ちくわブログ

ちくわの夜明け

ある地方都市の風景

2011-07-30 03:08:00 | Weblog
「ある」 っていうか、栃木の小山駅なんですけど。


先日お仕事で小山市に行きました。
お仕事と言っても、夕方から打ち合わせが一本あるだけ。
なので、少し早めに行って駅前をブラブラとしてみました。

旅行のように自分の意思で場所に触れるのではなく、お仕事という他動的な力でそこに行く、という行為には、このお仕事を始めてから常に魅力を感じていました。

映像に納めることで、風景に対して敏感になったからなのかも知れません。

大仰に言えば、行った場所に運命的なものをわざわざ感じてしまうというか。
今回のように、おそらく自分の意思では一生行かなかったであろう地味な地方都市なんかは、そういう思いも一際深く感じます。

新幹線が停まる駅なので、とりあえず栄えてはいるようです。それにしても日本中たいていの地方都市がそうであるように、この駅前も駅隣のデパートを除いて商店街のシャッター率は高いものでした。

その商店にとってかわるように、やたらと風俗の看板が堂々と掲げられており、やはり新幹線が停まるということは出張サラリーマンなんかがこういったお店を使うのだろうな、と思いました。



一昔前の歌舞伎町のように、やたらと漫画やアニメの引用看板が目立ちます。


昼下がりの奥様にもバッチリ対応。


これ、殆どが裏通りではないんですね。こういう街って、けっこう珍しいのでは。
たいする普通の商店(そういうお店のまん前にあったりする)は、営業しているのかどうかも分からない状態のお店が多数。

焼けている。

肉やさん。近くで見ると

「生のほね」とはなんであろうか。手書きと赤丸が主張している。

もう午後2時は過ぎておりました。

やあ、いかにも素晴らしい喫茶店じゃないか。しかも200円ときている。
どれ、コーヒーでも飲んでいくかな。

潰れてました。


昔「風景論」というものがあって、足立正生監督は『略称・連続射殺魔』という映画を撮り、その論理を展開しました。

映画は見たけど論理は分からないので、監督にお会いした際「風景論てなんですか」と聞いてみました。
難しいお話なので、少ししか分かりませんでしたが、ようは「風景はその時代の権力を象徴する」といったものでした。間違ってたらごめんなさい。

しかしともかく、この街を訪れ、打ち合わせまでの間、何気なくカメラに収めていると見えてくるものがあったのは確かです。
その後風景論について聞いたことで、いっそう小山の極めて何気ない地方都市の風景が、様々な意味を持って脳裏に迫るように感じました。


新幹線が停まる → 街に滞在する人間に向けた産業の活発 → 剥ぎ取られる昔からのもの


そういうカンタンなことでもないのでしょうが、数時間滞在して思ったことでした。
何気ない場所にある宿命的な物語は、きっと誰も語ることの無いまま時間の中に置き去りにされ、それは繰り返される。

これは決してセンチメンタルな感情からではなく、風景の変遷は人間の営みと密接に繋がっていて、それはやっぱり風景というものにとっては宿命以外の何者でもないんだろうな、と思ったのです。
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老いと死をみる

2011-07-23 03:34:31 | Weblog
4月のはじめ、母方のばあちゃんが亡くなりました。



その頃、公私共に少し忙しく、震災の後で原発が問題化し、日本はこれからどうなるんだろう・・・と誰もが考えている頃でした。

自分もその日、やることがありつつもテレビをつければぽぽぽぽーんのCMやら原発やらで、日常とは少し違う日常の連続に疲れていた頃でした。

作業を終えるとすっかり朝になり、寝ようとしたところ・・・母からの電話。こんな時間に、ということは、と思ってたらやっぱりな展開。

「もしもし。どした?」
「ばあちゃん、危篤だって。私は今から飛行機で向かうから。何かあったらまた電話するね」

ああーーー という感じ。
何はともあれ後の事も考えて寝なければ、と無理やり寝る。しかし寝れるはずもない。心臓がドキドキしてました。
自分でも寝たのか寝てないのか分からないまま、気付くと昼前。
実家の熊本に到着したであろう母に電話すると、まさに、ちょうど息をひきとったところでした。

