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ちくわブログ

ちくわの夜明け

2011総括

2011-12-31 16:04:08 | Weblog
あー体がかゆい。

冬は肌が乾燥してカユカユですね。
こうして全身をかきむしりながらブログを更新していると、そうか、そろそろ年末か、と思うわけです。

しかし気付いたら大晦日でした。


実家に帰って、ケンカして母親を泣かし、酔っぱらって父親とも大喧嘩したクソ息子のわたくしは、忙しくてちっとも気付かなんだ。
33にして反抗期のようなこの反骨精神。
よかったら皆様においても見習うといい。


というわけで、実家から更新。
今年の総括いってみます。



映画製作総括
去年の総括を読んでちょっとびっくりしているのですが、どうやら去年末の段階では、まだ「70年安保」をテーマとした映画を作ろうと思っていたみたいです。

そうだ、思い返してみれば今年の初め頃、本格的にインタビューを始めて「これはボリューム的に一本の映画では無理だ」と思ったのでした。
その後引きつけられるように「会う人」や「縁」とか、妙にドラマを感じたのが「赤軍」というテーマでした。
「何から撮ったらいいんだ」という迷いを吹っ切らせ、完成への道程が実感を持って見えるかのような。
なんかそういう、不思議なアレを感じたのです。

説明するのも長くなってしまうので、写真と共に端的に。


元・連合赤軍兵士 植垣康博さんを取材。
連合赤軍事件について、本格的に調べ始め、取材を重ねる。



京都大学西部講堂を訪ね、「オリオンの3ツ星」を見る。「リッダ闘争」について考えるようになる。


連合赤軍事件の永田洋子さんが獄中で亡くなる
『棺を覆いて─永田洋子を送る会』 発言記録(前)
『棺を覆いて─永田洋子を送る会』 発言記録(後)
これを期に「連合赤軍の全体像を残す会」にも参加。


数回にわたり、映画監督で元・日本赤軍の足立正生監督と行動を共にしながら、取材を行う。


元・日本赤軍 丸岡修さんが獄中死。
写真は京都での追悼集会にて歌う頭脳警察のPANTAさん。


そして、レバノンへ。

レバノン取材記・1 ベイルートへ
レバノン取材記・2 リッダの戦士達


その他も、ひたすら赤軍に関する取材、撮影を重ねる。


一方で、3.11関係のデモも撮影。
少しでもこの問題に携わりたいという気持ちと、反権力の「今」を切り取りたい、という気持ち。







いろいろと実行フェーズに移ることができて、制作のペースは上がりました。
それは、テーマがハッキリしたという以外に、以下のような恐怖理由が。




お仕事総括
ヒマでした。

なんなんでしょう。
すごくヒマでした。

それでもなぜか焦らずに、「よし!今だ!映画製作にうちこむぞ」とがんばった挙句、編集用ノートパソコンに新カメラを買ったら金がどっか行きました。
誰か助けて下さい。


ヒマでした。
以上です。




しゅみ道総括
スター・ウォーズを中心にフィギュアとか。あまり金はかけてないです。
しかしなんといってもランカちゃんは絶対的に可愛いのであり、彼女とのお付き合いはかれこれ3年目。
そろそろ結婚しようと思っている。

サヨナラノツバサを観て泣いたし

旅方面は、映画製作がそもそも地方での撮影だったりレバノンに行ったりだったので、去年のような「THE・旅」的なことはしませんでした。
一本の映画制作を通じていろいろな場所に行くというのは、ある意味RPGみたいで面白いです。金も体力も使うけど。
基本一人旅主義のわたくしですが、友人と福岡に訪れた折には、特に観光地ってわけでもない島に行ってみたりして、それはそれで楽しかった。





以上、全ての項目について言える事なのですが・・・・
やはり、今年はあらゆることに「震災」という言葉が覆いかぶさっているような印象です。

物資を届けに行った時の、なんとも言えない、色々な感情が混ざった絶望感はちょっと忘れられません。
そして、そんなことを言っているわたし自身は、その後誘われて一回、犬猫関係のボランティアをやったのみ。

やればいいっていうものでもないのですが、それでも、もっと何らかの協力をすべきだったなー、と。
仕事がヒマなら、なおのこともっと何かできたはずなんじゃ・・・と思います。

