殺の写真。





わりとキツイ写真が多かったので、ここでの紹介はやめておきます。

ユースセンターを出ると、広場や路地、いたるところで子供たちが遊んでいるのが目につきました。
そうした明るい面も見ていると難民キャンプの風景は当初思っていた以上に陽気なものでした。
たしかに貧しいし、さまざまの過酷な歴史と現実がある。











一方で子供たちが笑顔で迎えてくれ、カメラの前で「マルハバ!(こんちは!)」とおどけて見せます。









難民キャンプの現実、大虐殺の写真、そして子供たちの笑顔。
色々なものを一度に見て、ちょっと疲れてしまいました。

それと同時にここに来ることで、彼ら(リッダの戦士)が何のために闘ったのか、疲れた頭の中で少しづつ分かってきたような気がしました。


「もう思い残すことは何もない。ただ一つ心残りなのは、裸足で走りまわっている子どもたちに、さよならのあいさつができなかったことだな」

「難民キャンプのあのきれいな瞳の裸足の子どもたちが、僕たちの後に銃を取ってつづくのがわかる」



リッダの戦士・奥平剛士さんと安田安之さんが決死作戦の前に語ったとされる言葉。


今、各地のパレスチナキャンプやガザで起きている現実をふまえると、これらのことは決して綺麗事では終らないばかりか、作戦そのものにも疑問を持たざるを得ません。
しかしそれは、時代というものもあっただろうし、徹底してパレスチナの人たちによりそった、類まれな行動であったと思います。


連日のガザに関する報道で、胸が痛むほどの動揺を覚えるのは、彼らがいたからこそだと勝手に思っています。
そしてこれは、もはや戦争というより大虐殺といえるので一刻も早く終らせなければならない。

何ができるのか、何もできない。ただ自分が見たことを伝えることだけはできるのでこの記事を書きました。
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首相官邸前抗議行動に参加してきた

2014-07-04 18:14:36 | 映画制作
2014年6月30日に首相官邸前にて行われた、集団的自衛権反対デモに行ってきました。


16時ごろ官邸前に着くと、すでに数人の参加者と警備を開始するおまわりさんの姿が。





この後めし食って、喫茶店でコーシー飲んで再び18時過ぎから参加。
20時頃には帰ってしまったのですが実際にはこの後参加者が増えた模様で、毎日新聞の報道では「数千人」とあります。
主催?発表ではわたしのいた時点で1万人。最終的には4万人って言い出すところもありましたが、それは盛りすぎかと。

集団的自衛権:首相官邸前で抗議デモ 数千人が参加 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/news/20140702k0000m040117000c.html


デモの様子は以下から。
ゼイリブっぽい安倍首相。

時間が経つと共に、ぞろぞろと参加者も増え……








さまざまなプラカード。


左右、立場を超えて集まっていました。
















日が暮れてくるにつれ仕事帰りなどの参加者も増え、警備が強化されていきました。










ユニークな参加者もいたり。
背中にプラカードをさりげなく着け、クロスバイクで疾走する人なんかもいてかっこよかった。


















シュプレヒコールの間にスピーチも行われました。

宇都宮健児さんの姿も。

記事最下部に貼り付けた動画から、スピーチする宇都宮さんの姿を観れます。

暗くなった頃、参加者に比例して強化する警備から歩道にぎちぎちにつめこまれました。いよいよ身動きもとり辛くなってきました。















動画でも撮影してきましたのでよろしかったら。約5分の動画です。




以上。



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巨大な田舎と、地図にない街で

2014-06-29 22:50:40 | 映画制作
―そんな時代の風潮が、年端もいかない少年たちが農業を軽視し、「田舎」「百姓」を時代遅れの象徴として侮辱の対象とするように仕向けたと言えるかもしれない。 名古屋自体が「巨大な田舎」と言われることがあるが、こうした差別や侮辱は、父の上昇志向への反発とあいまって、「農業」や「田舎」に対する拘りを私の心の中に形成していったように思う。


革命左派(中京安保共闘)の側から連合赤軍に合流した加藤倫教さんは、自著『連合赤軍 少年A』の中で、中学の頃から芽生えた世の中への違和感を、当時の風潮や名古屋の風景とからめてこのように綴っていました。

「名古屋は巨大な田舎」
という文句は誰が考えたか。よく耳に、目にする言葉です。名古屋で生まれて名古屋で育ったわたしから見てもぴったりと来る文句だと思います。


先日、刈谷市に住む加藤倫教さんを取材するため、名古屋の実家に帰りました。
実家の最寄り駅から刈谷駅までは40分ほどで着いてしまうため、こりゃいいホテル代わりだとばかりに実家を使わせてもらいました。

刈谷市に行くのは初めてでした。
名古屋でJRに乗る機会もなかったので新鮮に感じられました。当時はどこに行くにもケッタマシィーン(自転車)か地下鉄で事足りたのです。

刈谷市は工業都市で、駅前がとくに栄えているわけでもありませんが、通勤や出張のサラリーマンで賑わっています。
整然とした景観が「栄えてはいないが、お金はある地方都市」とイメージさせてくれます。






昼過ぎから、加藤さん宅にてインタビューを撮影。
「連合赤軍」「加藤3兄弟」というキーワードで驚くべきところは、加藤家の3兄弟が全て連合赤軍事件に関わっている点です。
兄・能敬氏は山岳ベース事件の総括リンチにて亡くなり、ご本人である倫教さんと、弟の元久氏は「あさま山荘銃撃戦」に参加している。