母は泣きながら
「今、ばあちゃんが亡くなったの。まだ聞こえるかもしれないから、電話耳にあてるから、なんか喋ってあげて」

冷静に考えれば聞こえるわけない。死んでるのだから。
聞こえるわけないのだろうが、それでも死後の世界というものがあればなにかしら届くものかも知れない、と思い、こっちも錯乱状態でなぜか口から出てきたのは
「ばあちゃん、ばあちゃん、おつかれさま」
という言葉。
言っているうちに涙がドバドバ出てきて、声にならない状態に。

電話を切り、少したってから「おつかれさま」ってなんなんだよ・・・と思い、急いで熊本行きの準備をしました。


2日後に撮影の予定が入っていたので、渋谷の事務所に向かう。
実はスーツというもの、かなり昔のしか持っていなかったので、行きがてらついでに新調。
事務所に着き、社長に詫びてディレクションを交代してもらう。
「とんでもない、こういう時のチームですから。早く帰ってあげて下さい」

チームとか、あまり意識したことなかったけど、本当にありがたく思いました。

そのまま羽田空港へ。
最終の便で鹿児島空港へ飛ぶ。到着したのは21時前でしたが、熊本へのバスはもう終わっていました。
こうなると付近で泊まるか、タクシーで行くしか無いわけですが、せっかく急いで文字通り飛んできたのに、泊まるとかバカらしい、と思いタクシーで向かうことに。

母の実家に着いた頃には、メーターは15,000円をまわっていました・・・。あの光景は忘れがたい。


おじさんとおばさんに挨拶し、ばあちゃんの遺体と対面する。
涙は一滴も出なく、不思議と何も感じませんでした。



翌日。
庭でおばさんがお通夜と葬式の準備に、煮物とご飯を炊いていました。




おいしそうだね、と隣で見ていると、おこげを使ってオニギリを握ってくれました。


軒先から見える一本の木に、みごとな桜が咲いていました。
この頃、本州ではもうすぐで満開だ、というところでした。


飼い犬のゴマは何かを察しているのか、いつものようにうるさくはしゃいだりせず、散歩以外ではおとなしくしていました。


その日の夕方、お通夜のためにお葬式場に行き、しばらく会っていなかった親戚や、いとこなんかと再会。
前に会った時は小学生だった従姪(いとこの子供)は一気に女子高生となっており、なんだか不思議な気持ちになりました。

夜は遅くまで飲み、ばあちゃんの遺体の前でめったに会えないいとこと、孫同士の語らいをしました。



翌日。
お葬式と火葬。

参加してみて思ったのですが、お葬式とお通夜って、やることがあまり変わらないのですね。

火葬場にマイクロバスで移動し、火葬。
帰り、母はフラフラになるくらい泣き崩れて、それを支えるのにずっと横で抱いていました。
母は4人兄妹の末っ子で、孫である自分から見ても、ばあちゃんに一番なついている子供だったように思います。



翌日。
せっかく熊本まで来たので、いくつかの墓参りに行きました。
その後、母と父とで人吉城跡へ。
桜が綺麗に咲き誇り、たいへんよい眺めでしたが、震災の影響か、花見客はまばらでした。
城跡自体にあまり人がおらず、シーンとしていました。
上まで登ると人吉の町が一望でき、母は若い頃の思い出話を始めました。
「結婚する前はあの辺のお花屋で働いてたの」
とか。




次の日、朝一で東京に戻りました。
飛行機の中で一人になった時、自分はいい孫ではなかったなあ、と、ふと思いました。
わたしがある程度成長し、ばあちゃんがその分老いてくると、その差だけお互いどう接していいかわからなくなってくる。
電話をしても言葉につまり、お互いすぐ切ってしまう。

前読んだ何かの本で「死にゆく人間と向き合う時こそ、その人間の価値が問われる」といったことが書いてあり、まさしく自分はダメダメだなあ・・・と。


飛行機の窓から外を眺めたら、眼下に雲と九州の大地が広がっていました。
天国というものがあって、それがほんとに上に上昇する過程を経るとしたら、こんな景色もばあちゃんは見たのだろうか、とバカなことを考えていました。