最近よく停電期間の頃を思い出します。
輪番停電。

街は定期的に暗くなり、コンビニやスーパーには物資が不足し、頻繁に町内放送がかかる。


あの頃の緊張感はどこに行ったのでしょうね・・・。
今年が終わりゆくにあたって、今一度震災を考えようと思います。


と、
言いましても。

やたらシリアスになっててもしょうがないし、明るくなることってすごく大事なことなので、ここはひとつ、若い女の子に登場していただきましょう。

例の。
うち水っ娘大集合に行ってきた 2011から。

ふともも。
それはとても素晴らしいもの。

震災のことを今一度考えつつ、女性の様々な柔らかい部分へ想いをめぐらす。
そんな年越しを、ちくわブログは大提案いたします。



皆様、よいお年を・・・・
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レバノン取材記・2 リッダの戦士達

2011-12-26 17:53:20 | 映画制作
不思議な気持ちだった。

日本という日常から、飛行機を乗り継ぎ10時間以上の旅。
それで、フト気付いたらベイルートという非日常な風景を垣間見せる街を走っている。
頭がおっつかなくなって、それでも何とか撮るものを撮らねばと、気だけが張っていた。


これからいよいよ奥平さんをはじめとした、リッダ戦士達のお墓に向かう。
それは、PFLPのオールドコマンド達と会うということにもなる。
撮影という、ある意味気が引けることを彼らの前でやってしまっていいものか。この時点でもまだ取材者だとか、監督とかにあるまじき小市民的な「引け目」を感じていた。


墓地はシャティーラ地区にあった。
墓地に入ると、奥の方に彼らのお墓があった。


ああ、ついに来たんだな、というなんとも言えない気持ちに。
とにかくここに来たかった。「赤軍」を考える時、常に強力な磁場を感じていた場所。

そしてふと、なんでこの人たち日本人なのに、まつられるようにしてこの、日本から遠く離れた墓所にお墓があるのだろう、と思った。
頭では分かっていることも、こうして現物を目の前にすると、こんな単純で馬鹿みたいな疑問がわき上がってくる。


ひとつ驚いたことがある。それはお墓が新しくなっていたこと。
わたしが知っているお墓の写真は、それぞれの遺影写真に何者かが鈍器かなにかをぶつけ、割られているものだった。

(映画『重信房子、メイと足立正生のアナバシス そしてイメージのない27年間』より)

何度か集会に参加した折、お墓を新しくするためのカンパを、とAさんが募っていたのは知っていた。
まさかこんなに早く作り替えられているとは思いもよらず、驚いたというか拍子抜けした。

しかし、それはとても立派なもので、以前のややこじんまりした印象のものから、真新しく、奥平さん、安田さんの下に檜森さん、そして丸岡さんと続くものになっていた。
丸岡さんが入っているのだから、本当に最近作り替えられたことになる。

以下、このお墓に眠るリッダ戦士達について。



■奥平剛士 (アラブ名:バーシム)享年27歳


日本赤軍のリーダー、重信房子さんが最初に同志として誘ったのは、京都パルチザンの奥平さんだった。
重信さんと奥平さんは事実上結婚(マスコミの言葉だと偽装結婚)し、共にベイルートに渡る。
偽装結婚と言われてしまうのも無理はなく、逮捕歴のある活動家である重信さんが公安の目をかいくぐって海外に出るとなれば、姓を変えるのが手っ取り早かったから。そこで無名の活動家である京都パルチザン・奥平剛士が選ばれた。
しかしそれだけではない。
重信さんは奥平さんを純粋に尊敬していたとのこと。

リッダ闘争の後発行された遺稿集『天よ、我に仕事を与えよ』には、彼の京都時代の日記等が収められている。
まだいわゆる「『テロリスト』として世界を驚かす日本人」「遠く日本から訪れ、アラブの大儀に殉じた英雄」としてではなく、ごく普通の、山口県下関から出てきた大学生の日常。
その日常は主に“セツルメント活動"を中心にしており、当時の学生らしく、被差別や在日朝鮮人の問題に真っ向から取り組み、これまた学生らしい思想的葛藤の中で自己を研鑽していく。