「なぜ加藤家の息子全てが『革命左派』に入ったのか」と聞いたところ、すっぱりと「それは、うちの家族が戦後を象徴するような家庭だったからです」と。

加藤さんは常に客観している。それは恐らく、当時未成年で常に山岳ベース内で被指導側の立場だったからだと思う。
その指導側の頂点にいた一人、永田洋子さんに対して「恨んでいますか」と聞くと、迷いなく「憎いです」と言っていた。意外かもしれないが、当事者でここまでキッパリと言う人はなかなかいないように思う。

前述の『連合赤軍 少年A』を読んでいても自らを客観し、父を、世相を、生まれ育った刈谷市、進学した名古屋市を客観して、それら全てが、自らに「あの結果」をもたらしたことを導き出している。
新左翼的な難しい言語ではなく、われわれが感じる「なんで、どうして」を当事者の側から客観的に論理的に系統立てて答えてくれる。

もちろんインタビューでは「兄が殺されてしまったこと」と「山荘内で何が起きていたか」を聞いたのですが、それ以上に加藤さんの、あの独自の「当事者でありながら客観している」視点からの言葉が聞きたいと思っていました。

2時間のつもりが、やはりというかいつもの通り超過して、カメラのタイムコードは3時間40分を過ぎていました。
そろそろ、とインタビューを終え、能敬氏に線香を上げさせて頂く。



出所後、「藤前干潟を守る会」理事、「日本野鳥の会」愛知県支部副支部長を務めつつ、実家の農業を継いだ加藤さん。
その作業風景を撮らせて下さい、と言うと軽トラで近くの畑に連れていってくれました。

インタビュー中のけわしい顔とはうって変わり、朗らかで優しい表情が印象的でした。





さて。


続いて大阪へ。

釜ヶ崎に住む元赤軍派のMさんを訪ね、インタビュー撮影。

通称“釜ヶ崎”。
西成、あいりん地区といろいろ呼び名がありますが、地図で言えば新今宮駅から向こう側一帯、という感じでしょうか。

当時赤軍派は、ドヤ街に拠点を持っていました。大阪は釜ヶ崎、東京の山谷、横浜の寿町……

資料を読んでみれば、釜ヶ崎では当時頻発した暴動を扇動するのに赤軍派のメンバーや関係者がいたのが分かる。
一時的にではあれ「赤軍(厳密にはメンバーと関係者)vsヤクザ」という状態もあったよう。

ただ、これをきっかけに警察が動き、運動が潰されていく一因にもなった。

こういったことを聞くため、釜ヶ崎に現在住んでいる方を取材しました。


釜ヶ崎とわたしの付き合いは、大阪にちょくちょく来るようになった5年ほど前に遡ります。
滞在するのに毎回ビジネスホテルに泊まるのもばからしい…と感じていたので、思い切ってドヤを宿とすることに。これが、思ったより心地よかったのです。
近くに新世界があり、名画座でヤクザ映画を観て、串カツ食って、帰りは歩いてすぐのドヤに戻って寝る。





こうしたことを繰り返し、取材でも何度か釜ヶ崎に入っていきました。

しかしその一方で、内部から強烈に「撮影してはいけない」という雰囲気は感じていました。

今回撮影する、という前提で入り、Mさんが歩く風景を釜ヶ崎の内部で撮影しました。
歩きながらカメラを通して見る風景は、やはり5年前から随分と変わっていました。

とある大きな古い建物は解体され、高架下にあった数々のテントや露店は撤去されている。


風景論がそう言うように、風景は時の権力が変えていく。
釜ヶ崎について書かれた本では

都市の近代化とは、それまでにない新しい権力構造のもとで、都市空間が塗りかえられていく、ということを意味する。
                                         ―「釜ヶ崎のススメ」洛北出版―

とあります。








カメラを回しながら、胸が締め付けられるような、悲しさとも怒りともつかない何とも言えない感情が沸き起こってきました。
何故風景はこんなに簡単に変わるんだろうか。何故自分はこうした変化に全く無関係なんだろうか。
ここ数年ですっかり変わってしまった名古屋の風景を重ねながらそう思いました。


ふと、加藤倫教さんが別れ際に発した言葉を思い出しました。
「この街(刈谷市)は昔から工業都市ですから。街にお金はたくさんあるんです」

何気なく街のことを話している途中に、彼の哲学というか、生き方のような言葉でした。


「辿っていけば、物事には全て理由があります。理由がない事なんてないんです」

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山本直樹先生のインタビューに行ってきました。

2014-05-30 15:06:30 | 映画制作
なかなか完成しない赤軍のドキュメント映画ですが、ぼちぼちとやっています。


基本「当事者」のインタビューを続けているのですが、その周りに居る人々も取材していました。
特に支援者ではなく一見関係ないように見える人々、言ってみればわたしのような。
世代も考え方も違う人たち。能動的にならなければ、関わらない人たち。

以前取材させていただいた『赤いドリル』の那須さんもそうです。
他には『証言 連合赤軍』を出版した皓星社から、編集者の晴山さんという若い女性も。
この方はオッサンばかりが登場するこの映画において、非常にありがたい女性要素となっています。というかだから取材した。美人だから取材した。
悪いか。



