「ある」 っていうか、栃木の小山駅なんですけど。
先日お仕事で小山市に行きました。
お仕事と言っても、夕方から打ち合わせが一本あるだけ。
なので、少し早めに行って駅前をブラブラとしてみました。
旅行のように自分の意思で場所に触れるのではなく、お仕事という他動的な力でそこに行く、という行為には、このお仕事を始めてから常に魅力を感じていました。
映像に納めることで、風景に対して敏感になったからなのかも知れません。
大仰に言えば、行った場所に運命的なものをわざわざ感じてしまうというか。
今回のように、おそらく自分の意思では一生行かなかったであろう地味な地方都市なんかは、そういう思いも一際深く感じます。
新幹線が停まる駅なので、とりあえず栄えてはいるようです。それにしても日本中たいていの地方都市がそうであるように、この駅前も駅隣のデパートを除いて商店街のシャッター率は高いものでした。
その商店にとってかわるように、やたらと風俗の看板が堂々と掲げられており、やはり新幹線が停まるということは出張サラリーマンなんかがこういったお店を使うのだろうな、と思いました。
一昔前の歌舞伎町のように、やたらと漫画やアニメの引用看板が目立ちます。
昼下がりの奥様にもバッチリ対応。
これ、殆どが裏通りではないんですね。こういう街って、けっこう珍しいのでは。
たいする普通の商店(そういうお店のまん前にあったりする)は、営業しているのかどうかも分からない状態のお店が多数。
焼けている。
肉やさん。近くで見ると
「生のほね」とはなんであろうか。手書きと赤丸が主張している。
もう午後2時は過ぎておりました。
やあ、いかにも素晴らしい喫茶店じゃないか。しかも200円ときている。
どれ、コーヒーでも飲んでいくかな。
潰れてました。
昔「風景論」というものがあって、足立正生監督は『略称・連続射殺魔』という映画を撮り、その論理を展開しました。
映画は見たけど論理は分からないので、監督にお会いした際「風景論てなんですか」と聞いてみました。
難しいお話なので、少ししか分かりませんでしたが、ようは「風景はその時代の権力を象徴する」といったものでした。間違ってたらごめんなさい。
しかしともかく、この街を訪れ、打ち合わせまでの間、何気なくカメラに収めていると見えてくるものがあったのは確かです。
その後風景論について聞いたことで、いっそう小山の極めて何気ない地方都市の風景が、様々な意味を持って脳裏に迫るように感じました。
新幹線が停まる → 街に滞在する人間に向けた産業の活発 → 剥ぎ取られる昔からのもの
そういうカンタンなことでもないのでしょうが、数時間滞在して思ったことでした。
何気ない場所にある宿命的な物語は、きっと誰も語ることの無いまま時間の中に置き去りにされ、それは繰り返される。
これは決してセンチメンタルな感情からではなく、風景の変遷は人間の営みと密接に繋がっていて、それはやっぱり風景というものにとっては宿命以外の何者でもないんだろうな、と思ったのです。
先日お仕事で小山市に行きました。
お仕事と言っても、夕方から打ち合わせが一本あるだけ。
なので、少し早めに行って駅前をブラブラとしてみました。
旅行のように自分の意思で場所に触れるのではなく、お仕事という他動的な力でそこに行く、という行為には、このお仕事を始めてから常に魅力を感じていました。
映像に納めることで、風景に対して敏感になったからなのかも知れません。
大仰に言えば、行った場所に運命的なものをわざわざ感じてしまうというか。
今回のように、おそらく自分の意思では一生行かなかったであろう地味な地方都市なんかは、そういう思いも一際深く感じます。
新幹線が停まる駅なので、とりあえず栄えてはいるようです。それにしても日本中たいていの地方都市がそうであるように、この駅前も駅隣のデパートを除いて商店街のシャッター率は高いものでした。
その商店にとってかわるように、やたらと風俗の看板が堂々と掲げられており、やはり新幹線が停まるということは出張サラリーマンなんかがこういったお店を使うのだろうな、と思いました。
一昔前の歌舞伎町のように、やたらと漫画やアニメの引用看板が目立ちます。
昼下がりの奥様にもバッチリ対応。
これ、殆どが裏通りではないんですね。こういう街って、けっこう珍しいのでは。
たいする普通の商店(そういうお店のまん前にあったりする)は、営業しているのかどうかも分からない状態のお店が多数。
焼けている。
肉やさん。近くで見ると
「生のほね」とはなんであろうか。手書きと赤丸が主張している。
もう午後2時は過ぎておりました。
やあ、いかにも素晴らしい喫茶店じゃないか。しかも200円ときている。
どれ、コーヒーでも飲んでいくかな。
潰れてました。
昔「風景論」というものがあって、足立正生監督は『略称・連続射殺魔』という映画を撮り、その論理を展開しました。
映画は見たけど論理は分からないので、監督にお会いした際「風景論てなんですか」と聞いてみました。
難しいお話なので、少ししか分かりませんでしたが、ようは「風景はその時代の権力を象徴する」といったものでした。間違ってたらごめんなさい。
しかしともかく、この街を訪れ、打ち合わせまでの間、何気なくカメラに収めていると見えてくるものがあったのは確かです。
その後風景論について聞いたことで、いっそう小山の極めて何気ない地方都市の風景が、様々な意味を持って脳裏に迫るように感じました。
新幹線が停まる → 街に滞在する人間に向けた産業の活発 → 剥ぎ取られる昔からのもの
そういうカンタンなことでもないのでしょうが、数時間滞在して思ったことでした。
何気ない場所にある宿命的な物語は、きっと誰も語ることの無いまま時間の中に置き去りにされ、それは繰り返される。
これは決してセンチメンタルな感情からではなく、風景の変遷は人間の営みと密接に繋がっていて、それはやっぱり風景というものにとっては宿命以外の何者でもないんだろうな、と思ったのです。