これを読むと心が痛くなる。本当に真面目で心優しい青年だから。そんな彼がなぜ?とかじゃない。彼だからこそ、あそこまで行ったのだろう、と思う。
心が痛くなるのは、そこに自分を見るから。誰しも昔持っていたような、純粋で実直な心の部分。
生きていくために、楽するために、誤魔化したり、ふるいにかけたり、淘汰して、しぼんで無くなってしまうあれやこれやの感情。
「それが人間ってもんさ」と開き直った今では、むしろ「そうであること」がバカバカしくさえ思うような感情。

彼は、この心を持って遠くここ(アラブ)まで来たんだ、と思った。


わたしは奥平さんに「自己否定」という言葉を見る。
当時のはやり言葉でもある「自己否定」。これは、60~70年代当時、まだエリート層だった「大学生」が、エリートとしての階層、そういう特権性のある自己を否定して、戦争の過ちや、ベトナム戦争に間接的に加担していることを否定するため、自らを学生運動に・・・・ああ、書いててややこしくなってきた。
つまり弱者やマイノリティと共に戦うために、エリートとしての立場を捨てて彼らと団結する、共に血を流す、ということ。
よく使われた言葉ではあれ、それを本当に実践した人ってなかなかいないんじゃないだろうか。
なぜなら学生運動は彼らの就職と共に終焉を迎えるから。

それを真っ直ぐに突き詰めたのが奥平さんだと思う。彼は、そういった境遇の人間を「同情」する自分すら、許せなかったという。
京大生という超エリートの立場を否定し、土方にあけくれ、その親方からも認められ・・・
そういった自己否定の最後に、「対・世界」があった。

だからこそ、奥平さんは選ばれたんじゃないだろうか。


ベイルートへ渡った二人はその後、奥平さんはPFLP内「アウトサイドワーク」(域外活動局)の義勇兵となり、兵士としての訓練を受ける。
重信さんはアル・ハダフ情宣局(PFLPの情報センター)へ。

奥平さんは「リッダ闘争」のため日本の赤軍派に人材を送るよう要請するが返事がない(森指導体制時代、連合赤軍事件前のこと)。そこで京都パルチザンの仲間である安田さん、山田さん、檜森さんを呼ぶ。
その檜森さんによると「赤軍派の路線やスローガンを口にしたことは一度もなかった」という。


その後、運命はさまざまに交錯し、連合赤軍事件から3ヵ月後の1972年5月30日、リッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)にて死亡。
後に生き残った岡本さんが見せられ、発狂寸前まで泣き叫んだという彼の死体には、全身に十数発の銃弾が浴びせられていたという。



■安田安之 (アラブ名:サラーハ)享年25歳


奥平さんの京都大学時代の仲間。京都パルチザンメンバー。
奥平さんからの要請を受けた彼は、両親に「勉強のためヨーロッパ旅行へ」と金を無心。そのままアラブへと渡る。

檜森さん、山田さんと共に向かう旅路のエルサレムでのこと。
女を買おうとして部屋に入って何百ドルか金を渡したら、そのままトンズラされた、とか。
死を覚悟している人間にも、こんなことってあるんだな、と少し可笑しくなった。


その後、ピジョン・ロックでの山田さんの事故死により、檜森さんが帰国することとなる。いよいよお別れというその時、初めて安田さんは泣いたという。
それは、帰国の途に着く檜森さんへの想いと同時に、日本にいる仲間への想いでもあった。

安田さんは現地で誰にでも好かれたという。常に腹を括った態度で、誰に対しても優しく、明るかった。そういう面が他のメンバーと違い、現地での共同生活のムードメーカー的役割を果たしていたんじゃないか、と思う。


日本へ帰る檜森さんに、安田さんは仲間への伝言を託した。

「こっちで待っとる」

リッダ闘争で死んだ安田さんの死体には、首から上がなかったという。
彼らは「無名の戦士」として死ぬ約束をしていた。
目撃者によれば、「壁に向かって手榴弾を投げつけ、その上に身を投げて自殺」とある。つまり、身元を特定されないために顔に手榴弾を引き寄せた末の自殺だった。