さて、先日はその中でも今現在においてガッツリと関わり、これからも数年は関わっていくであろう漫画家の山本直樹先生を取材しました。
イブニングにて連載中の連合赤軍事件を題材とした漫画『レッド』の作者です。

山本直樹といえばわたしにとっては森山塔でありフランス書院でありました。
中学かそこらの頃、お世話になった覚えがある。

そのため「山本直樹」名義の作品は『レッド』まで読んだことがほぼありませんでした。
まず、数年前に『レッド』を読み、漫画として普通に面白かったので続けて『ビリーバーズ』を読んでハマる。そこからファンに。


というわけで『レッド』執筆の様子を撮影させていただきつつ、インタビューも行ってまいりました。

都内の小奇麗な一軒家の奥。
え、こんなところに部屋が?ってところに不思議な空間が。

ご本人は「コクピット」とおっしゃっておりました。
狭くて綺麗とはいえない空間に、それでもビッシリとどこか整然と資料や仕事道具、漫画が敷き詰められている。
積み重なったモノの連続がなんか心地いい。

漠然と「何かの職人さんの部屋っぽいな」と感じました。

それにしても今思ったんですが、この空間は寝れなくていいですね。

面白かったのは、「どうせだから使い倒す」ということで捨てずに使用している、壊れかけたブラウン管モニタ。
点け始めは何度も電源が落ち、いくらか時間が経つと落ちなくなるとのこと。
描いてはモニタが消え、点けて描いてはまた消え…

という手順を手馴れた様子で繰り返しており。

あ、吾妻だ!

たんたんと書いてますが、現場では内心、スゲー興奮してました。



インタビューの方は主に…

・なぜエロから連赤へ行ったのか
・描く上で心がけている事、難しい点
・主に誰視点で描いているのか

等々。

「誰視点」っていうのは読めば分かるのですが、取材されている様子も見たことがあり、それを分かって『レッド』を読むとまた面白かったので。



「失敗した人、間違った人の物語の方が面白い」という痛快な一言は、山本先生らしいなぁ、と山本直樹ニワカのわたしは思ったのでありました。



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パレスチナの週末・2「檜森孝雄 追悼集会」

2014-05-03 15:05:40 | 映画制作
パレスチナ・ランド・デー」の翌日。

2002年のこの日、一人の日本人がイスラエルに抗議し、焼身自殺を決行しました。
リッダの戦士である、檜森孝雄さんです。


詳しくは、【レバノン取材記・2 リッダの戦士達】に書いてある通りです。


ある方にインタビューした時、どうしても「共産主義革命」の果てにある社会の想像がつかなくて、こう質問しました。
「本当の共産主義社会っていうのは、人間そのものが今と変わらないといけないし、そうなるための人格が必要なんじゃないですか?」

するとその方は「そうだ」と。
分け隔てない、自由で平等な社会っていうのは、その社会に住む一人ひとりの性格、質が問われる問題で、漠然とした思想や政治の問題だけではないのではないか、と。

これはもう革命以上に難しいことで、『攻殻機動隊』で言うところの「上部構造へのシフト」に匹敵することなんじゃないかな…と思います。

一方でまたある方は、自分たちの敗北や過ちを認めた上でこう話していました。


「新左翼っていうのは、優しさに対する許容性」


それはやはり、とてつもなく難しく、かつ彼らの目指したものを端的に表現した一言だなあと感じました。

彼らの目指した「武装蜂起」と「優しさ」のどこに接点があるのか。
感覚的には分かるけど、言葉ではなかなか説明できない。
抑圧された人々、例えばベトナムの空爆にさらされている人々、パレスチナ避難民…
世界が無視するならその正義を自分たちが、武器をとり命をかけて…

ってこうやって説明していくとまた胡散臭くなってしらけるんですよね。

ただ一方で事実、赤軍派も、その後の連合赤軍も。「闘って死ぬつもりだった」という言葉はよく聞きます。
そしてそれを本当にやったのが、リッダ戦士たち。


檜森孝雄さんは作戦には加われず。
しかしその30年後、敵ではなく、自らに火を放って死んだ。




当日夕刻。
ついさっきまで降っていた雨も止みました。


例年のように、どこからともなく追悼する人々が日比谷公園の現場に集まり…






献杯。



焼身自殺当日の様子を語ってくれた足立正生監督。

松田政男さんによるスピーチ。


左から、松田政男さん、足立正生監督、長船青治さん。




檜森孝雄さんの遺稿より。
「26人が死に、72人が負傷した闘いの報に接した時、僕は歓喜してはいなかった。彼らは死に、僕は生きている、その瞬間が今なお続いているような気がする。」




若い頃、一時期を共に過ごしたHさんに「焼身自殺を知った時、どう思いましたか」と聞いたら

「ああ、『フランシーヌの場合』やなあ、と思った」

“フランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日。反戦歌「フランシーヌの場合」が出来た。”
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/48b242487e2d82ab97d721db7cb9ce72

フランシーヌ…?
あっけなくて、一瞬ぽかんとしてしまった。その死を完全にリッダと括り付けて考えていたわたしは、そういう話が聞けるだろうと思って聞いたのだけど。

しかし、考えさせられました。「リッダに殉じる」という大義、かっこいい言い方もあるかも知れない。でももっと、今の運動への絶望とか、個的な決意がその死にはあったんだろうな。

