ちくわブログ

ちくわの夜明け

パレスチナについて。サブラ・シャティーラキャンプに行った時のこと

2014-08-04 22:13:55 | 映画制作
連日のパレスチナ・ガザ地区に関する報道を目にすると、本当に滅入ってくるというか心が痛いです。
普通、外国のニュースって何か起きても「なんてひどい。けしからん」と他人事みたいに思ってしまうのですが、パレスチナの場合は彼らとの間に少しばかりの恩義、縁があるので。


わたしがパレスチナとの間になんらかの絆ができたのは、「リッダの戦士たち」を知ったことがきっかけでした。


かつて日本人の若者がパレスチナ、そしてアラブの大義を信じて決死作戦を敢行。
結果だけいえば、その作戦は間違い以外の何者でもないし、こういうことは決して繰り返されてはならないと思う。
しかし彼らが命を賭して訴えたかったことってなんなのか。
学生であり日本人の若者が、なぜ遠くアラブの地でいわゆる「銃乱射事件」と呼ばれることを起こしたのか。

制作している赤軍派のドキュメント映画撮影のために、3年前の2011年、レバノンを訪れました。

そのことは取材記としてまとめるつもりだったのですが、ややめんどくさいことが起こったので途中でやめにしてしまいました。

しかし当時書こうと思っていたことのひとつで、今あらためてこれだけは書いておかないと、と思った日のことがあります。

ある日、PFLP(当時日本赤軍が共闘したパレスチナの組織)の幹部がわたし達をサブラ・シャティーラキャンプに連れて行ってくれました。

いわゆる「パレスチナ難民キャンプ」に入るのは初めてだったため驚くことの連続でした。
サブラ・シャティーラキャンプは、有名な虐殺事件が起こった場所です。


サブラー・シャティーラ事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6


ジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』について
http://midan.exblog.jp/15228034



マーケットをぬけ、露店の奥に入ると、そこだけぽっかりと空いたグラウンドが。







そこは、レバノンの民兵組織により虐殺されたパレスチナ人達が埋められた場所でした。








今起きているガザの虐殺とは違い、レバノン民兵によるものですが、もちろん背後にイスラエル軍がいました。
というか、物理的に背後にイスラエルの兵士がいました。


キャンプの中心地に入っていきます。












損壊した箇所はそのまま。上から重ねるようにして住居が建て増しされ、いびつな形になっている。
日差しの強さとは裏腹に、陰っている場所のところどころに湿り気と水溜りが。

パレスチナの人々は、何十年もこうした土地に暮らし、さまざまな権利が剥奪されています。
以下に、ベイルートで出会った日本人、JHさんが纏めて下さった資料を抜粋・転載します。


-------------------------------------------------------------------------------


パレスチナ人難民がレバノンで持つことができない権利

・国籍(レバノン生まれ、あるいは父親がパレスチナ人難民で母親がレバノン人の場合も国籍を持つことはできません)
・パスポート
・家や土地を買う権利
・遺産を自分の子供に譲る権利
・自由に働く権利
・レバノン国内を自由に移動する権利
・レバノン政府が提供する健康保険や年金サービスを受ける権利
・難民キャンプ(ベイルート市内、マール・エリアス難民キャンプを除く)における、電話、インターネット、電気(部分的)、水道等のレバノン政府が提供する公共サービスを受ける権利
・逮捕される際に、逮捕状及び逮捕の理由を求める権利


パレスチナ人がレバノンで就くことのできない仕事
・医師、看護士、弁護士、薬剤師、エンジニア等。

パレスチナ人がレバノンで働くにあたり、許可が必要な仕事
・銀行員、管理職、両替商、宝石商、会計士、秘書、電気技師、塗装業、メカニック、美容師、ドアマン、用務員、小中学校・高校の教師、等。
・服飾・靴製品の製造業、クリーニング業、印刷業、家具製造業、貿易業、建設業、車修理業、鋳造業、等のオーナー。


-------------------------------------------------------------------------------













やや歩くと、広場の奥にあるパレスチニアン・ユースセンターという建物に案内されました。






ここでスタッフの方がパネルを出してきました。
サブラ・シャティーラ大虐殺の写真。





わりとキツイ写真が多かったので、ここでの紹介はやめておきます。

ユースセンターを出ると、広場や路地、いたるところで子供たちが遊んでいるのが目につきました。
そうした明るい面も見ていると難民キャンプの風景は当初思っていた以上に陽気なものでした。
たしかに貧しいし、さまざまの過酷な歴史と現実がある。











一方で子供たちが笑顔で迎えてくれ、カメラの前で「マルハバ!(こんちは!)」とおどけて見せます。









難民キャンプの現実、大虐殺の写真、そして子供たちの笑顔。
色々なものを一度に見て、ちょっと疲れてしまいました。

それと同時にここに来ることで、彼ら(リッダの戦士)が何のために闘ったのか、疲れた頭の中で少しづつ分かってきたような気がしました。


「もう思い残すことは何もない。ただ一つ心残りなのは、裸足で走りまわっている子どもたちに、さよならのあいさつができなかったことだな」

「難民キャンプのあのきれいな瞳の裸足の子どもたちが、僕たちの後に銃を取ってつづくのがわかる」



リッダの戦士・奥平剛士さんと安田安之さんが決死作戦の前に語ったとされる言葉。


今、各地のパレスチナキャンプやガザで起きている現実をふまえると、これらのことは決して綺麗事では終らないばかりか、作戦そのものにも疑問を持たざるを得ません。
しかしそれは、時代というものもあっただろうし、徹底してパレスチナの人たちによりそった、類まれな行動であったと思います。


連日のガザに関する報道で、胸が痛むほどの動揺を覚えるのは、彼らがいたからこそだと勝手に思っています。
そしてこれは、もはや戦争というより大虐殺といえるので一刻も早く終らせなければならない。

何ができるのか、何もできない。ただ自分が見たことを伝えることだけはできるのでこの記事を書きました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三軒茶屋シネマ・閉館 | トップ | うち水っ娘大集合に行ってき... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

映画制作」カテゴリの最新記事