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写真ニッキ的な例のアレ

2011-07-11 02:53:02 | Weblog
お仕事なくてヒマしてました。


ここであんまし焦らないのが自分のダメなところで、いいところでもあると自負しております。
ヒマなら映画制作進めなきゃ!
つうわけでここんところはそんな日常でした。



■某日
角川シネマ有楽町で行われていた『三島由紀夫を【観る】』に行ってきた。お目当ての作品は『憂国』。

原作の小説は読みながら餃子食ってたら吐きそうになったという俺的いわくつきの作品であり、今回映画観てまったく同じところで吐きそうになって安心の三島クオリティ。

ちなみに三島センセーはこういったグロテスクな部分に美しさを感じるらしく、生のエネルギーが最も輝く瞬間は死の直前とかそんなこと書いておられてような気がします。
こういうの逆説っていうらしいです。ギャクセツ。



■某日
リッダ闘争39周年パーティにお邪魔する。

思えば、去年これに参加したことによって映画制作が加速し、具体性を帯びてきた。
今年も参加したことで、様々な刺激を受けた。それが受動的な側面すらあるので、本当に不思議な場だと思う。

足立監督(写真)に聞いた。
「リッダ闘争は言ってみればテロなわけですが、こういう声にはどう答えますか」
「テロだよ。ただ、これは民衆の側からのテロだ。テロはいつだって国から行われている。これは数少ない民衆の側から起きたテロだ」



■某日
妙義山への取材撮影の帰り、映画『マイ・バック・ページ』を観る。

「赤衛軍事件(朝霞自衛官殺害事件)」という重ったらしい題材を、こんなノリに乗った俳優二人を主演に描くって、すごい時代になったもんだ。
内容も当時の空気とかエネルギーが、知らない人間にも納得いくようにこさえられてて、はぁたまげたもんだ、と驚嘆した。
16ミリで撮ったそうで、やっぱり映画は情念だけでなくて、技術っつうかセンスもおおいに必要なんだな、と思い知らされた次第。



■某日
というか、6月11日。
取材のため、 東京→静岡→浜岡原発→東京 と移動した。


反原発にとっての要となったあの日、地方と東京を見たことで、いろいろと気付かされたことがあった。
一言で言ってしまえば、都心と地方の温度差はすごい。



■某日
新宿でヘンな人見た。

太鼓の達人すごい上手だった。



■某日
たまには真面目なつどいに参加して学んでみる。

重信メイさんが相変わらずすごく美人だった。
常岡さんにサインもろうた。

つうのはさておき・・・中東の歴史や情勢は、日本から世界を見るのに最も適した材料だと思う。
と、よく分かってない自分が思った。



■某日
前から行きたい行きたいと思っていた浅草名画座に行く。


深作欣二監督の『資金源強奪』。
キレのあるストーリー展開でスカッとした。若き日の北大路欣也がカッコイイ。拓ボンの顔芸も笑えた。
ハリウッドの大作より昔のヤクザ映画の方が、大画面(というか劇場)で観るのには適してると思う。

浅草はスカイツリーが色んな場所から見えて面白い。





■某日
突然実家の名古屋に帰って親を驚かす。
こういうことは親元を離れて14年、初めてだ。こんなことであそこまで喜ばれるんなら、もっとやってやれば良かった。
でも、考えてみればそうした経済的な余裕ができるまで14年かかったんだ。

と、親孝行ばかりしたわけではなく、京都で行われた「丸岡修さんを送る会」に出席するため途中の名古屋に寄っただけなのであった。

今回の獄中死のあまりの酷さに、担当の女性弁護士は声を詰まらせ、涙を浮かべ語っていた。
「権力は権力という曖昧なものじゃない。一人の人間が行使するものなんです」

この国では政治犯がどういう目に遭うのか。そういうことを感じさせる「意思」が明確に伝わる死だったように思う。



■某日
「連合赤軍の全体像を残す会」の小袖ベース跡地訪問ツアーに参加。

わりと険しい道でビビる。
まあ考えてみればアジトなわけだから当たり前か。
道々飲んだ川の水が美味しかった。そしてふと「ああ、だから水筒問題が起こったのか」と気付かされる。