自分が死んで何かが変わるわけでもない。
しかし、何とかして意思という楔を打ちたかったのかなあ、と。

事実、檜森さんのことを何も知らないし、会ったこともないわたしは、ここ3年ほど追悼会に参加しています。



やはりまとまらない記事になってしまった…



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水平線の向こうに―ルポルタージュ桧森孝雄
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パレスチナに献花を
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千葉刑務所に行ってきた

2014-03-20 17:11:07 | 映画制作
先日、取材で千葉刑務所に行ってきました。


連合赤軍の元幹部で、革命左派のメンバーであった吉野雅邦さんは逮捕後、その千葉刑務所に服役しています。

いわゆる「最初の二人」を殺害した『印旛沼事件』から始まる一連の『連合赤軍事件』に関わっており、その過程において我が子を身篭った恋人である、金子みちよさんを『山岳ベース事件』の総括リンチにより亡くした吉野さん。

文筆家の大泉康雄さんは事件前、吉野さん・金子さんと友人関係にありました。そのことからここ数年、毎週千葉刑務所に通い、吉野さんと面会を重ね、事件の聞き取りを続けています。
大泉さんによる『あさま山荘銃撃戦の深層』には、近しい友人が起こし、経験した事件についての複雑な心境をこう綴っています。

“吉野雅邦は、愛知揆一外相の訪ソ訪米阻止羽田突入事件、栃木真岡市の塚田銃砲店での猟銃強奪事件、印旛沼事件(同志二名を殺害)、山岳ベース事件(同志十二名を殺害)、あさま山荘事件(警察官二名、民間人一名が死亡)……六九年から七二年にかけて起きた一連の連合赤軍事件でこれらの凶暴な犯罪を犯した者として裁かれ、いまも償いの日々を送っている。
 けれども私にはいまもって、彼が行った行為、犯した犯罪に対しての現実感が持てないことがある。後味の悪い夢のように、いつまでも生理的に厭な感じは残っているのだけれど、それは夢で起きたことであって現実のことではない、と自分を封じ込めるオブラートのようなもの、それが私を支配し続けている。
 むしろ「事件の人間」となる前の吉野雅邦の方が、像としてはずっと鮮明で近しいものに感じられる”


大泉さんの資料から。あさま山荘から連行される吉野雅邦




というわけで、聞き取りに行く時連れてって下さい、とお願いしていたのでカメラ持って同行しました。

千葉刑務所はたいへんアクセスのよい場所にあり、車で行くと京葉道路・貝塚I.C.降りてスグ、です。
ちなみに刑務所のまん前にはバス停もあるのですが、なぜか「千葉刑務所前」ではなく「県職員能力開発センター入口」となっております。








滞在時間は少なく、大泉さんが吉野さんに面会する30分ほどでした。
したがって周りの様子などあまり見れませんでしたが、東京拘置所にあったような独特の雰囲気、威容があまり感じられず、赤レンガの瀟洒な建物だなあ、と思うにとどまりました。

しかし、大泉さんの言葉を借りれば「『左』『右』の大物を収監していたこともある『名門』刑務所としても名が通っている」のです。

待合室には差し入れの売店他、全国の刑務所内で作られたものを売る小さな売店もあり、良心的なお値段で購入が可能です。
わたしが買ったのは、皮製判子ケース(780円)、ぐい飲み(330円)です。




千葉刑務所を後にし、大泉さん宅へ。

様々な資料を拝見しているとその中に、まだ事件が起こる前…純粋に恋人関係にあった吉野さんから金子さんに宛てた手紙のコピーがありました。





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あさま山荘銃撃戦の深層(上) (講談社文庫)
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あさま山荘銃撃戦の深層(下) (講談社文庫)
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足立正生監督インタビュー

2013-11-30 00:25:15 | 映画制作
足立監督はわたしが制作している映画にとってどうしても欠くことのできない人物でした。



思想と表現の関係をどう捉えるか。
そして、日本赤軍とは何か。リッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)とは何だったのか。

リッダ闘争のことを考える時「若い日本人が遠くベイルートまで飛び、パレスチナの大義に決死の覚悟で身を投じた」、このことがどうしてもあまりに理解されておらず、「一般の人々が巻き添えを食ったただのテロ」としてしか見られていないことに…いや、日本社会の尺度で見るとそれはどうしようもない事なのかも知れませんが、ほんの少しでも当時の「アラブの大義」と彼ら日本人の「覚悟」をもっと知ってほしいという思いがあります。


パレスチナの現状を見ればそれは何よりも「分かりやすい」ことではあるのですが、同時にニュースの中に埋没する日常の映像風景としてしか捉えられていない現状もあると思います。
この中で足立監督は自らが監督としてそもそもは『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』のパート2を制作するためにアラブへと発った人物、かつて日本赤軍の中枢にいて、今、語ることが出来る人物として、さまざまな条件を兼ね備えた人物でした。


そういうわけで、2011年、震災後から動いていた映像に関する活動を記録し、その後はわたし自身もレバノンを訪れ、去年のリッダ闘争40年にまつわる活動を記録し、いろいろと質問項目にフィードバックできるものも整い、やっと先日インタビューをさせていただきました。