■檜森孝雄 (アラブ名:ユーセフ)享年54歳


「リッダ闘争は赤軍派の最後を介錯し、京都パルチザンの終焉を告げる闘いでもあった」


檜森さんの遺稿『水平線の向こうに』にあるこの言葉は、リッダ闘争の内部的な解釈を、一言で鮮烈に表す文章だと思う。

日本赤軍、リッダ闘争、奥平剛士などのキーワードでピンと来る人はいても、檜森孝雄でピンと来る人は少ない。
檜森さんも、無名のうちに死んだ一人なんじゃないだろうか。

彼は奥平さんに呼ばれ、当初から作戦に関わっていた。
しかしある事件が、その後の彼らや、それに携わった人々の運命を急転させる。

同じく奥平さんに呼応した京大生・山田修(アラブ名:オリード)さんの水泳訓練中の事故死。

彼らはピジョン・ロックと呼ばれるラウシェの海岸付近にある大きな岩場で水泳兼訓練をすることを常としていた。
ある日、いつものように飛び込みを開始すると、現地の若者たちが「沈んだ!」と騒ぎ立てた。檜森さんは繰り返し潜り、沈んだ誰かを捜すと、山田さんが見えた。
漂っていた山田さんを見つけたのも束の間、急に体に重りが入ったかのように沈んでいったという。

「見開いた両目は天を見上げていた」とは、檜森さんの回想による。

檜森さんは共に訪れていた安田さんを呼ぼうと、アラブ名の「サラーハ!サラーハ!」と叫び続ける。
しかしサラーハとはアラビア語で「正義」の意味。
このことが原因で、現地警察から「正義のために山田を殺したのか」と疑われ、懲役70年になるぞ、と告げられる。

この窮地は、日本大使館員の折衝により切り抜けられた。
そして、山田さんの遺体を日本に送る手続きもしてくれたらしい。


山田さんの死は新聞でも報じられ、ベイルートにいる日本人青年たちのことが広く知れ渡った。このため、リッダ闘争は予定より早く実行する必要が生じることとなった。

檜森さんの悲しみにくれる姿は、よほどのものだったらしく、奥平さんは理由を告げることなく帰国を命じる。檜森さんは拒否するが、結局、戻ることを前提として山田さんの遺体と共に帰国する。
しかし、実際に彼がベイルートに戻る、というか再訪するのは、28年後の2000年。50歳の時。
このお墓を訪れた時は、大声で泣いていたらしい。


こうして日本に舞い戻った檜森さんは、作戦に必要な「もう一人」を補充するため、二人の活動家に声をかける。
それが岡本公三さんと、丸岡修さん。
しかし人を介してのものであったこと、お互い警戒が必要な身分であったことから、作戦の内容は話されなかった。丸岡さんの手記によれば「彼の意図と私の渡航目的はずれたままでした」とある。


その後の檜森さんの人生は、彼の手記や彼の友人、知人による回想録が纏められた本『水平線の向こうに ルポルタージュ 檜森孝雄』に詳しい。
読んでいると痛々しくなる。
わたしの個人的な印象としては、丸岡さん逮捕後から救援活動に専念するため、関西を離れ東京へ移住するあたり、どこか不器用だけど“義”の人だったんだろうなぁ、と。


常に自らの内にあるリッダの呪縛へ向けて運動を展開し、もがき、苦しみ、失敗しながらも、答えを希求する。

その答えは出たのか、出なかったのか。
2002年3月30日・日比谷公園かもめの広場にて、自らガソリンをかぶり、焼身自殺する。


遺稿にはこう記されている。
「26人が死に、72人が負傷した闘いの報に接した時、僕は歓喜してはいなかった。彼らは死に、僕は生きている、その瞬間が今なお続いているような気がする。」



■丸岡修 (アラブ名:ニザール)享年60歳


今回の旅の目的である丸岡修さんの納骨。
その死因は末期の拡張型心筋症。

医者に「このまま医療刑務所にいたら非常に危険」と診断されたにも関わらず、6回に及ぶ執行停止申立書も却下され、八王子医療刑務所にて死亡。

部外者であり、左翼でもないわたしから見ても、日本という国が「政治犯」をどう扱うのか、極めて明確な意思の伝わる死だった。

かつてリビアから6時間以上に及ぶ電気拷問を受けた丸岡さんをして、日本の刑務所は「拷問より辛い」と言わしめた。

今手元に、丸岡さんが死の数日前に綴った、診察メモのコピーがある。
その最後の行、隅の方には「Help me!」と書かれてある。


丸岡さんは日本赤軍メンバーとして、73年「ドバイ日航機ハイジャック事件」、77年「ダッカ日航機ハイジャック事件」に関与したとして、国際指名手配を受け、87年に成田空港付近で逮捕される。