■某日
頭脳警察ワンマンライブに行く。

ライブとか実は初めての経験だった。
リッダ闘争パーティでPANTAさんから「君もライブ来なよ」と言われ「ハイ」と即答。

頭脳警察は一応知っていたし、なんとなく赤軍と関係あるのも知っていた。
そんなんだから曲についてやアーティストとしてのPANTAさんはほぼ知らないに等しかった。
で、参加してみたら・・・これがもう想像以上にかっこよく、知らないことなんか問題にならないくらいみんなと盛り上がった。これが「ライブの一体感」とかいうのかーと妙に感心したりした。

そんで帰ってCDをポチった。



■某日
阿佐ヶ谷ロフトA「鈴木邦男『新・言論の覚悟』出版記念トークライブ」に参加。

第4部「連赤・よど号事件を振り返る」より。
さすが鈴木邦男さん。参加者が豪華。
ただ・・・ロフトでこういうことやると「笑い」のベクトルが強く働くのはなぜだろう・・・。鈴木邦男さんだから?
お客さんの反応も笑いに持っていった方がいいような流れになってる。



■某日
録画しといた「あの花」最終話を観て一年分の涙を流す。

ウワアアアアアアアアアン!!!!
僕はもう泣かないぞ成長するぞ!!!


明日33になります。



以上。
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連合赤軍を巡る 【6】 妙義山へ再び

2011-07-02 05:28:36 | 映画制作
妙義山と連合赤軍の関係についてや、一度目の訪問記は 連合赤軍を巡る 【3】 迦葉ベース・妙義ベース を参照。


メル斗さんと共に、前回果たせなかった「妙義山ベース」発見のため、二人で再び妙義山へ。

国民宿舎前に車を停め、カメラ二台抱えて出発。
前回は時間の都合などで行けなかったが、今回はもっと深くまで入ろう、と。ある本についていたおおまかな地図と、web上の資料を手に、だいたいの位置をつかむ。

しかし見つからず、どんどん登ってしまう。軽い日帰り登山になってしまった。かなり急勾配な場所も登った。わたしは1回こけた。





しばらく進み「あきらかに行き過ぎでは」ということになり引き返す。帰りながらも再びじっくり見ていく。






しばらく戻ると「何かあやしい」と横道(道じゃないけど)に入っていったメル斗さんが「あった!!」。
行くとそこには間違いなく当時のままの「妙義山の洞窟ベース」があった。

これに間違いない、資料とも合致している、と二人で喜ぶ。見つけたのはわたしではないけど・・・
中は真っ暗で、入るのは怖い。勇気がいる。ヒンヤリとしていて、天井からポタポタと水がしたたった。

広さは十畳ほど?高さは中腰で、たまに背中がすれるほど。先住の何かがいるのでは、と怖かったが、小さな羽虫以外は何もおらず。

ただ、あまりに真っ暗すぎてカメラに映らない。ここに来て二人して「なんで懐中電灯を持ってこなかったのか・・・」と悔やむ。
仕方なく、自分のiPhoneとメル斗さんの携帯の電灯機能を使い、ビデオカメラはゲインとシャッタースピードでギリギリまで明るくしてなんとか撮影する。悔しい。

中から見上げた様子。

ずっといるとジメジメヒヤヒヤしてくる。これは本当に一時しのぎのアジトにしかならないな、と思った。
中、外観と一通り撮影。
最後にここで亡くなった山田孝さんへ、手を合わせる。

12時過ぎに入山したのに、出たのは16時前だった。やはり場所が確定していないとなかなかきつい。


次いで、山田孝さんの埋葬場所(亡くなった山田さんを、メンバーが埋めた場所)を探しに。
某書をたよりに山の中の道路をうろうろするが、見つからず。撤去されていなければそこに「群馬赤軍No.7」との標識棒が立っている。
途中、迷い込んだ山中の家で、おじいさんに聞く。すると「ああ、山田孝ちゃんな」と言っていた。“ちゃん”と呼ぶ、そのおじいちゃんにとっては、それだけ若い命が亡くなったという認識なのだろう。
結局、すぐ近くまで来ていると思われるので、そこで花と線香、タバコを供え手を合わせる。


この日、山田さんの最後の言葉「総括しろだって! ちくしょう!」という無念の声が、ずっと頭にこびりついていた。

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