内容は主に…

・日本赤軍とはどのような組織か
・足立監督の役割や、どのような経験をしてきたのか
・『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』は何を目指して制作されたのか
・リッダ闘争とは何だったのか
・リッダ闘争と連合赤軍事件の関係
・その連合赤軍の坂東国男さん等、指名手配を受けている人々はどこにいるのか

といったものです。実際には30項目以上あり、インタビューは3時間以上に及びました。
監督の回答はいずれも迷いがなく、ハッキリとしたものでした。



わたしとしては「日本赤軍・リッダ闘争」にまつわることは、これでやっと区切りがついたと思っています。
まだ欲しい材料はありますが、ひとまず。



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北朝鮮 よど号グループ取材記・13 また来ます。

2013-08-21 20:21:25 | 映画制作
訪朝5日目 その4。


最後の夜。
お別れ会でレストランへ。

車にて移動中、平壌市民が大勢歩いていたので、あれは何か聞くと、よど号グループ若林さん曰く「マスゲーム練習の参加者だ」とのことでした。

到着。
確か「ヘマジ食堂」と聞きました。


席に着くと、小西隆裕さんから一言。主に「赤軍40年」を経て出会った元連合赤軍兵士・植垣康博さんのこと、椎野礼人(今年『拉致疑惑」と帰国 ---ハイジャックから祖国へ』を編集、出版)さんのこと。
そしてわたしのことも。
「インタビューやらしてもらったんやけども…ああ、この人にね、僕らの気持ちが映像化されるっていうかね、それをこれから託していけるんちゃうかな、と」
というありがたい言葉をいただく。

「これらの出会いが、新しい出発になった。そうした感謝の気持ちを強く持ちました」
と。


そっからはもう飲めや歌え。ステージには女性も出てきて歌や演奏、われわれもカラオケを。




最後は全員が肩を組んでの『インターナショナル』。


“起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し……”


こうして、最後の宴は終りました。
よど号事務所への帰り、夜景を見せてもらいました。



その後、事務所に戻ってもまだまだ飲む。主に植垣さんが。
この日、最後ということでかなり遅くまで飲んでいたような気がします。
植垣さんも珍しく、デロンデロンに酔っ払っておりました。

やっぱり、同志なんだろうなー、と。会えたことの嬉しさと、最後の夜という寂しさもあるのかな、と思いました。



翌日。
午前10時半ごろの飛行機で平壌を発つため、朝からよど号グループ皆さんで車にて平壌国際空港まで送っていただく。



イミグレーション前でメンバーの方々と握手。
小西さん「会えてよかった」と。


わたし達はこうして帰ることができる。
しかし、彼らはいろいろな事情で帰ることができない。

こんなに近いのに、北京を経由するとはいえ我々には簡単なことなのに。
そう思うとなんか少し、悲しくなってしまいました。



でも、まあまた来ます。






北朝鮮 よど号グループ取材記・終



前回まではこちら
【北朝鮮 よど号グループ取材記・1 北京】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・2 平壌へ よど号グループとの初対面】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・3 よど号グループ帰国問題談話・平壌観光】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・4 人民大学習堂/万寿台の丘】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・5 主体思想塔と平壌の遊園地】
北朝鮮 よど号グループ取材記・番外編 北朝鮮のハンバーガー
【北朝鮮 よど号グループ取材記・6 祖国解放戦争勝利記念館】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・7 大同江果樹農場】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・8 『赤軍という現象の歴史的再定義』】
北朝鮮 よど号グループ取材記・番外編 「犬食った。」
【北朝鮮 よど号グループ取材記・9 『北朝鮮という国』】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・10 『田宮高麿』】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・11 平壌の学校】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・12 平壌の地下鉄】


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『証言 連合赤軍』

2013-08-17 19:14:21 | 映画制作
という。とてもまじめな本が発売されました。


今まで10冊発行されている「連合赤軍事件の全体像を残す会」の発行冊子『証言』。
本書はその総集編であり、追加として資料や写真、本書のため寄せられた文章が盛り込まれています。

約700ページ、約4500円のギガントボリュームですが、元になった冊子『証言』は絶版になっている号もあるため、これから連赤について調べたいという方にとっては、これでも安い!と思う。
そもそも『証言』が1冊1000円かそこらなので、全て揃えるとしたら1万とかになってしまいます。なのでここはひとつ、こちらの本をお勧めしておきます。


これを読めば連合赤軍事件のすべてが分かる大百科!!という本ではないんですが、ここにはいわゆる当事者と、それをとりまく人々の丹念なインタビューが「そのまま」綴られております。
そもそもの『証言』の価値がそこなんですが、いわゆるマスコミが踏み入らない領域を、この本では当事者自身がインタビュー側にまでまわり、踏み込んで、丁寧に言葉を掘り起こしております。

ワタクシの主観的な位置付けとしては、連合赤軍に関する諸々の代表的な本を読み、事件の流れを理解した後、この本を読めばよろしい塩梅かと。

一応、証言側として昨年の『連合赤軍殉難者追悼の会』におけるAさんの証言、そして巻頭他の写真で協力させていただきました。



この本は年若い皓星社の女性編集者が手がけております。(美人)
事件が起こった時代とはまったく関係の無い若い世代である彼女。
その彼女にはわたしの映画にも出ていただき、インタビューをさせてもらいました。そこからの言葉を要約。