「ダッカ日航機ハイジャック事件」においては、獄中の赤軍派、反日武装戦線のメンバーを含めた計6名の“奪還”に成功している。
こうした実績もさることながら、彼はバールベックの訓練キャンプ責任者でもあり、日本赤軍の軍事部門責任者だった。

そんな丸岡さんだが、当初あくまでも軍事訓練を受けて、すぐ帰国するはずだった。


リッダの三人(奥平・安田・岡本)と共に共同生活・訓練を始めて数日後。奥平さんからリッダの計画が打ち明けられる。
しかし前述の通り、檜森さんから話が伝わっていなかった。丸岡さんはこれに対し「話が違う。死ぬ覚悟はあるが、残してきた活動や家族との別れもしていない。一度帰国し、一年後なら参加する」と答える。

丸岡さんは訓練を受けてすぐに、その軍事的な頭角をあらわした。射撃の腕がずば抜けていたから。
奥平さんは作戦にこの腕を欲したが、この丸岡さんの返答を聞き「気にするな」と諦め、謝る。そして、次に声がかかったのが岡本さんだった。


「何も聞いていない」とは非合法を行う上で避けて通れない道だけど、その後重信さんを紹介された彼は「えっ、赤軍派の人とも組んでいたんですか」と、驚くことになる。今となっては笑い話にもならないけど。


こうして丸岡さんは帰国の途につく。それはリッダ闘争の翌日。
奥平さんとの約束である「作戦が成功したら、日本の社会にパルチザン部隊を」という役目を背負って。

しかしベイルートからスイスに到着したその時、日本では「リッダ闘争・第4の男」としてクローズアップされていた。
どうするべきか、再びベイルートに戻った丸岡さんだが、9月にあの「ミュンヘンオリンピック事件」が発生。これを受けて日本の公安当局は、彼を「国際指名手配」する。


以後、帰国の道を閉ざされた丸岡さんは、逮捕される37歳までを「日本赤軍 軍事責任者・丸岡修」として過ごし、数々の闘争に関わることになる。




続く

【前回まではこちら】
レバノン取材記・1 ベイルートへ
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新潟駅前を歩く

2011-12-11 19:15:15 | 
先日、お仕事で新潟に行ってきました。


去年の日本海旅行でも新潟には寄ったのですが、青海川という海が目の前にある駅へ何時間かかけて行き、その後は近くに住んでいたUさんに温泉に連れて行ってもらったのでした。
それはそれで楽しかったのですが、旅の目的自体(日本海を見る)が移動を繰り返さざるをえない内容を孕んでいたので、「駅前でユックリ」とか、ほとんどできない状態でした。


で、今回お仕事の翌日、帰りの新幹線は自由席をとって、ホテルも一泊分余計にとることにし、新潟駅前を散策してみることにしました。


まずは到着の夜。つまり前乗り。
とったのは安いビジネスホテル。ここらへんのホテルってみんな安いのですね。一泊4千円しないホテルがいくつかありました。

夜になり、とりあえずおいしいものを食おう、ということで駅前をぶらつく。
宿を出たらいきなり出くわした風景。


いい。
未来の香りがする。

駅前と裏通りを通り・・・



適当なお店に入り、海の幸でビール、そして日本酒をやる。
のどくろ、イカのくちばし、鯨の味噌漬け・・・いろいろ。

当たり前だがうまかった。
ただ、ここで迷ったのが「新潟といえば日本酒」だけど、たいていの日本酒なんてもう日本どこでも、というか、東京なんかにいれば全国のお酒が飲めてしまうわけじゃないですか。
さらに日本酒なんてふだんめったに飲まないし・・・
なので、「新潟だから飲めるお酒」というより、この機会に日本酒を飲む、ってくらいに考えて店主のおまかせを飲みました。

「オヤジ!うまい酒飲ませろや」

と言えたらかっこいいのですが、普通に「あの、サーセン、なんか飲みやすいやつ・・・」とリクエスト。
出てきたのは新潟は長岡の『和楽互尊』という酒。
これがほんとにうまくて、けっこう飲んでしまいました。


いい気持ちになって宿に戻り、就寝。
翌日はみごとな快晴で撮影。


で、さらにその翌日。
一人になって、よし、自由だ!と駅前へ。しかし昨日までの晴天はどこへやら。空にはモッチリとした暑い雲。
まー日本海だし雲もいいだろ・・・と自分に言い聞かせ散策開始。

とはいえ、目的は決めよう、ということで咄嗟に思い浮かんだのがやはり海。
新潟駅って、海から近いのですね。
というわけで、歩いて海まで行ってみることにしました。

とりあえず腹ごしらえ。
去年来た時、何気なく入った駅前の喫茶店。ここのランチ、お米が非常においしかった。やっぱ新潟だから?
というわけで、今回も同じ喫茶店へ。

鶏の照り焼き定食。
相変わらずうまい。
うまい米で食うおかずが、またうまい。満腹感の充実度が、ジャンクフードやコンビニメシの比じゃないです。


シヤワセな気分で海の方向へ。
しばらく歩くと繁華街へ。そこに珍妙なタワーが。

レインボータワーというらしいです。
いやあレインボーだねえ。じつにレインボーだ。

ふむふむ。


すぐ近くにバスセンターがあったので入ってみる。
なんで入ってみたかっつうと、地方のバスセンターとか好きだからです。




生活というか。
地元の生っぽい空気に触れられるのはいいですね。

ちなみに後で知ったことですが、こちらの立喰コーナーのカレーは名物らしく、レトルトとして土産物屋で売っておりました。


萬代橋から信濃川を望む。

厚い雲間から、ちらっとのぞいた太陽の光。


さて。
ここまで2~3キロ。寄り道もしつつでやや歩きつかれてきたので、喫茶店へ入ります。

こちらの喫茶店「白十字」は、新潟で一番古く、昔から親しまれてきたお店とのこと。
店内は狭いけど、2階もありました。
おじいさんとおばあさんがカウンターをきりもりする中、ウェイトレスの女の子は若くて清楚な感じで、好感が持てました。別の意味でも好感が持てました。
向こう様もこちらに好感をもっていただければ幸い、と思ったのですが、何事も起こりませんでした。
普通にコーシーすすって帰りました。


再び歩きます。しばらくはずっと商店が続いてニギヤカです。

ちょっとした小道にまで商店があったりして。


高台に登ると、デカデカと「火の用心」の文字。消防署です。


ホテルでもらった観光マップに、ここから近くに「日本海タワー」なるものがある、と書いてあるので行ってみる事にする。

お、奥に見えるあれだな・・・

ちくちく歩いて到着。坂でちょっと疲れた。
ふう。

・・・・。
もう閉まっていんの。


いいですもう。
ここまでくれば海はもう少し、のはず。

ドカベンバス。
水島新司先生の故郷だそうです。


ひたすら歩く。
ここまで来ると住宅街。日も落ちかけてきて寂しい気持ちになってきました。
すると・・・・

あ!

海だ

こうやって、唐突に現れるもんなんだ。
そりゃそうか。
でもなんだか、不思議な気持ちになりました。



海はとても静かでした。人も殆どおらず。

ずっと向こう、どれくらいの距離があるのか分かりませんが、雲の切れ目から夕日が漏れて、光のカーテンのようになってました。

その水平線の上を、ゆっくりと客船がすべっていき、やがて見えなくなりました。

なんか知らないけど、こういった光景がいかにも旅の終わりというようで「さようなら」という言葉が思い浮かび、わたくしは少々、センチメンタルな心持ち。


そろそろ真っ暗になり、あれそういえば帰りは駅にどうやって帰ろう、と思っていたら、どうも近くに水族館があるらしいので、そこからならバスが出ているだろう、ということで水族館に向かいました。

ちょうど閉館の時間らしく、ほとんど人のいないバス停で30分ほどバスを待ちました。
街灯のない真っ暗な中で、ふと、日本海旅行のことを思い出し、なんだか物悲しい気持ちとなりました。

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