「私自身、『証言』や事件に関連した本から受け取ってるものはすごくたくさんある。連合赤軍事件というものをフィルターにして自分自身のこと、社会のことを見てみると、すごく色んなことが分かる。そういったことを汲み取るためのハードを残すのが私のしたいことです」



以上。
買おう!!!『証言 連合赤軍』


証言 連合赤軍
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証言連合赤軍 10
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証言 連合赤軍〈9〉四十周年殉難者追悼の会
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連合赤軍事件の全体像を残す会

証言 連合赤軍〈8〉棺を覆いて
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北朝鮮 よど号グループ取材記・12 平壌の地下鉄

2013-07-21 21:42:30 | 映画制作
訪朝5日目 その3。


『平壌6.9中学校』を後にした我々は、明日帰国のためひとまず土産物屋のある商店街へ。
いろいろ見て、荷物にならないようなものを買う。
切手、ピンバッヂ、タバコ、漫画等…

その後、これも観光コース。地下鉄を見学させていただくことに。
わたしの他には植垣康博さんと、ガイドのKさん。

こちらが確か平壌地下鉄千里馬線「復興駅」。

利用者はけっこう多いです。
駅の前には路面バス停も。


平壌の印象は、とにかく歩いている人が思っていたより多いということ。東京的なニギヤカさではなく、皆、何か目的があってそこに向かって歩いているような。
もっと静かな街だと思っていたのですが、写真を見ても分かるように活気はあります。

東京のように交通網が張り巡らされているわけではないのでしょうから、こうして地下鉄とバスを駆使し、他はずっと歩くのでしょうね。
平壌地下鉄は今回乗った千里馬線の他には革新線っていうのがあるみたいです。
というわけで非常に分かりやすい路線図。

また駅の名前が面白いんですよ。地名ではなく
「復興駅」→「栄光駅」→「烽火駅」→「勝利駅」→「統一駅」→「凱旋駅」→「戦友駅」→「赤い星駅」といった具合に。
わたし達は今回、「復興駅」から「凱旋駅」の間を乗りました。

駅へ続く、長く無機的なエスカレーターを降りながらKさん曰く「みんな、普通の人。あんまり撮らないでね」と。言われつつ撮る。
また「見てください。これがフツーの平壌の人々です」とも。

この「THE 共産圏」て感じのつくりがたまらんですね。かっこいい。
ちなみになんでエスカレーターが長いかっていうと、核シェルターを兼ねているからだそうです。

駅構内。なんか豪華なツクリ。


新聞も読めるよ!

そのうちにいかした色の電車がやってきました。



われわれも搭乗します。

そしたらなんと、ある駅でガイドのKさんの元同僚だかの方が乗ってきて、語らい合ってました。そして、「撮って」と。

あ、後ろにフォーカスあっちゃった。
しかし「あんまり撮らないで」とか言っておいてこういうところで「撮って」とか言うので笑った。
この方、だいたいこんな感じでルーズなところがあって憎めない人でした。

降車駅の「凱旋駅」に到着。
また長いエスカレーターを上がって

地上に。
「凱旋駅」駅舎



観光コースとはいえ、こういう違う文化圏の生な日常ってなかなか見れないので楽しげな体験でした。




続く

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【北朝鮮 よど号グループ取材記・1 北京】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・2 平壌へ よど号グループとの初対面】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・3 よど号グループ帰国問題談話・平壌観光】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・4 人民大学習堂/万寿台の丘】
【北朝鮮 よど号グループ取材記・5 主体思想塔と平壌の遊園地】
北朝鮮 よど号グループ取材記・番外編 北朝鮮のハンバーガー
【北朝鮮 よど号グループ取材記・6 祖国解放戦争勝利記念館】
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【北朝鮮 よど号グループ取材記・9 『北朝鮮という国』】
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【北朝鮮 よど号グループ取材記・11 平壌の学校】



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北朝鮮 よど号グループ取材記・11 平壌の学校

2013-07-04 20:33:18 | 映画制作
訪朝5日目 その2。


昼休みの後、よど号グループの方々と共に観光コースである『平壌6.9中学校』へ。

校舎と校庭。


中に入ると、いい感じの校長先生がご挨拶を。

「全教職員を代表して、熱烈に歓迎します」

そして校内案内。
基本的に電気はあまりついておらず、雨が降っていたせいもあって暗かったです。
しかしこういう電気の使い方って見習うべきものがありますな。

学校の歴史がパネル展示されている教室にて。

1969年6月9日、金日成氏がこの地を選定したから、6.9中学校となったそうです。こういういきさつはだいたい予想できてたので「あやっぱそっか」と思ったのです。

授業中の教室へ。
「生物」の時間だとか。そして、彼ら彼女らは中学3年生だそうです。もちろん日本の中学の割り当てとはぜんぜん違いますよ。たぶん9~10歳くらいですかね。

これは何の時間だったか…暗記させて、前で喋らせる、というものだったかと。
つまっている男の子もいてなかなかハラハラさせた。先生が怖そうだったから。

移動中、廊下でよく見かけたのはこうしたプロパガンダアート。
内容はよく分からないけど「ぼくたちわたしたちは死ぬまで闘う!!」という漲りが感ぜられる。


カッコイイな~こういうのは無くならないでほしい。
この洗練されてないやぼったさからほとばしる力強さが実にいい。

また、こうした生徒の写真パネルも。

「今月のよくできた子」とかそういったアレでしょうか?

次いで、剥製のお部屋。狭い中にもいろいろいました。


そして本日のメインイベントであります。
どこからともなく音楽が…

ついていくと。

ヘラッシェイ!!!とばかりに生徒さんたちによる歓迎のコンサートが。これも名物のようです。
ほとんどが女の子で、だいたいかわいいです。うっすら化粧してたり。

で、やっぱりものすごくうまい。小学生高学年くらいの年齢が中心ですが、レベルが高い。
たぶん中途半端に「部活」って感じでやってないんだと思います。

歌も

踊りも

とにかくお上手。たまげた。

テレビとかで北朝鮮の子供がニコニコーーーーって笑って歌うところが流れると「わざとらしい笑顔で気持ち悪いなー」と、わたし自身も思っていました。
しかし生で見ると、これはこういう余興、演出なんだな、と。つまり、そりゃ心の底から笑ってるわけじゃないだろう、でもこれはこれでひとつの芸なのだ、と感じました。

たぶんもう何回も見てるよど号メンバーの方々と共に鑑賞。

北朝鮮の「けいおん!」的な。

最後はみんなで手をとって踊る。これはオッサン観光客喜ぶだろうなー。うまいわ…

その後みんな揃って記念撮影。この後われわれも入ってみんなで撮ったのですが、なんか彼女たちはいい匂いがしました。

これで終わり、というところで訪朝団からサッカーボールが校長先生に手渡され、お礼。少女たちからもお礼と手を振っての挨拶。

われわれが見えなくなるまでお別れの演奏が続きました。





続く

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北朝鮮 よど号グループ取材記・10 『田宮高麿』

2013-06-14 00:36:27 | 映画制作
鞭聲粛々夜過河
べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる

暁見千兵擁大牙
あかつきにみるせんぺいのたいがをよおするを

遺恨十年磨一剣
いこんなりじゅうねんいっけんをみがき

流星光底逸長蛇
りゅうせいこうていちょうだをいっす



訪朝5日目。



この日は朝から『よど号本』出版に関する打ち合わせ。カメラは回せず。
2時間ほど議論し、事務所にて昼飯。例の犬さんです

その後、休憩・自由時間となったのですが、わたしは現在グループのリーダーにあたる小西隆裕さんに、今は亡きかつてのリーダーである田宮高麿さんはどんな人だったのか?聞いてみることにしました。
知らない方のために注釈しておきますと、田宮高麿という名前は「全共闘史」「昭和事件史」と共に語られる人物であり、よど号事件といえば彼の名前が突き抜けて有名です。
95年11月30日、訪朝した塩見孝也(元・赤軍派議長)さんを平壌駅に送った翌日、心臓麻痺で死亡したと伝えられています。


小西さんはマジメな顔つきになり、「それは知っておかないかんな」と一言いいました。
そして「今は酒が入ってるから、今夜話すよ」と。
「今夜は飲まないようにするから」とも。

雰囲気がいつになく堅くなったのを感じて、ひとまず自室に戻りました。
この事務所の一室は、よど号メンバー全9人中、亡くなられた5名を遺影と共にまつってある祭壇の部屋があります。そこをバックに「小西隆裕が田宮高麿を語る」なんて映像が撮れたらいいな、と思っていたわけですが、了解自体はあっけないくらい簡単にとれました。


2時間ほど経ち再び集合し、翌日われわれは帰国の途につくため、送る会をしてくれるとのことで、いつもは来ない日本人妻のお二人も加わり、盛大に飲んで歌う、とやることになっていました。
それなのに、インタビューのために「今夜は飲まない」と言った小西さん。
そこまで敬意を払われている人物なのか。ますます興味がわきましたが…

「小西さん、やっぱり今夜はいいです。最後なので、飲みましょう。また来ますのでその時に聞かせて下さい」と伝えました。
「そうか、ならそうしようか」

こうして取材者にあるまじき能天気な行動で夜は楽しむことにしました。

いや、まあ、俺も飲みたかったから……



帰国して数ヵ月後のある日、田宮さんの娘さんとお会いしました。
「(事件やグループに)色々思うところはあるし、なんでハイジャックなんてやったの?て思う。でも、私は父を尊敬しています」



すごい人だったんだろうな、と思います。
ハイジャック時、乗客を解放する時お別れとして、詩吟『川中島』を謡ったという田宮さん。

歴史として俯瞰すると『よど号ハイジャック事件』自体はありえない、突飛な闘争・事件でありましたが「本気で革命をやろうとした人たち」を個々に迫っていくと、その若いエネルギーのほとばしりにはっとさせられることがあります。

田宮さんはそんな若者たちを引き連れて、どんな思いで海を渡ったのか。

次に訪朝したら必ずいろいろと聞いてみたいと思います。






続く

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『赤いドリル』という古書店

2013-06-09 02:39:53 | 映画制作
ちょっと前まで下北沢にあった古書店『赤いドリル』
主に「連合赤軍事件」「新左翼」「犯罪」等を専門に扱っており、わたしも3回ほどお邪魔させていただきました。
奥にはカウンターがあり、そこでお茶や焼酎を飲ませてもらったりと、なかなかのくつろぎスペースでありました。

このたび店舗をたたみ、登戸に事務所をかまえての新展開とのことで、ご挨拶がてら取材・撮影させていただきました。


店主の那須さんとは3年ほど前に知り合い、いつか取材に、と思っていました。
そんなふうにノロノロしているうちに店舗が閉まってしまったので心機一転のこのタイミングで、と。

移転してまだ間もないため片付いていないとのことですが、それもまたいい雰囲気。



床に棚にダンボールに、さまざまのお宝が眠っておりました。

夕方到着して、コーヒーをご馳走になりながら撮影そっちのけで赤軍話に没頭してしまう。
那須さんはとにかく聞き上手。普段なかなかこういった話するにも相手がいないため、乗りに乗って話してしまう。

那須さん自身の話も面白い。
それは「取材しよう」と思ったキッカケである『赤いドリル』サイトのPROFIREページに書かれてある文章「古書赤いドリル 解題」にある、あの独特の感性と当事者を見つめる視線からも伺えます。


撮影し、インタビューし、しながらも絶えることなく赤軍話。
こういうとアレですが、すごく楽しかったです。



インタビューではこういった古書を扱うことへの信念というか、矜持というか。いや、だからこそ「売る」という立場に徹し、それを通じて連赤へアプローチしていることが頼もしく感じられました。


「(関連書籍を)読めば読むほど、良い(善)・悪いで語れなくなってくる」と。

まったく同感です。





撮影終了後、駅前の飲み屋で引き続き赤軍話。
酒が入るとさらに楽しく饒舌になり、気がつけば終電ギリギリになっていました。

いったい今日一日でどれだけ赤軍の話をしただろう?
当事者の方々と一緒にいたって、ここまでずーーっと赤軍の話はしません。



赤軍には確かに、強烈にひきつけられる「魅力」があります。
それは那須さんもわたしも、それぞれの事件を現代史として俯瞰して見ながらも、そこに関わる個人・人間そのものに、とても惹かれているからだと思います。



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あさま山荘1972〈上〉
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あさま山荘1972〈下〉
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続 あさま山荘1972
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福ちゃん荘に行ってきた

2013-05-08 23:12:07 | 映画制作
福ちゃん荘とはいわゆる『大菩薩峠事件』のあった場所で、まだまだイケイケドンドンだった赤軍派が首相官邸襲撃のために武装訓練をしようとして山小屋・福ちゃん荘に集結。そのことが当局に筒抜けだったために参加者53名が一挙に逮捕されるという、ある意味で赤軍派の「細かいことはあまり考えない」「とりあえずやる」的な部分が思いっきり露呈したアレな事件なんであります。

メンバーにはお偉いさんも含め、中には高校生もいたという。
そんなわけでこの事件は事実上リーダー不在の中からうまれた『連合赤軍事件』の、いわば引き金となった事件なのです。時系列で追っていくと、この後最高指導者・塩見孝也さんは逮捕され『よど号事件』が起こり、さらに重信房子さんはアラブに発ち…と続き、連合赤軍に繋がります。



では当日のことを。
高崎からメル斗さんと車で出発。当日は快晴でした。

途中、なぜかダムによりダムカードをゲットし


落ちると死ぬであろう絶景に金玉をキュッとさせつつ

雪が残る道を走り



あっというまに大菩薩!!!

とかそんなわけはなく、福ちゃん荘はグーグルマップに登録されてない場所にあるのでアタシらはさんざん迷った挙句、ここまで来ました。

というか福ちゃん荘ホームページにあるアクセスページのさらにアクセス地図ページのさらに案内ページがすごくわかりやすいことに今、たった今気付いた。
上日川峠の案内


このページ見てなかったので、写真にある山道登りつつも「本当にこっちでいいのかしら」と二人して不安な表情をしていました。
しかし思い切って登ってしまえば、そこにはしっかり福ちゃん荘がありました。記事トップの写真です。
屋根にしっかり書いてある。ここが伝説の地・福ちゃん荘だ。

向かいには綺麗に山が見えます。あれが大菩薩峠なのかな。

とりあえず中へ。泊まるわけでもないので、とりあえず「ここで飯食う」というのが目標でした。入ってすぐの食堂。

山菜ラーメンを食ったよ!

恐らく、当時娘さんだったであろうお店の方とお話し、撮影させていただく。
食堂奥には事件に関する新聞や雑誌の切り抜きが額に入って飾られておりました。

昨年お亡くなりになった若松孝二監督のサインも懐かしいチラシと共に。
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では福ちゃん荘がそのままロケ地として使用されているのですよね。

土産物コーナーで登山記念バッヂを購入。


横に回ると、こっちが本当の玄関。


この看板だけは事件当時から変わっていないそうです。確かに、当時の報道写真にも写っています。

この後、少しお部屋も見せてもらい、また今度は泊まりに来ますと約束して出ました。


行ってみて納得したのですが、こちらの山小屋はやや開けたところからちょっと登った、少し奥まった場所にあるのですね。だから赤軍派はここを訓練での宿泊場所に選んだのだろう、と。あえなく逮捕された当時の写真なんか見てると、寝起きに突入されたもんだから、おパンツ姿で逮捕されてたりしてあらあら…という感じです。



以上。



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連合赤軍物語 紅炎 (プロミネンス) (徳間文庫)
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